できるなら、あのままさよならしたかった。
手を振ったところで終わっていれば頼りになる女の子でいられたのに、このざまである。つくづく詰めが甘い。
(もう、ほんとかっこ悪い。金髪の人は睨むし、帽子の人にはため息つかれるし……)
責任を感じた凪がバス停までの道のりを教えてくれようとしたものの、彼女もほとんどバスを利用していなかったようで、言葉の詰まった説明はうまく頭に入らなかった。この辺りの地理に疎い利奈が相手で、建物などを目印に使えなかったのも原因だ。
「この先の道をまっすぐ行って、右? 信号を渡ってちょっと行ったとこ?」
「右に行ったら、信号は渡らないで道沿いに歩くの。それで……横断歩道があって……そこを渡っていったらバス停が見える……はず」
「こう行って、こう行って、横断歩道渡ったらこう?」
「うん、こう行って、こっちに曲がって……こうじゃなくて、こうかな」
「こっち? こんな感じ?」
「えっと……そう、かな?」
「もっと簡単な方法があると思いますよ」
身振り手振り、下手なジェスチャーゲームでもやっているかのようなやり取りに痺れを切らされ、こうして骸にバス停まで送ってもらうことになった。三本しか傘がなかったから、二人でひとつの傘に入っている。
残る内訳は千種と凪、犬と大荷物だ。彼らは一回家に帰ったあと、骸を迎えにバス停まで戻ってくるという。利奈のせいでいらない手間を増やされているのだから、睨まれてもため息をつかれても文句は言えない。
(帰るときのこと全然考えてなかったからなー。ちゃんと道を覚えておけばよかった)
失敗に肩を落としながらも、利奈は自分の傘を持つ骸をこっそりと見上げた。
人を見上げるのには慣れているけれど、面識のない人相手だと、少し緊張してしまう。相手が美形ならばなおさらだ。右目がほとんど前髪で隠れてしまっているので、ミステリアスに感じられる。
彼も利奈の失態には呆れているとは思うけれど、ほかの二人と違って、顔に出したりはしなかった。
(これ、距離近いよね。なんかいいにおいするし、無駄に緊張しちゃう……)
小柄な凪と入ってたときも手狭に感じていたから、骸と二人だとより一層小さく感じてしまう。利奈お気に入りの水玉模様の傘は、大人びた容姿の骸にはまるで似合っていない。
「そういえば、骸さん――は、凪さんとどういう知り合いなんですか?」
黙っていると変に意識してしまうので話を振ると、骸は緩慢に首を傾けた。
「そうですねえ……どう見えます?」
質問を質問で返されたけれど、こういうクイズ形式は嫌いじゃない。利奈はボケるか真面目に答えるかで一瞬悩み、それから真面目に答えた。
「んー、部活動の先輩後輩ですかね。クラリネットとか吹いてるの似合うと思います。凪さんはフルート」
「木管系ですね。では、あとの二人は?」
「あ」
あとの二人は見た目からして吹奏楽部ではない。こうやって面白半分に聞かれているあたり、骸も吹奏楽部ではないのだろうけれど。
「ちょっとイメージ違いましたね。どっちかっていうと、あとの二人は軽音楽部な感じがします。犬さんはボーカル――だとバンドが解散しそうだから、ギター?」
「フッ」
「で、帽子の人はドラム! ああみえてめっちゃ高速でドラム叩くんですよ! 無表情で!」
「クフッ」
(面白い笑い方……)
利奈のネタがツボに入ったのか、クスクス――ではなくクフクフと笑い声を噛み殺している。言った本人なのに面白くなってきて、同じ傘の下で笑い合った。
「で、正解は?」
「もちろんハズレです」
「デスヨネー」
第一印象に反して、なかなか冗談に理解のある人らしい。身の回りは無表情で面白みのない人があふれているから、こうして反応してもらえるとうれしくなってしまう。
「貴方はどうしてあの店で買い物していたんですか? この辺りに来るのは初めてだと言ってましたが」
「新聞にチラシが入ってたんです。今日までのバーゲンセールのチラシで、しかもチラシ持ってったらさらに五パーセントオフって書いてあって! これはもう一人でも行くしかないって思ったんです」
「そうですかそうですか。それで慣れない場所で迷子になったんですね」
「うっ」
勢いづいて話していたのに、突然小さな棘で突つかれた。やっぱり気に障っているらしい。
