ナツキ・スバルはいつも迷っていた。
他人の心を推し量ることができない不器用さゆえに。
自分に献身的な愛を投げかけてくれる少女レムを受け入れることが怖かった。
愛や心を測るメジャーがあれば。
目に見える数値化できたら。
そんなことをついつい考えてしまうことがあった。


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ちょっと、愛についていろいろと考えてみたくなりました。


You Can Measure My Heart(レムの秘密の小部屋)

心には形がない。

心の中に潜む感情、愛や憎しみにも形がない。

それは、形を持たないがゆえに、数値で測ることができない。

人類がたとえすべての地表を地図に刻んだとしても。

心の地図を製作することはできないだろう。

ナツキ・スバルは時折、思う。

他人の心を推し量る、特別なメジャーがあればいいのに、と。

 

 

ある日の朝。

スバルは柔らかな声で目が覚めた。

瞳を開き、朝の光に満ちた世界をぼんやりと認識するとそこには、青い髪の少女がいた。

彼をいたわるような瞳で見つめるこの少女は、レム。

歳の頃は同じぐらい。

非常に愛らしい顔立ちをしている。

 

「おはようございます。スバルくん」

「ああ。おはよう、レム。起こしに来てくれたのか」

「はい」

 

心地よい鈴の音のようにレムが答える。

スバルは、胸の奥が少しこそばゆくなった。

彼は、レムが自分のことをスバルくんと呼ぶごとに、わずかな照れくささを感じることがある。

それは“くん”という呼び方ゆえだ。

この、ありふれた呼称は、彼に学生時代の懐かしさを思い起こさせる。

 

“くん”

 

異世界へと転生した今となっては、二度とあの学校という平和で閉じられたコミュニティに戻ることはないだろう。

そもそも、スバルは高校にはろくに通っていなかった。

いわゆる不登校というやつだ。

それでも彼の記憶の中のかすかな残像では、クラスメイトの女子たちがよく、男子を呼ぶときに“〇〇くん”という言葉を使っていたように感じられる。

あるいは、あの頃自宅でこっそりとやっていた恋愛ゲームのヒロインの記憶とごっちゃになっているだけかもしれないが。

 

振り返ると、現代社会というものは、なんと満ち足りたものだったのか。

衣・食・住の事足りた世界。

土を耕すことなく米を食し、水難にさらされることなく水を飲むことができる世界。

雨の日にはぼんやりと教室から窓の外を眺め。

必要な情報は携帯端末がすべて教えてくれる世界。

 

レムに柔らかい声でスバル“くん”と呼ばれるたびに、スバルは。

どうしようもなくそんな遠い世界のことを思い出してしまうのだ。

人の生死がありありと存在するこの厳しい異世界において、優しさを伴う声音は救いと同時にどうしようもない郷愁を掻き立てる。

彼のそんな思いを知ってか知らずか、レムはいつもの澄ました顔をしていた。

 

「スバルくん。朝食ができていますよ。冷めてしまわないうちに食べましょう」

 

スバルはあいまいに頷いた。

 

 

朝食の席にはいつもの顔ぶれがいなかった。

ただでさえ広いお屋敷の部屋に人が少ないと、異様なほどに寂しく感じられる。

しんとしたその空間に、ラムが一人ぽつねんと立っていた。

 

「あら。おはよう、バルス。遅かったわね」

「まぁ、今日はロズワールもエミリアたんもいないからな。たまにはゆっくりしようかと思ってさ」

「バルスはいつも自由勝手に生きていると思うけれど」

「手厳しいなぁ」

 

スバルは苦笑いをする。

彼女のこういった皮肉さは不快ではなかった。

むしろ、齢近い女の子にからかわれているようで心地が良い。

椅子に座ると、朝食が運ばれてきた。

 

 

