◇◆◇◆◇
「これからはずっとあたし達と一緒だよ、まどか」
沙紀から最高のプレゼント――もう二度と会えないと思っていた、無二の親友<まどか>と再会したさやかは、上機嫌で彼女の世話を焼いていた。
親友をずっと裸でいさせるわけにもいかず、さやかはまず手始めに、まどかに服を着せてあげる事にした。
肉塊から人の姿へ戻った影響なのか、現在のまどかは赤ん坊のように何も出来ない状態になってしまっている。
しばらくすれば『元通りのまどか』に戻ると沙紀も言っていたので、特に心配することもなく、さやかは親友の世話を甲斐甲斐しく焼いていた。
「……ぁ……ぅ」
「ほら、まどか。ばんざーい」
自分ではなく、他人に服を着せるという行為は意外と難しい。
さやかが両手を上げるように指示しても、まどかは焦点の合っていない瞳でさやかを見返すだけで、まだ自発的に動く事も出来ない様子だった。
「その服、まどかに着せたいの? ……沙紀も手伝っていいかな?」
「そう? ならちょっとお願いしようかな」
さやかの背中でひっつき虫と化していた沙紀が、面白そうとばかりにまどかの後ろに回るとその両手を持ち上げ、さやかが服を着せるのを手伝ってくれる。
「ありがと、沙紀。よーし、そのままそのまま……はい、出来たっと!」
袖に腕を通し、頭を出してようやくまどかに服を着せる事ができた。
着せたのはさやかの少し古くなった予備のパジャマだ。棚の奥にあったそれはさやかの記憶にある水色の物とは異なり、何故かピンク色へと変わっていたが、それが丁度まどかにはよく似合っていた。
反応の少ない、まるで人形のような親友の頭を撫でて、さやかは柔らかな笑みを浮かべる。
「あたしのだからちょっとサイズが大きめだけど、まぁ大丈夫でしょ」
「……そういう問題かなぁ? まぁさやかが良いならいいんだけどね」
沙紀の言葉はどことなく呆れている様にも聞こえた。
恐らくさやかの適当さについて呆れてしまっているのだろう。
(まぁ、あたしが大雑把なのは事実だしね)
そう言えば……と、さやかは沙紀の格好を改めて観察する。
出会って以来、彼女はずっと簡素なワンピース姿のままだ。
別にそれが不潔だとか汚いだとかは思わない。沙紀を抱きしめた時はいつだって肌触りがさらさらで心地好く、おまけに良い匂いもしていた。きっと特別な素材で出来ているのだろう。
下手にヘドロ塗れの服を着せるのは嫌だったが、沙紀がお洒落した姿を見てみたい気持ちもさやかにはあった。
「何だったら沙紀の服とか買ってこようか? あたしのはちょっとサイズが合わないし。店で探せばマシなのもあると思うよ」
「うーん……沙紀は今の方が動きやすいから、服とかは別にいらないかな? さやかの服だから、ちょっとまどかが羨ましいなとは思ったけど。
でも服なんかより、さやかに直接抱きしめられる方が、ずっと気持ちいいよ?」
その言葉を証明するかの様に、沙紀はさやかの腕の中に収まると幸せそうな笑顔を浮かべる。
「やっぱり、さやかはあったかいね」
さやかの手を自らの頬に当てると、沙紀はどこか艶めかしい表情でさやかを見上げた。
そのどこまでも澄んだ瞳に、さやかは吸い込まれそうだった。
「……沙紀って、何だかエロい」
「えろ……?」
「あ、ごめんやっぱ今のナシ。なんだかあたしって大分汚れてるんだなって、ちょっと……いやかなり自己嫌悪だわ。反省します」
きょとんと首を傾げる少女の無垢な純粋さに、さやかはいけないことをしてしまったような罪悪感を覚えてしまう。
そんなさやかを見つめて、沙紀はにっこりと微笑んだ。
「よくわかんないけど……さやかにならわたし、なにされてもいいよ?」
「……沙紀ってば、ほんと小悪魔だわー」
幼い身でありながら、これほど<魔性>という言葉が似合う少女もいないだろう。
何だか妙な雰囲気になってしまったので、さやかは誤魔化すように咳払いをして話題を変える事にした。