「冗談ですよ。凪を送っていたせいでわからなくなったんでしょう?」
骸はそう言ったけれど、利奈は引きつり笑いをするに留めた。
のんびりと歩いていると、凪の言っていた信号機が遠目に見えてきた。曲がる回数は少なかったものの、やはり住宅街は目印がなくてわかりづらい。
(骸さんもこの辺には詳しくないって言ってたのに、全然迷わなかったな。やっぱり、頭のいい人は覚えが違うんだろうなあ)
少なくとも、夏休みの宿題は余裕をもって終わらせているタイプだろう。利奈と違って。今年は風紀委員である手前、頑張って最終日までに終わらせたけれど、そこに一切の余裕はなかった。
「もうすぐバス停につきますよ」
夏休みの苦行を思い出していると、骸に声をかけられる。何はともあれ、これで本当にさよならだ。
「送ってくれてありがとうございます。バス停に屋根ってありましたっけ?」
「どうですかね。……ああ、なかったと思います」
「え、じゃあ――」
「いえ、近くに本屋があるのでそこで彼らを待ちます。ご心配なく」
「……? そうですか」
骸の言動にやや違和感があるものの、はっきりとはわからないので利奈は頷いた。あまり人のことを根掘り葉掘り聞くのもよろしくない。
――ここで別れられていれば、再び交わる時期はもう少し遅くなっていたのだろう。
もしかしたら、十年後になっても会わずにすんだのかもしれない。
しかし利奈と凪を結びつけた雨――いや、気運の風は、二人をただの中学生のままでは終わらせてくれなかった。
「キャッ」
背後から突風が吹き、利奈は思わず悲鳴をあげた。空を切り裂くような風に傘が傾いたものの、骸はすぐさま風をやり過ごす。
道行く人も同じように傘を押さえていたが、視界の隅で転がりだした円に、二人の視線は吸い寄せられた。
「あー! 待って待って! ちょっと待ってー!」
(あれ?)
逃げた傘を追いかける男の子の声に、聞き覚えがあった。雨の攻撃を防げずに濡れていく男の子に、急いで自分の傘を差しだす男の子にも。
(あそこにいるの、沢田君と獄寺君じゃない?)
綱吉はともかく、銀髪の少年なんて、この辺りでは隼人しかないだろう。となれば武の姿もありそうなものだけど、武は秋の大会に向けて猛練習中だ。こんなところまで遊びに来る暇はないだろう。
なんで二人がこんなところに――とは思ったものの、それは利奈も同じだ。休日なんだから、どこにいたっておかしくはない。
思いがけぬ同級生の登場に意識が持っていかれていた利奈は、隣に立つ骸の存在を思い出してハッとした。
(いっけない、完全に忘れてた)
別れ際にうわのそらになるなんて、失礼極まりない。理由を説明しようと首を上げた利奈は、その瞬間、ヒッと息を呑み込んだ。
利奈と同じように。いや、利奈などとは比にもならないほどに、骸は彼らを凝視していた。その瞳の色が揺らぐほどの、凝縮された殺気を持って。
(殺気――なんで――)
何度も――今まで、何度も感じてきた利奈だからこそ、それが紛れもない殺意を伴ったものだとわかった。一時の感情の乱れで生まれたものではなく、それこそ、長い年月で培った、純度の高い殺気。恭弥に向けられるものではなく、恭弥が向けるもの。屠り続けた人間が発する、強者の圧力。それが綱吉たちに向けられている状況に、利奈は混乱した。
「っ」
――とにかく、骸の視線を剥がさなければ。このままだと、綱吉たちが危険だ。
そう判断した利奈は、すぐさま骸の持つ傘の柄を掴んだ。そして、今は委員会活動中ではないこと、相手が何者なのかまるでわかっていないことも忘れて、声を発する。
「やめてください」
叫ぶのではなく、凛とした声で。怯えるのではなく、挑む目で。
「沢田君たちに、なにをするつもりですか」
利奈が綱吉の名字を口にした途端、骸の目がギョロリと動いた。人形じみた動きにビクッと震えるものの、利奈は骸から目が離せなくなった。
骸の前髪が風に吹かれ、右目があらわになっていたからだ。
その色合いは左目の青とまるで違う、深紅の――
「貴方は、沢田綱吉をご存じなんですね」
