風紀財団アジトで、利奈は鏡の前に座っていた。
拉致されていたホテルと遜色ないほどの広さと絢爛さを誇る和室で、鋏の音だけが静寂を切る。一音ごとに髪の束が落ちていくのを、利奈は無言で見つめていた。
利奈の髪は、ルッスーリアの晴孔雀の治癒効果で、未来に来た直後よりも何十センチも長く伸びていた。
このままだと十年前の世界に戻ったときに不自然なので、元の長さまで切り戻す必要があるのだ。
(本当に過去に戻れるんだな……。今さら実感してきちゃった)
髪の毛には若干未練がある。ちゃんと手入れをしてきたものだし、こんなに長く伸ばしたのは初めてだった。
なにより、元の髪の長さでは、レヴィにもらったかんざしが使えない。
(おしゃれで気に入ってたのに。これから髪伸ばすしかないか)
名残惜しく思いながらも、器用に鋏を動かす女性職員の手元を鏡越しに見つめる。
風紀財団職員は様々な技能を持っている人が多く、瞬く間に髪型が整っていく。
「これくらいの長さでいかがでしょう?」
見慣れた顔が鏡に映っている。写真のなかの利奈は、いつも大体この髪型だ。
「バッチリです。ありがとうございます」
髪に手を通すと、するりと指から毛先がすり抜けた。首にかけられていたケープを外してもらい、椅子から立ち上がる。
視線を後ろに流した利奈は、鏡に映らない角度でこちらを見ていた恭弥に気付き、背筋を伸ばした。
「すみません、お待たせしてしまって」
髪を靴下で踏まないように気を付けながら、待っていてくれたらしい恭弥の元へと歩み寄る。
利奈は一足先に哲矢に挨拶を終えていたが、恭弥はまず最初に財団本部に立ち寄っていた。
目的は財団職員への声掛けと、この時代のデータを保存した媒体の回収である。
「その制服は?」
「風紀委員の人――この世界の並中風紀委員に用意してもらいました。私も制服を着てたので」
最初に着ていた制服はリング争奪戦の時点で血塗れになっていたので、新しいものを用意してもらった。でないと、スカートはともかく、これからの季節に着るブレザーがなくなってしまう。
幸い、転校生だった利奈は制服を一学期の衣替え前と二学期の衣替え後しか着ていないので、真新しくてもそこまでおかしくはない。
袖にはもちろん、風紀委員の腕章を通している。恭弥が腕に抱えている腕章と同じ、赤い腕章を。
「データもらえました? なんとかメモリにするか、なんとかカードにするかで揉めてた記憶があるんですけど」
この時代の最新ツールは、十年前の世界では使えない。
ゆえに昔からある媒体を選択するしかなかったわけだが、どうやらデジタルに強い職員たちのあいだに派閥があったようで、どちらがより優れているかの論争が繰り広げられた。
すぐに話についていけなくなった利奈は出されたお茶を飲んでいたので、両者の言い分をほとんど聞いていない。
「もらったよ。過去に戻ったときの衝撃が不安だからとかで、結局DVDになったけど」
「DVD? DVDって、映画とか以外も入れられるんですか?」
「データが入れられるからね。バックアップにっていろいろ渡されたから、こっちは君が持って」
恭弥はチップ状のなにかと棒状のなにかを利奈の手のひらに置くと、すぐに廊下に出て行く。利奈も髪を切ってくれた職員に礼を言って部屋を出る。
「このまま集合場所に集まるんですよね。メローネ基地の地下でしたっけ」
「そこに過去に戻るための白くて丸い装置があるそうだよ。前にも見たけど」
「私も見ました。結構大きかったですよね、あれ」
イタリアから帰ってきた日に、スパナと正一がその装置の前で作業していたのを見た記憶がある。
あのときはまさか、あれが過去に戻るための装置だったとは思ってもみなかった。
「また十年バズーカみたいなので撃たれるんだと思ってました。来たときはみんなそうやって連れてこられたみたいですし」
「そうなんだ。僕は見てなかったから知らない」
事の経緯にはあまり興味がないようで、色のない返事が返ってくる。
今さらながら思うけれど、よく恭弥にバズーカの弾を当てられたものだ。
大人の恭弥なら自身の行動パターンはある程度予想がつくだろうけれど、それにしても当てられた正一は運がいい。もし外していたら、子供だったとしても容赦なく咬み殺されていただろう。
「きっともうみんな先に集まってますね。私がこっちに来るときには、片付け済ませてたみたいなので」
「だろうね。君、来るの遅かったから。どこで寄り道してたの」
「あはは」
呆れた声音の恭弥の問いに、乾いた笑い声が出てくる。
個人的にお世話になった人が多すぎて、挨拶回りに時間がかかりすぎてしまった。
「ヴァリアーでは一ヶ月みっちりお世話になりましたし、ボンゴレ基地でも半月くらい宿泊してましたから。みんな固まってなかったから、探すのにも手間取って」
ジャンニーニはいつもの部屋にいたけれど、ビアンキは隼人を探して歩きまわっていたので、見つけるのに時間がかかった。
不動産屋で別れたきりだったスパナは、戦いが終わったのになぜかモスカの最終調整に入っていて、邪魔するのも悪かったので声をかけずに戻ってきた。
