とうとう、雲の守護者である雲雀恭弥の対戦日がやってきた。
蓋を開けてみれば、恭弥の出番は最後の最後。焦らしに焦らされただけあって、今日の恭弥の雰囲気はピリピリとひりついていた。
それにしても、一敗したら終わりのあの状況から、よく最終戦まで持ち越せたものである。
本当に、試合がなくならなくてよかったと思う。もし綱吉たちが負けていたら、血が滲んでいたあの修行は無駄になり、鬱憤を持て余した恭弥による無差別乱闘が始まっていただろう。学校が崩壊せずにすんだのを、とても喜ばしく思っている。
「今まで、お疲れさまでした」
ぺこりと頭を下げてコーヒーを差し出すと、眉を下げてディーノが微笑んだ。
「お前もな。いろいろと迷惑をかけた」
「いえいえ……って言いたいですけど、はい、頑張りました」
胸を張っておどけてから、ディーノの隣に座りこむ。屋上は風が吹きつけてくるけれど、手の中のカフェオレの熱のおかげでまったく寒さは感じなかった。
屋上にいるのは利奈とディーノだけで、恭弥はいない。対戦当日ということもあって、今日は修行を行わないらしい。
賢明な判断だ。恭弥に手加減という三文字はないし、本番前に修行で体力を削ってしまう可能性がある。ただでさえ毎日生傷をこしらえていたのだから、本番前くらいはおとなしくしてもらわないと。
(屋上もボロボロ……。修理はなんか、審判の人……えっと……チェンベロ? って人たちがやってくれるって言ってたな。修理代もその人たちが出してくれるっていうから、ラッキーだよね)
でなければ、こんなに心穏やかにカフェオレを飲んではいられなかった。
一時期、海やら山やらで修行されたときは、わざわざ修行場所まで報告書を見せに行くのが手間だったけれど、校舎をボロボロにされるのも困る。それが今日で終わりだと思えば、解放感もひとしおだ。
「ディーノさん、今日はこのまま帰るんですか?」
今日のディーノの訪問目的は、恭弥に集合時間と場所を念押しするという簡単なものだ。ディーノ本人が行ったら恭弥の闘争心が刺激されかねないので、部下のロマーリオが伝言を伝えに行っている。さすが、ここ最近ずっと恭弥につきっきりだっただけあって、恭弥の行動パターンをよくわかっている。この戦いが終わったら一旦お別れになってしまうのがもったいないくらいだ。
「やることが山積みだからな。今日の戦いが終わったら、向こうに戻って自分のファミリーの仕事もやらなきゃなんねーから、それまでにこっちでできることは全部終わらせときたい。サボった分、ちゃんと働かねえと部下もうるさいし。
時間があったらおいしいものでもご馳走してやりたかったんだが、悪いな」
「いえ、また今度……」
昨日さんざん甘くておいしいものを食べさせてもらったあとなので、なんとなく罪悪感を覚えてしまう。
それはそれとして、利奈はディーノの口ぶりについ口元を緩めてしまった。
「ディーノさんは、ヒバリさんが勝つって確信してるんですね」
「ん?」
「だって、全然心配してないんですもん。ヒバリさんが負けるって」
恭弥の負け、すなわち綱吉陣営の敗北である。そうなると、ボンゴレファミリーと同盟を結んでいるキャバッローネファミリーとしても大事だろうし、敗北したら通常業務どころではなくなるだろう。それなのに部下の顔色なんて気にしているディーノに、利奈はにっこりと笑みを浮かべた。
「私もヒバリさんが勝つって思ってます。だって、ほかのみんなが勝ててるのにヒバリさんが負けるなんて、ありえないですから」
今のところの勝率は五分五分だけど、その均衡を恭弥が崩すとは考えられない。万全の状態の恭弥を倒せる人がいたら、それこそ化け物だ。
「ヒバリが勝つさ。なんたって、この俺が直々に育て上げた自慢の生徒だからな」
修行中、ディーノはたびたび恭弥の才能を褒め称えていた。
底が知れない。未知数。どこまでも強くなる。今までの恭弥が完成形でなかったことにも驚いたけれど、そんな恭弥をしっかりと鍛え上げてきたディーノの実力も、利奈からすれば超人級である。
並盛町の人間では絶対に為しえないであろう風紀委員長雲雀恭弥の教育を、彼は一週間程度でやり遂げてしまった。そんな彼が太鼓判を押しているのだから、恭弥の勝利は確実視してもいいだろう。
「とはいえ、あいつらがおとなしく引き下がるかどうかは別だ。その辺りは用心しておくに越したことはない」
「……え?」
「ハハ、大丈夫。お前たちが心配することはなにもない。マフィアってのは抗争に一般人は巻き込まねえからな。
あいつらがルール無用で来るようなら、俺たちもそれ相応の反撃をさせてもらうってだけさ」