その日は、驚くほど静かな日だった。

暖かくもなく、寒くもない、季節の滞留のような一日。

ロズワールはエミリアを連れて、お城の用事で出かけていた。

ベアトリスはもちろん部屋から出てこない。

この広い空間に、スバルと双子のメイドしかいなかった。

朝食を終えると、スバルは執事服を着こみ、窓を拭く作業に取り掛かった。

お屋敷がこれだけ広いと、拭くべき窓の数も多い。

午前中から作業を始めないとすぐに日が暮れてしまう。

だがこんな静かな一日には、ふと心がどこか遠くへと行ってしまうのだ。

彼は、窓越しに見える庭をぼんやりと眺めていた。

 

「スバルくん。また、遠くを見ていますね」

 

不意に声をかけられて振り向くと、レムがいた。

手には洗濯籠。

洗い終えた衣服類を運んでいる最中だったらしい。

 

「ちょっとね」

 

別段意味があって何かを眺めているわけではなかった。

だから答えに困ってスバルはもごもごとつぶやく。

レムはくすりと笑った。

 

「咎めているわけじゃないんですよ。それよりも、スバルくんが何を見ているのかが知りたいんです」

 

彼女はもう、洗濯籠を床に置いていた。

スバルは言葉を選ぶように答えた。

 

「何かを見ていたわけじゃないんだよ。しいて言えば庭を見ていたんだけど、庭を見ていたってわけじゃない……って、何言ってるんだろうな。わけわかんないよな」

「そんなことないですよ。レムも、スバルくんがお庭を見ていたんだなんて思っていません」

「え?」

「時々、思うんです。スバルくんは、どこかここじゃない遠くを見ているみたいだって。ここにある景色よりももっと向こう側。レムには見えないですけど、きっとスバルくんは、もっと遠いところを見ているんじゃないでしょうか」

 

そう言ってから、顔を赤らめてつぶやいた。

 

「レムは、その。いつもスバルくんのことを見ていますから、気がついちゃったんです」

 

その言葉には、愛情がにじんでいた。

レムの言葉には、いつも親愛のしるしが刻まれている。

スバルへの献身的な愛。

一見、内気にも見えるレムだが、比較的その言葉をストレートに口に出す。

スバルは目を細めた。

彼にはその愛が、分かるようで分からなかった。

スバルはありふれた少年だ。

愛を求め、自己を承認してくれる存在を欲しがっているごく普通の人間だ。

だからこそ。

彼にとって、まっすぐにぶつけられる愛は重かった。

顔が思わずにやけるほどの嬉しさを感じるその一方で、彼の内心には、照れや怖さ、理解できなさがあふれていた。

己に一方的な愛が向けられるとき、それを受け入れるだけの精神的容量が欠けていたのだ。

彼は、薄く小さなガラスのコップだった。

現代育ちの、社会に揉まれていない、ただの17歳の少年だ。

それ故に彼は、レムが己に向ける愛情や尊敬のまなざしが眩しすぎ、怖かった。

確かに彼はレムに対し、彼女がとらわれていた心の楔を断ち切る役割を果たした。

それによって敬意の情が生まれたのであろうことは理解できる。

しかしそれはたった一つの事象に対する評価なのだ。

ある一つの出来事に対するレムの評価が100点満点だったとしても、それはその一度に過ぎない。

そして彼は、いつも必ず正しい行為をなしうる完全な人間ではない。

そのことを自覚しているからこそ、怖かった。

すでに100点を取ってしまった自分の評価が、今後日々のちょっとした行為の積み重ねでどんどんと目減りしてしまうのではないのか。

そして、事実自分は、それほど大した人間ではないのだから。

そう考える時。

彼は、レムの愛を受け入れるよりも、エミリアを追い求めるほうが潜在意識の重力が軽いことに気づく。

エミリアを追い求める行為は、精神的負担はない。

自分はすでに、一度得た評価を失った人間であり。

0点から目標値まで、新しい積み重ねをしていけば良いにすぎないからだ。

それは、高い山に登る前日の感覚に似ている。

当日登り始めれば大変な苦しさにさいなまれるかもしれないが。

前日準備をしている段階においては、不思議な停滞した時間の心地よさを感じられるものだ。

 

