―――――
並盛中学校の偏差値は、優なく不可なく良である。私がいた学校に比べると少し低いくらいで、授業についていけないなんて悩みはなかった。平均点は余裕で越えられたし、先生の覚えもいい。なので私は、特に気を張ることなく、ほかの同級生たちと同じくらいのペースで、ゆったりと授業を受けていた。
それが、この日はよくなかったのかもしれない。ただでさえおなかいっぱいで眠たくなる午後。間延びした先生の声。おまけに窓際のうららかな日差し。チャイムの音で目が覚めると、いつの間にか授業が終わっていた。
(うわああ、私、いつから寝てたの!?)
動揺する私をよそに、みんなが次々と席を立っていく。運悪く、六時間目の授業は移動教室だった。椅子を引く音が重なるなか聞こえる、先生の声。
「えー、ここはテストに出ますからね。みなさん、しっかりと復習しておいてくださいね」
(よりによって!)
重要事項に、寝ぼけていた脳が一気に働き出す。とにかく、黒板に書いているぶんだけでも、写しておかなければならない。ノートを見せてくれる友達なんて、いないのだから。
黒板を消す係の子にお願いして板書を残してもらい、ギリギリ読めるレベルの雑さでノートに写し取る。腕がものすごく痛くなったけれど、終わったら黒板を消して、音楽室まで走るだけだ。
(おっと、楽譜忘れないようにしなくちゃ)
先週に出された大量のプリントを小脇に抱える。教室にはだれもいないし、残り時間ももうわずかだ。こうなったら、先生が行く前に音楽室に滑り込むしかない。
私は大急ぎで教室を飛び出した。授業開始のチャイムが鳴るなか、階段を使う人もいなかったので、一段とばしに駆け上がる。息を切らして折り返しを半回転したところで、下りてきていた生徒とぶつかってしまう。
「きゃあ!」
声が重なった。ぶつかる直前でなんとかブレーキはかけられたものの、撥ね返された拍子に、私が抱えていたプリントが全部、階下へと流されていった。白い紙が宙を舞う。
(ヤッバ、拾わなきゃ!)
プリントを拾うために、慌ててしゃがみ込んだ。ただでさえ授業に遅れると焦っていた私は、目の前のことでいっぱいいっぱいになっていて、ぶつかった相手にまで気が回らなかった。まずいと気付いたのは、盛大に舌打ちを浴びせられてからだ。
「ちょっとあんた、なにしてくれてんの?」
棘のある声に顔を上げると、見るからにギャル系の女子生徒たちが、私を見下ろしていた。しかも、最上級生である。
「あんたのせいで飲み物こぼしたんだけどー。どうしてくれんの?」
「ってか、ぶつかっといて謝りもしないってなに?」
「階段走ってんじゃねえよ」
ぶつかったと思われる女性の手には、紙パックの飲み物が握られていた。階段に数滴、ピンク色の雫が垂れている。
「ご、ごめんなさい」
「ごめんなさい? 謝って済むと思ってんの?」
「ぶつかってきたのそっちだよね。ちゃんとジュース弁償してよ」
「そうそう、私たちのぶんもよろしく」
「えええ!?」
こぼした飲み物を弁償しろと言われるならわかるが、全員分となると話が違う。そもそも学校にお金は持ってきていないから、弁償するにもお金がない。
「今、ちょっとお金持ってなくて。それに、そのジュースは弁償しますけど、それ以上は無理――」
「はあ!?」
頭上から凄まれて言葉が切れる。床に座り込んでしまったせいで、彼女たちの迫力が三割くらい増していた。
「え、弁償できないの? それで許されると思ってる?」
「っていうか、あんたのせいで私たち授業遅れてんだけど。そこんとこ、わかってる?」
「あーあ、遅刻になっちゃったなー。下級生にぶつかられたせいで」
「そんなこと言われても……」
「ああ? 先輩に口答えする気?」
そもそも、こんな時間に教科書も持たずにうろついていたってことは、最初から授業をサボるつもりでいたのだろう。それを私のせいにして、お金をタカるつもりなのだ。
(……あれ、これってもしかして私、強請られてる?)