(骸さんたちもいたみたいだったけど、どこにいるかわからなかったし……。
まあ、とくになにかあったわけじゃないからいっか。クロームが挨拶してるだろうし)
並盛町の街を歩いて、地下への通路を降りて、予想通り先に集結していたみんなと合流する。
未来の物を過去に持ち帰るのは、タイムパラドックス的にどうたらこうたらだそうで、だれも荷物は持っていない。
利奈も、ヴァリアーで買ってもらった服を、断腸の思いで部屋に置いてきた。
持って帰ったところで、服の出所を母に問い詰められてしまうけれど、もったいないものはもったいない。海外ブランドの服なんて、もう絶対に手に入らないものなのだから。
綱吉たちはさらに、匣アニマルたちに別れを告げなければならなかった。
大小さまざまな動物たちが悲しんでいる姿は胸に痛く、利奈も自然とロールの頭を撫でていた。
「こんなにかわいいのに連れて行けないなんて……。十年後で会おうね……」
「なんで君が残念がってるの」
「ヒバリさんが撫でないから、代わりに撫でてるんですー。よしよし、もうすぐ大人のヒバリさんが来るからね。そっちのヒバリさんにかわいがってもらうんだよ……」
「里親かなにかかい、君は」
「ヒバリさんが淡々と突っ込んでる――ああ、すみません! なんでもないです!」
綱吉は一睨みに屈して後ろに下がる。綱吉のライオンも綱吉の足元に隠れた。
「じゃあタイムワープを始めるよ!」
正一の合図で一同が背筋を伸ばす。
この場にいるのは、過去から来たメンバーとアルコバレーノの赤ん坊五人、それから正一とラル、フゥ太だけだ。ラルは大怪我を負って療養していたから、利奈は立っている姿を見たのは今日が初めてだった。
「タイムワープスタート!」
正一がスイッチを入れると、視界が光で包まれた。その光が自分たちだけを包んでいると気付いたときには、もう目の前の景色が変わっていた。
一緒にいたみんなの姿はなく、道路に一人、ぽつんと立たされている。
「ここ……病院の近く?」
見渡してみると見覚えのある風景で、すぐさま自分の位置が把握できた。
どうやら、十年後に飛ばされたときと同じ場所に送り返されたようだ。
てっきり、みんなと一緒にどこか目立たない場所にワープすると思っていた利奈は、突然の自由行動に大いに戸惑った。
(本当に、過去に戻ったんだよね……? いまいちよくわからないんだけど)
景色を見ただけでは、ここが本当に元の時代なのかは判別できない。
もし時間計算を間違えられて、半年以上前に戻されていたとしたら大変だ。考えたくはないけれど、利奈の家に前の住人が住んでいる可能性もある。
(早く家に帰ってお母さんに会いたいけど、表札違ってたらショックだし……。
先に今日の日付を調べておこっかな)
近くに病院があるから、そこでカレンダーを見るか日付を聞けばいい話だ。
病院とは懇意にしているので、なにかあったら風紀委員に連絡を取ってもらえばいい。――もっとも、それは十年以上前に飛ばされていなかった場合の話だが。
利奈は家に向かって走り出したい気持ちを抑えて、病院へと足を進めた。
その選択が最善手だと知るのは、十分後の未来である。
――利奈は気付くべきであった。
未来に飛んだときには暗かった空が、今は青空になっていることに。そして、それが意味する重大な事実に。
「利奈ちゃん!?」
病院の受付に顔を出した利奈に、女性職員が悲鳴じみた声を上げる。
――夜が昼になっているのだから、十年後に飛ばされたあの夜から、過去か未来、どちらかにズレていることはたやすく想像できる。
「君!? いったい今までどこに!?」
騒ぎを聞きつけた医師が、医師とは思えない必死さで走ってくる。
――アルコバレーノが時間軸を設定したのなら、綱吉たちに都合のいい時間を選ぶだろう。
となると、ヴァリアーとリングを奪い合う以前の時間軸を選ぶはずがない。
「早くヒバリさんに連絡を! それとすぐに検査だ! 検査室の準備! ついでに警察にも連絡してくれ!」
エントランスの視線はすべて利奈に集まっていた。
利奈は一音も発していないのだが、周囲の病院関係者が慌ただしく叫んでいる。
――時間帯が昼になっているということは、深夜からこの時間まで、利奈はこの世界には存在していなかったことになる。つまり、行方不明扱いになるのだ。
「なんの騒ぎ? 事故?」
「違うよ。ほら、あの子が見つかったんだ。一昨日行方不明になった――」
「ああ、警察が聞き込みしてた? パトカー何台も止まってたよね」
「中学生の子か……。自分で病院に逃げ込んできたってことは、誘拐事件か?」
――さて、ここで想像してほしい。
休日の朝、一向に姿を見せない娘を起こしに行ったものの姿はなく、連絡を入れてもつながらず、夜になっても帰ってこず、そしてそのまま一日が経ってしまった母親の心情を。両親が取る行動を。その余波を。
そして周囲の言葉で、それらを一度に思い知ってしまった利奈の心情を。
(き、聞いてないんだけどーーーー!?)