「あー……そういえば沙紀って、料理とかできるの?」
沙紀が言っていた『お料理でも――』という言葉を、さやかは耳聡く覚えていたのだ。
(沙紀の手料理ならあたし、どんなに不味くても完食できる気がする)
目覚めて以来、さやかの口にした食事はどれも血生臭く、酷い時には吐き出してしまうほど味覚に対する冒涜的な代物だった。
どんな食材も使っても、どんな調理法を試しても、口にするさやかにとっては大差なく生ゴミ以下の代物でしかない。
この世界を生きる為、引いては沙紀と生きる為の栄養補給だと割り切り、最近では味わうという機能を殺しながら咀嚼し、胃の中に流し込めるようになっていた。
さやかにとって食事とは、そんな苦行染みた行為を意味していた。
けれどもそれが沙紀の手料理ともなれば、その行為自体が至上のスパイスとなり、きっとさやかの心を満たしてくれるはずだ。
そんなさやかの質問に、沙紀は弾んだ声で答える。
「うん、できるよ。昔はパパに料理を作ってあげた事だってあるんだよ」
「へ~、偉いなぁ。沙紀みたいな娘をもって、沙紀のパパさんも幸せ者だねぇ」
「そうかな? そうだといいな。でも今は、さやかの為に作ってあげるね」
「ほんと? いいの?」
内心で期待していたとはいえ、実際に作ってくれるとなると嬉しさがこみ上げてくる。
沙紀は自信ありげに胸を張ると、さやかに負けず劣らず嬉しそうな様子で言った。
「うん。ちょっと試したいこともあるし、今日の夕飯は楽しみにしててね」
そして沙紀は「仕込みがあるから」と言ってさやかの部屋から出ると、キッチンへと向かうのだった。
その途中でさやかの両親も帰って来たのだが、沙紀は彼らと一言も話すことなく最低限の<処理>を終えると、彼らの自室へと待機させた。
「――やっぱり、ここも長くはいられないかな。そのうち引っ越しが必要だよね。
そしたら新しい沙紀達のお城を見つけに行かなきゃ。
◇◆◇◆◇
そして待ちに待ったディナーの時間がやってくる。
途中、さやかも手伝いを申し出たのだが、沙紀にはやんわりと断られてしまった。
外から帰宅した
さやかは努めて肉塊共の事を頭から追い出すと、出来上がった料理を沙紀と一緒にテーブルへと並べた。
普段さやかが口にしている生ゴミ以下の料理とは違い、匂いからしてさやかの久しく感じなかった食欲を刺激している。
「これ、見たことない食材っぽいけど、一体どうしたのさ」
「食材ならすぐ近くにあったから、それを使ったの。特に問題になるような部位は取ってないから安心してね。その代わり量が少ないんだけど、今回はお試しだから問題ないかなって」
(冷蔵庫の中にこんな食材あったかな?)
普段さやかは家事をしないので、冷蔵庫の在庫については詳しくない。
それにさやかの目には、腐った何かを押し込めているゴミ箱にしか見えなかったので、好き好んで中身を確認したくなかった。
「いただきます」
まずは試しにと一口、さやかは沙紀の料理を口に入れる。
するといつもとは全く違う、血生臭くない味覚が舌の上に広がっていった。
「……おいしい。すごい、これすごくおいしいよ沙紀!」
黄色い果物の様な果肉は爽やかな味わいで、特に食べた時に鼻から抜けるような芳香が素晴らしく、快感さえ覚える。
事故から目覚めて以来、さやかは初めて何かを美味しいと感じる事ができた。
夢中で食事するさやかをニコニコと眺めながら、沙紀は次々と新しい料理を給仕していく。一皿当たりのボリュームは少ないが、どれも違った味わいで飽きる事がなかった。
「どれが一番好みか後で教えてね? パパにはどれも好評だったんだけど、さやかの好みってまだわかんないから」
「へぇ、つまりはパパさんお勧めの料理ってわけね」
沙紀の母親と大恋愛をしたという沙紀の父に、さやかはどこか親近感を覚えていた。
(沙紀みたいな良い子を育てたパパさんなんだもん。きっと優しい人なんだろうなぁ……やっぱりそのうちご挨拶に伺った方がいいのな?)
