「それじゃ雁夜おじさん! 行ってきます!」
「気をつけてね、桜ちゃん。みんなによろしくね」
「はい! 雁夜おじさんはきちんと休んでいてくださいね!」
「わかったよ」
時は経ち……日頃の鍛錬による強さ、そして生来の優し、が暖かい日々を二人は過ごしていた。
すでにあれから十年の月日が経った。
第四次聖杯戦争にして最後の聖杯戦争となったあの日から。
桜は刃夜がいなくなってからも日々精力的に生活し、家事、料理、炊事洗濯、勉学、そして日頃の鍛錬を続けて、立派に元気な女の子として生活していた。
まだ幼さが残るが、それでも十分すぎる程に魅力的な容姿を備えていて、昔から告白が後を絶たなくて、本人としてはそれが贅沢な悩みだったりする。
そんな桜に日々一緒に生活して、雁夜も実に穏やかな時を過ごしていた。
最近では体を動かすことも厳しくなり、半日以上布団で過ごすことも多くなっているが、それでも桜の元気いっぱいで幸せそうな笑顔を見るのが、何よりの活力だった。
そして今日は……地元の穂群原学園に入学して二日目だ。
制服に身を包んで、学園に行くのが楽しみで仕方がないらしく、元気よく登校していった。
すでにイリヤや姉である凜、士郎と同い年の遊美が入学しているので、みんなで同じ学校に行くのが本当に楽しみなようだった。
その様子を眺めて、雁夜は桜が作ってくれた少し遅めの朝食を食べて、布団に戻ってノートパソコンを立ち上げて仕事を行った。
だが……
……もうほとんどできないか
キーボードを打つ指が何もしていないのに震えていた。
先ほどまで元気だったのは、起き抜けに見た桜の元気を分けてもらったからかもしれない……そんなことを考えてしまう程だった。
間桐家から不動産の助力を得ているとはいえ、それだけでは桜に示しがつかないと、雁夜は何とか二人の生活費を稼いでいたのだが、それも限界が来たようだと……何とか今書いている記事を仕上げて、静かにノートパソコンを閉じた。
そして布団に横になり、そばに飾られている桜の成長を写した幾枚かの写真を、寂しげに見つめた。
この十年に……本当に色んな事が起こったことを、走馬燈の様に思いだしていた。
刃夜と共に三人で過ごした日々。
刃夜がいなくなって二人で……時に凜や葵が遊びに来て、四人で過ごした日々。
凜や葵だけじゃない。
時には聖杯を競い合った衛宮一家や、桜が年上の幼なじみとして慕う士郎や、同い年の遊美と楽しく過ごした。
そんな暖かい生活を送って……雁夜は今まで生きながらえてきた。
日々成長していく桜の姿を……雁夜は本当に眩しそうに見つめて、見守って来た。
だが、それもついに終わりが来てしまったのかも知れないと……雁夜は寂しそうに吐息を一つ吐いていた。
……この奇蹟の様な時間も、ついにおしまいか
万能の願望機聖杯を手にすることは、当然だが雁夜にはできなかった。
刃夜が破壊したからという事実もそうだが、もし仮に刃夜が破壊をしなくても、雁夜が最終的に勝ち抜いて聖杯を手にすることは叶わなかったことは、雁夜自身が十分すぎるほどに理解していた。
それに生き残っても……あのくそじじいが素直に桜ちゃんを解放したかも怪しいし、仮に解放しても、俺は桜ちゃんの成長をこうやって見ることはできなかっただろうな
また臓硯の問題などなくても、あの体のままでは数日すらも保たなかっただろうと……今なら十分に理解できた。
日に日に……時間が経つ毎に、あの巫山戯た存在の事を雁夜も、桜も話にすることはなくなった。
だがそれでも雁夜は桜を育てた親代わりとしてわかっていた。
桜がもっとも尊敬し、慕っているのが誰であるのかを……
何一つ勝つことが出来ない存在だった。
力も。
優しさも。
何もかも。
