ある日、一刀は目が覚めると桂花になっていた。
どうやら、桂花と心が入れ替わってしまったようで、とりあえずこの現象を解明すべく情報収集に身を乗りだすのだが……

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北郷一刀、桂花になる

 ある日、目覚めた一刀の元に違和感が襲いかかってきた。

 首を傾げながら起き上がると、見慣れた自分の部屋とは違う内装が視界に広がる。

 

「……ん?」

 

 寝ぼけて別室にでも来たのだろうか。

 とりあえず寝床から出るのだが、そこでも一刀に違和感が語りかけてくる。

 また、なにやら身体の調子もおかしい。普段の力強い筋肉を感じないというか、羽のように柔らかな感覚を覚えるというか。

 咄嗟に視点を下ろせば、微かな膨らみが胸部の上から主張していた。

 

「へっ?」

 

 目を点にした一刀は、恐る恐る胸部に手を添える。

 男性では絶対に出せない暖かみと弾力が伝わり、言葉を飾らないで言うならば、これは明らかにおっぱいだった。

 それも、ロマン溢れる巨乳ではなく、夢と希望が詰まっている可能性の塊──貧乳だ。

 

「は、はあああ!?」

 

 慌てて服を開いてのぞき込めば、確かになだらかな丘がある。

 次に股間に手を持っていくも、そこに望む感触はない。

 

 去勢、去勢されて性転換……いや、落ち着け北郷一刀。

 現実逃避したくなる脳みそを叱咤しながら、情報収集をしようと部屋を探る。

 なにが起きてこんな愉快な事になったのかわからないが、しっかりと現状を把握しなければならないだろう。

 

 一刀がある程度冷静でいられるのは、恐らく超常現象に耐性があるからだ。

 流石に三国志の時代に来た事に比べれば、己が性転換するぐらい……大概これも酷い気がする。

 

「これは……」

 

 げんなりしつつ部屋を漁っていると、非常に見覚えのある服を見つけた。

 フードが猫耳になっている特徴的なこれは、とある毒舌軍師が愛用していたはずである。

 もう一度言おう。

 とある毒舌軍師が愛用(・・)している猫耳な服である。

 

「待って待って待って」

 

 何故か異様に冴え渡る頭脳が閃き、さっと顔色を青ざめさせる一刀。

 さながら、今の自分は名探偵になった気分だ。

 現状を推理する材料は揃っている。性転換、貧乳、猫耳フード、ちっぱい……それに、よくよく耳を傾けてみれば、自分が発する声にも聞き覚えがあるではないか。

 

「俺って桂花になってる!?」

 

 夢でも幻でもなければ、そうなのだろう。

 びっくり仰天して仰け反った一刀は、次に予測する事柄に頬を引き攣らせる。

 自分が桂花になっている事は良い……いや全くもって良くもなんともないが、とりあえずそんなファンタジーはゴミ箱にポイしよう。

 問題は、よりにもよって自分が桂花になっている事だ。

 

 ここで、桂花の性格を省みてみよう。

 誰もが知っている通り、彼女は世界一といったレベルでの男嫌いである。

 男と同じ空間にいるのが耐えられず、視界に入るだけで瞳を濁らせるほどだ。

 そんな桂花が、だ。一刀が自分と同じ姿になったと知れば……控えめに言っても、去勢される。

 

「あわわわわ」

 

 どこぞの軍師のような慌て声を漏らしながら、一刀は頭を抱えた。

 しかし、ここで再び、とある考えが思い浮かぶ。元の自分の身体はどうなったのか、と。

 一刀の身体が桂花になったのか、それとも──

 

「うん?」

 

 なにやら、部屋の外から音が聞こえてくる。相当慌ててでもいるのか、足音が騒がしい。

 目を扉の方に向けると同時に、蹴り破られんばかりに開かれた。

 

「はぁ……はぁ……」

「え……俺?」

 

 膝に手をついて息を整えているのは、慣れ親しんだ一刀自身だ。

 驚きで目を丸くしている一刀をよそに、彼は顔を上げてこちらを見つめる。

 一秒、二秒、三秒。

 彼の目が瞬く間にレイプ目になり、白泡を吹きながら崩れ落ちた。

 

「ちょっ!?」

 

 慌てて駆け寄ると、彼はブツブツと独り言を漏らしていた。

 耳を傾けてみた一刀は、その内容になんとも言えない顔になるしかできない。

 

「私、私がいる……つまりあいつが私になってて私があいつになってて……男が私の中に……うへへへへ華琳様がいっぱい」

「戻って来い! 頼むから現実逃避しないで!」

 

