そこからは走って走ってひた走った。
足を止めずに走りきれたのは、立ち止まったら終わりだという強迫観念のおかげだろう。ひたすらに足を動かしているうちに、B棟まで辿りつけた。
(っ、ヒバリさんは……)
息を切らしたまま、来た道を振り返る。
ただでさえ暗いのに煙まで立ちこめているせいで、二人の姿は肉眼ではまったく捉えきれない。しかしモニターには恭弥の姿が捉えられていて、トンファーから玉鎖を展開させている場面が確認できた。どうやら、戦える状態ではあるようだ。隼人もいつのまにか屋上に移動している。
結末を見届けたいけれど、生徒を救出しろと命令を受けている以上、グズグズしてはいられない。後ろ髪を引かれながらも利奈はモニターから視線を剥がした。
校舎B棟の窓や出入り口は、なぜか厳重に封鎖されていた。
窓は強化ガラスのようなもので覆われているし、ドアには金属製の板が打ち付けられている。どちらも頑丈なボルトで固定されていて、絶対に開けさせないという強い意志を感じた。一か所だけ板が打ち付けられていないドアが残されていたものの、こんなに差し迫った状況でなかったら、開けるのを躊躇していただろう。
全力疾走したせいか出血のせいか、体がとても重たい。フラフラする体を気合で制しながら腕を伸ばした利奈は、視界に入った自分の手のひらに顔を歪めた。
(うえっ、気持ちわるっ!)
二の腕の傷口を押さえ続けていた右手は、手のひら全体が真っ赤に染まりきっていた。これではまるで、殺人犯の手のひらである。
(……これ、ヤバいのかな。ヒバリさんにボコボコにされた人もたくさん血出てたりするし、意外と大丈夫だったり……?)
鼻血と刺し傷では緊急性がまるで違うのだが、頭に霞がかかっているので、利奈はその点にまで思考が回らない。刺さった瞬間と抜いた瞬間が強烈に痛かったのもあって、痛みの感覚も麻痺していた。冷たい唇を引き結びながら、ドアを開ける。
(そういえば、だれがいるか聞いてなかったな……。クロームは体育館で、獄寺君じゃないから、山本君? ヴァリアーは、だれがいるのかな……)
彷徨う校舎B棟は、内装も大きく様変わりしていた。
簡単に言うと、一階層分まるごと内壁が取り払われていて、おまけに天井の大部分が吹き抜けになっていた。重傷を負っていなければ、三度見ぐらいして反応していただろうが、今は瓦礫に躓かないよう気をつけるので精いっぱいだった。
(いた! 山本君!)
見晴らしがよくなっていたおかげで、倒れた武を見つけるのは容易だった。
小走りで駆け寄った利奈は武の目前で膝をついたが、毒に苦しむ武は利奈に気付くことなく歯を食いしばっている。額には汗の粒がいくつも噴き出していた。
「山本君! 山本君、大丈夫!?」
「……ッ、あ?」
武の目がわずかに開く。もう一回呼びかけると、武は汗まみれになった顔をゆっくりと上に向けた。
「……あい、ざわ? なんで、こんなとこに……っ」
声を出すのもつらいのか、武はそれだけ言って、痛みをこらえるために拳を強く握り締めた。グズグズしている暇はなさそうだ。
「待っててね、すぐにリング持ってくるから!」
しかし、ここにひとつ問題が生じた。
屋内だからポールも低くなっているだろうと思っていたのに、吹き抜けになった空間を活かすようにして、屋外とまったく同じ高さのポールが設置されていたのだ。まさか、このために天井をぶち破ったのだろうか。
一瞬途方に暮れそうになった利奈だったが、ポケットにしまいっぱなしにしていた二つの箱を思い出す。
(そうだ、プラスチック爆弾――と、ケータイ! 通話してたのに忘れてた!)