スバルの無言を、レムがどのように受け止めたのか分からなかった。

当たり前のことだが、他人の心を推し量ることはできない。

プロの営業マンは、経験則により他者の内心の機敏をある程度掬い取ることはできるかもしれないが、それでも『ある程度』であろう。

人と人はこれだけ毎日のように接していても、その内面は果てしなく遠いのだ。

物理的な距離の近さと、内面の距離感は比例しない。

むしろ反比例する場合すらある。

あぁ。

他者の心を手のひらに収め、測ることができる魔法のメジャーがあれば。

スバルはそんなことを考え、はたと自分の心の弱さに気が付き頭を掻いた。

また、悪い癖が出てしまったらしい。

俺はどうにも考えすぎる。

直情的で浅はかな部分があるくせに、考えてばかりで停滞してしまう。

 

「スバルくん」

 

唐突に、レムが口を開いた。

 

「おおよそのお掃除は終わりましたか?」

 

会話の方向性が変わった。

気を使われたのかもしれなかった。

 

「まだもう少しかな。ここの窓を全部拭いたら、向かいの部屋もやらなきゃならないから」

「では、一時間後に少し、休憩しませんか? 一緒に。気分転換に、お散歩でもしましょう」

 

そう言って彼女は、まっすぐなまなざしでスバルを見つめた。

 

 

きっちり一時間後。

スバルの背中に、細い指が触れた。

振り向くとレムがいた。

 

「ちょっ。レムりん。その触り方はなんかいやらしいぞ」

 

冗談めかして笑って見せるとレムが小さく微笑んだ。

 

「さっ。行きましょう。お散歩開始です」

 

お行儀のよい歩き方で、お屋敷の廊下をてくてくと進んでいく。

散歩というからどこかへ行くのかと思ったのだが。

スバルは少し拍子抜けした。

だが考えてみれば、中途半端な時間帯にお屋敷を抜け出すわけにもいかない。

この広いお屋敷を歩くのも散歩としては悪くないのかもしれない。

散歩というよりも探索のような気もするが。

 

「どこか目的地はあるのか?」

「それは秘密です」

 

レムが澄ました表情で唇に指をあてて内緒のポーズをした。

スバルはそのしぐさを単純に可愛いと思った。

そしてまた、この少女が自分に向ける愛情について考え、少し息苦しくなった。

二人は、まるで行く当てのないピンボールのようにお屋敷の廊下を歩んでいく。

目についた扉を開け、そこにある調度品を眺め、その高級な雰囲気に驚いたり感心したりする。

 

「ここは姉さまが小さいときに転んで付けた傷です」

 

大きな太い柱に傷があった。

 

「駄メイドじゃねーか」

「大きな荷物を持ってふらふらと歩く姉さまも素敵でした」

 

昔を思い出したのか、レムが目を細める。

人は過去を思い出すとき、このような表情をする。

 

「レムもさ。今、遠くを見ている表情をしていたぞ」

「そうですか?」

「あぁ。俺だけがいつも遠くを見ているわけじゃないよ、きっと。何かを思い出すとき、みんなそんな表情するんだと思う」

「スバルくんは何を思い出しているのですか?」

「ここじゃないどこかの出来事かな」

 

うそを言ってはいない。

いないのだが、口に出すと、妙に気障ったらしく感じられた。

それで少しばつが悪くなってスバルは目をそらした。

 

「悪い。変なこと言った。忘れてくれ」

 

レムはそんなスバルを見つめ、しばし思案顔をした。

ん~、とかすかに悩ましく呟き、再びスバルを見つめる。

そして、くるりと背を向けた。

一歩、二歩歩いてから振り返り、言った。

 

「目的地、やっぱりあります。こちらへ来てください」

 

 

連れられるままに歩く。

長い廊下を抜けると、中庭に出た。

それは、スバルが知らない場所だった。

今は季節柄、花は咲いていないが、アーチがあり、薔薇の蔦が這っていた。

 