ようするに、いざというときはファミリーの垣根を越えて綱吉たちを援護すると言いたいのだろう。今はルールが定められているから手は出せないけれど、相手がそれを破るようならこちらも守る必要はないと。ディーノが援護してくれるなら、これほど心強いことはない。
「ところで、それはなんだ? いつもと違うよな」
話に一区切りついたところで、ディーノがお盆に乗っている牛乳パックを手に取った。いつもは小さな容器に入ったミルクを使っているから、相当目立っていただろう。
「給食の残りの牛乳です。なんかコーヒーのミルクが切れちゃってて」
コーヒーは職員用のものを使って淹れているから、ほかの職員が使い切ればなくなってしまう。運悪く在庫もなかったので、こっそり給食用の冷蔵庫から牛乳を持ち出したのだ。どうせ廃棄されるものだから、人目を気にする必要もなかったのだけど。
「利奈は甘くないと飲めないんだったな。それでか」
「はい。でも、そのおかげですっごく美味しいカフェオレが作れました。牛乳に粉入れてチンしたから、もうほとんどコーヒー牛乳です」
全部はカップに注ぎきれなかったので、カフェオレを飲んだあとに飲み切ろうと思って、一緒に持ってきた。
ディーノが揺すると、チャプチャプと音が鳴る。
「牛乳入れるとかなり甘くなるよな。徹夜してたら、ロマーリオがほとんど牛乳でできたカフェラテ持ってきたことがあったっけ」
子ども扱いされたことを思い出してか少し唇を尖らせているけれど、ディーノの眼差しは優しいものだった。
「せっかくだから淹れてみます? あ、でも、冷めちゃいますね」
「いや、もらおうか。熱いからちょうどいいだろ」
ディーノが牛乳を注いでいるあいだにと、利奈は携帯電話で時間を確認した。そろそろロマーリオが戻ってくるとして、ディーノが帰ったら見回りの報告をまとめなければならない。
(今日が終われば、またみんな学校に来れるのかな……。獄寺君は一回入院したほうがよさそうな格好だったけど)
ここ最近姿を見ていないのは、武と綱吉の二人だけだ。武の怪我の具合は隼人から聞いているし、綱吉も修行で学校に来ていないものの、勝負に参加していないから大丈夫だろう。指輪を取られた時点で出場権はなくなっているような気もするけれど、一番弱そうな綱吉が戦わずにすんだのは幸運だった。
(……そういえば、引き分けってあるのかな。ヒバリさんが負けるとか絶対ないけど、また変な条件の勝負だったら引き分けになっちゃう可能性も少しは……)
ディーノに尋ねてみるべきだろうか。いやいや、さっき勝つと信じてますアピールをしたのに、ここで引き分けの話を出してしまったら格好付かない。恭弥が勝って試合終了、それでいい。
さて、そろそろ牛乳を入れたコーヒーの感想をとカップを覗いた利奈は、中の液体の色が黒なままなのを見て、目をしばたいた。
牛乳を注ぐ音がしているのになぜ――と身を引いた利奈は、次の瞬間、瞬きすらできなくなってしまった。
(零れてる! しかもなんかカメに全部かかっちゃってる! え、このカメはどっから!?)
糸のように細く伸びた牛乳は、コーヒーカップのわきをすり抜けて、どこからともなく現れたカメの甲羅にビシャビシャと降り注いでいる。
ディーノはというと、牛乳パックを傾けたまま、ぼんやりと空を見上げていた。憂いを帯びた横顔は見た人の心を虜にする美しさだったものの、いかんせん、状況がシュール過ぎた。
「ディーノさん! 手元手元!」
「え? ……あ、うわ! エンツィオ!?」
利奈の呼びかけで、ようやくディーノは自分がしでかしていることに気付き、声を張り上げた。動転のあまり手のひらを開いたせいで、牛乳パックが下に落ちてしまう。
「立って! 立って、ディーノさん! 服濡れちゃいますから!」
「お、おおう、悪い」
服を汚しては一大事と、いち早く立ち上がった利奈が腕を引っ張れば、動揺したままディーノも立ち上がる。その拍子にカップが倒れ、先に水たまりを作っていた牛乳と混ざり合い、カフェオレが完成した。
カメはというと、ディーノが落とした牛乳パックを頭から被ってしまい、窮屈そうにじたばたと体を動かしている。
「このカメ、なんですか? ディーノさんの?」
「ああ、俺のペットのエンツィオだ。いや、それより早く――」
「ひい!?」
視界を塞がれて混乱しているのか、カメが勢いよく動き出した。手のひら大のカメが足元で暴れるものだから、利奈は大慌てでディーノの背後に避難する。
「エンツィオ、落ち着け! 今それ取ってやるから!」
牛乳パックを取ろうとディーノが手を伸ばすものの、視界を塞がれたカメはジグザグと出鱈目に逃げ惑う。
(……あれ、なんか、さっきより大きくなってない?)
