三階から飛び降りてきたのは、ヴァリアー嵐の守護者、ベルだった。
恭弥と同様に解毒済みのようで、その表情に陰りはない。しかし、恭弥越しに利奈を見るその顔には、疑問の色がありありと浮かんでいた。
「お前、なんでここにいんの?」
「うっ」
ベルの指摘はもっともだった。ファミリーの継承権を賭けたこの総力戦に参加していいのは、ボス候補者とその守護者のみ。ファミリーに所属していない利奈には、出場権どころか見学権すら与えられていなかっただろう。
本当は関係者に見つからないうちに退散する予定だったけれど、想定外なところからベルが現れたために、逃げ遅れてしまった。まさか、上から降ってくるとは。
(よりによってベルに見つかるなんて……)
はっきりいって、一番遭遇したくなかった相手である。
ほかのヴァリアー守護者に見つかったのなら、巻き込まれた一般生徒を演じることができた。マーモンだったとしても、見逃してくれる可能性があった。しかし、ベルは駄目だ。交渉が決裂する未来しか見えない。
(最悪……)
もっとも、だれに遭遇したところで結果は同じなのだが、それは当事者である利奈にわかるはずもなかった。
――そう、現在の状況は、観戦席のモニター、および、睨み合う綱吉たちの眼前のモニターにしっかりと放映されている。
綱吉陣営の人間は一般人の利奈が混ざっていることに驚き、第三者に興味のないXANXUSはベルと対峙する恭弥を睨み、チェルベッロ陣営はいつのまにか這入していた第三者の存在に動転していた。事情を知る者が一人もいないために、動揺の輪は広がるだけ広がって、戻らない。
自身が話題の渦中にいることなど露知らぬまま、利奈はベルから目を逸らす。そんな利奈の態度からなにかしら後ろめたさを感じ取ったのか、ベルは口元に笑みを張りつけた。
「へえ、なんかありそうじゃん。そこんとこ詳しく――おっと」
さりげなく距離を詰めようとしたベルに、恭弥が片腕を上げた。利奈も拒絶の意味をこめて恭弥の陰に顔を隠す。
「そんなに警戒しなくていいって。俺、別に戦うつもりないし」
警戒をあらわにする二人に、ベルはおどけた様子で両手を上げた。
「任務だからリングは集めるけど、まずは仲間の解毒が先だからさ。そっちだってそうだろ? それに、ハンデ抱えて俺に勝とうとか、無謀も甚だしいし」
ハンデという言葉に、利奈はぎゅっと拳を握り締めた。手のひらの指輪が熱を持つ。
(むかつくけど、ベルの言うとおりだ……。私がいたら邪魔になる)
ベルの実力を目にしたことはないけれど、利奈の存在が恭弥に味方する可能性は限りなくゼロに近い。いや、皆無と言い切っていい。間違いなく足手まといだ。
(見逃してくれるって言うんなら、それに越したことないけど……でも)
「……それが僕から逃げるための言い訳かい? 案外弱気なんだね」
恭弥がそんな提案に乗るはずもなかった。むしろ挑発する始末である。
「強がんなよ、エース君。足怪我してんのバレバレだし」
「君だってそうだろ? あの松葉杖が君の武器だっていうのなら、話はべつだけど。拾いに行くの、待っててあげよっか?」
「……うっざ。なあ、お前も黙ってないでなんか言えよ」
とりあえず、部外者の利奈にも発言権は与えてくれるらしい。
恭弥を説得してほしいのだろうが、あいにく、それは不可能だ。その申し出を受けるくらいなら、彼は自分の手でお荷物の利奈を屠るだろう。そういう人間だ。それがわかっているからこそ、利奈は天を仰いだ。
もちろん、お手上げの合図ではない。喋っていいと言われたから、声を出させてもらうだけだ。遠慮なく。全力で。
「獄寺くーん!」
声を張り上げた途端にベルがギョッと身じろいだが、もう遅い。盾にされている恭弥も利奈の行動に眉をしかめはしたが、無言のまま、諦観のため息をついた。
「そっちに指輪いったー! 落ちてるから、早く使ってー!」
ベルの対戦相手が隼人だったことは知っている。今もなお、三階にいるであろうことも。