 涎を垂らしている彼──己の身体に入り込んだ桂花を揺さぶりながら、一刀は厄介な事態になったとため息をつくのだった。

 

 

 ♦♦♦

 

 

「もう大丈夫?」

 

 なんとか桂花を正気に戻して部屋に戻った一刀は、目の前で死んだ目をしている己の身体に声をかける。

 その問いかけに、桂花は涙を流しながら机に拳を叩きつける。

 

「大丈夫ですって!? これのどこが! どう見れば! 大丈夫に見えるのよ! あんたの目は! 節穴か!?」

「わかったから! わかったから落ち着いて!」

「これが落ち着けるかあああああ!」

「ぎゃー!?」

 

 半狂乱になって襲いかかる桂花から逃げ、一刀達は室内で鬼ごっこを開始した。

 どったんばったんしてうるさいが、少なくとも今の桂花を攻める事はできないだろう。

 例えるなら、突然自分がゴキブリになってしまったようなものなのだ。そして、自分の身体にゴキブリの精神体が入り込んでいるのである。

 一刀も理解しているからこそ、理不尽な仕打ちを怒る事はできなかった。

 

 暫く駆け回って怒りを発散したのか、桂花は死んだ目で席に戻る。

 恐る恐る一刀も続くと、ため息を漏らした彼女が口を開く。

 

「……悪かったわね。八つ当たりして」

「いや、いいよ。それより、これからどうしよう?」

「…………嫌だけど、本当に今すぐ自決したいぐらい嫌だけど、それぞれが自分の振りをするしかないじゃない」

「華琳とかに説明するというのは?」

「そんな事できるわけないじゃないっ!」

 

 一刀の提案を即答で否定した桂花は、頭を掻きむしって机に額を何度も叩きつける。

 

「お、おいなにしてんだよ!?」

「こんな頭がおかしい事誰も信じないし信じたとしても私の汚点が白日の元に晒されるだけだしなにより華琳様に私の中に男がいるなんて知られるとか死ぬ死にたくなるいいえもう殺そうこいつを殺して私も死ねば真実は闇の中じゃないふふふふふ」

「怖いって!? 頼むから戻ってきて!」

 

 想像してみて欲しい。

 自分の身体が危ない光を湛えた目でこちらを見つめ、ケタケタと嗤っている様を。

 半端に傾けた首の角度といい、ホラー映画に出てきそうないで立ちだ。

 涙目になって首を横に振る一刀を見て、何故か桂花は瞳を怒りで燃やす。

 

「私の身体で情けない表情をするな!」

「ご、ごめん」

「だからまたっ……はぁ」

 

 とりあえず、一時的狂気は収まったらしい。

 瞳に理性の色が戻ったのに気がついた一刀は、安堵で胸をなで下ろした。

 今の桂花は、非常に危うい状態だろう。某TRPG風で言うならば、SAN値が一桁ほどで、ひょんな事でそのSAN値も削られるに違いない。

 

「それで、やっぱり誤魔化すしかない?」

「仕方ないじゃない。他にやりようがないのだから」

「だよなあ。とりあえず、まずは着替えるか」

「……着替え?」

「うん、着替え……あっ」

 

 目を合わせた一刀達は、揃って自身の身体を見下ろす。

 慣れ親しんだものではなく、所謂異性の身体だった。

 その際、一刀は桂花の胸を見た事を思い出し、微かに頬を赤らめてしまう。

 

「ねぇ、その反応はなにかしら?」

「え、あ、その」

「ま、まさかと思うんだけど、私の身体に嫌らしい事とかしてないでしょうねぇ?」

「してないしてない! 確かに胸を見たり触ったりしちゃったけど、あれは俺の身に起きた事を確かめるためだったから──あっ」

 

 据わった目の桂花に弁明をしていた一刀だったが、つい口を滑らせてしまった。

 たらりと冷や汗が顎を伝い、床に落ちる。

 痛いほどの静寂が室内に満ちる中、桂花の表情が静かに死んでいく。

 

「そう……そう、あんたは私の身体を犯したのね」

「待って! その言い方には語弊があるから!」

「コロス」

「ぎゃー!?」

 

 結局、桂花に許してもらうまで、一刀は何度も土下座をする事になるのだった。

 

 

 ♦♦♦

 

 

「いいこと!? 絶対に、ぜっっったいに! 他の奴ら……特に、華琳様に気づかれるよなヘマはしないでよね!?」

「わ、わかったから落ち着いて!」

 

 凄みのある形相で迫りくる自分の顔を押さえつつ、一刀はこの前途多難さに息をつく。

 現在、一刀達は二人で廊下を歩いている。

 

