血の描写が多いです。内容としては、継承式一日前の原作グロシーンで察していただければ。
人の一生には、数え切れないほどの分岐点がある。
屋上に行くか――傘を貸すか――指輪を手に持つか――ドアを叩くか。選択肢を変えれば、いとも簡単に運命は流転しただろう。彼女はその日、少年とは出会わず、少女とは出会わず、危険にさらされることもなく、戦う術を学ぶこともなかった。それが幸せであるかどうかはさておいて。
だが、ひとつだけ変わらないことがある。たとえすべての選択肢で違う答えを選んでいたとしても、結局は同じ未来に行き着いていただろうという点だ。
彼女は必ず少年と出会い、少女と出会い、戦場に引きずり出され、戦う術を覚えていただろう。
ならば、次の分岐でどちらに進もうが、変わりはないのかもしれない。悲劇を選ぼうが喜劇を選ぼうが、結局未来は変わらないのだ。
そう告げれば、彼女はきっとこう答えただろう――ふざけるなと。
相沢利奈はもう、劇場の扉に手をかけていた。
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秋の太陽は沈むのが早い。見上げた校舎が赤に染まっていたので、利奈は反対側の夕日に目を向けた。
ほんの半月ほど前にいた未来の世界なら、この時間の空はまだ青かっただろう。未来の世界は夏だった。そのわりにあまり暑さを感じなかったのは、空調が完備された室内にばかりいたからに違いない。おかげで日焼けせずにすんだものの、短い髪はまだ慣れなかった。
(そろそろ戸締まり確認しに行こうかな)
最終下校時間を告げるチャイムまであと十分。部活動はその二十分前までに終わらせることになっているから、もうどこも片付けを進めているはずだ。
部室の鍵は毎日必ず職員室に戻されるが、なかには部室の鍵をかけ忘れて帰ってしまう生徒もいるので、確認は大切だ。それと同時に、下校時間を守らずに部活動を続けようとする生徒への牽制も兼ねているが、ボクシング部部長がよく引っかかっている。集中しすぎてチャイムが聞こえなくなっているらしい。
(そういえば今日は一年生の教室の前によくいたな。どうせ残ってるだろうし、ちゃんと声かけておかなくちゃ)
夕暮れが早くなったぶん、最終下校時間が早まったので、部活動の活動時間は短くなっている。大会が近い部はギリギリまで粘るけれど、今日のところは問題なさそうだ。校庭に人の姿はないし、吹奏楽部の演奏も聞こえなくなっている。B棟校舎の窓も、ほとんどが暗くなっていた。
(……あれ、あそこにいるのって)
B棟から遠ざかっていく人影を捉えて、利奈は目をこらす。
正門に向かう後ろ姿は瞬く間に小さくなっていったが、指先ほどの大きさでもそれが薫であると推測できた。この学校で学ランを着ているのは風紀委員か至門生だけだし、風紀委員は腕に腕章を巻いている。暗かったので腕章の有無はよくわからなかったけれど、風紀委員ならあんなに足早に正門に向かう必要はないだろう。むしろ、戻ってくる時間だった。
(こんな時間まで頑張ってるんだ。野球部にもうまく馴染めたみたいって山本君も言ってたし、よかったよかった)
うんうんと頷きながら、B棟に向かう。
とりあえず外に面している一階の部室を廻って、それから校舎内に入り一部屋ずつ戸締まりを確認していけばいいだろう。まずはドアが開けっぱなしになっている部室を覗きこむと、部屋のなかに血塗れの男が倒れていた。
「……は?」
――利奈の口から出たのは、心底冷めた疑問の声だった。
目の前の光景が理解できなかった。――いや、部屋中に飛び散っている血が本物であることはわかっている。その血が横たわっている男のものであることも、ここが事件現場であることも。ただ、本来ならけしてあり得ないはずの出来事が起きていることに、思考が追いつかなかった。ここは未来ではなく現代で、つまり血生臭い事件とは無縁であり――
(じゃなくて! そうじゃなくて! 人が倒れてる!)
状況分析に走りそうになる思考を正し、利奈は人命救助に舵を取った。血だまりに伸ばされた男の右腕を取り、ぬるくぬるつく肌に手を滑らせて脈を測る。
(脈……脈……よかった、あった……!)
男の腕は温かく、脈拍も弱ってはいない。それでも出血量はおびただしく、利奈は躊躇なく血まみれの手で懐にしまっていたかんざしを掴むと、これまた躊躇なく男のシャツを切り裂いた。傷口があらわになり、その痛ましさに利奈は顔をしかめた。
(ひどい傷……なんの痕だろう。刃物じゃないみたいだけど……)
救急車も呼ばなければならないが、ここまでひどいと止血が先だ。さいわいここは更衣室として使われているようで、真新しいタオルが大量に棚に入っている。
タオルを何枚かひったくると、利奈はそのうちの一枚を背中の傷口に当て、強く押さえつけた。そして救急車を呼ぶべく携帯電話を上着の内ポケットから引き抜こうとして、突如動きを止める。
(なにか、おかしい)
暗殺部隊ヴァリアーで培われた経験が、最善であるはずの行動を鈍らせた。
いったいなにが気になるのかと男を見下ろすと、足下の血だまりに目が留まった。部屋に入ったときよりも大きくなっている血の海は――傷口を圧迫している今なお、留まることなく広がっていた。それが意味するものを悟り、利奈は顔色を変える。
(これが一番大きな傷じゃ、ない……!?)
違和感の正体がわかった。傷口に比べて出血量が多すぎるのだ。
うつ伏せの背中と手足にほかに傷はなく、残るのは地についている胴体だけである。それだけで最悪が想定できて指先が震えた。
もし――もし、背中の傷が凶器の入り口ではなく、出口だとしたら?
