裏門から足を踏み入れたとき、それは起こった。
キィンと耳の奥で響く耳鳴りとともに視界が歪んで、利奈は体をふらつかせた。
(なに、これ……)
前にも味わったことがある感覚だ。ただし以前と違うのは、歪んだ視界が元に戻ると同時に、やけに五感が鮮明になったところだろう。今までが異常だったのだと言わんばかりに、利奈の五感に劇的な変化が起こった。
まず、匂い。空気の匂いがまるで違う。ひりつくような焦げた匂いに肌が粟立つ。
次に衝突音。鮮明ではないけれど、どこか遠くで壁の崩れる音がした。
そして目に映っていた光景。校庭にはポールが、校舎裏には幾人かの人影が出現した。一瞬前には、なにもだれも存在しなかったというのに。
『圧倒されてる場合ではありませんよ』
耳元から聞こえた声にハッとした。骸の言うとおり、ここで立ち止まっている時間はない。事態は一刻を争うのだ。
『幻術で貴方の姿は彼らから見えないようにしてあります。この身体ではあまり力が使えないので、さっさと校庭に向かってください』
「はいっ」
骸の指示に従って校庭へと走る。夜なのにやたら明るく感じると思ったら、校舎の屋上にモニターが設置されていた。
映っているのはなんの変哲もない校舎の外観だけど、衝突音はまだ続いている。音の響き方からして、校内ではなさそうだ。中庭か、校舎を挟んでさらに奥、体育館のほうで戦っているのだろう。気にはなるけれど、今はただ無事を祈ることしかできない。
ぼんやりと見えるポールを目印に走っていた利奈だったが、近づくにつれて鮮明になってきた光景に、戸惑いを隠せなくなった。念のためにと足を止めて目を凝らしてみるも、やはり目の前のものは変わらない。携帯電話を握る腕に力がこもる。
「あの……、骸さん? 私の目がおかしくなかったら、なんか――ヒバリさん、動いてるみたいなんですけど」
毒に苦しんで倒れ伏していると思っていた恭弥が立ち上がっている。
それだけでも十分驚きだったのに、恭弥は現在、ポールを破壊するためにトンファーを振るっていた。
『ええ、僕の目にもそう見えてますよ。
……デスヒーターは、大型動物ですら行動不能にする劇物だったはずなのですが』
骸にとっても想定外だったようで、歯切れの悪い返事が返ってくる。
投与された量が少なかったのか、その毒に耐性があったのか、それともまったく違う理由で動けるようになったのか。よく見れば動きに精彩はないし、足元もだいぶふらついている。しかし、強烈な打撃音がその威力を物語っていた。この調子なら、じきにポールも破壊されるだろう。
(……私、いらなかったんじゃ?)
手のなかの爆弾に目を落とす。こんなものなくても、恭弥は自分で指輪を手に入れられそうだ。そもそも、恭弥を助けようなんて考え自体がおこがましかったのかもしれない。だれかの助けが必要になる人ではないと、風紀委員なら一番に理解していたはずなのに。
「……どうします? 戻ります?」
『……いえ、とりあえず彼を手伝ってください。一秒でも早いほうがいいですから』
なんだか気まずい雰囲気になってきた。早ければ早いほうがいいに決まっているけれど、骸の言葉には利奈へのフォローも入っているような気がした。こんな夜中に連れ出しておいて、やっぱり必要なくなりましたなんて、口にできるわけがないだろう。
気乗りはしないものの、利奈は恭弥との距離を詰めた。
ポールは真ん中に一本、三角錐の形に三本の合計四本の柱で構成されていて、すでに二本が恭弥の手によって破壊されている。
三本目、真ん中の柱に手をつけようとしていた恭弥だが、利奈に気がついて腕を止めた。
「……こ、こんばんは?」