 正直に言えば、このまま一日中部屋に篭っていたかった。しかし、こんなバカバカしい現象の解明をするために情報収集をするべきだし、もしかしたら一刀達以外にも入れ替わった人物がいるかもしれない。

 それになにより、どんな状況でも華琳のために身を粉にして働く桂花が、軍師の仕事を放りだすはずがなかった。

 

「くっ……! たかが五の事柄を同時に考えるだけで頭痛がするとは、あんたの思考能力ってどんだけ低いのよ」

「いやいや、桂花の方が凄すぎるんだって」

 

 額に手を添えて顔を歪める桂花に、一刀は心の底から畏怖の念を抱いた。

 今の彼女の告げた通り、身体が入れ替わった関係で、二人の身体能力はそれに準じている。

 つまり、一刀の身体になった桂花はフィジカル面が上がり、代わりに桂花の身体になった一刀は思考面等が冴え渡っているのだ。

 

 また、この身体の元の主が覚えているのか、記憶も自分のと相手の二つがある。だから、今の一刀は軍師の真似後ができるし、桂花もその気なら天の知識を使う事もできるだろう。

 彼女本人にとっては、唾棄すべく忌々しい副次効果であろうが。

 

「む、ここにいたのか北郷」

「げっ」

「おい、なんで私の顔を見て嫌そうになるんだ」

 

 人気のない場所を選んで歩いていたのだが、なんと前方から春蘭がやってきた。

 彼女は顔をしかめた一刀の身体(桂花)を睨み、立ちふさがるように仁王立ちをする。

 ますます凶悪な表情になった桂花は、露骨に舌打ちをしておざなりに手を振るう。

 

「今はあんたのお遊びに付き合ってあげる暇はないの。さっさと、そこをどきなさい」

「なんだと! 北郷のくせに生意気だぞ! それに、その気持ち悪い喋り方はなんだ。まるで桂花みたいじゃないか!」

「いいからどきなさいって言ってんでしょ! 私は華琳様のためにやる事が山ほどあるんだから!」

「……おい、本当にどうした?」

 

 流石に様子が変だと思ったのか、怪訝な面持ちで桂花に近づく春蘭。

 頻りに首を捻っており、なにやら考え込んでいるようだ。

 一刀は二人のやり取りに押されていたのだが、今更ながらにまずい事を思い出す。

 

 そもそも、何故春蘭が自分を探していたのか。

 簡単な答えである。本日、一刀は春蘭と訓練をする予定だったのだ。

 だから、今の春蘭の手には、長剣が握られているのだろう。

 

 また、桂花の身体に染みついた鋭い観察眼が、春蘭の意気込みの高さを教えてくる。

 どうやら、今日の春蘭はご機嫌だったようで、つまり訓練内容も比例して過激になるに違いない。

 

「桂花、桂花!」

「なによ!」

「実は、今日は俺と春蘭が訓練する予定だったんだ」

「……なんですって?」

「おい、さっきから二人でなにをこそこそしている」

 

 目を見開いた桂花をよそに、春蘭が更に近寄ると不意に鼻をひくつかせる。

 一刀と桂花の匂いを嗅ぐと、むむむと唸り声を上げて小首を傾けた。

 

「どうしたんだ?」

「いや、桂花の身体から北郷の匂いがしてな。逆に北郷の方からも桂花の匂いがするし、どういう事なんだ?」

 

 お前は犬か、と叫びそうになるのを堪えた一刀。

 見れば桂花も呆れた表情を浮かべており、二人の心境は図らずとも一致していた。

 

 まあ、疑われても無理はない。

 始めはお互いに口調を偽装しようとしたのだが、桂花が一刀の真似をするのに耐えられなかった。

 一刀自身も女言葉になるのは恥が乗り、こうして人目を忍ぶようにしていたのだ。

 それも、春蘭に見つかった事で無駄になったが。

 

 このままだと、春蘭に気づかれてしまうかもしれない。

 彼女はこういう時の鼻は効くので、とんでもない事態に発展する可能性もある。

 特に、春蘭の口から華琳の耳に届けば、それはもう死にたくなるはずだ……主に桂花が。

 

 アイコンタクトで意思疎通を交わした一刀は、唾を飲んで思考を切り替える。

 瞬く間に脳にたゆたっていた霧は晴れ、この状況を打破する言葉が浮かび上がっていく。

 そのまま身体に意識を委ね、無意識に口を開く。

 

「そんな事より、本当にそこをどいてくれないかしら? 今から、華琳様から承った事柄の確認をしなきゃいけないの」

「華琳様の頼みだと? どうして、それを先に言わなかった?」

「あんたがあの男と戯れていたからでしょ」

 

