次の日の目覚めはいいものではなかった。
思い出したばかりの記憶を何度も何度も寝る前に咀嚼したせいで、寝付くのにずいぶんと時間が掛かった。そのうえ夢でまで同じ内容を繰り返し、起きたときにはすべてが夢だったのではと疑ってしまったくらいだ。ようは、全然頭が休まっていない。
(記憶喪失の人の記憶が戻ったらこんな感じなのかなあ。半日分でこれじゃ、十五年なら頭パンクしちゃいそう)
もそもそと食パンを口に運ぶ。
顔を洗ったあとだというのにまぶたは重く、食べるのをやめたら居眠りしてしまいそうだ。コーンスープのだまをスプーンで潰し、天気予報に耳を傾ける。
十一月になったものの、この暖かさはまだしばらく続くらしい。とはいえ、早朝でまだ日が昇りきっていない時間帯は少し肌寒い。スープで充分に暖を取ってから、利奈はいつもの時間に家を出た。そして硬直する。
「あ、来た」
「やっと出てきたびょん!」
千種と犬、黒曜中の制服に身を包んだ二人が、待ちかねたとでも言いたげな顔で立っていた。階段の上なので見下ろす形にはなってはいるものの、犬が両手をズボンに突っ込んで睨めつけてくるので、地の利は得られそうにない。
(なんで二人がここに……?)
夢の続きを見ているような不思議な気分を味わいながらも階段を降り、門を開ける。交互に二人の顔を見やった利奈は、驚きながらも一言呟いた。
「学校は?」
「……ほかに聞くことないの?」
気の抜けた態度で千種が返す。
二人は学校に通っていないのだから、おかしな質問だと思われただろう。それでもつい口にしてしまうくらいには混乱していた。こんな朝っぱらから家の前で待ち構えられる理由など、ひとつも見当がつかなかったのだから。
しかしどうやらなにかやらかしていたようで、未だに睨んでいた犬がずいっと距離を詰めてきた。瞳孔がはっきりと見えるほどの近さに利奈は身を引きそうになる。
「お前、この前、骸さんになにした?」
「な、なに? この前って」
「とぼけんな! お前がなにかしたに決まってんら!」
鼻先に噛みつかんばかりに犬が歯を剥いたが、利奈が後ろに下がるよりも早く、千種が犬の肩を引いた。
「犬、落ち着いて」
「なになに? なんの話? 骸さん、なにかあったの?」
こういうときは冷静な千種に聞くのが一番だ。険悪な犬はひとまず置いておいて、千種に目をやる。最初からこうなるとわかっていたようで、千種はいつもの口癖を口にはしなかった。だがしかし、ため息はつく。
「……利奈と会ってから、骸さんの様子がおかしくなった。だから――」
「とっちめに来てやったびょん! 観念しろ!」
「――ってうるさい犬が余計なことしないように見張りに来た。朝一で。バスの始発に乗って。ものすごくめんどい」
「お疲れさま……」
声と表情はいつもと変わらないけれど、目に生気がない。
始発で来たならば、最低でも一時間以上は家の前で待っていたはずだ。家を出るのが早い利奈に合わせたのかたまたまなのかは知らないけれど、すれ違いにならなかったのはお互いに幸運だった。学校に乗り込まれたらさすがに困る。
「おい! 無視すんな! 柿ピーもいつまで掴んでんらよ、離せ!」
「はいはい」
肩を掴まれたままの犬が不満の声を上げながら千種の手を弾く。千種もそれほど強く止めるつもりはなかったようで、あっさりと手を離してしまった。
「やい、くそ女! 骸さんになにしやがった! 事と次第によってはただじゃ置かねえびょん!」
「なにって言われても……。骸さん、そんなに変なの?」
今にも噛みつきそうな犬をさておき、またもや千種に話を振る。千種は小さく頷いた。
「深刻な顔して、部屋でずっとなにか考えこんでる。骸様はなんでもないって言っていたけど」
「なんでもないわけねーびょん! 飯は食べに来ねーし、部屋に持っていってもほとんど手つかずだし、絶対なにかあったに違いないんら!」
「……犬、昨日下げた皿、やっぱり犬が食べたんでしょ」
「やべっ」
犬が鼻白む。どうやら、骸が食べなかったのをいいことに、残飯を平らげてしまったようだ。
「と、とにかく、お前がいなくなってからおかしくなったのは本当ら!」
「そうだね。あんたがきっかけだと思う。骸様といったいどんな話をしたの?」
「どんなって……普通に未来の話だけど」