せっかく恭弥がうまく指輪を弾いてくれたのに、気付かれずに間に合いませんでしたでは笑えない。どうせのちのちバレるのならと、利奈は盛大に隼人に呼びかけた。
(ふう、これでよしっ。……あー)
満足した利奈は、急激に下がった場の温度と、自分に向けられた殺気の鋭さに目を丸くした。そして口元に手を当てる。惚けた顔で、わざとらしく。
「あ、ごめん。うるさかった?」
殺気が増した。しかし、それがなんだというのだろう。そんなもの、敵からも味方からもさんざん浴びせられてきたのだ。今さら怯む動機にはならない。
「……さあ、そろそろ始めようか」
茶番はここまでとばかりに恭弥がトンファーを構えると、ベルは俯きながら肩を震わせた。小刻みな震えは堪えきれない笑みのようで、彼の底知れない不気味さをより助長する。
「あーあ、せっかく見逃してやろうと思ったのに。――なんて、最初から全然思ってなかったけど」
「え」
「だろうね」
ベルの手元からナイフが現れる。一本、二本、三本――。
「え? ……うええ!?」
「曲芸でもするつもりかい?」
――五本、十本、五十本、百本。
どこからともなく現れたナイフたちは、ベルの手から離れ、空中で二重の円を描く。寸分のずれもなく回っているナイフは、時計に刻まれているメモリのようで、まるで手品だ。思わず魅入ってしまった利奈だが、先日の話を思い出し、ハッと叫ぶ。
「ワイヤー! ヒバリさん、ワイヤーです!」
隼人はワイヤーナイフで重傷を負ったと言っていた。つまり、今ナイフが宙を飛んでいるように見えているのは、見えないワイヤーで操られているからに違いない。
今度こそベルは苛立ちを隠そうともせずに舌打ちをした。
「先にネタバラシしてんじゃねえよ。お前、マジでウザい、なっ!」
最後の一音とともに、ベルの周りを取り巻いていたナイフが一斉に放射される。ナイフによる波状攻撃を、恭弥は難なくトンファーで弾き飛ばした。
(ひっ! ……怖っ)
放たれたナイフは、恭弥に弾かれた箇所だけ空白を空けて、校舎の壁に突き刺さった。
恭弥の背後にいる利奈には当たらなかったものの、手を伸ばせば届く距離にナイフが刺さっているのを目にして、平然としていられるわけがない。ナイフはコンクリートに深々と刺さっている。
そして、戦闘前にベルが言っていたとおり、利奈は恭弥の足を引っ張っていた。
飛び道具を使うベルから利奈を庇いながら戦うには、つねに背後に利奈がいる状態にしておくか、相手の注意を絶えず引いておく必要があり、それが恭弥の動きに制限をかける。ベルもそれを見越して、利奈を射程に入れた攻撃を繰り返し、恭弥はそれを弾くために余計体力を削られている。
このまま長期戦に持ち込まれたら、こちらが不利だ。恭弥が猛攻を繰り広げているあいだに、物陰に隠れるしかない。
(タイミング見計らって……うん、今! って、わっ!)
逃げ出そうとした体が、見えないなにかに弾き飛ばされた。そのまま後ろに転倒してしまう。
「なに、これ……」
手のひらが切れて血が滲んでいる。そして、見上げた虚空に、一本の赤い線が見えた。
利奈の血で浮かび上がったその線の先にあるのは、先ほどから投げ続けられているベルのナイフ。ナイフの持ち手の先端には、ワイヤーを通すための穴が開いている。
(ま、まさか、刺さってるナイフ全部に――)
身動きも取れないまま戦慄する利奈と、只事ではない利奈の様子に注意をひかれる恭弥。その間隙を見逃すベルではなかった。
「隙あり!」
それはどちらに投げかけられた言葉だったのか。
言葉のあとを追うようにして投げられたナイフは、二人の体を容赦なく切り裂いた。
「あ゛あっ!」
「っ」
利奈に向けて投げられた三本のナイフ。一本は恭弥に弾き飛ばされ、一本は恭弥の肩を裂き、残りの一本が利奈の左腕に突き刺さった。
「い、あ、ううっ……」
傷口から血が滴り落ちていく。腕に刺さったナイフが、小刻みに揺れている。
ドクドクと脈打つ自分の心音は、同じように血を滴らせる恭弥を目にした瞬間、より一層強く早鐘を打った。
(やだ……やだやだやだ!)