 嘆息して首を振る強気な表面とは裏腹に、一刀の内心は悶えそうになる事必至だった。

 いくら必要に駆られたからだとはいえ、まさか自分が女言葉を使う事になるとは。

 今はこの優秀な身体が勝手に話してくれているのが、不幸中の幸いだ。

 これが全て自分の意志だったとしたら、今頃床を転げ回っていただろう。

 

 ともあれ、どうにか春蘭は納得してくれたらしい。

 あっさりと脇に避けてくれたので、一刀達は安堵して歩きはじめた。

 しかし、一刀の身体(桂花)の首根っこを春蘭が掴み、引きずろうと腕に力を込める。

 

「ちょ、ちょっとなにするのよ!?」

「ん? なにって、北郷は今から私と訓練するんだろう?」

「はぁ!?」

「ほら、さっさと行くぞ! 時間はゆーげんなのだからな!」

 

 ちょっと難しい事を言ってドヤ顔になる春蘭を見て、一刀はほっこりしてしまった。

 これが、外から騒動を眺める故の余裕だろう。現に、当事者の桂花は顔色を真っ青にして、一生懸命暴れているのだから。

 

「はな、離しなさいっ! 誰があんたみたいな猛獣と肉体を酷使しなきゃいけないの! 私は頭脳労働専門なのよ!?」

「あ、こら暴れるな! お前の方から頼んできたんじゃないか!」

「知らないわよ! やるならあそこでぼけっと突っ立っているあいつにして!」

「私は桂花じゃなくて北郷に頼まれたんだぞ!」

「だから私は──」

 

 醜い争いとはこの事か。いや、醜いというより、注射を嫌がって駄々をこねる子供と、無理やり病院に連れていこうとする母親に似たような微笑ましさがある。

 しかし、そろそろいい加減に止めなければ、色々とまずいだろう。

 桂花の口が滑るかもしれないし、なにより誰かが通りかかるかもしれない。

 そう判断した一刀が声をかけようとした、その直前。

 

「あっ」

 

 と、声を漏らしたのは誰だっただろう。なんの因果か、はたまた偶然が重なってしまっただけか。

 桂花の首根っこを掴み直そうとした春蘭が、手元を狂わせて左手の長剣を振り上げてしまった。

 

 ──今の桂花の身体についている、男の象徴へと。

 

 鞘がぶつかる音が響き、場は痛いほどの沈黙に包まれた。

 春蘭は長剣を桂花の股間に当てたまま止まっており、しまったと気まずそうに目を逸らしている。

 桂花は未知の痛みに声も出ないのか、白目を剥いて口元から泡を吹きはじめていた。

 一刀自身は思わず股間に手を添え、内股になって縮み上がってしまう。

 

「ぐ、ぐぉぉぉぉぉぉ……」

「その……なんだ……すまん」

 

 謝った春蘭が手を離すと、桂花は股間を押さえながら床を転げ回る。

 打ち上げられた魚のように痙攣しており、びたんびたんと床を跳ねていた。

 

「お、お前……」

「わ、わざとじゃなかった! そもそも、北郷が抵抗しなければこんなことにならなかったんだぞ! だから……いや、すまん」

「ごろじでやる……ごろず」

 

 濁った声を上げて、春蘭を涙目で睨む桂花。涎を垂らしているその姿は、控え目に言ってもかなり痛々しい。

 流石に見るに堪えないのか、春蘭は先ほどから目を泳がせている。

 

 桂花の気持ちはよくわかる……わかってしまう。

 女性の陣痛より痛くない、等といった話も聞くことはあるが。

 他と比べられようと、股間の痛みは物凄く痛いのだ。

 それこそ、筆舌に尽くしがたい痛みで、同じ男として心底同情してしまう。

 しかも、桂花は元は女性だ。それが男の痛みを味わう事になるとは。

 

「──あら、こんなところでなにをしているの?」

 

 思わず合掌していた一刀だったが、背後からかけられた声に固まる。

 悶絶していた桂花も動きが止まり、恐る恐るといった様子で顔を上げる。

 また、既に春蘭はお尻に幻の尻尾を生やし、ちぎれんばかりに振っていた。

 

「華琳様!」

「おはよう、春蘭」

「おはようございます! 今日も、華琳様の覇道を照らさんばかりの良い天気ですね!」

 

 春蘭と話を始めた華琳をよそに、一刀は桂花と目を合わす。

 よりにもよって、今一番会いたくない人と会ってしまった。

 いまだ現状のとっかかりすら掴めていないのに、これで華琳にバレてしまったら、嘘も誇張もなく桂花は自害してしまうかもしれない。

 彼女の目が語っていた。華琳に教えたら、お前を殺して私も死ぬ、と。

 