貫通した傷の跡だとしたら、それはもう致命傷だろう。傷の位置からして、内臓の損傷は避けられない。ヴァリアーでも、殺すつもりで胴を刺すなら、このあたりを狙うようにと教わっている。もっともえげつない痛みを与えながら、標的を殺せるからと。
震える手で男の腕を掴む。精神を落ち着ける時間はない。たとえどんな傷があったとしても、男に息がある限り、最善を尽くすだけだ。だから利奈は覚悟を決める余裕もないまま、男の身体をひっくり返した。
――しかし、たとえ呼吸を落ち着ける時間があったとしても、利奈は平静を保てなかっただろう。
男の身体を仰向けにしたとき、利奈は初めて男の顔を見た。見てしまった。そして、今度こそ愕然と凍りついた。
男は――山本武だった。
それを認識した瞬間に利奈の理性は吹き飛び、腕に抱えていた新品のタオルが床へと落ちていった。真っ白なタオルが、血の赤に染まっていく。白と赤が目に焼きついて、息が吸えなくなる。
「やっ、山本くっ――うそ、うそ」
血のにおいが肺を満たす。歯の根が合わなくなって、利奈は髪を振り乱した。
「山本君! 山本君!」
タオルをひっつかんで傷口に押し当てる。傷口を押されれば激痛が走るはずなのに、武の表情は変わらなかった。もう痛覚もないのかもしれない。
「やだっ、ねえ、やだ! 山本君! 山本君!」
名前を叫ぶ。最悪の結末を振り払いながら、なおも叫ぶ。
「山本君! お願い、死なないで! やだ、ねえ、起きて!」
利奈は半狂乱になっていた。いや、もう狂っていた。
叫び声は金切り声になっていて、その声を聞きつけた了平が部室に飛びこんできても、利奈はそれに気付くことさえできなくなっていた。
「相沢! これはいったいどういうことだ!」
室内の惨状に了平が息を呑む。血だまりに膝をつく利奈は、武と同じぐらい血に染まっていた。
「先輩っ、山本君が! 山本君が死んじゃう!」
「俺がなんとかする! どいてくれ!」
利奈は泣きじゃくりながら武の身体から離れた。
了平がリングに火を灯し、匣動物のカンガルーを召喚する。辺り一面に黄色の炎が溢れ、晴の活性の炎が武に注がれた。了平も傷の深刻さがわかっているようで、その表情に余裕は一切ない。
「なにがあった。いったいなにがあれば、こんな……」
「わからない。わからないんです! 人が倒れててっ、応急処置しようとしたら、山本君で……!」
涙を拭けば、頬が血で赤くなっていく。それが武の血であるのが恐ろしくて、利奈は身体を震わせて泣き続けた。
「わかった、もういい。お前は救急車を呼んでくれ」
そういえば、まだ救急車を呼んでいなかった。二人に背を向けて、三桁の番号を押す。
『119番消防署です。火事ですか、救急ですか』
「あっ……」
間違えた。わざわざ119番を押さなくても、病院の番号は登録してあるのに。
『こちら、119番です。火事ですか? 救急ですか?』
電話口の語気が強くなった。利奈はあわてて答える。
「救急です!」
『貴方の名前と住所をお願いします』
「相沢利奈、住所……住所は……学校」
『どちらの学校ですが? 学校名を』
「並盛中学校――あの、友達が、友達が血を流してて!」
『大丈夫、落ち着いて。近くに大人の人はいますか?』
相手が中学生であることを察し、電話口の声が柔らかくなった。教師に代わるように促したのも、混乱している利奈では埒が明かないと判断したからだろう。それがわかるからこそ、利奈は自分の不甲斐なさに腹が立った。今こうしているあいだにも、武の身体からは血が流れているというのに。
「相沢!?」
いきなり自身の片頬を全力で平手打ちした利奈に、了平が驚きの声をあげる。
(いったあ……!)
痛みのあまり違う涙が出てきたけれど、身体の震えは止まった。なんとか通話を終わらせて、再び武に向き直る。
「……どうですか?」
「……いや」
利奈は恐る恐る傷口を覗きこんだ。炎がまぶしくてしっかりとは見えないけれど、やはり腹には大穴が開いていた。血も絶え間なく流れ続けているし、傷口が治る気配もない。傷がひどすぎて、晴の炎の力だけではどうしようもないようだ。
お互い、なにも言えなかった。
わかりきっている答えが横たわっているのを、目も逸らせないまま見つめているしかないのだ。
「私、正門に行ってきます。救急車ここまで呼ばなくちゃいけないから……」
「ああ。だが、大丈夫か?」
「……」
大丈夫なはずがなかった。今だって現実を受け入れられずにいる。どうして武がこんな目に遭ったのか、どうして武がこんな目に遭わなければならないのか、そしてだれがこんなことをしたのか、まるでわからない。だって、武は今日も、いつもみたいに笑っていたのだ。
今の武は血まみれで、土気色で、生気がない。ほんの少し目を離しただけで消えてしまいそうで、これが一生の別れになりそうなのがひどく怖ろしかった。でも、それでも利奈は顔を上げる。
「……行ってきます」
一分一秒を争う状況だ。了平には救急隊員が駆けつけるギリギリまで治療に専念してもらわなければならないし、誘導役は利奈しかいない。恐怖に凍りついていたら、それこそ取り返しがつかなくなってしまう。
足はふらつかなかった。錆びた匂いの充満した部室から出ると、清々しい空気とともに星空が目に入って――どうしようもなく泣きたくなった。