最初に見たとき、牛乳が上から注がれていた時には、利奈の手のひらに収まる大きさのカメだったはずだ。それがディーノの手のひらくらいの大きさになって、今では手を広げたくらいの大きさになっている。しかも、どんどん動きが荒くなっている。
「ディーノさん、そのカメ、なんか変じゃ――」
「よし、捕まえた! ――ううおっ」
飛びかかるようにしてカメをひっつかんだディーノだったが、捕獲した場所が悪かった。先ほど自分が零した牛乳に足を滑らせて、ディーノの体が後ろへと倒れ込む。
「ぐあっ!」
「ディーノさん!?」
派手にしりもちをついたディーノの手から、エンツィオが勢いよくすっぽ抜けた。
(た、大変だ!)
カメには甲羅があるけれど、コンクリートに叩きつけられて無事でいられる保証はない。こうなったら爬虫類が苦手なんて言ってられず、利奈は頑張ってエンツィオを受け止めた。
「や、やった!」
しかし、今度は両手を広げたくらいの大きさに変わっていた。そんなエンツィオの顔を間近に見た瞬間、ぶわっと鳥肌が広がり、利奈の忍耐は呆気なく限界を迎える。
「ひいい……! ディーノ、ディーノさ、早く! 早く取って! 取ってえぇぇ……!」
なけなしの根性でなんとか落とさずにいられているものの、逃げ出そうと身をよじるエンツィオに腰が引けてしまう。しかも、首をひねって利奈の指を噛もうとしているのだからたまらない。
一刻も早く飼い主に引き渡したいところだが、ディーノとは微妙に距離が開いていた。
「落ち着け! 落ち着いて地面に――」
「いやああ! 噛む! 噛もうとしてる! ディーノさぁん!」
「くっ、わかった、もういい! 利奈、こっちに投げろ!」
「う、はい」
もうこうなったら自棄である。それでもなんとか優しく放り投げると、ディーノが鞭を取り出した。
「せっ!」
掛け声とともに勢い良く伸びた鞭が、エンツィオの甲羅に巻き付いた。そして勢いを殺すために反対側へとしなり――そのまま柵の向こうへと飛んでいく。
「エンツィオー!?」
(またすっぽ抜けた!? 嘘でしょ!?)
叫びながら手を伸ばすディーノだが、エンツィオははるか上空を飛んでおり、ディーノの手は届かない。
学校の屋上から落ちてしまったらさすがに助からないだろうと、これから起こる悲劇に目をつむりたくなった利奈だったが、そこは幸運が味方をしてくれた。
放物線を描いて飛んで行ったエンツィオ――また大きくなっている――は、そのままなんの抵抗もなく落ちていき、水の溜まっていたプールへと着水した。
(せ、セーフ? 助かった?)
水の中に落ちたのなら、無事でいてくれているかもしれない。身を乗り出してエンツィオを見つけようとする利奈とは対照的に、ディーノは大きく体を仰け反らせた。
「こ、これは大変なことになったぞ……!」
「ディーノさん!?」
青ざめながら屋上を出ていくディーノ。ついていく前にまずは安否をと、なお目を凝らした利奈だったが、プールに浮かぶ黒点を見つけ、安堵の息をついた。
(よかった、動いてる。……んん?)
黒点が、みるみる大きくなっていく。目を凝らしてやっと見える程度の大きさだったはずの黒点、もといエンツィオが、じわじわと水の中で面積を増していた。
(……幻? 勘違い? でもなんか、どんどんおっきくなって――)
エンツィオの顔が水面に浮かぶ。プールが水槽のように見えてきたけれど、屋上との距離を考えれば、それがどれほど異常なことかわかるだろう。実際、利奈は悲鳴を上げた。
(と、とにかくディーノさんに――ううん、まずは報告! ヒバリさんに報告!)
ここにきてようやく緊急事態であると判断した利奈は、手すりで反動をつけて勢いよく飛び出した。一足遅れて戻ってきたロマーリオが、血相を変えた利奈の姿に目を見開く。
「どうした、そんなに慌てて」
「はな、話はあとで! プール! プール見てください!」
「はあ?」
走り去る利奈を見送りながら、ロマーリオは首をひねる。なにはともあれボスに事情をと見渡しても、屋上で待っているはずのディーノの姿はどこにもない。
「なんなんだ、いったい……。プールって、プールになにが――」
その十秒後、ロマーリオは驚きの叫び声をあげるのだが――その叫びを聞く者は、どこにもいなかった。