耳鳴りがする。震える唇からは、なにも紡げない。
「へえ、やるじゃん。今のでどっちか殺せると思ったのに。でも、どっちも深手負ったみたいだし、結果オーライ的な? やっぱ王子は一味違うわ」
ベルの声が頭に響く。自分のせいで恭弥が深手を負ったという事実が脳を侵し、ガタガタと体が震えた。
(わ、私が追いかけたから……指輪を返してたら、こんなことにならなかったのに)
自分のせいでという罪の意識が、いとも簡単に利奈の心をへし折った。怯えきった顔で涙を流す利奈に気をよくするベルとは対照的に、恭弥は据わった目でベルを睨みつけた。
「よく喋るね。勝ってもいないのに」
恭弥がトンファーを握り直す。肩に怪我を負ったにもかかわらず、その構えに隙はない。
「だってこれ、実質王子の勝ちじゃん? その女見殺しにするつもりで来るんならべつだけど、そしたらそいつは確実に殺すよ?」
「……っ!」
人質に取られている。かつてないほど追い詰められたこの状況で。
それがあまりにも惨めで、いっそ見捨ててほしいと言いたいけど言えなくて、利奈は唇を噛みしめた。
「おっ、あっちも派手にやってるみたいじゃん」
屋上では、派手な爆発音が鳴り響いていた。しかし、そちらを気にかける余裕はない。
「相沢」
恭弥の呼びかけに利奈は応えられなかった。嗚咽を堪えるだけで精いっぱいだった。そんな利奈には構わずに、恭弥は続ける。
「校舎B棟に生徒がいる。君はそっちに行って」
いつもどおりの声で、いつもどおりに命令が下される。だから利奈は、いつもどおりに頷いた。
「……了解っ、しました」
――たとえ、不可能だとわかっていても。
「ししっ、ウケんだけど。俺がそいつ逃がすわけないじゃん」
状況は依然、絶望的だ。二人とも怪我を負っているし、周囲にはワイヤーが張り巡らされている。障害物がないこの場所で、ベルから逃げきれるはずがない。しかし恭弥は微笑みを浮かべながら言い放つ。
「それは僕のセリフだよ」
「っ!?」
空から大量に物が降ってきた。その物体の形状がそれぞれの目に入る前に爆発が始まり、瞬時に周囲一帯が煙に包まれた。
(何事!?)
もはやだれの姿も見えなくなったなか、聞き覚えのある声が最後に降ってくる。
「借りは返したぞ、お前ら!」
隼人の声だ。どうやら解毒が終わったらしいが、煙のせいで姿は確認できない。視界を覆うのは灰色の闇だけだ。
(今のうちに逃げないと……。あ、もしかして)
気力を振り絞って立ち上がった利奈は、壁に刺さったナイフの束に手を伸ばした。思ったとおり、爆発の影響で切れたらしく、ワイヤーは緩んでいる。
「相沢! まっすぐだ、そのまま走れ!」
全体が見えているであろう隼人の声に、利奈は勢いよく走り出した。
「させるかよ」
利奈の足音を拾い、ベルが行く手にワイヤーナイフを放つが――
「させないよ」
ベルの位置を音だけで正確につかみ取った恭弥が、煙の中から躍り出た。
「やべっ」
不意を突く恭弥の奇襲に反応しきれず、ナイフを持った右腕がトンファーで弾かれる。手のなかに残っていたナイフは音を立てて地面に落ちた。
「逃がさないよ」
離れる隙を与えずに猛攻を繰り広げる恭弥。それを音声だけで感じながら、利奈は行く手を邪魔するワイヤーに向けて、腕を振るった。
(よし、いける!)
ワイヤーが切れた手応えを感じながら利奈は走る。
最後の最後で利奈を助けたのは、皮肉にも、ベルに与えられた血塗れのナイフだった。