据わった眼をする恭弥に臆しそうになりながらも、利奈は片手を上げる。
言いたいことがいろいろあるのか、恭弥はすぐには口を開かなかった。利奈が逆の立場だったとしても、どうしてここに来たのかと責めたてていただろう。しかし恭弥は小さく嘆息し――
「下校時間、もう過ぎてるよ」
そう呟くだけに留めた。
おそらく、余裕はほとんどないのだろう。なんでもないように表情を装ってはいるものの、額からは大粒の汗が滑り落ちているし、呼吸も荒い。暗くてはっきりとは識別できないけれど、なんとなく頬が上気しているようにも感じられた。
それに、普段の恭弥なら、ここまで接近しなくても存在を感知できていたはずだ。こんな、あと数歩で届くような距離まで近づかせるような真似、するわけがない。
(やっぱり毒が効いてるんだ……。早くしないと)
恭弥でこれなら、ほかのみんなはもっと苦しんでいるだろう。毒の回り方にも個人差があるだろうし、急がなければみんなの命が危ない。
ポールの柱はあと二本。爆弾を使えば、すぐにでもポールを倒せるかもしれない。
(でもこれ、爆弾使わなくてもなんとかなりそう)
外側二本の柱がへし折られていて、真ん中の柱もかなり歪んでいる。二本の柱を二人掛かりで揺すれば、上の台に乗ったリングを簡単に落とせるかもしれない。
「ヒバリさん、二人で柱を押してみましょう! せーので一緒に――」
利奈の提案を一考もせずに、恭弥は無傷だった柱にトンファーを振り下ろした。金属製のポールが細かく振動する音が耳に木霊する。
(……えー)
いっそ清々しさを感じてしまうくらい、きれいに意見を無視された。毒のせいで余裕がなくなっているのか、ただたんに、他人の意見に聞く耳を持たないだけなのか。後者の確率が高いところが空しい。
(いいもん、私も勝手にやるから)
なにもするなと命じられていないのをいいことに、利奈は両手でポールを押してみた。高さが仇になっているのか、ちょっと体重をかけただけでポールの上部が揺れた。これならなんとかなりそうだ。
(よし、あとはヒバリさんとタイミングを合わせて――ていやあ! ……いったあ!)
振り上げた足で、ポールを思い切り踏みつけた。足の裏から伝わるジンとした痺れに飛び跳ねながらも、利奈はポールを見上げる。
二点から衝撃を与えられたポールの頂点は大きくぐらついて、円形の台座から、銀色の欠片が零れ落ちた。
「っ、ヒバリさん! 落ちました!」
なおもポールに攻撃を繰り出す恭弥を止めて、利奈は転がった指輪を拾う。これを恭弥のリストバンドに装着すれば、毒を打ち消せるはずだ。
「失礼します」
有無を言わさずに恭弥の腕を取った利奈だったが、シャツ越しに伝わってくる熱の高さに驚いた。軽く握っているだけなのに、脈拍まで感じてしまう。
恭弥は抵抗する力もないのか、されるがまま、浅い呼吸を繰り返す。
(ここに指輪を嵌めればいいんだよね)
リストバンドには液晶画面がついていた。夜空を映した画面の下に、指輪のヘッド部分と同じ形の溝がある。そこに拾った指輪を押し当てると、いやな音とともにリストバンドが振動した。解毒剤が撃ちこまれたのだろう。
「どうですか、ヒバリさん」
まず、手を振り払われた。かなり失礼な態度ではあるものの、利奈も許可を取らずに腕を掴んだので文句は言わない。
「あの、体調は?」
恭弥は返事もせずに額の汗を服の袖でぬぐう。どうしても質問に答えたくないようだ。頬の赤みは消えているから、解毒は成功しているのだろう。ひとまずこれで一安心だ。
(えっと、あとはヒバリさんに任せて私は帰ればいいんだよね。そうだ、念のためにヒバリさんにクロームの居場所を――っきゃあ!)