「花が咲いたら奇麗だろうな」

「そうですね。お花のトンネルみたいになるんです。小さいころ、大好きでした」

 

花のトンネルとレムはとても似合いそうだ。

今は味気ないアーチをくぐる。

そのアーチは小さい作りで少し屈まなくてはならなかった。

アーチを抜けると、小さな噴水があり、その先に小屋があった。

噴水には水が通じていなかった。

枯れた噴水の遺構は物悲しさを感じさせた。

 

「これは?」

「なんてことはないただの倉庫ですよ。なかには庭作業用の道具が入っています」

「へぇ。それじゃ普段はここから剪定道具とかを取り出してるのか」

「いえ」

 

レムが首を振った。

 

「ここはもうずっと前から、使われていません」

 

どこか寂しそうにそう言った。

 

「さて。ここが今日のお散歩の目的地です」

 

メイド服のスカートを優雅なしぐさでつまみ、舞踏会に招待したかのようにお辞儀をする。

 

「レムの、秘密のお部屋へようこそ」

 

 

錆びついて、立て付けの悪くなった倉庫の扉を開ける。

ギギッと、わずに不快な音を立てたあと、比較的すんなりと動き出した。

鉄製の堅牢な扉だった。

経年により緑青や錆が発生していた。

どうにも無骨な倉庫だ。

レムのような女の子に似合うとは思えない。

これがレムの秘密の部屋だって?

スバルは怪訝に首をかしげる。

扉が開ききると、レムが息を飲んだ。

瞳をぎゅっと閉じる。

だが、そんな一瞬の躊躇を断ち切るように、彼女は足を踏み込む。

一歩一歩を踏みしめるように、倉庫の中へと入っていった。

 

「スバルくんも来てください」

 

促される言葉に少し戸惑いながら、スバルも倉庫内へと足を踏み入れる。

ひんやりとした空気が肌を撫でた。

長い間、閉じられた空間特有の、圧縮された寒気だった。

それは不快感ではなく、むしろ懐かさを感じさせた。

子供の頃に家の近くの工場の倉庫に忍び込んで遊んだことを思い出した。

 

中はもっと薄暗いのかと思ったのだが、上部に光取り窓が付いているため、予想よりは明るかった。

天井から差し込む日の光がふわふわと揺れて、狭い倉庫の中をうっすらと照らす。

何とも言えない独特の雰囲気があった。

薄暗さに目が慣れてくると、倉庫の中をはっきりと見渡すことができた。

壁沿いに農作業用具や、植木剪定のためのハサミ、籠などが置かれている。

それらのいくつかは壊れ、壊れていないものにしても、扉と同じように錆びついている様子だった。

捨て置かれているという表現がぴったりだった。

ことさらに大きな鍬の表面にびっしりとついた赤錆は、その農具が長年そこに忘れ去られていることをはっきりと伝えていた。

それらに囲まれて、小さな毛布や、ぼろぼろの本、何かの画用紙、古びて傷んだぬいぐるみなどが置かれていた。

アンバランスだった。

アンバランス。

ぬいぐるみは古びてはいるが、リボンをつけた猫のデザインで、小さな女の子が好みそうなものだ。

ぼろぼろの本も表紙を見る限り絵本のようだ。

お城の舞踏会とお姫様の絵。

 

「レム。これって……」

 

スバルは、足元にあった画用紙を手に取った。

そこには、稚拙な絵で、一組の男女が描かれていた。

見ればすぐに分かった。

子供が両親を描いた絵だ。

画用紙が不自然にエンボス地のようになっていた。

涙だ。

涙でへこみができた痕だ。

 

「昔のままですね、ここは」

 

レムが背中越しに呟いた。

その声音には、いつもの澄ました上品さに他の何かが混じっていた。

自嘲だろうか?