巫山戯た存在に雁夜は、己自身が何一つ勝っているとは思ったことはなく、自らの命を救ってくれた事を感謝していた。
勝てないのも当然だと自分でも納得していた。
雁夜は何一つ……本気で努力したことはないのだから。
生家を飛び出して、ただ一人の力で生きてきたのだ。
努力は当然してきた。
だが、今の桜や凜の様に、何かに必死になって打ち込んできたことは、雁夜自身記憶がなかった。
だから余計に桜のことが眩しく見えてしまうのかと……雁夜は力なく笑っていた。
だけど……それでも良いんだ……
俺が何かを成せた訳でもない。
桜ちゃんを救ったのは自分ではなくあの巫山戯た存在であると、十分に理解している。
だがそれでも……これだけは自分は自信を持って言うことができた。
桜ちゃんをここまで育てたのは……自分だと……。
成長も心の育成も、桜ちゃんが色んな事を学び取り入れて、努力して……己の糧としていったのは理解している。
だが、それでも自分は、その一端を担ったのだという、ちっぽけだが確かな誇りがあった。
命を捨てて挑んだ戦争で聖杯を勝ち取ることもできず……
体を捨てて戦った妖怪に、傷一つおわすことも叶わなかった……
そして何より、誰より……あの巫山戯た存在には何一つ叶わない人生だったと……
そう振り返る。
だがそれで良かった。
それでもいいと思えた。
なぜなら……俺には、あの桜ちゃんの笑顔と幸せそうな姿を、間近で見ることができたのだから。
思い人が幸せになることを願って身を引いて、その婚姻を心から祝福した。
だがその祝福も虚しく、三人が引き裂かれてしまって挑んだ戦いは、巫山戯た存在に助けられて何とか事なきを得た。
時臣がなくなった後、葵と共に桜ちゃんや凜ちゃんの面倒を見て、不動産関係の事を教えたり手伝っている時に、下心がなかったと言えば嘘になる。
だけどそれ以上に……三人の笑顔が眩しすぎて、そんな下心など綺麗に吹き飛んでいた。
この笑顔を、自分が守るのに少しでも尽力できたのなら……
何より、桜ちゃんが本当に健やかに、優しく強く育ってくれたのなら……
こんな自分の命にも意味があったのだと……そう思った。
今までの日々のことを思い出す。
思い出していたからか……それとも視界がほとんどきかなくなって来て、目覚めたばかりだというのに眠気を覚えたからか……
目に……あり得ない人物を写しだしていた。
巫山戯た存在はただただ静かに……自らを見下ろしていた。
そして次に、壁に飾られた桜ちゃんの成長の記憶の写真を……
まるで尊い物を見るかのように……
ゆっくりと……
優しげな笑みを浮かべて……見つめていた。
「はは……。本当に死ぬみたいだな、俺は。亡霊が見える……」
嗄れた声で、力なく紡がれた、独り言だった。
巫山戯た存在が何も言わなかったから、俺は……幻覚とわかっていても、言葉を止めることが出来なかった。
「見てくれ……桜ちゃんの幸せそうな笑みを」
「見て欲しい。桜ちゃんの優しい強さを」
「見てやって欲しい。桜ちゃんが立派に育った……その姿を」
今この場にいない桜ちゃんがそこにいるかのように、紡いだ。
いないのはわかっている。
だけどそれでも俺には目を閉じれば浮かんでくる。
優しい笑顔を称えて、俺のことを雁夜おじさんと呼んでくれる、愛しくて大切な、娘の姿を。
自分は父親じゃないのだから、おじさんのままでいいと……そんなちっぽけなプライドだったっけ……
桜ちゃんにとって父親というのは遠坂時臣に他ならない。
巫山戯た存在がいうように、知らなかったための養子だったのかも知れない。
けれどそれでも……そんなひどいことをした時臣と一緒にして欲しくなくて、そんなことを言ったのだと……
