靴を替えるのももどかしいくらいだったけれど、上履きの踵を潰して恭弥の前に出るわけにもいかないから、よろけながら履き替えて、一段飛ばしで階段を駆け上がる。
校内を走り回るのは厳禁だけど、今は緊急事態なので緊急車両と同じ扱いを願いたい。どうせこの時間に校内にいる生徒も校則違反なのだ。――風紀委員を除いて。
(つ、ついたあ!)
校門からの全力疾走はなかなか体に堪えて、息はあがるし足もガクガクだ。倒れ込むようにして体を応接室のドアに押しつけた利奈は、息を整える暇も作らずに声を張り上げた。
「ヒバリさん、大変です! 緊急事態です!」
同時にドアに拳を打ちつけるが、中からはなんの音沙汰もない。静まり返った校内で、打撃音だけが波紋を立てる。
「ヒバリさん! あの、いらっしゃいませんか!?」
これだけ大声でわめいていればなにかしらの反応があるべきだが、まだ戻ってきていないのだろうか。考えてみれば、利奈が応接室を出てからまだ十分も経っていない。
「とりあえず、一旦だれかに知らせなくちゃ……」
ドアはまだ施錠されていないようで、ドアノブを捻るとわずかに内側に開いた。鍵は恭弥がかけることになっているから、応接室で待っていればそのうち恭弥に会えるだろう。それまでのあいだに、班長の大木に事のあらましを伝えておけばいい。
(名前言って通じるかな――っていうか、結局教えてもらえてないし……)
浮かんだ名前はあるけれど、それが正しいものなのかはかなり疑問だ。間違っていたら、とんだ赤っ恥である。でも、外見の特徴を恭弥に伝えれば、あるいは通じるかもしれない。
「うん、そうしよ。骸って人が来たっていうよりは、よっぽど――」
ドアが開いた。いや、開けようとしたドアが、利奈の意思とは関係なく内側へと引っ張られた。
(こんなの前にもあった――!)
ドアにもたれかかっていたせいで、体が前方へと倒れ込む。しかしすぐさま足を出したおかげで、何度か下手なステップを踏んだものの、転倒は避けられた。
安堵しながらも利奈は傘を握り締めて振り返る。いたのなら、返事くらいしてほしい。
(うっわ、不機嫌顔)
ここ最近の恭弥はずっと機嫌が悪かったが、今日は一段とひどい顔だ。
見慣れたせいでさして危機感を抱かなくなってしまったが、それでも鋭い双眸で睨まれるとひやりとする。両手で握りしめた傘が心の盾だ。
「……今、だれが来たって言った?」
声もだいぶ低かった。声変わりしているのだから低いのは当たり前だけれど、それを差し引いても今日の声は低すぎた。機嫌がいいときはたいして高くならないのに、悪いときは地に落ちるのはどういった理論だのだろうか。あまりもったいぶっていると、攻撃的手段で尋問されそうだ。
「骸さんです。ご存知――ですね、はい」
肌で感じる殺気が答えだ。恭弥が歓迎しそうにない人物だとは思っていたけれど、この様子ではそれ以上の存在だろう。もしかしたら、恭弥に怪我を負わせた犯人も骸だったのかもしれない。
(ヒバリさんに怪我負わせるなんて、不可能だと思ってたのに。ひょっとして、あの人が黒幕?)
並中生たちを次々と襲い、そして恭弥にまで重傷を負わせた首謀者。それならば、恭弥がここまで怒るのも無理はない。
「どこ? どこにいるの?」
「も、もう帰りました!」
詰め寄る恭弥を傘で制する。
「今さっき校門で声かけられて――って、ちょっと!?」
場所を聞くや否や、恭弥は動き出した。廊下へではなく、窓へと向かって。
「ヒバリさ、待って!」
利奈が呼び止めるも、恭弥は窓の枠に足を置いた。その目に躊躇いはなく、利奈は青ざめた。手を伸ばすが、届くはずもない。
「待ってください! そんな――」
懇願もむなしく、恭弥は軽やかに窓から飛び降りた。落下音に利奈は膝をつく。
――応接室があるのは一階ではない。窓の外にベランダはなく、下は地面だ。それなのに恭弥は飛び降りてしまった。
(な、なんてことを)
呆然としながら、利奈は呟く。
「そんなところから出て……だれが新しい上履き用意すると思ってるんですか……!」
――当然、利奈である。
恭弥が戻ってくるまで靴を持って待機しなければならなくなった現状に、利奈は一人悲嘆にくれた。
そんなことなど知る由もなかった恭弥だが、想定よりもずっと早く学校に戻ってきた。
学校近辺だけ探してすぐに戻ってきたのだろう。夜が差し迫ったこの時間帯だと人探しは困難だ。
「それで、あの男はなにしに来たの?」
壁にもたれかかりながら恭弥が問う。苛立ち交じりの声には、警戒と疑問が渦を巻いていた。
「ヒバリさんに会いに来たって言ってましたよ」
上履きの靴底を水で流しながら質問に答える。乾いた土が少しついた程度だから、軽く洗って乾かすだけで十分だろう。屋上なら日当たりもいいから、明日の夕方までには乾かせそうだ。
「ヒバリさんがいなかったからいないって言ったんですけど、僕が来たとだけ伝えてくださいって。ちょっと変な感じがしたから、すぐヒバリさんに伝えに来たんです」
「伝言はそれだけ?」
「はい」
怪我は治っても心の傷は――云々言っていたけれど、それは託っていなかったので割愛した。もし伝えてしまったら、骸を見つけて咬み殺すまで学校に戻ってこなくなりそうだ。