「桂花」

 

 一刀は涙目で何度も頷き、改めて華琳に知られないよう細心の注意を払うと決意を固める。

 

「桂花?」

 

 特に、今日はボロが出ないように、華琳から注目されないように振る舞わなければ。

 空気だ。己は空気になるのだ。いてもいなくてもいい、気体へと身体を昇華させるのだ。

 

「おい、桂花! 華琳様が呼んでいるのだから、返事をしろ!」

「は、え?」

 

 肩を掴まれて無理矢理後ろを向かされれば、怒った顔の春蘭と目を細めた華琳が自分を見つめていた。

 ……しまった。今の自分は、桂花になっているのだった。名前を呼ばれても、他人事のように感じてしまっていた。

 背中からどっと冷や汗が吹きだし、慌てて拱手の形を取って頭を下げる。

 

 あの華琳の目は、こちらを測る疑念の眼差しだった。

 普段の桂花ならば、一もなく返事をして歓喜に身を震わせていたはずだ。

 しかし、今は華琳の言葉を無視する形になってしまった。あの桂花が、華琳が好きで好きで堪らないあの桂花がである。

 

 一刀の胸中を過ぎる、焦りの感情。

 それは脳裏で桂花の形を取り、物凄い汚物を見る目で自分を蔑んできていた。

 どうやら、桂花の身体が華琳に反応しなかった一刀に怒りを抱き、このような幻覚を想像させているらしい。

 流石は桂花といったところか。一刀の意識としては精神ダメージを受けて、ちょっと重いため息を零したい心境であったが。

 

「顔を上げなさい」

「はっ」

「……」

 

 じっとこちらを見つめてくる華琳を見て、一刀の全身は火照っていた。

 主に下腹部が熱くたぎり、同時に脳がピンク一色に染まっていく。

 

 ──見られている。

 

 ──華琳に見られている。

 

 ──親愛なる我が主が、どこか艶がある瞳で()を射抜いている。

 

 ──春蘭でもない、床に転がって自分を睨む一刀(桂花)でもない……今の華琳様は、()だけにその可憐な眼差しを向けてくれている。

 

「桂花?」

「はっ!? も、申し訳ありません! 華琳様に見惚れておりました!」

 

 慌てて首を振った一刀は、赤くなった頬を隠すように頭を下げた。

 明らかに今、一刀の精神は桂花の身体に寄っていた。

 自然と目の前の覇王を主と仰ぎ、尋常ではない愛の感情に支配されていた。

 脳内の桂花が舌打ちをし、溶けるように消え失せる。

 同時に、一刀を支配していた愛欲が落ち着き、下腹部を含む熱が少し治まっていく。

 

 改めて、桂花は華琳に絶大なる忠誠を誓っていると、文字通り身に染みて理解した一刀。

 こんな理性を失いかねない感情に支配されているのに、少なくとも一刀が見ているうちの桂花は分をわきまえていた。

 もちろん、ある程度は凄い感じではあったが、この感情を知ってしまえば、桂花の忍耐力はとてつもないのだと感嘆する他ない。

 

 密かに桂花を色々な意味で戦いていると、頭上から思案する声音で華琳が呟く。

 

「今日の桂花は、普段より初心よね。どのように例えればいいのかしら……そう、女性を知らない男性のように、初恋を知ってしまった少女のように、真っ白な心に一輪の花を咲かせたみたいに初々しいわ」

「っ!?」

 

 当たっている。

 一刀は桂花ほどの情動を抱いた事がないので、ある意味華琳の言葉は的を射ていた。

 先ほどまで嫉妬からか歯ぎしりしていた桂花も、その例を聞いて微かに頬を引き攣らせている。

 

 普段ならば、いくら一刀の身体になっているとはいえ、桂花がこのような露骨な反応は示さなかっただろう。

 しかし、心の準備ができていないのに華琳が現れ、更に彼女は異性の耐え難い痛みに悶えていた。

 むしろ、この程度の反応に抑えた事こそ、褒められるべきであろう。

 

 そんな桂花の様子を横目で捉えていた華琳は、顎にたおやかな指を添えて動きを止める。

 しかし、直ぐに凛然と微笑みを浮かべ、傅く一刀に視線を降り注ぐ。

 

「……桂花」

「は、はい!」

「ここ数日の情勢の変化を、端的に報告しなさい」

「ぎょ、御意。ではまず──」

 

 華琳に言われた通り、一刀は桂花の身体をフルスペックに使い、すらすらと答えはじめた。

 淀みなく紡がれる言語の羅列に、華琳の隣で佇んでいた春蘭は、わかった風に頷いたり首を傾げたりしている。

 ようやく立ち上がれた桂花も、一刀の対応には問題ないと思ったのか、目を伏せて息を漏らしていた。

 

