朝食の席の空気は、きわめて重苦しいものだった。みんなして、ただただ食事を口に運ぶ。
恭弥が部屋を出てから入れ替わりで隼人が現れたが、その表情はなかなかに鬼気迫っていた。
無理もない。綱吉の顔は殴られたのか赤く腫れていたし、何度も踏みつけられたせいでスーツも乱れていた。今思えば最初の物音は、綱吉が倒れこんだときの音だったのだろう。
「あの野郎……っ」
「待って」
「っ、ですが!」
すぐにでも恭弥に報復しに行こうとする隼人を制しながら、綱吉は服装の乱れを正した。
「いいんだ」
それ以上、綱吉はなにも言わなかった。
それだけで通じるものがあったのか、隼人も言葉を重ねようとはしなかった。
(……私のせい、なのかな)
斜め向かい側の綱吉の顔をちらりと窺う。
腫れた頬には湿布が貼られている。口の中も切ったのか、コーヒーには一切口をつけていない。
その隣の隼人は判然としていない顔でトーストを齧っている。一口一口が大きくて、だれよりも早く二枚目を手に取っていた。
(私のせいだよね、たぶん)
恭弥に踏みつけられた件について、綱吉は理由を説明しなかった。
機密情報が関わっているのならば話せなくても仕方ないのだけど、二人の態度を見るに、そういうわけではないのだろう。
人は自身に向く視線に敏感であると同時に、わざと逸らされる視線にも敏感なものだ。
あのときの二人は、意図的に利奈を意識から外そうとしていた。原因が利奈であることを、本人である利奈に悟らせないように。
この世界の住人でないのだから、心当たりはない。と言いたいところだけど、ひとつあった。ほかでもない、この時代の利奈のことだ。
(私がここに来ちゃったってことは、未来の私は今、過去にいるんだよね。
だから、未来の私は連絡なしで行方不明になってるわけで……)
おそらく、その件で恭弥は腹を立てていたのだろう。
恭弥のもとで働いていた利奈がここに来ていたのなら、なんらかの任務を抱えていたはずだ。その任務を放置したまま帰ってこない利奈に痺れを切らして、恭弥は乗りこんできたに違いない。
(だったら、沢田君ものすごくとばっちりなんだよね……。私が悪いわけでもないんだけど)
十年バズーカの事故なのだから、だれが悪いわけでもないのだが、それが通じる相手ではない。いや、たとえ通じたとしても恭弥は拳を振るっただろう。八つ当たりで人を攻撃するのも珍しくは――
(……あれ? 殴ったのは、手?)
今さらながら違和感を抱く。
恭弥は攻撃にトンファーを使う。よっぽどの理由がない限り、拳で殴りつけたりなんかしない。
それに、利奈を見るときの冷徹な目。十年経っているとはいえ、あの顔はあまりにも冷え切っていた。
(なんで、あんな顔されたんだろう。全然わかんない)
今の利奈では、恭弥の真意がまるで推し量れない。十年という見えない壁に隔たれてしまったかのようだ。
「デザート、いかがですか」
机の一点に向けられていた利奈の焦点のなかに、果物を載せた籠が挟みこまれる。
びっくりして顔を上げると、いつのまにか席を立っていたランボが、利奈に果物を差し出していた。
「考えごとには甘いものが一番です。一房どうぞ」
「……あ、ありがとう」
お言葉に甘えて、たわわに実ったブドウを一房つまみ上げる。満足そうに微笑んだランボはそのまま隣に座り直して、正面の二人を見据えた。
「それで、彼女はいつごろまでこちらに滞在されるんですか?」
朝食の席の話題にでもといった、さりげない口調。雰囲気の重さで当人が後回しにしていた疑問に、綱吉と隼人は横目で視線を送り合う。
口を開いたのは、意外にも隼人のほうだった。
「十代目とも話し合ったが、期間は未定だ。
今日の朝にでも戻っていることを期待していたが、このぶんだとすぐには戻らないだろう」
思ったとおりだった。五分で効果が切れるものが、何時間経っても変わらないのなら、そう判断せざるを得ないだろう。口の中のブドウが苦くなる。
「だが、ずっとこのままってこともないはずだ。いや、ない。
向こうの十年バズーカが故障してるなら、それを直せば問題は解決する。メカニックを呼んで修理を始めて――早くて数日、長くて一ヶ月ってところか」
「一ヶ月も!?」
利奈がこうしているあいだにも、向こうの時間は同じだけ進んでいる。一ヶ月も行方不明になっていたら、大変な騒ぎになってしまう。
「あくまでも最長の話だ。原因がわからなくて、修理するためのパーツが手に入らなければ、それくらいかかることもあるってことだよ」
「な、なんだ……。じゃあ、パーツがあって、原因がわかったらどれくらい?」