いっそ、意識の糸を切って気絶してしまいたい。
そんなことすら願う白昼夢のなか、利奈の腕時計は無情にも時を刻み続けていた。
__
――切れた糸が結び直されたような感覚。
深い暗闇から抜け出したような、長い昏睡状態から目を覚ましたような気分。そんな心地で、相沢利奈は目覚めを迎えた。
(……ん)
瞼を開ける。
視界一面に広がったのは、透き通るような青一色。空の端には霞のような雲がうっすらとたなびいている。
重い瞼を下ろして、持ち上げて。瞬きするごとに明瞭になっていく意識を働かせ、利奈はようやく思考を始めた。
(……ここ、どこ?)
素朴な疑問は、わずかに上半身を浮かせたことで解決した。
視界に広がる川と、手のひらに感じる草の感触。耳を澄ませば川のせせらぎが聞こえてくるし、向かい岸の町並みには見覚えがある。
(なんで私、こんなところで寝てるんだろう……? 今日、休みじゃないよね?)
休みだったとしても、土手で昼寝しようとした記憶はない。それに着ている服も仕事用のスーツだ。
こうなった原因を思い返そうと記憶を巻き戻そうとするが、寝起きのせいか、あまり頭が働かない。
土手に座りこんだまま考え込んでいたら、上着のポケットの端末が震えた。
(あっ、ヒバリさんだ。珍しい)
最近はほとんど表示されなかった着信相手に感嘆しながら、利奈は通話ボタンを押した。
寝起きなので、咳払いして声を整える。
「はい、相沢です」
『……相沢?』
「そうですが」
かけてきたのは向こうなのに、なぜか恭弥は聞き返してきた。
『今、どこにいるの?』
「それが……なぜか土手に転がされてまして」
自分の意思でないのなら、人の仕業だと疑うしかない。
身体に異常はないので、眠らされたあとにでも土手に運ばれたのだろう。
そう考えたものの、なぜか危機感は芽生えてこなかった。本来なら、すぐに相手を割り出すべく動かねばならないのに。
「さっき目が覚めたばかりで、ちょっと記憶があやふやなんです。なにがあったか、うまく思い出せなくて」
『……ミルフィオーレについては?』
「え? なんですかそれ。ミルフィオーレ?」
聞いたことのない単語だったので聞き返すが、恭弥の返答はない。
イタリア語なら、百と花で百の花だ。
『とりあえずビルに戻ってきて。詳しい話はそっちで聞けると思うから』
「はい、わかりました」
こっちではなくそっちという言葉を使ったということは、恭弥は本社ビルにはいないらしい。周囲の音が完全に無音なので、恭弥の足音がはっきりと聞こえている。
電話を切るタイミングになったところで、利奈は言い忘れていたことを思い出した。
「そうだ、ヒバリさん!」
『なに?』
「あれ、冗談ですからね!」
次に会ったときに言わなければならなかった言葉を口にすると、恭弥の足音が止まった。
さらに言い募ろうと口を動かしたものの、なにについての釈明だったのかが思い出せず、口ごもる。
(……ん? あれってなんだったっけ。なにかヒバリさんに啖呵切った気がするんだけど――)
どうしても訂正しなければならなかったはずなのに、肝心の内容が思い出せない。いや、そもそも思い出のなかにそんな記憶はない。
しかし、的を得ない利奈の言葉に、恭弥は疑問を呈するでもなく、ただ一言、応えた。
「知ってる」
今まで聞いてきたなかで、一番優しい声音だった。
その声を聞けただけで生きた甲斐があるとすら思えてしまう自分がいて、利奈は柄にもなくはにかんだ。
利奈を祝福するように、青空はただ優しく利奈を包み込んでいた。
正一「無事に成功したみたいでよかったよ」
ヴェルデ「当たり前だ。寸分の狂いもなく、ボンゴレが転送された時間に合わせて過去に戻してやったぞ」
正一「え?」
ヴェルデ「え?」
第二部最終章、最終話終了です。
改稿前:246558文字 改稿後:324487文字 でした。
第一部最終章のあとがきで書いたとおり、作者が胃をやられる展開の連続でしたが、読者の方々はお楽しみいただけたでしょうか。
第三部の継承式編は、序盤を書いているところで改稿作業に移ったので、まだあらすじはまとめきれていません。
なのであくまで目安でしかないのですが、未来編に比べればシリアスの度合いは下がります。第一部よりは高いです。詳しくは原作をチェック。
次話から番外編として短編を三本投稿します。
今回の番外編は未来での後日談で、次話では本編で登場しなかった十年後の武が登場します。箸休め的な緩い内容ですので、ごゆるりとお楽しみください。