俺は、数年前の自分のことを、苦々しく思い出していた。
大きくなった桜ちゃんは、きっとそんな俺のちっぽけなプライドのこともわかっているかもしれない。
だけどそれでも……彼女は限りない親愛の感情を抱いて、俺のことを呼んでくれる。
「お前に教わった空手、今でもちゃんと続けているよ」
「そのときに教わった、力の使い方も……きちんと守っているよ……」
俺の体が虫に喰われたから、はっきり言ってしまって子供から見れば化け物にしか見えなかった。
だから桜ちゃんが小学校には行っていじめにあったことはわかっていた。
でもそれでも……桜ちゃんは決して暴力を振るわなかった。
相手が攻撃してきた、正当防衛で反撃したと……桜ちゃんは主張して、それが真実であることは直ぐにわかった。
いじめっ子達が、軽い打撲程度ですんでいるのだから。
桜ちゃんが本気を出せば、いじめっ子が何人束になってかかってきても、軽くあしらえるはずなのに。
決して教わった力を暴力に振るうことはしなかった。
俺のせいでいじめられているのに、決して俺のことを嫌いにならなかった。
桜ちゃんがそれで少しでも楽になるなら、どれだけ嫌いになってくれても構わなかったのに。
だけど桜ちゃんは決して俺のことを気味悪がったり、嫌いになったりしなかった。
今ではほとんどまともに動くこともできず、恥ずかしながら粗相もしてしまうこともあるのに、嫌な顔一つせずに世話をしてくれた。
刃夜に教わった力を使って……大の男の俺を運んでくれたり、世話を焼いてくれている
凜ちゃんがいたから。
イリヤちゃんがいたから。
士郎君に、遊美ちゃんがいたから。
だから乗り越えられたのかも知れない。
だけど、きちんと約束を守り、力を自衛のためと、誰かを助けるためにしか使わない桜ちゃんが……
俺には誇らしくて仕方がなかった。
「立派に育ったよ……」
「お前が助けた……桜ちゃんは……」
巫山戯た存在は、何も言わない。
それはそうだろう。
何せ俺が見ている幻覚なのだから。
最後に見る物が、この巫山戯た存在で、何一つ勝つことが出来なかった存在だって言うのが、ちょっと気にくわなかったけど……
それでも、言わなきゃいけないことがあったから……
これは、神様がくれた、時間なのかも知れない……
だから俺は素直に……口を開いていた。
「ありがとう、刃夜。お前のおかげで……俺は桜ちゃんの事を育ててあげられたよ」
巫山戯た存在が……刃夜が旅立つ時も礼を述べた。
だけど、今思えばあのときは儀礼的に礼を述べただけだった。
心から礼を言えていなかった。
だけど今なら言える。
こんな……宝物のような時間を与えてくれのだから。
本当に……ありがとう……刃夜……
最後は掠れて……言葉になっていなかったかも知れない。
もうほとんど見ることも、聞くこともできなくなっていくのがわかった。
穏やかに死ねたのだから、きっと幸せな最後なのだと……
自分にはもったいない最後だと、素直にそう思った。
自分が死ぬことで桜ちゃんがこの家で一人になってしまうのが心配だった。
だけどそんな心配も、余り問題にならないとわかっていたから。
安心できた。
凜ちゃんがいる。
葵さんがいる。
イリヤちゃんがいる。
士郎君に遊美ちゃんがいる。
だから彼女は決してひとりぼっちではないのだから。
最後まで成長を見届けられないのが残念だったけど、それでも幸せな日々だった。
そう思って、意識を手放そうとしたそのとき……
声が聞こえた。
「俺はな……」
幻聴かと思ったが、幻聴ですらないと直ぐにわかった。
もうすでに何も聞こえていなかった。
耳から入ってきた情報ではないと、何故かわかった。
どうして聞こえているのか……その声を認識しているのかわからなかった。