やっと気付いたけれど、どうにもならない。授業が始まっている今、だれかが通りかかってくれる可能性はほとんどないし、上級生五人を相手に逃げ切れる自信はない。授業に遅刻してしまう件など、気にしている場合ではなかった。
「ちょっと場所変えよっか」
もっと人目に付きにくい場所で脅そうと考えたのだろう。嫌な笑顔で上級生がそう提案した。
「おら、立てよ」
彼女たちに従ったら終わりだ。でも、この状況で反抗する術はない。私はぎゅっと唇を噛む。
「聞こえてんだろ? さっさと――」
「そこ、なにをしている」
階下からの声に、全員一斉に顔をそちらへと向けた。黒に身を包んだ風紀委員が三人、階段の下から険しい表情でこちらを見上げていた。その視線は主に上級生たちに向いていて、上級生グループがわかりやすく身を怯ませる。
「あ、いや、なんでも……」
リーダー格の上級生が、先ほどとは打って変わった小さな声で応じる。さすがの彼女たちも、風紀委員という名の強面集団には弱いのだろう。年齢は同じくらいなのに、年季と格の違いを感じさせられる。
「授業が始まっているはずだ。全員、教室に戻れ」
真ん中に立っている風紀委員は、とてつもなく渋い声だった。声変わりしているにしても、電話だったら確実に父親と間違えられる声音である。――いや、顔も父親側だが。
私にとっては願ってもない命令だが、上級生たちはそうではない。一様に顔を見合わせた。
「うちら、この子に――」
「俺たちに二度言わせるのか?」
喧嘩っ早そうな一人が一歩だけ足を踏み込む。彼はまだなんとか高校生くらいの声音だ。有無を言わせない態度に、上級生たちが我先にと階段を上っていく。
「あんた、覚えてなさいよ!」
――利奈に、捨てゼリフを残して。
(助かってないけど、助かった……)
女豹の群れに襲われている最中にライオンがやってきたものだ。しかし、あんな無茶苦茶な要求をする人たちよりは、こちらのほうが筋は通っている。
「おい、お前もさっさと教室に戻れ」
「はいっ!」
彼らは授業に出なくていいのだろうか。そんな余計な疑問が頭に浮かぶけれども、それどころではない。私もさっさと戻らなければ。
(あー、プリント落っことしてたんだった!)
ぶつかった拍子に落とした楽譜が、階段の下まで散らばってしまっている。私がオロオロと彼らと楽譜を見比べているのを見て、風紀委員の一人が、足元のプリントを拾い上げた。
「お前のものか」
やっぱり彼の声が一番低い。私は控えめに頷いた。するとなんと、彼がプリントを拾い始めるではないか。
(し、親切! 顔に似合わず!)
余計なことを思いながらも、私もプリントを拾う。
「大木さん、俺たちが」
この人に拾わせてはいけないとばかりに、ほかの二人がフォローに入った。どうやら、大木という人が、このなかでは一番偉い人らしい。さっさと私を授業に向かわせたいだけだというのはわかっているけれど、声をかけてくれたり、プリントを拾ってくれたり、風紀委員も意外と親切だ。
――委員長は、問答無用で襲いかかってくるというのに。
「それで、今のはなんだったんだ?」
比較的、話し方が恐くない人が声をかけてきた。残る一人はほとんど声を出していないものの、ちゃんとこちらの様子は窺っている。なんとなく、物騒な目つきをしていた。
「えっと――私が先輩にぶつかってしまって」
これはちゃんと伝えておかないとならないだろう。無茶な要求をされたとはいえ、初めに問題を起こしたのは私だ。まさかこのタイミングで人が下りてくるなんて思ってなかったけれど。
「その、風紀――みなさんは、授業大丈夫なんですか?」
「風紀委員だからな」
「そ、そうなんですかー」
答えになっていない。しかしそこを突っ込む余裕はないので、さらりと受け流した。
「さっきの連中はお前の知り合いか?」
今度は大木に尋ねられる。
「いえ、全然」
正直言って、顔ももう忘れている。五人とも同じような顔だったし、どうやってあの場を切り抜けるかに神経を使っていたせいで、あまり顔をちゃんと確認してなかった。あちら側も同じように私の顔を忘れていてくれれば助かるのだけれど、さすがにそれは難しいだろう。五人もいたのだし。
「そうか」
彼らは彼女たちを知っているようだ。階下で交わされている意味深な目配せが怖い。初対面の私にあれだけ高圧的な態度をとる人たちだったのだから、普段から素行が悪いに決まっている。嫌な人たちに目をつけられてしまったものだ。
「お前の名前は?」
風紀委員に名前を聞かれるのはこれで二度目になる。悪目立ちするのは避けたいけれど、答えないわけにはいかない。
「相沢です」
拾ってもらったプリントを受け取りながら答える。枚数は数えていないけれど、見えるところになければ漏れはないだろう。
「そうか。では、相沢。速やかに授業に戻るように」
お咎めはないらしい。私は改めてお礼を言うと、遅刻が確定してしまっている音楽の授業を受けるため、階段を駆け上がった。
――階段の裏に上級生が潜んでいて、一部始終を盗み聞ぎされていたことに、私はまったく気が付かなかった。