最初は暗闇
見上げても黒。振り返っても黒。
眉間に皺ができるくらいギュッと目をつむってから開けてみても、見える色はただ一色、黒だった。
(……なんで?)
素足に触れている地面はひんやりと冷たく、そしてつるつると硬い。
先ほどまで歩いていたコンクリート道路の感触でないことは明らかだった。
(なに? どういうこと?)
戦いから抜け出して自宅――ではなく、病院に向かっていたはずの利奈は呆然とする。
右腕に大怪我を負っている状態で家に帰れるわけがない。だから、日頃から懇意にしている病院で治療してもらおうと思っていたのに。気付いたらどこかの室内だ。
(部屋のなか、だよね? なにも見えないけど)
視界は役に立たないが、ほかの知覚は残っている。
空気の動きが感じられないし、かすかに匂うよそよそしい匂いは自然のものではない。
「あ、あー。……声は聞こえてる」
自分の部屋と同じくらいの空間だろうか。病院特有の匂いはしないから、意識を失って病院に担ぎ込まれたというわけでもないだろう。そもそもその場合、目覚めるのはベッドの上であるはずだ。
(じゃあいつも通り、だれかに捕まったとか……でも、手も足も縛られてないな。
外にだれかがいる気配もないし、襲われた記憶も――そういえば後ろからなにかぶつかったような?)
背中に衝撃を受けた記憶はある。気を失っているあいだに、どこかに運び込まれたのだろうか。
いずれにしろ、座りこんでいては埒が明かない。
立ち上がった利奈は、右手を前にさまよわせながら、ゆっくりと前進した。
明かりのスイッチはだいたい壁面に備えつけられているだろうし、この部屋から出るにはドアを見つけなければならない。どうせ外側から鍵をかけられているだろうけれど、スイッチはたいていドア近くに設置されている。
(おっ、ここが壁だ。物に全然ぶつからないけど、この部屋なにもないのかな?)
蹴躓いて転ばないので済むのはうれしいけれど、いざというときに武器にできるものがないのは心細い。
(……って、あれ? 私、携帯持ってるじゃん)
今さらながら持ち物を確認したら、制服のポケットに携帯電話が入ったままになっていた。拉致されたのなら当然没収されていると思っていただけに、うれしい驚きだ。
(あー、圏外だからか。でも、携帯があれば)
携帯電話を操作して、カメラ部分から光を出す。おまけの機能だけあって心もとない光だけど、暗闇のなかではまさしく光明である。
利奈は携帯電話を振って部屋の全体を確認した。
(やっぱり普通に部屋だ。上の方に配管があるから、工場かどこか?)
壁は真新しく、配管にも汚れはついていない。
ついでに床も照らした利奈は、反射した銀色の光に目を丸くした。
(ベルのナイフ! 私が持ってたやつ! なんであるの!?)
何者かが利奈を監禁したのなら、ナイフなど、真っ先に取り上げるべき代物だろう。
携帯電話を没収しなかった理由はここが圏外だったからだとしても、隠してもいなかったナイフを没収せず、そのうえわざわざ気を失っている利奈のそばに置いておくなんて、行動が理解不能である。
様々な疑問を抱きながらも、利奈は薄明かりに見つけた部屋のドアへと近づいた。鍵がかかっていると思っていたドアだが、利奈がそばに寄ると同時に勝手に左右へと動いた。
「うわっ」
不意の電灯光に目を焼かれた。白に眩んで目をつぶった利奈は、数秒耐えてからゆっくりと目を開けた。
外は長い廊下になっていた。
こちらも壁や床が真新しいうえに、鉄材やら段ボール箱やらが至る所に置かれている。もしかしたら、建築途中のビルなのかもしれない。
(まだできてない建物だったら、監禁場所にちょうどいいだろうけど……近くに工事中のビルなんてあったっけ?)
相変わらず人の気配はない。この時間では、働いている人もいないだろう。
だれかが現れる前に逃げ出しておくべきか、それとも状況把握に努めるべきかと逡巡する利奈の耳に、硬い足音が聞こえてきた。
(だれか来る!)