 対して、華琳は話を聞いているのかいないのか、どこか別の事に集中している様子で、答える一刀の瞳を見つめている。

 どもりそうになる声を整え、汗から体温まで全てに気をつけながら、一刀は全身全霊でこの難問に挑んでいた。華琳に、自分達の秘密が暴かれるわけにはいかないから。

 

 話した時間は、数分にも満たないだろう。

 しかし、一刀自身は何時間も経ったような錯覚に陥り、心臓が休息を求めるように暴れているのを感じていた。

 

「もういいわ」

「──は、はい!」

「そうね……桂花。貴方が言った内容の中で、もう少し踏み込んで尋ねたい部分があったわ。今から、私の部屋に来てくれないかしら?」

「御意……へ、へやぁ!?」

「なぁっ!?」

 

 笑みを浮かべて告げる華琳の言葉に、一刀と桂花は目を剥いてむせた。

 胸に手を置いて息を整えている自分を無視して、華琳は踵を返してしまう。

 そんな彼女の行動を見た桂花は、慌てた様子で追いかける。

 

「お、お待ちください華琳様っ!」

「なにかしら? 要件は手短にお願いね。今から、桂花と二人(・・)で軍議を開くのだから」

「ふ、ふたり!?」

 

 あわわわわこれどう見てもあっちのお誘いも含まれているよねこの身体が期待で燃え上がっているしというかこんな朝っぱらから求められるのはばっちこいいやいやなんで俺は期待しているんだおかしい──

 

 と、一人百面相で顔を彩っている一刀をよそに、桂花は絶望で表情を崩して華琳に追いすがった。

 床に這いつくばって土下座に似た格好になりながら、血涙を流して慟哭の声を上げる。

 

「お願いします今日はダメですあいつはケダモノなんです脳内が桃色に染まっていて気持ち悪いんですですから華琳様と二人きりにするのは危険なんですッ!」

「お、おい北郷……今日のお前、ちょっと近寄りたくないぞ」

「うるさいわね筋肉女は黙ってなさい!」

「なんだと!?」

 

 わーわー騒ぎはじめた桂花達を見ていた華琳は、ため息をついて桂花に近づく。

 

「一刀。どうして、貴方にそんな事を言われなきゃいけないのかしら? いくら貴方でも、私の大事な臣下を侮辱するのは許さないわ」

「大事……華琳様に大事って言われた……うへへ」

「北郷……」

 

 ゴミを見る目という珍しい表情に春蘭がなる中、一刀の元に近寄る華琳。

 頭から煙を吹いて目を回していた一刀は、頬を撫でられた事で我に返る。

 目の前で艶のある流し目をする華琳を見て、胸をときめかせて息を荒くしてしまう。

 自然と身体はこの後の期待に火照り、全身が濡れていく──

 

「さあ、行きましょう──一刀」

 

 ──瞬く間に血の気が失せ、熱が全て冷や汗に変換された。

 目を見開いて声も出ない自分に、華琳は悪戯っぽい笑みを湛える。

 

「私が、貴方達の変化を見抜けないわけないじゃない」

「……いつから?」

「流石に一目では違和感しか抱けなかったけど、貴方の顔を見ていると不思議と腑に落ちたわ。どういった怪奇が起きたか知らないけど、一刀と桂花の精神が入れ替わっているとね……それに」

「それに?」

 

 そこで言葉を止めると、華琳は顔面崩壊している桂花に目をやって嘆息。

 

「あの桂花の姿を見たら、大抵の人は気づくわよ」

「あー……」

「だから、貴方は貴方のまま私の部屋に来なさい」

「え?」

 

 おかしい。

 華琳にバレてしまったのだから、先ほどの話はなかった事になるのではないか。

 むしろ、瞳の色にSっ気を滲ませはじめている華琳を見ていると、急速に嫌な予感が膨れ上がってしまうのだが。

 

 背筋が粟立ち、思わず右足を一歩後ろへ下げてしまう。

 しかし、巧みな華琳の手つきに阻まれ、一刀は背中に手を添えられた。

 ますます全身が震え、奥歯が噛み合わず断続的に音が鳴る。

 

「そこまで怯えられるのも心外ね。私はただ、貴方に女の悦びを教えてあげようとしているだけなのに」

「はわ、はわわ……」

「まあ、貴方の身体は期待しているようだけど」

 

