勢いよく利奈が部屋を飛び出すと、壁によりかかっていた犬と千種がギョッとしながら身体を起こした。視線を合わさないまま二人の前を横切り、甲板へと足を進める。人影のない甲板の先端まで歩き、太陽で熱された柵に両手をかけて、身体を思いきり後ろに引く。そしてそのまま、身体を前に突き出した。
「あーーーーーーー! もう!」
海風が髪を巻き上げる。巻き上げられた髪が顔を叩く。薄い皮膚を叩かれ、痛みに顔をしかめた。
「なんで! なんでなの! なんでこんなとこでまで出てくんの! あんたのせいでめちゃくちゃなんだけど!」
島まで届いてしまえとばかりに声を張り上げる。
船には大勢人がいるけれど、眼前の景色に人はいない。今は体裁なんて考えられなかった。
(冷静でいたかったのに! 子供っぽく騒ぎたくなかったのに! 絶対呆れられた! 全部台無し! 全部全部全部!)
感情にまかせて、交渉の場から飛び出してしまった。あんな失態を犯してしまったら、もう取引相手としては見てもらえないだろう。今までの努力が水の泡だ。白蘭という存在はいつだって感情をかき乱す。
「もう……ほんと最悪」
柵を握ったまま崩れ落ちる。熱された鉄は熱く、手のひらがじんじんと痛む。
骸は利奈抜きで話を続けているだろう。べつに利奈でなくても、武を連れてくることはできるのだ。そもそも、武が回復するかどうかだって――
(ううん、山本君は大丈夫)
ふて腐れていても、そこだけは譲れなかった。
武は必ず助かる。そしてみんなと一緒に戦おうとするだろう。綱吉と同じく友達想いで、友情をなによりも優先する人だ。
それに引き換え、その手伝いすらできないでいる自分が、不甲斐なくて情けなくなってくる。
(だって、しょうがないじゃない。私絶対白蘭を許せないし、殺せるなら殺すもの。そしたら山本君の治療だって駄目になっちゃう)
未来で磨き上げた殺意は、そんな簡単に消せはしない。今だって、心臓を刺すための武器は胸に挿してあるのだ。
ガラス飾りに手を触れて目を閉じる。やはり浮かび上がるのは復讐の青い炎と憎き男の顔だった。
――叩きつけるような海風を浴び続けて、どれくらい時間が経っただろうか。
存在を主張する足音に、利奈はゆっくりと立ち上がった。
「そろそろ、頭は冷えましたか」
どうやら、会議が終わったらしい。
「よかったですね、ようやくデッキに出られて。感想は?」
「……最悪ですよ」
ぶすっとしたまま振り返る。
骸も利奈と同じく風に髪を乱されていて、うっとうしそうに耳元を押さえていた。
「なにか変わった様子は?」
島に目をやりながら骸が尋ねる。
「とくになにも。ここからじゃわかんないですよ」
「そのようで。派手にやり合ってはいないようですね」
継承式の会場で炎真が使っていた技ならば、島の木々も簡単になぎ倒せただろう。リングが馴染むまで時間がかかると言っていたから、今は力を制御しているのかもしれない。
それきり会話が途切れ、波風の音が鼓膜を揺らす。
考えていることはたぶん一緒で、口火を切るべきなのは利奈なのだろう。デッキの柵から片手を離し、涼しげな顔の骸へと向き直る。
「……さっきは、ごめんなさい。話し合いの途中なのに、部屋、出ちゃって。……九代目、怒ってましたか?」
「いいえ? 驚いてはいましたが」
「ごめんなさい……」
シュンと頭を垂らす利奈を、まじまじと骸が見下ろす。色彩が違う両の瞳には、いつも通りの利奈が映っていた。
「……部屋を出る前のこと、覚えてますか?」
「え?」
念を押すような骸の言葉に、利奈は瞳を泳がせた。
「えっと……カーッとしちゃったから、なに言ったかちょっと曖昧かも……」
「……そうですか」
感情がぐちゃぐちゃになったのは覚えているけれど、余計なことを言う前に退席したはずだ。あるいは、退室の仕方が悪かったのか。
含みのある骸の態度に、なにか大変な粗相をしでかしたのではと血の気が引いた。
「わ、私なにか変なことしました!? ごめんなさい、どうしよう、謝りに――」
すぐにでも船室に取って返そうとした利奈だったが、骸の腕に押しとどめられる。強く肩を押さえられ、身動きが取れなくなった。
「もう解散しましたよ。今戻ると話がこんがらかるからやめなさい」
「でも――」
「自分から逃げ出しておいて、今さら言い繕うつもりで?」
「うっ……」
痛いところを突かれ、押し黙る。骸の言う通り、今さらどの面下げて戻るつもりなのか。
見下ろす骸の瞳は鋭く、利奈は目を逸らすことしかできなかった。骸の指が肩に食いこみ、左肩が沈みそうになる。