「メカニックのスケジュールもあるだろうけど、一週間ってところじゃないかな。
だから、相沢さんには悪いけど、元の世界に戻るまではここにいてもらいたいんだ」
綱吉は申し訳なさそうな顔をしているが、むしろ利奈からお願いするべき話である。この世界の自宅には帰れないし、今の利奈には住むところもお金も当てもまるでなかった。
(ヒバリさんも、なんか怖かったし)
「うん、わかった。よろしくお願いします」
「それなら、俺が彼女のお世話係に立候補しますよ」
ランボがすかさず手を上げた。
予測が立っていたのか、正面二人の眼差しは生温い。それを賛同と取ったのか、ランボは椅子をずらして利奈に身体の向きを合わせた。
「食事が終わったら、新しい服を買いに行きましょうか。荷物持ちを務めますよ」
「ほんと? あ、でも、私一人でも買いにいけると思うよ。ランボ君も仕事とかあるだろうし」
「ありません」
気を遣ったつもりがやけにきっぱりと答えられ、二の句が継げなくなる。本当に仕事がないのか、気遣ってくれているのか、微妙なところだ。
「一人で出歩くのは危険だからやめた方がいいです。ほかにも必要なものはいろいろあるでしょうし、遠慮なく連れ回してください。女性の買い物に付き合うのは慣れています」
「そ、そう?」
本当に連れ回して大丈夫なのかと、横目で綱吉の表情を窺う。すると綱吉は柔らかく微笑みながら懐から財布を取り出した。意図を悟り、利奈は高速で首を振る。
「違う違う! 催促したんじゃなくて!」
「どっちみちお金は必要だからね。はい、迷惑料だと思って遠慮しないで使って」
「そんなにいらない! そんなにもらえないから!」
財布から抜かれた一万円札は、どう見ても十枚以上あった。服どころか、靴やバッグを買い揃えたって使いきれないだろう。利奈が手を伸ばさずにいると、代わりにランボが受け取った。
「無駄遣いすんじゃねえぞ」
言われなくても使い切るつもりはない。ただほど怖いものはないのだ。何日で帰れるかわからないから、とりあえず数着買って着回そうと思う。
雰囲気が和やかになったなか、突然、アラームのような音が室内に響いた。ビーッ、ビーッと鳴った警告音は、音のけたたましさのわりに、わずか四回でぴたりと止まる。
「なに、今の?」
火は使っていないから、火災やガスのアラームではなさそうだ。
「ジャンニーニ」
綱吉が耳に手を当てながら、誰かの名前を口にした。通信機で連絡を取っているようだ。
「おい、また不調か!?」
隼人も通信機を耳に当てている。
ランボは利奈にも聞こえるようにと、通信機をスピーカーモードにして二人のあいだに置いた。
『違いますよ! これはちゃんとした警報です!』
甲高い声がスピーカーから響く。ジャンニーニの声だろう。
「じゃあ、侵入者が現れたってこと?」
『い、いえ……』
表情を引き締めた綱吉が立ち上がりかけるが、ジャンニーニはどうも歯切れ悪く否定する。
『警報が鳴ったあとに正式に解除されましたので、侵入者ではありません。入られたのは守護者の方ですし……』
機械越しの声はやたらと早口で、動揺と混乱が伝わってくる。隼人が拳を握り締めた。
「また山本か!? あいつ、何回言えば――」
『あ、いえ、山本さんでは……』
(あ、山本君いるんだ)
聞き馴染みのある名前に親しみを感じる。
緊急事態ではなさそうだったので、利奈は食事を再開させていた。とはいっても、残りは飲み物とブドウ数粒である。
「じゃあどいつだ、あの芝生頭か!」
(……芝生?)
だれのことなのかわからない。消去法だと残るは恭弥かクロームか了平で――となると、了平だろうか。
『あ、それもはずれです……。その、大変言いにくいのですが……』
「骸か……」
綱吉の言葉に隼人が目を丸くする。
「骸っ!? そ、そうなのか、ジャンニーニ!」
正解ですというジャンニーニの言葉にかぶせて、綱吉が頭を抱えた。
「ヒバリさんといい骸といい、なんで連絡してからこんなに早く……どんな交通手段使ったら、数時間でイタリアからここまで……」
「骸さん、ここにいるんですか?」
『はい。どうやらわざと警報音を鳴らされたようですが、今はエレベーターの前に』
利奈の言葉に顔の見えない相手が律儀に答え、
『……ところで貴方はどなたです?』
と、続けた。
「ああ、もう! 作戦放り出したりしてないだろうな! あいつは!」
頭を抱えていた綱吉が、机を叩いて腰を下ろす。さっきまでの余裕溢れた姿が嘘のようだ。
(……むしろ、こっちが素?)