利奈はまごつきながらも一昨日の出来事を反芻した。
未来で起きた出来事を話しただけだし、それだって骸が望んだ話題だ。骸は楽しそうに聞いていたし、不調の原因をこちらに押しつけられるのは不本意だった。
「二人も未来の記憶はあるんでしょ? なんか心当たりないの?」
「あったらここまで来てないよ。……見込み違いだったか」
「だと思うよ。フランとか女の子の話とか、骸さんが知ってそうなことばっかり話したし。
……そろそろいい? 学校行かなきゃ」
時計に目をやりつつ、早足で行かなければ間に合わなそうだと嘆息する。
「なに終わったみたいな顔してんだ、話はまだ終わってないびょん!」
「だから学校行くんだってば、今度にしてよ。ちょっと、邪魔しないで!」
道を塞ぐ犬を睨みつけるが、効果はない。千種は我関せずとばかりに目をつむってしまった。涼しい横顔が憎たらしい。
「もう、ほんとに怒るよ? 時間ないんだから、遅刻しちゃう」
「そんなのどうだっていいし。いいからお前も俺たちに協力しろよ」
「どうだってよくないから! 手伝いなら学校終わったらするから、早くどいて」
「やーだね。そう言って逃げるつもりだろ」
右に抜けようとしても塞がれ、左に抜けようとしても邪魔される。
「だーかーらー! ほんともう知らないからね!?」
「はっ、お前なんかになにかでき――」
全部は言わせなかった。犬の胸ぐらを掴み、額を額に打ち付ける。さほど勢いはつけていなかったものの、理解が追いつかなかったのか犬は目を見開いた。視界の隅で、千種がわずかに身じろぐ。
「私、学校行くって言ったよね? 二人は学校行ってないからどうでもいいかもしんないけど、私は困るの。遅刻できないの。ただでさえ入院とかしてヤバいのに学校サボれって? ふざけないでくれる?」
一度堰が切られると言葉が洪水のようにあふれ出してきた。
犬が口元を引きつらせるので、鋭い犬歯がよく見える。だが、この状況ではなんの役にも立たないだろう。歯を剥いた瞬間に頭突きを打ちこめば終いだ。
「お、おい、落ち着――」
「怒らせたのはそっちでしょ!」
とうとう利奈は叫んだ。
朝から押しかけられたのも、骸不調の責任をなすりつけられたのも、学校に遅刻しそうなのもこんなところでキレなきゃいけないのも全部犬のせいだ。
「いきなり家に押しかけてきといてごちゃごちゃと! それでなに、落ち着け!? そんなこと言える立場? なんとか言ったらどうなの、ねえ!?」
「柿ピー、こいつどうにかしろ!」
自分は怒鳴るのに人に怒鳴られるのは弱いようで、犬はろくな抵抗もできずに助けを求めた。その救援に応えるように千種は眼鏡を光らせ――
「……無理だよ。ヒステリー起こした女に、勝てるわけがない」
あえなく両手を上げて降参のポーズを取った。犬も天を仰ぐ。それを降参の合図として受け取って利奈は胸ぐらを掴んでいた手を解いた。
正当な抗議をヒステリーと取られたのは不服だが、そこに因縁をつけるほど理性を失ってはいなかった。あと、本当に時間がない。
「じゃ、ほんと急ぐから! あと、待ち伏せするくらいなら電話して! ってか、最初から電話してよ!」
叩きつけるように怒鳴ってから、すかさず走り出す。追いかけてきたら迷わず反撃に出るつもりだったけれど、二人は追いかけては来なかった。
――
その後、つつがなく委員会活動を終えた利奈は、ホームルームの終わった教室に入って鞄を置いた。遅刻者の取り締まりがある日はホームルームに出られないけれど、先生はなにも言わないし連絡事項もほとんどない。授業の変更があっても近くの席の人が教えてくれるから、不自由はなかった。
(一時間目から移動か……。あ、山本君)
「おはよう」
「お、おはよ」
教科書を用意している武に声をかけると、にこやかに挨拶を返してくれた。早朝の二人組とは雲泥の差で、すさんだ心が浄化される。
「なんだ、いいことあったのか?」
「ううん、全然。朝からひどい目に遭ったんだけど、山本君のおかげでちょっとよくなった」
「そうか? ならいいけど」
「あ、獄寺君もおはよう」
かったるそうに席を立つ隼人に声をかける。今日はちゃんとホームルームが終わる前に登校していたようだが、手にはなにも持っていない。
「よう、獄寺。今日は早かったな」
