救われることのない夢のなかへ
クロームの意識が回復したことで、骸はクロームの視点で校内を見られるようになった。
まさか最初に見る光景が全壊した体育館になるとは思わなかったが、ここまできたら想定外もすべて想定内である。とりあえずは、混ぜこんだ異分子の除去――もとい、クローム救出のために送りこんだ利奈を離脱させるべきだろう。
『行かなくちゃ。利奈、早く』
戦場から逃げていいと言われたにもかかわらず、利奈は戸惑いの瞳でこちらを見ていた。この期に及んでも、まだ他人の身を案じる余裕があるようだ。解毒を終えたクロームよりも、ずっと血の気のない顔をしているというのに。
『……わかった。骸さんにありがとうって伝えて』
礼などいらない。最初から逃がすつもりだったのだ。もっとも、暴走の尻ぬぐいへの感謝というならば受けつけるが。
『頑張ってね。私、信じてるから』
「……クフフ」
骸は一人廃墟で乾いた笑みを漏らした。
信じるなんて言葉を、ずいぶんと簡単に使ったものだ。笑う彼女の瞳は、痛々しいと言ってもいいほどに揺らいでいた。それでもなにも言わずに走り出したのは、言葉どおりの信頼が半分と、痛感したであろう己の無力さが半分。力のない人間は、自分で選ぶことすら許されない。
いっそ、けろりと受け流してしまえばよかったのだ。
自分は無力な一般人であると。脅されて放りこまれただけなのだと。そう割り切ってしまえば。
しかし、彼女はそうはしなかった。最後までその場に立ち続けようとしていた。
その根底にあるのは信念であり、結局はだれかに対する信頼だ。きっと彼女は、術者には向いていないだろう。霧の本質は疑うこと。目の前のものをありのままに受け入れていては、いずれ手ひどい裏切りにあう。眼前の、この男のように。
(やはり、リングに拒まれたか……)
血を噴き出しながら昏倒したXANXUSを、骸はどこか他人事のように眺めていた。
こうなることは最初から分かっていた。ボンゴレリングの力はブラッド・オブ・ボンゴレなくしてはけして手に入らない。だからこそ、ほかのだれでもない沢田綱吉の身体を骸は欲しているのだから。
茶番といえば茶番である。本人も薄々こうなるとわかっていただろう。だれよりも、ボンゴレファミリー後継者としての素質があった彼ならば。
結局、全員踊らされていたのだ。母親の妄執に。息子の憤怒に。親子の確執に。くだらぬ掟に。それでも己の気迫のみで部下を従わせたXANXUSはなるほど、地に落ちても支配者であったが、残念ながら相手が悪かった。
霧の本質は疑うこと。目の前にあるものがすべてと思わず、何重にも策を施し、場を完全に掌握する。彼らの弄した最後の策は、骸が用意したかつての影武者――ランチアの手によってあっけなく水泡に帰した。
――とはいえ、霧戦で力を使いすぎたせいで、予定よりかなり時間がかかってしまった。おかげで利奈を逃がすのも遅くなったが、絶えずボンゴレ守護者のそばにいてくれたおかげで、事なきを得た。契約は守る主義である。
(にしても――だいぶ力をつけてくれましたね。この娘も)
クロームの幻術がマーモンを襲う。たいしたダメージは与えられていないものの、あのアルコバレーノ相手に攻撃を当てられただけでも褒めていいだろう。ほんの数週間前までは、幻術の存在すら知らないただの小娘だったのだから。
もうこれ以上見る価値のあるものはないだろうと、骸は閉じていたまぶたをゆっくりと開いた。
音が消え、匂いが消え、視界に映るのは見慣れた廃墟の荒れ果てた一室。組んだ脚の上に乗せていた手は、退屈そうに膝を叩いている。
感じるけだるさは退屈のせいではないだろう。利奈と接触するために長時間子供に憑依していたせいで、だいぶ体力を消耗している。いっそ彼女の身体を奪って操ったほうが手っ取り早かったのだが、ボンゴレの超直感が働いても面倒だったので、早々に諦めた。まったく、そんな才能だけは一端なのだから恐れ入る。
(才能、か)
最後に感じたクロームの潜在能力。自分ほどとは言わないが、うまく育てれば相当優秀な手足になるだろう。おまけにクロームは、骸に対して全幅の信頼を寄せている。術者としては危ういが、操るぶんには都合がいい。出会ったときにはまさかこんな関係になるなんて思ってもいなかったが、どこに原石が転がっているかわからないものだ。