あの肉塊共が人間じゃない事は最早明白だ。
そうである以上、
もちろん違う意味での躊躇いならばあるが、それは「娘さんを下さい」と頼み込む者特有の気後れという奴なので特に問題ではない。
さやかは懐かしさすら覚える「味わう」という行為を繰り返し堪能するように、一口一口大切に咀嚼していった。
どの皿も沙紀の作る料理はやはり美味しかったが、その中でも特に黄色い果肉が甘く口の中を転がる料理が気に入った。
さやかにとっては、かなり久しぶりとなるデザートだった。
「うんうん、なるほどね。熱を通した物よりも生っぽさが残ってた方がいいのかな? となると、やっぱり鮮度が大事になるよね。さやかにはこれからも美味しい物を食べて貰いたいし……」
今後の献立について思案する沙紀の眼差しはどこまでも真剣で、それがさやかの為であることは明らかだった。
それが嬉しくはあるものの、いつも一生懸命な沙紀が根を詰め過ぎてしまわないか心配になってしまう。
「あんまり無理はしないでね、沙紀。こうして沙紀の手料理が食べられるってだけで、すっごい嬉しいんだからさ」
「う、うん。ありがと。さやかにそう言ってもらえると、沙紀もすっごい嬉しいよ」
「あははっ、あたしの真似かよぉ」
「こ、これは違うよ! もーっ!」
沙紀と二人で楽しく談笑しながらの食事は、さやかにはとても尊いもののように思えた。
だがこの食卓には、さやかと沙紀の他にももう一人、大切な親友が座っている。
まどかは配膳された料理を前に、ぼーっとそれを眺めるだけで食べようとはしなかった。
「ほら、まどかも。せっかく沙紀がおいしい料理作ってくれたんだから、ちゃんと食べないと。ほら、あーん」
「ぃ……ぁ……」
小さく切り分けた果肉をまどかの口に運んであげるものの、うまく咀嚼できないのか、口の端からこぼれてしまう。
「もう、仕方ないなー」
汚れた口元を拭いてあげる。
そして先ほどよりも少量ずつ与えると、まどかもきちんと食べてくれた。
根気のいる作業だったが、まどかの為なら全く苦だと思わなかった。
(はやく元気になって、またまどかとお喋りしたいな。まどかに話したいこと、いっぱいあるんだ。沙紀の事も、きちんと紹介したいし……)
そんな風に献身的にまどかの介護をするさやかのすぐ後ろから、唸るような声が聞こえる。
「むー……」
少しばかりわざとらしい「わたし、不機嫌ですよ」アピールに振り返ると、案の定沙紀が頬を膨らませてさやか達を見ていた。
「ねぇさやか、わたしにも食べさせて?」
「え?」
「食べさせて」
「アッハイ」
有無を言わせない迫力が、そこにはあった。
どうやらまどかにばっかり構っているのがお気に召さないらしい。
さやかはおふざけで「我侭お嬢様に対する従僕」の様に振る舞う。
「どうですか、お嬢様。お味の方は」
「うん、とってもおいしいよ。きっと料理人の腕が良いんだろうね!」
「自画自賛かいっ」
白々しい沙紀の言葉に思わず突っ込みを入れると、沙紀は頬を少し赤くしていた。慣れない冗談に照れているらしい。
そして照れ隠しなのか、今度は沙紀の方から一口サイズの果肉が差し出される。
「えへへっ、それじゃ今度は沙紀からのお返し、はい、さやかも口開けて」
「えぇー、マジですかぁ」
困惑するものの、結局は沙紀の勢いに負けて口にしてしまう。
「あ、あー……ん」
「どうかな、おいしい?」
「……おいしいれす」
「よかった」
その沙紀の満足そうな笑顔を見れるだけで、さやかは飢えとは無縁でいられる気がした。
久方ぶりに感じる満腹感と、それに伴う多幸感。
食事とは、味覚とは、これほどまで生の実感を与えてくれる物だったのかと驚くほどだ。
(あたし、ずっと沙紀にして貰ってばっかりだよね。あたしにも何か、できることってあるかな?)