 そう告げた華琳が一刀の下腹部に指を触れ、愉悦を含んだ口角を上げる。

 逃げろ、今すぐ逃げろ北郷一刀。このまま華琳に捕えられてしまえば、自分は戻れないところまで行ってしまうぞ。

 根拠もなくそんな予感があった一刀だったが、既に腰に力が入らず華琳に寄りかかっている。

 脳内に再出現した桂花が、満面の笑みで小躍りを始めた。

 

「……あの」

「なにかしら?」

「優しくしてください」

 

 抵抗を諦めて頼んだ一刀を見て、微かに頬を赤らめる華琳は、淫魔さながらの色気のある表情で一刀の耳元に口を寄せて囁く。

 

「──それは、貴方次第ね」

 

 それからの記憶は、あまりない。

 ただ、色々と物凄かったことと、これはこれでありかもしれない、と新たな扉を開きかけただけだ。

 

 こうして一刀はある意味、死よりも恐ろしい体験をしたのだった。

 

 

 ♦♦♦

 

 

「んぅ……?」

 

 目を覚ますと、そこは見慣れた自分の部屋だった。

 微睡む意識でぼんやりと見つめてからしばし、慌てて起き上がって自分の身体をまさぐる。

 

「ない、おっぱいがないぞ……ある、ある!」

 

 そこには、慣れ親しんだ自分の息子が顔を覗かせていた。

 一日振りだからか、彼がおかえりなさいお父さんと語りかけているような気もする。

 思わず涙ぐみながら、一刀は戻った事に心の底から喜んでいた。

 

「やっぱり、男が一番!」

 

 活力のある筋肉、力強い身体、安定した重心。

 昨日までの桂花の身体は、羽のようなふわふわで常に一定の不安があった。

 しかし、今はしっかりと地に足があるような感覚を覚え、床に立っても安心感のある佇まいになっているのだ。

 

「そういえば、桂花はどうなったんだろう」

 

 一頻り歓喜していた一刀は、桂花の身を案じて心配になった。

 彼女も、自分と同じように戻れているなら良いのだが。

 そんな一刀の思考を読んだかのように、慌ただしい足音が近づいてくる。

 直ぐに扉が大きく開かれ、肩で息をする桂花が現れた。

 

「はぁ……はぁ……」

「桂花も戻れたんだな! 良かったー」

「良かったですって?」

「あれ?」

 

 もしかして、地雷を踏んだのか。

 物理的な鋭さを伴うほど恐ろしい眼光で睨む桂花は、憎悪に顔を彩らせて一刀に近寄る。

 親の仇と言わんばかりの形相に、思わず一刀は後ずさってしまう。

 その対応が気に食わなかったのか、桂花の顔つきはますます凶悪になっていく。

 

「あんた……私の身体で、華琳様に可愛がってもらっていたでしょう」

「……あっ」

 

 黒歴史として封印されているので、詳しい内容は思い出せない。

 しかし、思い出せる範囲だけでも、一刀の羞恥が限界付近まで上がるのは簡単だった。

 そんな自分の変化を見て、桂花は歯ぎしりをして地団駄を踏んでいる。

 

 どうやら、一刀が入っていた間の記憶はないのか、桂花は華琳との内容は知らないらしい。

 一刀自身も桂花がいた間の記憶はなく、恐らく今後も思い出す事はないだろう。

 ともあれ、桂花が怒っている事情を察した一刀だったが、かと言って彼女にかけるべき声は思いつかない。

 

「なんで昨日に限って華琳様のお目が叶うのよ! ああもう本当にあんたが憎くて憎くて仕方ない!」

 

 そういえば、身体が戻った後嫉妬に身を焦がす桂花を見てみたいから、あの時は一刀を誘ったとも華琳は言っていた。

 確かに、ここまで良い反応をしてくれるのなら、華琳の気持ちは同意できる部分もある。

 

「と、とりあえず、落ち着こう」

「うるさいわねっ!」

 

 宥めようとした一刀を睨んだ桂花は、よほど腸が煮えくり返っていたのか。

 足を振り上げると、一刀の股間目掛けて蹴りを放とうとする。

 しかし、直ぐに蹴撃は止まり、なんとも言えない顔で静止した。

 身構えていつでも飛び退く用意をしていた一刀だったが、これには勢いが削がれて中途半端な姿勢で固まってしまう。

 

「な、なんだよ」

「……ふんっ」

 

 鼻を鳴らして足を下ろすと、踵を返した桂花。

 

「お、おい、どこ行くんだよ」

「華琳様のところに決まってるでしょ。昨日の遅れを取り戻すために、色々と指示を仰ぎたい事柄があるんだから。ほら、あんたも来なさい」

「俺も?」

「……あんたの身体だった時に、あらかた天の知識は見させてもらったわ。ところどころあやふやな部分が多かったけど、私の政策に活かせそうな部分も沢山あったわ。だから、あんたと私の二人で穴を埋め、華琳様の覇道を支える策に練り上げるわよ」