(あれがなければ利奈に接触することもなかった。……本当に、出会いというのは必然なのか偶然なのか、面白いものだ)
うつらうつらと意識が微睡んでいく。
三人が戻るまでまだ時間はあるだろう。骸は過去を反芻しながら、ゆっくりと意識を手放していった。
_______
死に物狂いの逃走だった。
沢田綱吉に敗れ、復讐者たちに連行された骸たちは、収監前の隙をついて鎖から逃れた。
監獄から脱獄するより、収監前の逃走のほうが勝率が高いだろうという算段だったが、その考えは無理があったようだ。
「ハッ、ハア、ハア……!」
「……っ、ゲホ、ハア……!」
ここは住宅街だろうか。深夜のために周囲に人影はなく、街灯の明かりだけがやけに明るく三人を照らし出す。
周囲を窺う余裕があるのは骸だけで、あとの二人は、背中を丸めて苦しそうに息を吐き出していた。
「二人とも、まだ行けますか?」
「……も、もちろん!」
犬は声を張り、千種は無言でうなずいた。しかし、二人とも出血量が多かったせいか、夜の暗がりでもわかるほどに顔色が悪かった。
(やはり、事を急ぎすぎたか……)
檻に入れられてからでは時間がかかると、こうして捕まったその日のうちに脱獄を試みたものの、このありさまだ。怪我の治療を受けている最中に逃げ出したものだから、処置は止血を終わらせた程度。体を無理に動かしたせいで、二人の身体からは血が滲んでいる。
骸自身はほとんど外傷がなかったために余裕があるが、それでも重症の人間二人を連れて逃げるのはいささか条件が悪い。ここが銃の禁止されている国の住宅街でなかったら、もうとっくに取り押さえられていたことだろう。
(このままでは捕まって終わりか……。二人がこの状態では、僕が囮になったところで効果はない)
二人を置いていけば骸は逃げおおせられるだろうが、それでは意味がない。こんなところで仲間を切り捨てているようでは、憎きマフィアとなにも変わらない。もう、失うわけにはいかないのだ。
(なにか手を考えなければ……。このままでは見つかってしまう)
助けが必要だ。だが、救援を求めるにも、骸が用意していた手駒はすべて檻のなか。新たな手駒を手に入れるにも、こんな状況では依頼する手立てもない。
使える駒は、己を含めてたったのみっつ。しかもふたつはほとんど使い物にならない。まるで、あの頃に戻ったかのようだ。
(いっそ、この辺りの住人を盾にして脅してみましょうか。それであの復讐者の連中が手を緩めるとは思えませんが……)
諦めるという選択肢は存在しなかった。最後の最後まで、抗い続けるのだ。でなければ、女神は微笑まない。そうしなければ、また――
「……いた」
わずかに耳に届いたか細い声に骸は顔を上げた。
暗がりに紛れて、線の細い娘が佇んでいる。
こちらを見つめる瞳は零れ落ちそうなほど大きく、肩にかかった黒いショールは夜の帳と混ざって娘をより一層小さく見せている。
追手でないことは一目でわかった。復讐者はみな一様に同じ格好をしていたし、手負いの逃亡者を捕まえるためにわざわざ擬態する必要もないだろう。その証拠に、ほかの二人は少女の存在にすら気付けないほど弱りきっている。
では、この娘は何者なのか。
通りすがりというわけでもないだろう。ショールの下は上下セットの寝間着だったし、高価そうな靴も裸足で履いている。それに、娘の視線はいまだに剥がれていない。
見ず知らずの怪しげな人間と目が合ったら、普通は目を逸らすだろう。しかし彼女は、いかにも怪しい傷だらけの三人から逃げようとはしていない。むしろ、なにか言いたげな顔で骸の反応を窺っている。
骸はしばし考え、その表情を柔和なものへと変えた。そして、いまだ見つめ続ける娘に、真っ向から声をかける。
「こんばんは。こんな時間に一人で出歩いては危ないですよ」
ようやく二人が娘に気付いたが、骸は娘に微笑み続けることで二人の動きを牽制した。余計な火種を作っている余裕はない。
「……その。声が、聞こえたから……」
言葉を探すように口ごもる娘の言葉に、骸はうっすらと瞳を細めた。