沙紀の為に何かしたい。
ここしばらく、さやかは暇さえあればずっとそればかりを考えていた。
その中の一つの案として思いついた事を、さやかは沙紀に尋ねてみる。
「……ねぇ、沙紀。あたしにも魔法って使えるのかな?」
「え、どうしたの急に?」
「別に急ってわけじゃないんだ。沙紀って何でも出来て凄く頼りになるけど、それに頼り切ってるんじゃ情けないからさ。
何かあたしにも、出来ることがないかなって思って。
……確か前に言ってたよね? 魔法は感情さえあれば誰にでも使える物だって」
さやかの言葉に、沙紀は躊躇いがちに答えた。
「うん、確かに言ったけど……でもさやかの場合、そのままだと効率が悪すぎて殆ど意味ないよ? まともに使うためには今のままじゃ――あ、今のナシ。
結論から言うと、さやかに魔法は使えません。別にさやかは気にしなくて良いんだよ。沙紀が好きでやってる事なんだから。さやかが側にいてくれるだけで、沙紀は幸せだよ?」
「沙紀……」
沙紀の健気な言葉に感動するさやかだったが、沙紀が何かを誤魔化そうとしている事は見逃さなかった。
「まぁそれはそれとして……沙紀、何か隠してない?」
「か、隠してないもん」
「へー、あー、そうなんだー、ふーん……あたしに隠し事するような悪い子にはぁ……こうだー!」
「きゃーっ! ちょ、さやか、やめー! あははっ!」
さやかはこちょこちょこちょと沙紀を擽る。
目に涙を浮かべて身を捩らせる沙紀に、さやかは何故かイケナイ事をしている様な背徳感を覚えてしまうが、これはお仕置きなのだ、必要な事なのだと免罪符を掲げて沙紀が根をあげるまで擽り続けた。
「わかった! わかったからもうやめて! 沙紀、おかしくなっちゃう!」
「うむうむ、素直でよろしい。ささ、キリキリと吐けぃ」
謎のテンションになったさやかを前に、沙紀は珍しく動揺してしまう。
今のさやかに逆らってしまえば、またあの擽り地獄がやってくるのだろう。
だから仕方なく、本当に仕方なく、沙紀は本来教えるつもりのなかった魔法に関する情報を開示する事にした。
無知でいるよりも多少の情報を持っていた方が、さやかの身の安全に繋がると考え直したのだ。
「あ、あのね。<魔法の契約>をすれば、さやかも魔法が使えるようになるの。でもそれにはリスクもあってね。……魂を結晶化させないと本来の一割も効果が出ない仕様になってるの」
元々魔法とは、この星由来の技術ではなく、宇宙の遙か彼方から渡来してきた物だった。
人類に魔法を与えた存在――<
彼らの目的は宇宙の熱的死を回避する事だ。
枯渇していく宇宙を救い得るエネルギー源である『感情エネルギー』を採取するために、この地球へとやってきたのだという。
彼らは人類へと目を付けた。
その中でも特に感情エネルギー量の多い第二次成長期の少女が最も効率が良かった。
彼らは少女達を「どんな願い事でも叶う」奇跡を対価として、魔法少女という名の宇宙延命の為の薪に次々と変えていく。
そして燃え尽きる際には「相転移」と呼ばれる現象により極大のエネルギーが発生し、その結果として<魔女>という化け物へと変貌するのだという。
魂の結晶化とは、単なる人間の体を魔法に適した体へと作り変えるため、引いては良質な燃料にするための工程なのだ。
その事実を聞いて、さやかは思わずドン引きしていた。
「うっわぁ……まんま悪魔じゃん、そいつら。
奇跡を叶える代わりに絶望して、おまけに化け物になってから死ねって……その感情エネルギー? って奴を絞り尽くす事しか考えてないじゃん。
嫌悪感を露わにするさやかに、沙紀は思案するように言った。
「うーん、悪魔かぁ……特別彼らに悪意があるわけじゃないと思うよ? ただそういう生き物ってだけ。
例えば蚊は人間の血を吸うけど、それは悪意あってのことじゃなくて、遺伝子の流れの中でそういう風に生まれて、その本能に従っただけだよ。