いや、違う。

もっと重い、諦念のような何か。

レムが振り向いた。

表情はいつものままだった。

しかしそれは、感情を押し殺しているようにも見えた。

彼女特有の柔らかな静けさが今日は底知れない沼のようにも感じられた。

 

「子供の頃。お屋敷に拾ってもらった頃のことです」

 

レムの唇が過去を紡ぎ出した。

言葉の糸が、失われた時間のつづれ織りを織り始める。

 

「レムは自分を責めてばかりいました。自分で自分の殻に閉じこもり、自分を傷つけてばかりいました。両親のこと、村のこと、姉さまのこと。自分のふがいなさ、情けなさを責めてばかりいたんです」

 

言葉は、水が流れるようにさらさらと続いていく。

 

「レムは。自分が苦しめば苦しむほど、罪滅ぼしになると思っていました。それが正しいんだ、自分はそうあるべきなんだと思っていました。自分の本当の心が分からなかったんです。もう限界だ、苦しいって思っていても、そのことに気が付かなかったんです」

 

スバルの頭の中に、一人自己を責める幼い少女が浮かび上がる。

少女は自分自身におびえ、悲しみ、うずくまって泣いていた。

小さな体を支配する大きすぎる重荷。

押し潰されそうになっている。

 

「そんなある日、たまたまお屋敷で迷ってしまって。先ほどの中庭を見つけました。その時はちょうどお花のアーチが満開で。息をのむほどに奇麗だったんですよ」

 

幼いレムが、薔薇のアーチを見上げる。

大人には小さいアーチも、少女には巨大なものに感じられる。

 

「唐突に夢の世界に入り込んだみたいでした。おとぎ話の中の出来事みたいでした。レムは、自分は物語の主人公じゃない、自分は嫌な現実の中にいる、と思っていましたから。本当に、現実が急にぐるりと転換したみたいだったんです。絵本の中のお姫様になったような気分で、お花のアーチをくぐりました。その先にあったのが、この倉庫です」

 

そこまで言って、レムが振り返った。

 

「素敵な素敵な、レムだけの秘密のお部屋の誕生でした」

 

微笑みながら、足元の毛布に手を触れる。

 

「懐かしいです。お屋敷のお仕事が上手くいかなかったときとか、いつもここにやってきて、これにくるまっていました。毛並みの良い毛布はすごいです。暖かくて柔らかくて。お母さんに抱きしめられているような錯覚をしてしまいます」

 

それからスバルが手にしていた画用紙に目を向けた。

でこぼこのエンボス地に歪んだ、古びた画用紙。

スバルは言った。

 

「でも、この画用紙……これって」

「はい。涙の痕です」

「どうして……」

「夢は覚めちゃうんです」

 

そういったレムはいつものすまし顔のまま。

 

「そんなに心配していただくようなことじゃないんですよ。子供の頃ですから。ちょっとしたことで、現実に引き戻されちゃうんです。こう、夢と現実の境目があいまいだから。現実をすぐ夢みたいだって思っちゃうし、その夢が現実に戻っちゃうのも早いんです。レムの場合は、お花のアーチが枯れたのがきっかけでした」

 

あはは、と笑った。

何でもないことだよ、と。

 

「今考えれば、季節が変われば枯れちゃうのは当たり前なんですけど。子供の頃はそれが分からなかったんです。少しづつ、薔薇の花びらの色がくすんできて。そのうち茶色になってしまって。その、終わっていく過程が目に見えるのが怖くてたまらなかったんです。レムがおとぎ話の主人公でいられなくなる期限がやってくるようで怖かったんです。怖くて、どうにかしたくて、蔦に触れました。棘が指に刺さってちくっとして、血が出ました。それが引き金になりました。レムは小屋を離れ、もうここには戻らなかったんです」

 

そういって、小さな細い指を見せる。

そこには傷跡などなかった。

 

「小さな傷はすぐ治りますが、心の傷はずっと残っちゃいました。レムをおとぎの国に連れて行ってくれたはずのお花のアーチが、レムの指を刺したのですから。愛するものに裏切られたような気持だったのです。レムは、それ以来再び心を凍らせて、ずっと淡々とお仕事に没頭していました」