利奈の手前、大人ぶっていたのかもしれない。その努力も、予想外の事態の前に崩れ落ちてしまったけれど。
それはさておいて、骸もこのアジトに来ているらしい。
綱吉によると、利奈が入れ替わった話を聞いて、イタリアからわざわざやってきたらしいが、物好きなものだ。もしかしたら、日本に辿り着く前に、元に戻ってしまっていたかもしれないのに。
(ん?)
ドアの開閉音が耳に入り、利奈はくるりと振り返った。と、同時に何者かにいきなり抱きつかれ、視界が埋まる。
「ゆむっ!?」
「……っ!」
柔らかい感触が顔を覆う。背中に回された腕が、弱々しく利奈を抱きしめた。
利奈に飛びついただれかは、利奈の頭の上で利奈の名前を呟いた。か細く震えた声は、今までに何度も聞いたことのある、友達の声だった。
「ク、クローム?」
意外に思いながらもその名前を呼ぶと、クロームがまた利奈の名前を呼んで、腕の力を強めた。それでも、振り払おうとしたら簡単に振りほどけてしまいそうな力加減である。引きはがすのは躊躇われて、利奈は恐る恐るクロームの背中を叩いた。
「あの、放そ?」
「……」
呼びかけてみるものの、クロームはなにも言わずに体を震わせている。耳元から、鼻を鳴らす音が聞こえた。
(な、泣いてる……!?)
どこに泣く要素があったのか。
助けを求めて視線を動かすも、ほかの三人はクロームの行動に戸惑っていて、助けてくれそうにない。
「クローム、あまり困らせてはいけませんよ」
骸の声だ。
ジャンニーニはクロームのことをなにも言わなかったけれど、二人で一緒に行動していたのだろう。利奈としてはうれしいサプライズだけど、こんなに熱烈なハグを受けるとは思っていなかった。
たしなめる骸の声で冷静になったのか、クロームはゆっくりと腕を解いて、利奈の顔を見つめてきた。
右目の眼帯は相変わらずだけど、髪も伸びているし、化粧もしている。大人っぽくなったクロームに感慨深さを覚えてしまいそうになるけれど、大きな左目からは、いまだに涙が零れ落ちていた。潤んだ眼から落ち続ける雫に利奈は慌ててしまう。
「ど、どうしたの? びっくりしちゃった? えっとじつは、十年バズーカーっていうのに当たっちゃってね――」
「なんでクロームまで……!」
綱吉のさらなるうめきが聞こえたが、泣いているクロームが先決である。感極まって泣き続けるクロームの肩を、後ろから骸が引き寄せた。
「すみません、クロームは涙腺が脆いので」
「……おお」
十年後の骸の姿に、利奈は感嘆の声を漏らした。
前から高かった身長がさらに高くなっているうえに、元から整っていた顔立ちがより美しくなっていた。やはり、海外勢は容貌の進化がえげつない。特徴的な髪型は変わりなし――と思いきや、後ろで揺れる髪の束が見えた。どうやら、長い後ろ髪を縛って垂らしているらしい。
気遣わしげにクロームの肩を叩いていた骸だったが、ふと表情を消して利奈を見つめる。
「……本当に、十年前の相沢利奈ですね」
「お前、いったいなにしに来たんだよ!」
ようやく隼人が口を挟んだが、骸はまるで意に介さない顔で綱吉に目を向けた。
「これがどういうことかくらいは教えてもらえますか。沢田綱吉」
その瞳は剣呑で、いつものようにランボが縮こまった。かっこつけているくせに、やたらと小心者である。
「おい、無視してんじゃ――」
「わかった、あとで話す」
「うっ……」
あっさりと綱吉が了承してしまい、隼人がやり場のない拳を降ろす。
クロームは少し落ち着いたようで、おどおどしながら利奈の顔を覗きこんだ。
「利奈、元気?」
「うん、元気だけど……クロームは?」
「元気だよ」
そう答えるクロームはうっすらと微笑むが、涙の膜のせいで儚さが強調されてしまう。言葉のままに受け入れられない。正直、ここまで驚かれるとは思っていなかった。
「それにしても、ボンゴレはこれしか服が用意できなかったのですか? さすがにあんまりなのでは?」
サイズの違う服を着せられている利奈に、骸が苦言を呈す。
「僕たちなら、もっといい服を与えられてましたよ。やはりボンゴレは――」
「うるっせえ! 夜中だったんだ! いきなりだったんだ!