それを悪だって言うのは、あまりに一方的で、命ある物に対する傲慢なんじゃないかなって沙紀は思うの。
きっと彼らも、彼らの文明の中でそういう風に生まれて、その本能に従ってこの星までやってきたんだと思うよ。
大体<人間>みたいな複雑怪奇な精神性の生き物、宇宙広しと言えども滅多にいるもんじゃないし」
まるで本当に宇宙を旅してきたかのような沙紀の言い方に、思わずさやかは笑ってしまいそうになった。
(でも沙紀の事だから、本当に違う星からやってきたのかも)
さやかにとって、沙紀は天使だ。
その頭脳、その能力、存在の全てが比喩ではなく冗談抜きに、人類を超越した存在としか思えなかった。
だからと言って恐れ敬うほど、さやかは敬虔な宗教家になった覚えはないし、何より沙紀もまた「一人の女の子」である事を、さやかはこれまでの付き合いで十分に理解していた。
そして実は、とても寂しがりやな少女であることも。
だからさやかは、沙紀を抱きしめてその頭を撫でてあげた。
「やっぱり沙紀って、頭良いよねー。よしよし」
「……あれ? もしかしてわたし、今バカにされてるの?」
「何故に!?」
時に想いがすれ違うこともあるが、まぁそれはそれという奴だ。
◇◆◇◆◇
食事を終えると、沙紀の方から二人で
「ちょっとそこの公園まで、どうかな? 今の時間なら人も少ないし」
「? まぁ、いいけど……」
臓物溢れる世界での外出はあまり気が進まなかったが、沙紀から誘われたデートを断る選択肢はない。
誘う方も勇気がいるのだと、さやかは遥か昔のように思える懐かしい記憶から思い出していた。
不思議なことに、肉塊共は深夜になるとめっきり姿を見せなくなる。
恐らく人間の行動を忠実に模倣しているのだろう。バケモノの癖に。
(そのお陰で、沙紀とこうして外を歩けるんだけどさ)
普段は家に閉じこもりきりの沙紀だが、好奇心旺盛な彼女がずっと家に籠もっているというのも不憫な話だ。
沙紀には燦々と輝く太陽の下が似合うと思う。
紅の狂月も、黒い太陽も沙紀には似合わない。
(もしも世界が元に戻ったら……その時は沙紀と二人で、綺麗な花畑でも見に行きたいな)
かつて沙紀から聞いた、恋物語のように。
さやかはそんな都合の良い世界を夢想する。
今となっては一輪の花ですら、さやかにとっては幻の存在だ。
赤い筋が浮き彫りになった茎に、爪を剥いだかのような花弁。漂う臭いは酸っぱい臭いがして吐き気がこみ上げてくる。
そんな地獄の草花ではない、青空の下に咲き誇る清廉な花畑の中で、沙紀と二人で居られるなら。
それだけでさやかは、幸福な人生だったと胸を張れる気がするのだ。
目的地である公園まで到着すると、普段は小さな肉塊共が蠢いている臓物まみれの遊具が静かに沈黙している。
空には相変わらず血腫のような月が赤い輝きを地上へと降り注ぎ、黒い星々がそれを讃えていた。
そんな狂気の世界の中でも、深夜の静寂だけは変わらずさやか達を覆い隠してくれる。
狂気的な遊具の脇を通り過ぎ、百舌の早贄のような有様の
すると沙紀は突然走り出し、広間の中央で振り返る。
そして眩しい笑顔を浮かべて、さやかに告白した。
「わたしね、さやかの事が大好きだよ!」
全てが狂った世界の中で、沙紀の笑顔だけが美しく輝いて見えた。
沙紀の声に負けじとさやかも声を張り上げる。
「あたしも! 沙紀のことが――」
大好きだよ!
――そう、さやかが言い終えるよりも早く。
沙紀の小さな体が吹き飛び、僅かに遅れて空気の弾ける音が聞こえた。
「え、な……沙紀……?」
それが銃声であると理解した時には、さやかの目には地面を転がる沙紀の姿が映っていた。
『
そして沙紀から十メートルほど離れた場所に<アレ>が――肉塊共の上位種が、その触手と共にどこからともなく降ってきたのだ。
幸せだったはずの景色が、突如として絶望へと染まっていく。
狂気の世界の中で、さやかに幸福など許されないとばかりに。