利奈がどこを見ているかなんて、考えなくてもわかるだろう。彼はオッドアイを隠そうとはせず、むしろ、見せつけるように前髪をかきあげた。表情の変化とともに、声の硬さ、雰囲気までも変化していて、利奈の本能が警鐘を鳴らす。
「……貴方、なんなの」
「それは僕の言葉です。どうして貴方は僕にそんな目を向けるんですか?」
「それはっ」
骸が、綱吉に殺意を向けているからだ。彼が、並中生に害を及ぼす存在だと、認識してしまったからだ。
「わ、私は――」
(落ち着いて。こんな時はいつもみたいに、風紀委員らしくしてればいい)
恐怖心を押さえつけ、いつものように胸を張る。そうすれば、いつものように声が出せた。
「私は、並盛中学校風紀委員です。風紀を乱すなら――」
「つくづく運がありませんねえ――お互いに」
口上を遮られ、傘を掴む手を上から骸に握りこまれる。反射的に身を引こうとした利奈だったが、それは素早く傘を手放した骸の右腕に阻まれた。肩に食い込む指に悲鳴をあげそうになるが、悲鳴をあげている場合ではない。
「怖がらなくても大丈夫ですよ。どうせ忘れますから」
「っ!?」
――なにを言っているのだろうか。こんなことをされて、忘れるわけがないのに。
手のひらの力が抜け、だれも持つ人がいなくなった傘は頭上へと舞い上がる。雨粒が利奈の顔に落ち、涙にも似た筋を作った。
「まさか、こんなにも早くボンゴレと再会するとは思っていませんでした。……ああ、こんなところで雲雀恭弥の手下に会うとも、ですね」
「なんで……ヒバリさんを――」
「忘れませんよ。彼はなかなか興味深い人物ですしね」
視界が霞む。なにも飲まされていないのに、嗅がされてもいないのに、ぐらぐらと地面が揺らいで、力が抜けていく。
「いずれ、また顔を合わせることがあるかもしれません。君が彼のそばを離れなければ、ね。でなければ、ここで本当にお別れです。雨は降っていないし、僕たちは出会わなかった」
「雨は……」
降っているはずだ。だって、雨の音が、雨の匂いが、空は――
「せいぜい、よい休日を。それでは――」
あとの言葉は、利奈の耳には届かなかった。
――雨は、降り続いている。
――
雨がやんだ。そう感じた利奈は、しかし、すぐさま自分の感覚を否定した。
雨なんて、最初から降っていない。それなのに、傘が目に入った瞬間、降り続いていた雨が、ようやく止んだかのような錯覚があったのだ。
額に浮かぶ脂汗を手の甲で拭う利奈を、骸は口元を緩めて見つめていた。
「思い出していただけましたか?」
軽薄な声だ。おどけて笑うピエロみたいな仕草で、骸が肩をすくめる。
(って、なんで私、この人の名前が骸だって――)
記憶が浸食されているかのような齟齬に、眩暈を覚えそうになる。
まるで思い出せてなんかいないのに、彼の態度が、手元の傘が、自分の感情が、ないはずの記憶を刺激する。
「少々暗示が強すぎたみたいですね。才のない人は簡単にかかってくれるものですが、あのときは僕も切羽詰まっていたもので」
――この人はなにを言っているのだろう。
ただひとつわかっているのは、骸を応接室に連れて行くわけにはいかないということだけだ。
彼は危険だ。下手したら、学校全体が彼に呑み込まれてしまう。なにも思い出せていないけれど、それだけは確かだった。
「そこまで警戒しなくて大丈夫ですよ。僕は心から彼の心配をしているだけですから。――折れた骨は戻っても、折れた心はなかなか元に戻りませんし」
「――貴方!」
骸が襲撃事件の首謀者であると利奈が断定すると同時に、利奈の気勢を制すかのように骸が傘を放り投げた。槍のように投げられたら避けることすらできなかっただろうが、山なりに投げられた傘は、骸の思惑通り、利奈の両腕にちゃんと収まった。
「お返しします。おかげで、クロームは元気ですよ」
「……?」
まったく聞き覚えがない名前が出てきて、利奈は眉を顰める。ペットの名前だろうか。
そんな利奈の反応には構わずに、骸は背中を向けて悠々と歩き出す。利奈があとを追ってくるとは、露ほども思っていない足取りだ。
(なんなの、いったい……!)
わからないことばかりである。しかし今は、理解に時間を割いている場合じゃない。利奈は傘を持つ両腕に力をこめると、体を反転させて走り出した。
――過ぎ去った危機を、近づいてきた脅威を、委員長に告げるために。