恭弥の強靭な精神力の前にお役御免になった爆弾と、途中から気にかける余裕がなくなった携帯電話。気まずさを感じながら携帯電話を開くと、電話はちゃんと通話状態のままになっていた。それがかえって後ろめたさを膨らませる。
「……あの、聞こえますか?」
恐る恐る問いかけてみる。今ほど、電話口の相手の顔が見えなくてありがたいと思ったことはない。
返事は即座に返ってきた。
『聞こえてますよ。いつになったら合図が来るのかと、ずっと待ちわびていました』
声の温度が冷たすぎる。不釣り合いな子供の声で、不気味さまで演出されている。
「アハハ……ちょっといろいろありまして。お待たせ、しました……?」
『ええ、本当に。いっそ勝手に爆弾を起動させてなにもかも吹き飛ばしたほうが早いのではとも考えましたが、今でも遅くないですかね』
「ごめんなさい! 申し訳ございません!」
やはりごまかすのは得策でないようで、利奈は全力で謝罪した。
さっさと戻って来いという指示を破ってのこの惨事だ。見放されても文句は言えないけれど、見捨てられては困る。
『まあ、経緯はだいたい把握してますし、今回は大目に見ておきましょう。それで、今はどこに?』
「B棟です。なかに同級生がいて」
『雨の守護者ですね。なるほど、それで彼を救うために爆弾を使いたいと』
「そうです。お願いします!」
理解が早くて助かる。
爆弾は恭弥を助けるために用意されたものだけど、それも必要なくなった今、ほかの人のために使ったとしても文句はないだろう。クローム救出だって、人手が多いに越したことはない。
『ところで、腕の怪我はどうなってるんですか? 手当は?』
どうやら、腕にナイフが刺さった場面も目撃されていたようだ。
「まだできてないです。でも、先に山本君どうにかしないと」
『では、雨の守護者を解毒したらすぐに応急処置をするように。やり方はわかりますか?』
「はい、慣れてます」
『頼もしいですね。わかっているとは思いますが、ナイフを抜いたりなんかしないでくださいよ』
付け足された言葉に、利奈はピシリと固まった。件のナイフは、ほとんど動かせなくなってしまった左手に収まっている。そして、利奈のわずかな動揺を骸は見逃さなかった。
『……は? まさか、もう抜いてしまったあとですか?』
含みのない声に素で驚愕されているとわかり、見えてもいないのに利奈は首を振った。
「ち、違うんです! うっかり抜いたんじゃなくて、仕方なくて!」
『そこまで愚かだったとは……。出血多量で死にたいんですか、君は』
「ちがっ、仕方なかったんです! 誤解です!」
ナイフを抜いたのは爆発があったあとだから、肉眼で見ていた骸には事の次第が伝わっていないのだろう。そのままにしておくべきなのは重々承知していたけれど、ベルが張ったワイヤーに迅速に対処するためには、このナイフがどうしても必要だったのだ。躊躇していたら、また恭弥の足を引っ張るところだったのだから。
『まあ、無益な言い合いはやめましょう。時間が惜しい』
「……はい、そうですね」
絶対に誤解されたままだけど、くだらない諍いを続ける余裕はない。毒に侵されている武がそばにいるのだから、なおさらだ。
(えっと、まずケータイをスピーカーにして――)
左手が使えないから、携帯電話を持ったままだと作業ができない。汚さないようにするのは早い段階で諦めたので、拇印を押すようにスピーカーボタンを押した。
骸の指示に従って爆弾をポールに取り付ける。失敗して自分たちのいるほうに倒れたら一大事なので、何度も確認して慎重に作業を行った。
「えっ!? もう切るって、なんでですか!?」
骸の発言に利奈は狼狽えた。爆弾を爆発させたら電話を切ると骸が言い出したのだ。