「明日の朝、船が出る予定です」
「っ!」
「山本武に回復の兆候が見られたら、先ほどの手筈通り――」
「待って! 私は――」
「逃げるのですか?」
骸の言葉に目を見開く。自分が取った行動をはっきりと言葉にされて、頬が熱くなった。
「貴方の殺意は伝わりました。僕だって、殺せるものなら殺していましたよ。でも今はそれどころではないし、あの男を殺したところで今さらなんの役にも立たない。そうでしょう?」
「違う」
否定の言葉だけは、どうしてかすぐに口をつく。拒絶の言葉と同様に。
「違う? なにが違うんです?」
「だって……だって、白蘭は」
白蘭はありとあらゆる犯罪を犯した。人の尊厳を踏みにじった。世界を破滅に導こうとした。たとえ時が戻ってすべてが清算されていたとしても、行いは忘れられないし、なかったことにはできない。少なくとも、利奈には。
「駄目なんです。私、絶対に白蘭を許せない。白蘭に会ったら絶対に殺そうと――しちゃう、から……」
我慢したはずの言葉が零れた。親しい人の前で殺意を口にするのは自白と同等で、後ろめたさと罪悪感でいっぱいになる。たとえ、骸が殺人者だと知っていてもだ。
口ごもる利奈に、骸は深くため息をついた。
「だからって逃げてもしょうがないでしょう。これからずっと白蘭から逃げ回るつもりですか」
「そうじゃないですけど……」
白蘭が恐いわけじゃない。我を失いそうな自分が恐いだけだ。
煮え切らない利奈に苛立ち、骸が眼前に指を突きつける。
「殺す殺さない、許す許さないはこのさい置いておきなさい。怨敵をこき使える機会なんてめったにないんだから、割り切ってしまえばいい」
「無理ですよ、そんなの」
「ならば一回想像してみなさい。――今の貴方を見て、白蘭がどう反応するか」
「――!」
効果はてきめんだった。
(私を見て、白蘭がどう思うか? そんなの――絶対に笑うに決まってる!)
その瞬間、迷いや戸惑いが霧散した。
白蘭のニタニタとした笑みが思い浮かび、これ以上はないと思っていたはずの怒りが沸点を超える。
(そうだ、白蘭なら絶対に喜ぶ! 私がめちゃくちゃになってるの見て笑う!)
人の悪感情を吸って生きているような人間だ。今の利奈を見たら、上機嫌に手を叩いて喜ぶだろう。それを想像すると、うじうじしていた自分に無性に腹が立ってきた。
なにが殺してしまうのが恐いだ。何様のつもりだ。弱っていた白蘭ですら仕留められなかったのに。
及び腰だった利奈の背筋が伸びたのを確認して、ようやく骸は肩に置いた手をどかした。世話がかかるとでも言いたげに鼻を鳴らす。
「ほら、腹が立つでしょう。僕も似た経験があるのでわかります」
「骸さんもあったんですか」
「ええ。……かつて、乗っ取ろうとした相手への協力を強いられた挙げ句、その本人には境遇を心配されました。なかなかに屈辱ですよ」
「……それって」
(ツナのことじゃ……っていうか、私じゃなくて白蘭の境遇じゃない?)
陥いれようとした相手に敗北を喫したうえに同情されるなど、プライドの高い骸にって、これ以上ない屈辱だったろう。いっそ、憎しみを持ってもらったほうが気が晴れたに違いない。そう考えると、過去を根に持たない綱吉がいかに強い人物であるかが窺える。
「なんにせよ、今日はどのみち待機です。明日までに気持ちを入れ替えなさい」
「……はい」
「それと、九代目たちも貴方を白蘭に会わせるのは危険だと判断していました。無理矢理白蘭と接触させたりはしないでしょう」
「え、そうなんですか!?」
それならそうと先に言ってくれればよかったのに。不服の眼差しで見つめるが、骸はすいと視線を逸らして甲板を引き返していく。その向こうに千種と犬が立っていて、利奈に目をやることなく戻っていった。
優柔不断な利奈に発破をかけるため、わざと話を後回しにしたのかもしれない。
(スパルタだなあ……だれかさんみたい)
髪を耳にかけ、利奈も甲板に足音を響かせた。
――
翌日、利奈と骸を乗せて一隻が引き返した。島でなにかあったときにすぐに対応できるよう、千種と犬は居残りである。クロームが島にいることを考えれば骸が残るべきだとは思ったが、骸は利奈とともに行動する契約をまたもや主張した。契約は厳密に守る主義らしい。
「それに、僕は幻術を妨害されていなければすぐにクロームの元へ行けますから。距離は関係ありません」
言われてみればその通りである。島でなにかあったとして、船上からすぐその場に駆けつけるのも難しいだろう。島とボンゴレファミリーの動向は千種たちから報告が入るし、離れたところで問題はないとの判断だ。