部屋に引き返すべきか、それともこのまま逃走するべきか。
迷った利奈は、部屋のすぐそばに積まれていた段ボールの陰に隠れた。大量に積まれている段ボールは、しゃがんで身を潜めるには絶好の隠れ場所である。
(怪しい人だったら、すぐに逃げよう。怪しくなかったら……うー、やっぱ逃げなきゃ)
自分の意思で侵入したわけではないにしろ、今の利奈は不法侵入者である。これから現れる人物がまったく無関係の人だった場合、なおさら見つかるわけにはいかなかった。
(来た……!)
身を縮めて、情報を得ようと耳をそばだてる。
足音は複数人のものだった。カツカツと鳴る音は革靴のもので、音の重なり方からして二人。
「ここもだいぶ工事が進んだね。ジャンニーニの話だと六割くらいって話だけど」
「どうですかね。あいつは大げさに話しますから」
声音は成人男性のものだが、そこまで低くはない。声のトーンからして、馴染みの関係であることが窺える。
男性二人の髪色は片方が銀色で、片方が茶色である――というのは、さすがに音では判断できなかったけれど、段ボールから半分顔を出して目視した後ろ姿でわかった。
(工事の関係者さん……?)
黒いスーツを着た二人は、どう見ても土方の人間には見えなかった。
こんな深夜に工事の進捗を見に来たのだろうか。
だとしたら、利奈を攫った連中は、ビルの関係者が来たことに気付いて逃亡したに違いない。
不法侵入者であるうえに中学生を誘拐している最中だと知られたら、かなりの大事になるだろう。騒ぎになる前に、どうせ風紀委員が揉み消すのだが。
(よかった、これなら普通に逃げられそう。あの人たちが角を曲がったら反対側のほうに――)
「そうだ、ちょっとジャンニーニに明日の確認を――」
「え」
「……」
茶髪の男性が踵を返そうと体を捻ったところで、ばっちり目が合った。
不自然な体勢で止まった彼に反応して、もう一人の男も利奈の存在に気付いてしまう。
(み、見つかっちゃった……!)
これは利奈の落ち度ではない。
顔を引っ込めようとしたところで片方が引き返そうとするなんて、予想できるわけがなかったのだから。
見つかってしまった以上、頭を引っ込めるわけにもいかず、利奈は慌てて立ち上がった。
あとから考えれば完全に悪手だったのだが、そのときの利奈は、事情を説明して穏便に済ませてもらわなければという使命感で頭がいっぱいだったのだ。
警察に通報されるだけならまだしも、家に連絡が行ってしまったらもう取り繕いようがない。最悪、学校を辞めさせられてしまうだろう。
「あ、あの、私――」
「動くな!」
段ボールから抜け出そうとする利奈に、鋭い制止の声が突き刺さった。
銀髪の男が、もう一人の男を庇うように前に出て腕を構えている。その表情は殺気立っていて、殺気慣れしている利奈でも体を震わせる凄味があった。
(え、なになに、怖いんだけど! そんな怖い顔しなくても!)
深夜に建築途中のビルに子供が入りこんでいたのだから、驚いたり怒ったりするのは当然だ。しかし、それにしても態度が物騒である。子供相手にしては大げさすぎた。
(私が入りたくて入ったんじゃないんだし、そんな怒らなくたって……そりゃ、血だらけだしナイフ持ってるけどさ……って、それじゃん!?)
そう、立ち上がったことで、鞘がなく手に持ったままになってにいたナイフが彼らの目に入ってしまったのである。
深夜にナイフを持った人間が物陰に隠れていたら、それが子供であろうと脅威に感じるのは当然だ。
(そっか、これのせいか! それじゃ拳銃向けられたって仕方ない……って銃!?)
ここにきて利奈は自分に向けられていた銃口を二度見した。
先ほどまで校庭でザンザスがばかすかと銃を撃っていたためにうっかり違和感なく受け入れてしまっていたが、銃を携帯している男も、立派に銃刀法違反の犯罪者である。
(どど、どういうこと!? やっぱりこの人たちが私を拉致したってこと!?)