恭弥と別行動になってしまったこの状況で放り出されるなんて。
『現場にいない僕にできることはありませんから。君の存在が全陣営に知られてしまった以上、その戦いが終わるまで校外に出るのは不可能だ」
「そんな……」
『だからさっさと出てくるようにと言ったのに』
そう言われては、ぐうの音も出ない。指示に反して恭弥を追いかけたのは利奈なのだから。
『それに、僕が貴方の行動にかかわっていたことを、ボンゴレ側に知られるわけにはいかないので。あくまで貴方は、偶然戦いに巻き込まれたことにしておかなければ』
「……あの、ずっと思ってたんですけど。その設定、無理ないです……?」
『君が自白しなければどうにでもなります。自白されたとしても僕はしらを切りますが』
「うえー……?」
ようは自分の保身のためのようだ。利己的な理由のほうが納得しやすいとはいえ、人を無理やり戦場に送りこんでおいて、ずいぶんな言い草である。
とはいえ、武たちの前で堂々と骸と連絡を取るわけにもいかないし、充電残量にも限りがある。遅かれ早かれ、骸との通信は切られる定めにあったのだろう。
(それなら、なおさらヒバリさんのところに急がなくちゃ。ヒバリさんといればなんとかなりそう――って、ヒバリさんと一緒にいたから、こんなになったんだった……)
いまだ血が止まらない左腕。恭弥も手傷を負っている。負傷したときの場面を思い出すと胸が強く痛むけれど、今は過去を振り返っている場合ではない。
「わかりました、とにかく頑張ります」
『その意気です。当面はボンゴレ側の人間と行動してください。彼らといれば、とりあえずの安全は保障されます』
「わかりました。クロームも、絶対助けます」
『お願いしますよ。では、ご武運を』
間を置かずに、爆弾が起動した。
先ほどの爆発と比べれば規模が小さいが、ポールを破壊するには十分な威力だった。爆風で真ん中のポールもひしゃげ、台がゆっくりと傾いていく。校庭のときと同じように指輪が零れ落ち、利奈は倒れきるのを待たずに指輪を回収した。
「う、あっ……!」
「手、出して!」
二回目の解毒を試みるべく声をかけるが、武は左腕を出そうとはしない。そのままだと指輪を嵌められないので、利奈は無理やり武の腕を引っ張りだした。
(すごい汗……)
がっしりとした左腕は、強張っているうえに、ひどく熱を持っている。リストバンドに指輪を押しつけて、強く握りしめられた拳を両手で包む。
「すぐ、よくなるから……」
恭弥のときと同様、効果はすぐに訪れた。
固く結ばれた手のひらが緩み、強張った体から力が抜けていく。落ち着いてきた呼吸に合わせてゆっくりとまぶたが開き、武はやっと苦しみから解放された表情でまばたきを繰り返した。
「具合、どう?」
「……相沢、だよな」
「うん」
武はゆっくりと体を起こす。利奈も握っていた手を離そうとしたのだけど、武の手の甲にできた赤い手形に、ギョッとして身を引いた。
うっかり忘れていたが、右手も左手もいまだ止まらない出血のせいで赤く染まったままになっている。そんな手で触ったものだから、武の左手どころか、腕を引っ張り出すために掴んだ上着の左腕までがっつりと利奈の手形がついてしまっていた。これではまるでホラー映画だ。
「ご、ごめん、汚しちゃった! 拭く物……ああ、ティッシュしかない!」
「ん? ……うわっ、なんだこれ、血!?」
武も手形を見て驚いたが、利奈の左腕の出血を目にして顔色を変える。上着の袖を躊躇うことなく引き裂いて、利奈の左腕を取った。
「……っ!」
「悪い、痛いよな。でも我慢してくれ」
痛さのあまり涙目になる利奈に謝りつつも、武は手慣れた動きで布を縛りつけた。力をこめられるたびに激痛が走って、利奈は甲高い悲鳴を上げた。
「これ、ベルにやられたのか?」