先ほどの二人との会話が、この娘に届いていたわけがない。あのときは周囲に気を配っていたし、人影は一切存在しなかった。しかし、虚言で片付けてしまうには娘の態度が気にかかる。娘が最初に漏らしていた独り言は、まるで骸たちをずっと探していたかのような口ぶりだった。
(過去の関係者……あるいは、どこぞの組織の人間か)
復讐者以外にも、骸たちの行方を捜している人間は相当数存在している。報復を企んでいる者もいれば、利用価値があるからと助力を願い出る者もいるだろう。
しかし、この娘の瞳に図り事の色はない。人を見る目があるとは言わないが、淀んだ色を見分けるくらいは造作もなかった。彼女の瞳は、藍に澄んでいる。その瞳を揺らめかせながら、彼女は続けた。
「貴方の声が、聞こえたの。助けが必要だって――頭のなかで、貴方の声が」
今度は骸が瞳を揺らす番だった。
それは、声に出していなかった言葉で、しかし、骸が始終脳内で巡らせていた言葉である。
(頭……まさか)
『僕の声が聞こえるのですか』
目の前の娘へと、思念をぶつける。すると娘は、戸惑ったような顔で小さく頷いた。
そこからは、トントン拍子で話が進んだ。
夢の中で聞こえただけの声に応えて家を出た彼女は、その声の主である骸たち三人をなんのためらいもなく自宅へと連れて帰った。
素性も知れぬ男三人を深夜に自宅へ招くという行動には警戒心、および常識の欠如を感じさせられたが、そのおかげでこうして安全な場所で眠りにつくことができた。二人の怪我の手当てもできたし、言うことなしである。
(にしても――)
用意されたトーストを齧りながら、骸はそれとなくリビングの内装に目をやった。
広いリビングに備わっている家具はどれも高級品だ。飾られている調度品も洗練されていて、家主のセンスを感じさせる。たが、この家には生活感がない。よくできたモデルルームを見せられている気分である。
そもそも、目につくところに娘以外の住人が生活している形跡がまるで存在していない。食器棚に食器が揃っていても、台所にあるのは娘の使った食器のみ。玄関に出ていたのも娘の靴だけで、母親、父親の存在を匂わせる物はあっても、生活している気配がまったくと言っていいほど感じられない。
(両親が仕事で不在――だとしても、ここまで気配が希薄なのは不自然だ。どちらも、ろくに家に帰っていないらしい)
他人の家庭事情など本来はどうでもいいが、目の前の娘は窮地を救ってくれた恩人でもある。そんな娘が、得体のしれない男三人に一切警戒を抱かず、それどころか、世話を焼こうとしているのだから、気にかけるなというほうが無理な話である。
千種は娘にさほど注意を払っていない。犬は最初こそ警戒心をむき出しにしていたが、たしなめたら少しはマシになった。しかし険を孕んだ視線は変わらずで、娘は視線を合わさないようにうつむきがちにソファに座っていた。食卓は殺伐としている。
「そろそろ、名前くらいは教えあいましょうか」
三人の視線が集まった。
「僕は骸といいます。こちらが犬で、千種」
千種だけが頭を下げる。応えるように頭を下げた娘が、おずおずと口を開く。
「私は凪」
「凪ですか。お似合いの名前ですね」
――波風を立てずに黙りこんでいるあたりが。などとはおくびにも出さず、無難な誉め言葉を口にした。これからが本題だ。
「では、凪。貴方にお願いがあるのですが、いいでしょうか」
「お願い……?」
「ええ。これだけ世話になっておいてさらに頼みごとをするのは心苦しいのですが、お互いのためでもあるので」
逃走経路はすでに計画済みである。運よく今日は休日だ。街中の人通りは多いだろう。ほかの人間と同じように公共機関を使ってこの町から離れてしまえば、復讐者たちに追跡する手立てはない。
ただ、そのためには新しい衣服を用意する必要があった。服には血の痕が残っているし、黒曜町から離れた町で黒曜中学校の制服を着て出歩くなど、早く見つけてくれと言わんばかりの蛮行である。
三人分となるとそれなりに揃える必要になるから、凪の父親の服を拝借するのも無理がある。家に寄りついていない人間でも、自分の服が複数なくなっていればさすがに気付くだろう。それに、デザインは妥協するとしても、せめて自分に合ったサイズの服を着たい。