利奈の思考は銃声に引き裂かれた。続けざまに響いたもう一発の銃声に身をすくませる利奈だったが、かたわらの恭弥は一切身構えずに屋上のモニターを見上げている。利奈も頭を両手で押さえながら、目だけをそちらに動かした。
(あ、やっと人が映った)
屋上のモニターには、見覚えのない男の全身が映されていた。毒に苦しんでいる様子もないし、彼がヴァリアーのボスであり今回の戦いの仕掛け人、XANXUSなのだろう。傷跡だらけのその顔は前方を見据えていて、その両手には一丁ずつ拳銃が握られていた。
(銃使うの!? しかもふたつ!?)
手にしている武器に意外性はまるでない。むしろ、マフィアの武器として真っ先に連想されるのは銃だろう。しかしここは日本で、しかも、深夜とはいえ市街地である。聞きつけた住民が駆けつけてきたら、いったいどう始末をつけるつもりなのだろう。
(じゃなくて! さっきの銃声、まさか!)
画面に綱吉は映らない。血の気が引きそうになるけれど、XANXUSの視線が一点に固定されているということは、その先に綱吉の姿があるのだろう。XANXUSの目に勝利の色は映っていないし、きっとまだ無事でいてくれているはずだ。
それに綱吉も、さすがに素手で戦ったりはしていないだろう。おそらく、XANXUSと同じように銃かなにかを武器に使っているに違いない。でなければ、一瞬で勝負がついているはずだ。
「……って、あれ? あ、ヒバリさん!」
モニターに釘付けになっていたら、いつのまにか恭弥は校舎に向かって歩き出していた。毒の効果は完全に消え失せたようで、足取りはまっすぐ安定している。
(えっと……見送って大丈夫、だよね? 私、このまま帰っていいよね?)
放っておいても恭弥は相手の守護者を倒してくれるだろうし、ほかのみんなも救出してくれるだろう。唯一の懸念は守護者の救出より先にXANXUSに勝負を仕掛けかねないところだったが、そこは恭弥の良心――ではなく、愛校心を信じるしかない。校内で死者を出したりなんかしたら、学校の評判はガタ落ちだ。
(私が行ってもどうせ人質にされるだけだし。骸さんの指示通り、みんなに任せて早く帰ろう)
そう判断して踵を返した利奈だったが、手に残っていた小物の存在を思い出して、悲鳴をあげた。あろうことか、守護者の証である指輪を恭弥に渡し忘れてしまっていたのだ。
(ああ、もう馬鹿! これ持ってたら私も狙われるのに!)
今ならまだ、恭弥がだれかに接触する前に追いつけるだろう。利奈は大急ぎで恭弥のあとを追った。
――もしこのとき、リングを返すのを諦めて校外に出ていたら、利奈と彼らのその後はまったく違うものになっていただろう。少なくとも、利奈の今夜分の災難は終わっていたはずだ。
とはいえ、どちらにしろ大差はなかったのかもしれない。今夜の出来事がどうなろうと、迎える未来は――絶望は、変えることができないのだから。
「ヒバリさん!」
恭弥の背に呼びかけたところで、上空から発砲音が聞こえてきた。
ギョッとして見上げた先にわずかに見えたのは、宙を浮く人影。しかし、利奈の注意はすぐさま他所へと向いてしまう。
XANXUSが撃ったのは、屋上のポールだったのだ。
塔のようにそびえたっていたポールが倒壊し、地震のように地面が揺れる。屋上と、それからなぜか校舎の三階から煙があがり、利奈は大慌てで恭弥のもとへと駆け寄った。
「なにしに来たの」
「あ、その――」
「やっぱりいい。ちょっと黙ってて」
「はあ!?」
(聞いたのヒバリさんなのに!)
さすがに理不尽が過ぎると今度こそ文句を言おうとした利奈だったが、トンファーを構える恭弥に、キュッと唇を引き結んだ。
そして、利奈は一部始終を目撃した。
三階から飛び降りる人影を。音もなく距離を詰めて襲いかかった恭弥の背中を。恭弥が弾いた指輪が三階へと吸いこまれていくさまを。
「君……天才なんだって?」
敵を見下ろす恭弥の表情は見なくてもわかる。張りつめた緊張感のなか、利奈は行き場を失った指輪をぎゅっと拳に握りしめた。