だけどそんなことなどどうでもよかった。
驚く言葉を……
俺は、きいたのだから。
「この世界を越えてからも、長年生きて今でも修行をしている」
淡々と、まるで報告文を述べるかのように言葉が流れ込んでくる。
それと同時に、刃夜が今まで経験してきたことが、僅かでも流れ込んできて、相変わらずこの男は様々な世界でむちゃくちゃなことをしているのだと……わかって……
素直に俺は呆れた。
まだ無茶苦茶なことをしながら修行していやがる……
経験を見ることができた。
だからわかった。
刃夜が慰めでも嘘でもなく……本当の事を言っているのだと。
「すでに千年以上生きているが……それでも恥ずかしながら、まだ俺は親になったことがなくてな」
刀を振るい何かと戦っている。
鍋を振るって調理をしている。
鎚を振るって刀を鍛えている。
どこに行ってもこの男はこれ以外の行動を知らないと言うかのように……千数百年に及ぶ年月を、ただただ研鑽に費やしていた。
「子供を預かったり、一時期育てたことはあるが、それでもせいぜい一~二年だ。それも俺だけじゃなく他の大勢の人の力も借りてな」
力を有しているからか、色んな世界で人を助けていることもしているようだった。
だが確かに刃夜の言うとおり、子供を育てている経験は、ないようだった。
「だが、お前はそれを……桜ちゃんを立派に育て上げた。お前が先に言った言葉に嘘がないことは直ぐにわかった。今も精神分身体で桜ちゃんを見ているが……綺麗な魂を持っている」
懐かしい響きだと……そう思った。
刃夜の巫山戯た行動も。
刃夜自身の声も。
「伊達に千年以上生きている訳じゃないから、それなりに腕とかに覚えはあるんだが……これには俺も勝てんな」
「思い人の娘を一人で懸命に育てて」
「自らのプライドがあったとはいえ……いやそんなプライドがあったからこそ、子供達のためを思ってただただお前は必死になって生きてきた……。桜ちゃんを育て上げた」
何も感じることができなくなった体に……顔の一部が熱くなって、僅かに力が戻ってきた。
まるで流れていく何かが、自らの活力を呼びだましたかのように。
「さっきお前も言ってたが、俺は桜を助けただけだ。師匠として稽古はつけたが、親代わりとして育てちゃいない」
その力を使って俺は何とか……目を開けてはっきりと、自らが見下ろし、微笑んでいる存在を
刃夜の笑みをはっきりと目にした。
「完敗だ。間桐雁夜。お前は確かにこの俺を負かした。桜ちゃんを立派に育て上げた」
「見事だった」
!?
「ははっ」
流れ出る涙が僅かだが俺に活力を取り戻してくれた。
何とか口を動かして……俺ははっきりと、刃夜に問い返した。
「俺が勝ったのか? お前に?」
「あぁ。俺が認め、そして他の連中も同じ事を言うだろう。俺の敗北だと」
「お前は……素晴らしい男だった」
「ははっ!? そうか……俺が、刃夜に勝ったんだな……」
たった一つの勝利だった。
だけどこれ以上ない勝利だった。
何一つ誇ることなどなく……
何一つ勝ち取った物などなかった……
だけどそれでも……こんな巫山戯た存在に勝つことが一つでもあった……
己の体よりも
己の命よりも
大事な存在を育てられた
ならばこれは、誰に憚ることなく高らかに誇れる
俺は刃夜に勝ったのだと
赤の他人が知ればきっと鼻で笑うだろう
だけどそれでも、俺は勝ったと胸を張って言う
刃夜に勝ったと
桜ちゃんを育てたと……
そのちっぽけだけど、俺にとって何より大切な事実を胸に抱いて……
俺は今度こそ……
自らの
生涯を通じて何も得ることもできず
何かを成し遂げた訳でもなかった
だけどたった一つの勝ち取った意味を胸に秘めて
雁夜は眠るように静かに息を引き取った