「チッ、気安く声かけてくんじゃねえよ」
「のんびりしてていいの? SHITT・P!さん、もういないけど」
隼人はずっとSHITT・P!につきっきりだったはずだ。しかし隼人は余裕のありそうな笑みを浮かべた。
「いいんだよ、もう。あいつと俺は通じ合ってるからな」
「……へー、そう」
(また獄寺君が変になってる)
自分から話を振ったものの、胸を叩いて自慢げに胸を張る隼人をどう見ればいいのかわからない。とりあえず、話題を変えることにした。
「そうだ山本君、水野君はどうだった? 部活大丈夫だった?」
「ああ! 昨日部活でみんなに投球見てもらったんだけど、すごく盛り上がってさ。今日も一緒に朝練してきたぜ」
「わあ、よかった!」
「十代目のお手を煩わせたんだ。失敗したらただじゃおかねえ」
「獄寺君、なにもしてないくせに」
「あ?」
低い声を出す隼人から自然に目線を外し、窓の外を眺める。並盛町は今日も快晴だ。
「そういえば、継承式ってどこでやるの? この辺は今週中ずっと晴れだって」
「俺も聞いてねえな。どこでやるんだ?」
「部外者いるのに言うわけねえだろうが」
「えー」
あからさまに余所者扱いを受けるが、利奈は食い下がらなかった。どうせ恭弥経由で知ることができるからである。
それにしても、利奈をまだ部外者扱いするのは、隼人くらいだろう。継承式のことを知ったのはただの成り行きだったが、あのとき、利奈がいることにだれもこだわらなかった。
ちなみに武は、いまだに事の重大さがわかっていないのか、それともあっさりと受け入れられるほど器が大きいのか、継承式を心待ちにしていた。友達がまるで部活動の部長にでも選ばれたかのような気楽さだ。
(私もツナがボスになるのは悪くないと思うけど。あの戦い乗り越えたんだし)
圧倒的強者相手にあれほどの死闘を繰り広げ、見事未来を勝ち取った綱吉を見たら、彼以外にふさわしい人物がいるとは思えない。一番の問題は綱吉本人がいまだにボスの座に座るのを拒否していることだが、それも時間や慣れが解決してしまいそうだ。継承式はもう明後日である。
「腐れ縁のよしみで十代目の雄姿はあとでたっぷり伝えてやる。きっとこれまでの歴史を覆しつつ、それでいて今後塗り替えられねえ伝説の式になるだろうからなっ!」
「ツナ、空飛ばされたりでもするの?」
「楽しみだよなー。継承式っていうとなんか固っ苦しい感じするけど、ツナならきっとうまくやれると思うし。それに薫も一緒だから心強いぜ」
「すっかり友達なんだね。山本君って友達作るの早いよね」
「そうか? 普通に気があったら友達だろ? なあ――」
「俺はダチになったつもりはねえ!」
「アハハ」
「すごい、言い切ってないのに」
相変わらずの温度差を笑いながら、理科室に入る。
一番に目を引くのはSHITT・P!で、もっとも視界に入らないのは炎真だ。SHITT・P!はあの浮き輪のせいで隣の人に大きく距離を開けられていて、炎真は小さく縮こまっている。色の違う制服にはまだ慣れないけれど、そのうち気にならなくなるのだろう。
(地震が落ち着いたらみんな帰っちゃうけど……でも、それでお別れじゃないよね)
ボンゴレファミリーとシモンファミリーは同盟ファミリーだ。綱吉は積極的に炎真と友達になろうとしていたし、離れてもきっと交流は続いていくだろう。そう思うと、いつかの別れも終わりではないと信じられた。
――まさか別れが、こんなに早く訪れるなんて思わなかったけれど。
「炎真君!」
ありったけの声を振り絞って炎真の名前を呼んだ。今を逃せば、もう二度と、彼に触れることはできないとわかっていたから。
「待って! 行かないで!」
喉が張り裂けてもかまわなかった。それで彼が止まってくれるなら、どうでもよかった。
しかし彼は歩き出す。壁の向こうへ。光の差す外へ。その先にこそ道があるとばかりに。
「炎真君!」
確かにあったはずの繋がりが解かれていく。いや、彼らは切り取ってしまった。そんなもの、最初からなかったのだとでも言いたげに。
「行かな゛いで、炎真君!」
わずかに気が咎めたのか、炎真はようやく利奈に目を向けた。その表情はいつもと変わらないはずなのに――
「……ごめんね」
決定的に、なにもかもが変わってしまっていた。