 

スバルは胸に痛みを感じた。

幼いレムの悲しみ。

小さな心が受けた失望や悔しさ。

 

「あ、あのさ、レム」

「スバルくん」

 

慰める言葉を吐こうとしたスバルを、レムが制止した。

その声は上品で美しかったが、静かな強さを感じさせた。

彼女は相変わらず微笑んでいた。

 

「今日は、悲しいお話をしたかったわけではないのですよ。レムは、その……。スバルくんに、分かってほしかったんです。スバルくんと出会って、スバルくんと同じ時間を過ごすことができて。それで、変われたということを。レムは、スバルくんと一緒なら、この部屋に足を踏み入れることができました。レムは、あなたとなら、変われるということを、伝えたかったんです」

 

そして、少し逡巡するそぶりを見せて、言葉を繋ぐ。

 

「その。レムには、スバルくんがいつも何か遠くを見ているように見えます。こことは違う何かを見つめているような。それが時折、とても寂しく見えてしまうんです。レムは……自分がその寂しさを埋めることができる存在になれるかどうか、分かりません。でも、伝えたかったんです。誰かと出会って、誰かと一緒にいると、心の中が変わっていくんだということを」

 

スバルは、レムの言葉を受け呆然と呟いた。

 

「俺がいつも見つめているのは……」

 

その先が紡げなかった。

彼はいったい何を見つめている?

この異世界ではない現実社会への郷愁?

エミリアという愛する少女?

いや、一番最初に出会い、死に戻り、すでに書き換えられてしまったエミリアとの時間?

全てに共通点があることに、はたと気が付いた。

今ここにないものばかりを追い求めている。

ここでは取り戻せないものばかりを探している。

現実社会・エミリア・過去の時間。

全てがこの掌からこぼれ落ちたものばかりだ。

そうか。

それが、俺が見つめている「遠く」なのか。

俺の心がいつも、こぼれ落ちた遠くへ流されていったものばかりを見つめているから。

「遠く」を見ているようにレムには感じられたのか。

俺は、他人の心どころか、自分の心すら推し量ることができていない。

自分自身すらわからないのに他人のことなどわかるはずもないじゃないか。

まるで子供だ。

まるで無い物ねだりのクソガキだ。

彼は首を振った。

 

「俺は、さ。時々思うんだ。他人の心をもっと知ることができたらいいなって。そしたら、いろんな失敗しなくて済むのになって。それでさ。レムのこと、誤解していたことに気づいたよ、レムってさ、割とストレートに気持ちをぶつけてくるだろ? 俺の勘違いじゃなければ、その……たぶん俺に好意を持ってくれてるっていうか。それってさ、レムは、他人に拒否されることを恐れない、強い心を持ってるからだと思ってた。でも、違うんだなってことに今気づいたよ」

 

そういって一息ついてから、吐き出すように言った。

 

「あとさ。俺が測れてないのって、他人の心だけじゃなくて、自分の心だわ」

 

しばしの沈黙の後、レムが口を開いた。

小さな唇が、言葉を紡ぐ。

 

「レムだって同じです。自分の心が測れないから、いつも悩んだり、勘違いしたり、暴走したりするんです。でも、それも含めて、自分自身だから。心って、そういうものだと思うんです」

「そうか……その通りだな」

 

スバルは自分に言い聞かせるようにつぶやいた。

 

 

「さて。今日のお散歩はおしまいです。そろそろお仕事に戻りましょうか」

 

レムのその言葉をきっかけに、二人は小屋を出た。

まだ陽が高かった。

連れだって中庭を横切り、お屋敷の通路へと戻る扉を開けた時、ふいにレムが言った。

 

「あの、スバルくん。一つだけ、いいですか?」

「ん? なんだ、レムりん」

「さっきは照れくさいのと、嬉しすぎるのとで、うまく言えなかったんですけど」

 