今回は人目を気にせず好きに部屋を出られたので、思う存分、甲板で風を浴びられた。代償に髪がボロボロになって悲鳴を上げたけれど。
「日本だー!」
数日ぶりに地面に足を降ろし、利奈は両腕を上げた。まだ足下が揺れているような気がして、歩き方が少し覚束なくなる。
ここから病院近くの市まで移動し、武の回復をホテルで待つ手筈になっている。治療はうまくいっているそうで、この調子なら明日明後日には回復する見込みだ。それもあって、今日は気持ちも落ち着いていた。
ホテルに行くのは利奈と骸、そして九代目守護者の一人、クロッカン・ブッシュである。
黒い肌で長身。側頭部は刈り込んでいて、馬のたてがみのように伸ばされた髪が前後に垂れている。耳にはゴツゴツとしたピアスが無数につけられていて、顔つきの厳つさを強調している。守護者のなかで、もっとも日本人とかけ離れた外見だ。
通り過ぎる人たちは一瞬見ては即座に目を逸らし、関わり合いにならないよう、遠回りに彼を避けている。悪人面に見慣れている利奈でも一緒に歩くのが躊躇われるくらいだから、無理もない。
「彼は霧の守護者ですから。僕の見張りをさせるなら、彼以上の適任はいない」
骸のその言葉で納得した。
九代目と守護者たちが海上で待機している今、骸を野放しにするのは危険だろう。骸が裏切ってボンゴレの情報を敵対マフィアに横流ししたら、戦争の引き金になりかねない。
「……つまり、私も骸さんを見張らないといけないんですね? 私のために」
「ええ。契約がある限り、僕と貴方は運命共同体ですから。貴方も同罪になります」
「その顔でその笑い方はちょっと……。もしほんとにやったら、クロームに言いつけますから」
言いつけたところで効果はないだろうが、言わずにはいられない。念を押すと、骸はまたもや微笑んだ。
九代目たちが乗っている船には犬と千種も乗っているし、いくらなんでもこの状態で反旗を翻したりはしないだろう。九代目にそのつもりがあるかどうかはわからないけれど、二人が人質になっている。
「クロッカンさんに念押されたこと、忘れてないですよね。一人行動は禁止ですよ!」
「二人ならオーケーでは?」
「ホテルから出るのも禁止でしたー!」
骸にからかわれながら駐車場へと向かう。車と運転手は手配済みだそうだ。
港近くの駐車場に入った利奈は、すぐにその人物を見つけ出した。
「ロマーリオさん!」
「おお、待ってたぜ」
黒塗りの車の前で、鷹揚にロマーリオが手を上げる。利奈は思わず駆け寄った。
「車運転してくれるのロマーリオさんだったんですか! でも、ロマーリオさんはボンゴレじゃないんじゃ……」
「同盟ファミリーだからな。それに、うちのボスがどうしてもって聞かなくて」
「よう、利奈」
「ディーノさん!?」
後部座席の窓が開いて、ディーノが身を乗り出す。今日はスーツでなくいつものブルゾン姿だ。
「話は聞いてる。山本、無事回復しそうなんだって?」
「はい! もう心配ないって聞いてます!」
「そうか! いやあよかった。会場で聞いてからずっと心配してたんだ。よかったな、スクアーロ」
ディーノが車内を振り返る。覗きこむと、ディーノの正面に鎮座するスクアーロの姿が見えた。隙間から入りこんできた日差しに、うっとうしそうに目を細めている。
「俺はあいつを一発殴りてえだけだぁ……。油断しやがって」
未来での記憶が影響してか、すっかり師匠の風格になっている。クロッカンは二人がいるのを知っていたようで、淡々とロマーリオと話を進めていた。
「とにかくさっさと移動だ移動。早く乗れぇ」
「待ってろ、今開ける。……で、後ろにいるのは?」
後ろの人物を指摘され、利奈は肩を揺らした。ここでようやく骸が口を開く。
「ハッ、自分はボンゴレ日本支部所属の陸奥と申します。九代目より、相沢様の護衛を仰せつかっております」
耳に引っかかるガラガラ声だ。
思わず振り返り、見慣れない風体を再度確認する。継承式の会場で、ごまんと見た顔だ。
脱獄囚であり保護観察中の骸は、九代目とその守護者以外にその存在を知られてはならない。ゆえに、船が港に着く少し前から、幻術で変装を終わらせていた。ちなみに、声が変わったのはたった今である。
よろしくと言いながらディーノはドアに手をかけたし、スクアーロに至っては興味すら持っていない。
(……やっぱ幻術ってズルいな)
何事もなく発進する車に、利奈は一人驚嘆した。
六=むっつ=むつ=陸奥
最初風紀委員を騙るつもりだったものの、利奈が全力で首を振ったのでやめました。