二人の視線は利奈の左腕に集中していた。
銀髪の男は手に握られたナイフに。茶髪の男は利奈の左肩の傷に。
(とにかく、ナイフを捨てなくちゃ!)
ナイフを持ったままでは、言い訳をしてもろくに聞いてもらえないだろう。
放り投げることもできないのでそのままナイフを下に落とすと、銀髪の男がジリジリと距離を詰め始めた。
「お前、どうやってここに入った。お前は何者だ」
低く囁くような声に利奈は応えられない。
その問いで彼らが利奈を攫った人物ではないことが確定したけれど、どうやって入ったかなんて聞かれても困る。
それに、まだ距離があるとはいえ、銃口を向けられたままでは生きた心地がしなかった。
「答えろ。さもなくば――」
「待って、獄寺君」
いつの間にか、庇われていたはずの男が銃を構えていた男の隣に並んでいた。そして右手を銃の上に乗せ、ゆっくりとその銃を降ろさせる。
銃口から解放された利奈はその場にへたりこみたい衝動にかられたが、まだ危機は脱していないと気を引き締める。
(……あれ? 今、獄寺君って言った?)
「あの子はどう見ても一般人だ。それに、怪我をしている」
「ですが、ナイフを所持しています。それに、ただの一般人がここに入れるわけが――」
「心当たりがある。ここで待ってて」
「っ、十代目!」
(え、十代目?)
聞き覚えのある固有名詞に首を傾げているあいだに、男がゆっくりと歩み寄ってきた。
警戒心を解くためにか、表情は柔らかく穏やかで、銃を持った男の仲間だというのに利奈は緊張しなかった。その顔にどこか見覚えがあったのも、緊張感を解く要因だったのかもしれない。
「君、その怪我はどこで?」
彼は利奈の素性を尋ねなかった。応急手当しかされていない左腕を見て、痛ましそうに目を細めている。
「がっ、学校で。……ちょっと、事件があって」
学校でいじめられてできた傷だと思われたら大変だと言い募ったが、これはこれで語弊があった。どうせリング争奪戦の痕跡は消されてしまうのだから、事件なんてなかったことにされるのに。
「事件?」
ふと、彼の瞳に思念の色が浮かぶ。
なにかを思い出そうとしている動作に疑問を抱きながらももう一人に目をやると、そのもう一人は驚愕の瞳で利奈を見つめていた。
茶髪の男の身体が利奈の左側半分を隠しているので、もう一人には利奈の右半身しか見えなくなっている。そして彼は、利奈の右半身を見て、心底驚いた表情で唇を震わせた。
「お前、まさか……!」
「ひっ」
ずかずかと足を進める男に身を引くが、男はかまわずに利奈の右腕に巻かれていた腕章を摘まんだ。
――普段は左腕に巻かれていた腕章だが、止血のさいに邪魔になったので、今は右腕に付け替えられている。
ナイフが刺さった箇所がわずかに上だったために流血で汚れてしまっているが、生地はまったく傷んでいない。むしろ腕章に刺さってくれていた方が怪我も浅くてすんだのだろうが、そんなことを言ったら恭弥に処罰されそうなので、絶対に口には出せなかった。
「十代目、これは……」
「そう、俺もそう思った。彼女はおそらく――」
(え、なに?)
二人の強い視線に、利奈はたじろいだ。
「お前、名前は」
「え……」
彼らはどうやら、並盛町風紀委員の素性を知っている側の人間らしい。それならば、風紀委員会唯一の女子である利奈の名前など、聞かずともわかりそうなものでもあるが。
それにしても――
(似てる……)
二人とも、利奈の知人によく似ている。
とくに銀髪の男性なんて、背の高さを除けば声も含めてほとんど隼人である。隼人の兄であると言われたら納得するくらいそっくりだが、しかし、利奈はそうは思えなかった。
茶髪の男を十代目と呼んだ彼の声のトーンが、利奈のよく知る隼人のものと瓜二つだったからだ。
だから利奈は、自分の名前を口にするために開いた口を、わずかに縦に動かし、
「……獄寺、君?」
と、首を傾けた。