もじもじと頬を赤らめ、笑顔でつぶやく。

 

「スバルくんは、少なくとも、一人の心をちゃんと測りとれていますよ」

「それって……」

「レムの心です」

 

すうっと息を吸って。

一言一言をかみしめるように。

 

「勘違いなんかじゃ、ないですよ。レムは、スバルくんのことが大好きです。いつも、いつまでも大好きです」

 

 

他に誰もいない中庭は、あまりにも静かで。

その言葉は響き渡るようだった。

お互いにあまりにも照れてしまい。

ほとんど会話も交わさずにてくてくと廊下を歩いた。

いつものお屋敷の通路に戻るとあきれた表情のラムがいた。

 

「まったく、どこへ行ってたの」

 

うまく答えることができなくてジト目で睨まれたのは言うまでもない。

照れ隠しにスバルはわざと大きな声をあげた。

 

「もうこんな時間か。仕事に取りかからなきゃな!」

 

そんな彼の様子をレムは愛おしげに見つめていた。

 

 

その日、スバルの仕事ぶりには眼を見張るものがあった。

いつもの倍近くの速度でテキパキと作業を終えていく。

夕刻に差し掛かる前に、全ての仕事を終えたスバルは、ひとりごちた。

 

「そんじゃ、もうひと頑張りしますかね」

 

彼は掃除道具を抱え、先程の中庭へと一人向かう。

捨て置かれた中庭は雑草が茂り、倉庫も噴水も薔薇のアーチも錆びついている。

彼は、それを綺麗にしたいと思ったのだ。

 

「今から夜までに終われるかな?」

 

かなり骨の折れる作業かもしれない。

だが、レムの大切な思い出の場所を。

このままにしておきたくはなかった。

たとえ悲しい思い出が混じって滲んでいるとしても。

短い夢を見せただけの場所だとしても。

彼女に喜びを与えた場所であることに変わりはないのだから。

 

「よしっ! やるぞ」

 

自らの頬をパシッと叩いて気合をいれ、まずは草抜きから始める。

 

「くぅぅ、こ、腰が痛え」

 

汗だくになり、苦痛に顔を歪めるが、作業をやめはしない。

 

「次は、倉庫の掃除だ!」

 

まずは倉庫の内部の埃を箒で掃き集め、床を綺麗にしていく。

レムの思い出の絵本や毛布は、あまり触らずそっとまとめておいた。

自分が勝手に触って良いものだと思えなかったからだ。

内部の掃除がある程度終わると、次は扉な取り掛かった。

錆びついた扉をヤスリで擦り、錆を落としていく。

これも、予想よりもずっと大変な肉体労働だ。

息が切れ、肩が痛む。

長い期間をかけてこびり付いた錆はおいそれとは落ちない。

ようやく多少なりとも錆が落ちてきた頃には、もうすっかり日が暮れていた。

 

「ヤベェ。暗くなって来ちまった。みんな心配するだろうし、今日はここまでかな」

 

呟きながら、中庭のアーチに眼をやった。

薔薇の蔦は枯れてはいないが、かなり元気がないように見える。

放っておけばそのうち、本当に根から枯れてしまうだろう。

スバルには目標が生まれていた。

この中庭を手入れして以前の姿に戻し。

もう一度レムに、美しい花のアーチを見せたい。

 

スバルは思った。

取り戻せる、やり直せる過去もあるはずだ。

遠い失われたものを追い求めるのではなく、今この手で、己の努力で取り戻せる過去があるはずだ。

 

眼を閉じると、薔薇のアーチをくぐる、幼い少女が見えた。

青い髪をした幼い少女は、薔薇のアーチを見上げ、満面の笑顔をしていた。

 

(完)

 




いかがでしたでしょうか。
リゼロで書くのは初めてなので、違和感がなければいいのですが。
いろいろと人間関係を考える内容にしましたが、くどく感じられないかが心配でもあります。
もしご感想、ご指導などいただけましたら、幸いです。


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