 

 早口で一息に言い切った桂花は、微かに赤らんだ耳を隠すようにフードを深くかぶり直し、急ぎ足で部屋を出ていった。

 そんな彼女の姿を見て、一刀は少し照れてしまう。

 なんだか、桂花は自分を認めてくれたような気がして、改めて協力して華琳の助けになれると実感した気がして。

 

「素直じゃないやつ」

「ちょっと、早く来なさい!」

「ああ、わかった!」

 

 急いで着替えを済ませて桂花を追いかけ、一刀達は華琳がいるであろう場所へ行く。

 なんだかんだ昨日は大変だったが、どうにかハッピーエンドで終わりそうだ。

 桂花と少し仲良くなれ、華琳の事もよく知れ……いや、あれはノーカウント。

 ともかく、悪い事ばかりではなかったと思いつつ、一刀達は華琳を見つける。

 

 なんだか、様子がおかしい。

 側にいる春蘭と秋蘭はめちゃくちゃ狼狽えているし、なにより華琳自身がもっとも変だ。

 彼女は落ち着きがない様子で辺りを見回しており、いつもの凛とした雰囲気が微塵もない。

 

「……嫌な予感がするわね」

「うん、俺も」

 

 顔を見合わした一刀達は、急いで華琳の元に向かう。

 自分達に気がついた春蘭はあからさまにほっと安堵し、秋蘭も物凄く困った顔で眉根を寄せた。

 

「た、助かった! 北郷、桂花、華琳様を助けてくれ!」

「私も姉者もどうすればいいのか途方に暮れていてな……」

 

 二人の声で一刀達を察知したのか、後ろを向いていた華琳が振り返る。

 何故か、瞳がキラキラしていた。

 汚れを知らない子供のように、暖かみのある太陽のように、見ている人の心を浄化するような。

 普段の華琳とは似ても似つかない、どこかぽわぽわとした雰囲気が漂っていた。

 

 華琳は桂花を見て小首を傾げ、次いで一刀に視線を転じると表情を変化させる。

 具体的には、迷子の子供が母親を見つけたかと言わんばかりに。

 

「──ご主人様!」

『……え?』

 

 今、華琳は一刀に向かって、大変な呼称で呼びかけなかったか。

 誰もが声を揃えて呆気に取られる中、華琳は満面の笑みで言葉を繋ぐ。

 

「良かった〜、ご主人様がいてくれて。今日目が覚めたら愛紗ちゃん達はいないし、曹操さんのところの人がいるし、本当にわたしどうしたらいいのか困ってたんだ。でもでも、ご主人様がいてくれて安心だよー」

 

 よほど不安だったのか、怒涛の勢いでまくし立てる華琳……いや、華琳の中にいる誰か。

 春蘭と秋蘭は目を回して混乱の境地にいて、対する一刀もびっくりしすぎて頬を引き攣らせていた。

 

「……よ」

「へ?」

 

 俯いて肩を震わせていた桂花は、可愛らしく小首を傾げた華琳を見て、ついに限界突破してしまったらしい。

 頭を抱えて仰け反り、この理不尽な出来事を呪うかのように絶叫する。

 

「なんでこうなるのよおおおおおおっ!」

 

 どうやら、入れ替わり騒動はもう一波乱あるようだ。

 疲れでため息をついた一刀は、どう収拾すればいいのかと頭を悩ませるのだった。

 

 

 ♦♦♦

 

 

 なお、どこかの外史のとある陣営では。

 

「ほら、逃げないで私のところにいらっしゃい。存分に可愛がってあげるわ」

「とととと桃香様!? なにゆえそんな危ない目で私に近寄るので!?」

 

 猛禽類のような笑みでにじり寄る桃香と、顔色を真っ赤に染め上げて目を回す愛紗。

 

「桃香お姉ちゃんが壊れたのだ!?」

「あわわわわ」

「はわわわわ」

 

 少し離れた場所では、慌てた様子で室内を駆け回っている鈴々に、両手で顔を隠しつつも、指の隙間からこの後の情事を覗く気満々の朱里と雛里。

 ついでに気配を薄めて愉悦に顔を緩ませる星と、中々愉快な状況に陥っていた。

 

「マジか……桃香が同性愛に目覚めちゃったよ。この先、俺達やっていけるのかなあ……」

 

 どうやら、この世界でも、一波乱あるようだ。

 そんな恋姫達のドタバタを見たこの世界の一刀は、遠い目で現実逃避を始めるのだった。

 

 

 



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