子供の服なんかすぐに用意できるか!」
「むっ」
(子供服って……そりゃ子供だけどさ)
十年経った隼人には、中学生の利奈など子供のように見えるのだろう。それでも同級生子供扱いされると、不満を通り越して不愉快である。
むすっとしながら大人たちの言い合いを眺めていたら、息をひそめていたランボが利奈の袖を引いた。
「さあ、今のうちに買い物に出掛けましょう」
「え、でもまだ……」
「感覚でわかります。これは長くかかるやつです」
確かにすぐには終わらなそうだ。
このままランボについていってもいいものかと綱吉に視線を送ると、気付いた綱吉が隼人の肩を叩いた。
「ごめん、二人を外まで連れて行ってあげて。商店街に近い出入り口をランボは知らないから」
「……わかりました」
一瞬、骸を気にしたけれど、隼人は否定を呑みこんで席を立った。
「そうだ、ついでにお菓子とかも買い出ししてもらえないかな。そういうの用意してなかったから」
「えっ、いや、それは別に……」
「そのあいだに骸とは話をつけておくから。日本に来る余裕があるのなら、任務も順調なんだろうし?」
(皮肉だ! 沢田君が皮肉言った!)
「クフッ、これは手厳しい」
(まだ笑い方変わってなかった!)
「おい、さっさと行くぞ」
こうなったらさっさと仕事を片付けようとしてか、隼人が急かす。骸にガンを飛ばすのも忘れていない。
隼人に従って席を立った利奈は、ドアの前で控えめに頭を下げて退室した。
__
――三人が退室したその瞬間、室内の空気が変容する。
ランボがいれば、その変圧に耐えられずに腰を抜かしていただろう。
綱吉の正面の席に骸が腰を落とし、今まで利奈が座っていた席にクロームが座る。二人ともその眼光は強く、また、迎え撃つ綱吉の瞳にも一切の隙はなかった。束の間の沈黙は、わずかながらの牽制だ。
今回は恭弥のときと違い、心の準備ができている。まさか、出合い頭に殴られるとは思っていなかった。いや、ある程度の制裁は覚悟していたけれど。
「邪魔者もいなくなったところで、さっそく説明してもらいましょうか。いったいどういうことなんですか、これは」
「説明もなにも、その目で見たとおりだよ。十年前の相沢利奈が、この世界に来てしまった」
言葉に含みをもたせる綱吉に、クロームが俯く。骸は反対に身を乗り出して綱吉を見据える。
「見たまま、ね。僕は貴方の目的を知りたいのですが。それとも、雲雀恭弥の意向で?」
「まさか。ついさっき、思いっきり殴られたところだよ」
「ああ、それでですか。どうもご愁傷さまで」
まったくそうは思っていない顔で、骸がお悔やみの言葉を口にする。綱吉は苦笑いで受け流した。
「残念です。その現場に居合わせたかったくらいだ。
彼、元気にしてます?」
「……会いに行くなよ。機嫌最悪だろうから」
「でしょうね。相沢利奈が突然現れるなんて、怪奇現象でしかない。
ところで――」
背後を気にするように骸は瞳を動かす。
「彼女本人には言ってないのですか。あのことは」
「……言う必要ないだろ」
言わなかった。いや、言えなかった。
綱吉の前に現れた利奈は、疲れ果てていたうえに、予想もしていなかった大怪我を負っていたのだから。そんな彼女に、どうして真実が言えるだろうか。
(いや……違うな)
口にするのが怖かっただけだ。口にして思い出すのも、それを聞いた彼女がどんな反応を見せるのかも。
そんな綱吉に、骸は蔑みの視線を投げる。クロームは、ただただ肩を震わせていた。
幼い彼女の笑顔はまぶしかった。くるくると変わる表情はとても微笑ましかった。
だから、言えなかった。彼女の身に降りかかった火の粉が、そのまま彼女を焼き尽くしてしまったことなんて。
そう、彼女は。彼女の未来は――
「伝えておくべきでしょう。この時代の相沢利奈は、すでに死んでいるということを」
とうに、消え失せていた。