それに、骸が利奈の傘を持っていて、利奈とどこかで会っていたかのような発言をしていたことも、黙っていたほうがいいだろう。なにせ、当事者である利奈が、まったく覚えていないのだから。
「クロームってなんのことだかわかりますか? クロームは元気だとか言ったんですけど」
「……さあ、知らないな。それ、人の名前なの?」
「さあ……」
水気をきって振り返るが、本当に覚えがないようだ。襲撃犯がいちいち名乗りを上げるわけもないから、もしかしたらメンバーのコードネームかなにかだったのかもしれない。
恭弥もクロームがなにを現しているのかを考えているようだったが、やがて興味をなくしたのかゆるりと腕を解いた。
「まあ、いいや。もし六道骸を見つけたら、力づくでいいからここまで連れてきて」
(あの人、六道骸って言うんだ……)
苗字を聞いてもまったくピンと来ない。
それはそれとして、力づくでも連れてこいと言われても、風紀委員のなかでもっとも力のない利奈には過酷すぎる。命令だから頷きはしたけれど、どう頑張っても達成できそうになかった。
「えっと、見つけたら応接室に通しちゃっていいんですか? ヒバリさんと連絡取れなくても?」
「うん。それと、今後もし僕に会いに来たなんて言う人間がいたら、かまわないから連れてきて。どうせ普通の人じゃないんだから」
「……はあ」
遠回しの自虐なのか、事実を述べているだけなのか、判断しづらい。恭弥と仲が良いリボーンもただものではなかったし、類は友を呼ぶというやつなのだろう。
指示を与えているうちに気持ちが落ち着いてきたのか、最初に比べれば表情の険が取れてきた。ピリピリとした空気をまとってはいるが、暴走しない程度には冷静だ。夕暮れの茜色が、彼の心を静まらせたのかもしれない。日の落ちかけた校舎内はどこも夕焼けの色に染まっている。
話は終わっただろうと靴を持って屋上へと移動しようとすると、恭弥が後ろをついてきた。
「ほかには?」
「ほか? ……なにもなかったですよ」
恭弥への伝言は、と脳内で付け足す利奈だが、疑いの眼差しを背中に感じた。そうなると元来うそが下手な利奈の動きは、あからさまにぎこちなくなってしまう。
「君が直感だけであんなに急いで僕を呼びに来るわけないでしょ。いいから、なにがあったのか全部話して」
隠してもお見通しだったようだ。若干馬鹿にされているような気もするけれど。
(っていっても、あの人そんなに喋ってないんだよな)
含みのある話し方だったから、混乱させられただけで。
引っかかっているのは、骸の親しげな態度と、しきりに利奈に自分を思い出させようとした点だ。思い出すもなにも、初対面だというのに。
(ずっと前――この町に来る前に会ってたんならわかるんだけど。ちっちゃい頃に会ってたんなら、忘れちゃっても仕方ないし。でも、それだと傘が……)
そう、傘が問題なのだ。
あの傘は中学生になってから買ったものだし、なくしたのも先週――いや、先々週だったか。とにかく、ここ半月のあいだになくしたものだ。二週間以内に骸に出会っていたとして、完全に忘れてしまうなんてことがあるだろうか。ただでさえ、人目を引く容姿だったのに。
自分でもわかっていないことを人に説明するのは難しく、思っていることを並べ立てているうちに、屋上に到着した。
振り返ると、不快をあらわにした顔で恭弥が押し黙っている。
(あ、呆れられた!?)
利奈の説明の下手さにか、それとも利奈の説明の根拠の薄さにか。語彙のない自分が恨めしくなる。
「本当に変だったんですよ!? 渡してないのに私の傘持ってたし、知らないのに知ってる感じがしてきたし、ひ、ヒバリさんの怪我の話してたし! そのときは絶対おかしいって思ったんですって! 証拠もないのに決めつけたのは、その、あれですけど!」
「わかった」
「でも、私は本当にそう思って!」
「わかったって言ったでしょ。君がおかしいとは思ってない」
しかし恭弥の表情は変わらない。
さすがに全部は信用してくれていないのだろうと利奈は思っていたが、恭弥の思考はまた別にあった。骸と戦った恭弥には、話を信用する根拠がすでに存在しているのだが、利奈は知らない。
「で、君が傘をなくしたのって、いつ? あの事件の前?」
なんの事件なのかは、聞くまでもなかった。
「あとです! どこでなくしたかは全然覚えてないですけど、事件のあとなのは間違いないと思います」
「……そう」
(あれ、落とした場所がわからないのもちょっとおかしくない?)
休日に傘を持って出掛けて、登校時に紛失したことに気付いたのは覚えている。買い物をした店に傘立てはなかったから、置き忘れたりもしていない。それに、あの日は雨なんて――雨は――
(……まただ)
雨を連想すると、必ず、『雨は降っていない』という言葉が脳裏をよぎる。
CMのキャッチコピーを思い出したときのように。だれかに言い聞かせられているかのように。
(きっと、会ってるんだ。それなのに私が忘れて――忘れさせられて? でも、そんなのどうやって――)
不意に恭弥が首を動かしたので、利奈もそちらに視線を向けた。
屋上の柵越しに、沈む太陽が見えた。紫の空の端で燃えあがる、最後の残り火が。
――またいつか、彼と対峙する時が訪れる。
そしてそれはきっと、遠くない未来――いや、数秒後にやってくるかもしれない脅威であった。