近くに転がっているナイフを視界に入れながら、武が問いかけてくる。聞いたことのないような真剣な声に、利奈はぎこちなく頷いた。
「ヒバリさんと一緒にいて……ベルと会っちゃって」
「そうか。ところで、なんで相沢がこんなところに?」
「それは……」
もっともらし言い訳を考えるべく、一瞬思考を巡らせる。
「今日の戦いのこと知って……ヒバリさんが心配になって、来ちゃったの。そしたらこんなことに」
間違ってはいない。間違ってはいないけれど、大事なところを端折りすぎて違う話になっている。
しかしこの説明で納得したのか、武はそれ以上追求しようとはしなかった。なんで爆弾を持っているのかくらいは突っ込まれると思ったけれど、杞憂だったようだ。
(……もしかして、風紀委員なら爆弾持ってそうって思われてたり? それはそれで複雑だけど)
「それで、ヒバリは?」
「すぐそこ、校庭でベルと戦ってる。私は山本君を助けろってヒバリさんに言われて」
「そうか。じゃあ、ヒバリの助太刀に……っと」
「山本君!?」
立ち上がろうとした武が、よろめいてへたりこむ。
「……はは、わりい。もうちょっと時間かかりそうだ」
「無理しないで。治ったらでいいから」
まだ完全に回復したわけではないようだ。
武の様子を見ていると、立って動いていた恭弥の超人度合いがより一層際立って感じられてくる。とても同じ毒を投与されていたとは思えないし、あの人はもう、人ではないのではないのだろうか。
(山本君をベルのところに連れて行くのはやめた方がいいよね。まだ辛そうだし……たぶん、目じゃないところも怪我してる)
さっきまでは左半身しか見えていなかったら気付かなかったが、武は右目に眼帯をつけていた。長袖を着ているから判断できないけれど、雨戦でほかにも傷を負っているだろう。
(ヒバリさんは一人でも大丈夫。だから、ほかのみんなを助けにいこう)
毒が全身に回るまで三十分。残り時間も半分を切っているし、今はとにかく時間が惜しい。とはいえ、深手を負った状態で、一人で校内を動き回るのは無謀である。もどかしいけれど、武が動けるようになるまで待たなければ。
「よし、もう大丈夫だ。行こう」
「え、もう?」
まだ一分も経っていない。しかし武は、武器が入っていると思われる長い袋を支えにして、ゆっくりと立ち上がった。
「ほんとに平気? 待つよ?」
「時間がないからな。早くみんなを助けねえと……」
どうやら、武も利奈と同じことを考えていたらしい。恭弥を助ける余裕がない以上、一刻も早く仲間を助けにいくべきだと判断するのは妥当である。
「獄寺君はもう大丈夫だよ、ヒバリさんが助けてくれたから」
「そうか」
武がゆっくりと足を踏み出す。利奈も付き添うように右隣についた。
「俺もヒバリに助けられたようなもんだよな。相沢のおかげだけど」
「ヒバリさんのおかげだよ。あ、それで、獄寺君にも助けられたの。屋上から爆弾投げてくれて」
(そうだ、獄寺君もいたんだった。なら、もう決着ついてるかも)
二対一なうえに、隼人は屋上にいるから安全に援護攻撃を行える。こちらに有利な陣形だ。
「屋上――ってことは、牛の小僧を助けたあとか。ならあとは、笹川先輩と霧の――」
「クロームだね」
「ああ。……ん? あいつ知ってるのか?」
「え、あ、うん! じつは友達で」
「そっか。ははっ、案外みんな繋がってんのな」
「あはは、そうだね」
うっかり口を滑らせてしまったけれど、武が細かいことを気にしない性格で助かった。骸との関係はなんとしてもバレるわけにはいかない。話がややこしくなってしまう。
「んじゃ、開けるぜ」
外を警戒しながら、武がゆっくりとドアを押し開ける。
先ほどまで煙が立ち込めていた校庭には、今はただ、暗闇だけが広がっていた。