「ですから、貴方には僕たちの服を用意してもらいたいのです。
今は持ち合わせがありませんが必ずお返ししますし、なんでしたら契約書も書きますよ」
凪は頼みを断らないと踏んでいた。助けを求められれば、血に染まっている人間でも助けるような娘なのだ。真摯に頼めば、難色も示さずに引き受けるだろう。
骸の読み通り、凪は言われるがままと言った様子で外に出て行った。
「……あいつ、なにを考えてるかわかんねーから気持ち悪いびょん」
窓越しに凪を見下ろしながら吐いた犬の言葉は、三人の内心を代表した言葉だったろう。しかし千種は同意せず、骸は困ったような笑みを浮かべてわざとらしくたしなめた。
「駄目ですよ、恩人にそんなことを言っては」
そんなことを言いながら、窓の外に目をやった。外は曇りのようで、空は白一色に染まっている。
雨は降っていない。しかし――今にも降り出しそうな天気でもあった。
「――骸さん?」
――犬の声に、目を開く。
ここはいつもの廃墟である。いつの間にか三人とも帰ってきていたようだ。
「ああ、お帰りなさい」
わずかに身を起こして三人に視線を向ける。三人とも、出たときとさほど変わりのない格好だ。
「その様子だと、首尾よく終わったようですね。今回はちゃんとクロームを連れ帰ってきたようですし」
「ウグッ」
痛いところを突かれた犬が小さく唸った。
前回の霧戦ではこともあろうに功労者のクロームを置いて帰ってきたので、容赦なく二人分の食事を抜いた。一人で食べる肉の味は美味だったとだけ言っておく。
「お疲れ様です、クローム。よく頑張りましたね」
「ありがとう、ございます」
「千種たちも。クロームを見守ってくださってありがとうございます」
「……いえ」
これでしばらくは安泰だろう。
XANXUSを倒した綱吉はほかのファミリーなどからより一層狙われることになるだろうが、知ったことではない。どうせあの家庭教師がなんとかするだろう。
「今日はもう疲れたでしょう。三人とも、早く就寝してしまいなさい」
「え、もうれすか!?」
「犬、さっさと行くよ。骸様もお疲れなんだから」
体力が有り余っているらしい犬を、千種が引きずり出していく。クロームもお辞儀をして退室しようとしたが、ふと、足を止めた。
「おや、どうかしましたか?」
「……利奈のこと」
「ああ。そういえば、前もっては言ってませんでしたね」
なにせ彼女は予測不能だ。クロームと違って従順ではないし、金や脅しに屈するような性格でもない。勇敢かと思えば急に臆病になる。もし臆病風に吹かれて逃げ出されていたら、もう骸に打つ手はなかった。そう伝えると、クロームはわずかに微笑んだ。
「利奈は、逃げないと思う」
あとから言うのは簡単だ。しかし、クロームの言葉はどこか真実味を帯びていた。
そう、彼女は自分の役割から逃げなかった。彼女は自分に与えられた使命を、けして投げ出そうとはしない。今までもそうだったし、きっとこれからもそうなのだろう。
それは彼女という人間の芯の強さ――というよりは、彼女が芯に据えている人物――雲雀恭弥への忠誠の厚さにほかならない。
ただひたすらに妄信しているのなら手懐けようもあったが、彼女の信頼は信仰ではない。彼女が信じているのは、雲雀恭弥ではなく、雲雀恭弥の生き方なのだ。
(カリスマ性――とでも言うんですかね、これは)
雲雀恭弥は、彼女の信頼に応え続けてきた。彼が自身の生き方を裏切らない限り、彼女もまた、彼を裏切りはしないだろう。おそらく、その他大勢の賛同者たちも。
自分を裏切るのは、他人を裏切るのと同じくらい容易である。しかし、自分を裏切るということは、自身のあり方を捻じ曲げるということである。
捻じ曲げてしまったものは、完全には元に戻せない。針金を曲げてまた戻そうとしても、わずかな歪みが残るのと同じように。どう取り繕ったところで、芯の歪みは直せない。
「セイも?」
少女の声が囁く。
骸の意識は、すでに廃墟から遠ざかっていた。肉体を有さなくなった精神は、肉体には辿ることのできない過去への道を遡っていく。
もはやそれは――
「セイの怖いもの、私が消してあげる」
悪夢と言って差し支えなかった。
二部に続くと見せかけての番外編前編です。
後編は骸の過去話。