本社ビルの裏にある、古びた喫茶店。店先にメニュー看板などは出ておらず、窓からわずかに覗ける店内も薄暗い。
いかにも常連客御用達な寂れた店の最奥の席に、利奈とクロームは腰を下ろした。
「ここね、意外とパンケーキが美味しいの」
橙色のランプの下、メニューを広げてクロームに見せる。
利奈はもう注文を決めていたので、メニューには目をやらずに、お冷やを運んできたマスターに声をかけた。
「こんにちは。今日はほかにお客さんいないんですね」
「天気が良すぎるからじゃないですかね。こんなに晴れてると、みんな陰鬱な喫茶店なんかより、定食屋かなんかで飯をかっ喰らいたくなるんでしょう」
「陰鬱だと思ってるなら改装すればいいのに。そしたら客足も伸びますよ」
「またまた御冗談を。俺は明るいところにいられるような人間じゃあねえし、閑古鳥が鳴くような店じゃ、先立つものもねえ」
「まったまたー」
この店は、会社員だったマスターが定年退職後に半ば趣味で始めた喫茶店――と見せかけて、暴力団の組長だったマスターが、引退後に開いた喫茶店である。
組の関係者は出入り禁止になっているので、いたって普通の喫茶店のはず――なのだが、引退騒動に一役買った風紀委員は歓迎されているので、お店の雰囲気はなかなかに厳つくなっている。お昼時なら、見覚えのある人たちでいっぱいだっただろう。
「お、決まったかい?」
「利奈は?」
「私はウインナーコーヒーとフルーツパンケーキ。クロームは?」
「私もそのパンケーキと……普通のコーヒー」
「あっ、この子の分はパイナップル抜いてください」
「あいよ。じゃあ、かわりにほかの果物増やしておきましょうかねえ」
クロームが恐縮しながら頭を下げる。
「ここのね、フルーツとクリームいっぱいなの。そんなに甘くないから、ペロッと食べれちゃうと思うよ」
疲れたときや、むしゃくしゃしているときは、ここのパンケーキを頬張って気分を入れ替えることにしている。
これからあの美味しいパンケーキが食べられると思うと、食べてもいないのに上機嫌になってしまいそうだ。
「ほんと久しぶりだよね。何年ぶりだっけ。二年?」
「骸様が解放される前だったから……うん、それくらい」
「だよね!」
委員会室では恭弥がいる手前、話を広げられなかったが、二人と会うのは本当に久しぶりだった。
(卒業してから、クロームとはあんまり会えなくなってたしね)
十年ほど前。利奈がクロームと初めて出会ったころ。
復讐者の監獄から逃げ出した骸はボンゴレと取引をし、ボンゴレと復讐者の監獄がさらに司法取引を行ったことによって、収監を免れていた。
しかし、首謀者の骸は行動を著しく制限されており、それに不満を持った彼らは、監獄側と直接交渉することに決めた。
そこで条件として出されたのが、クロームたちが六年かけて達成した、マフィア界の大罪人狩りである。
骸を解放する代わりに多くの大罪人を捕まえるという、口で言うのは簡単だが危険度の高いこの条件を、彼らは一も二もなく承諾した。
そして世界中を飛び回り、監獄側が提示した条件を見事達成して、骸の自由を手に入れたのである。
――ちなみに、利奈も微力ながら彼らに貢献してきた。
高校生のころには、不在のクロームたちに代わって骸の頼みを聞いたし、大学生になって風紀財団でアルバイトするようになってからは、風紀財団の情報網に引っかかった大罪人の情報を彼らに譲渡できるよう、恭弥を説得したりもした。
(っていっても、大したことしてないけどね)
頼みを聞いたといっても、骸からときどき頼まれる買い物――それも高級店の限定チョコレートとか、そういう緊急性のないものを届けたり、話し相手になったりしただけである。
それに説得も、骸が自由になればいつでも好きなときに咬み殺せると、やけにあっさり恭弥が受け入れたため、利奈はそこまで力を尽くしてはいない。むしろ説得を始めるところまで持っていく時間のほうが長かったくらいだ。
「……本当に大丈夫かな、二人きりにして。だれか呼んだ方がよかったかも」
「二人――でも、大丈夫だと思うよ。報告しにきただけだから」
「だといいんだけど」
ある程度は恩義を感じてくれているはずなので、どうかビルは破壊しないでいてほしいと願っている。最上階だから、ビルが倒壊することはないと思うが。
「イタリアには骸さんの弟子に会いに行ってたっけ。修行とかで」
「うん。フラン――その子、フランって言うんだけど。このあいだまでは、フランの幻術とリングの修行を骸様が担当してたの」
「ん? なにかあった?」
含みのある言い方だ。聞き返しながら、クリームを崩さないようにコーヒーを啜る。
「……最近になって、フランがヴァリアーの霧の守護者に選ばれた」
「……」
カップを置いた。
その意味を、利奈は知っている。いや、前任者であるマーモンの最期を、利奈はすでに知っていた。
ミルフィオーレとの戦いで追い詰められたマーモンは、その命を、自らの手で絶ったのである。
急速に失ってきた食欲を取り戻そうと、利奈は生クリームを掬い取って舌の上に乗せた。
大丈夫。今日は味がわかっている。
「骸さんの弟子がヴァリアーって、それ、骸さん許したの?」
「……うん、ヴァリアーに貸しを作るのも悪くないって」
なんでもないような顔をする利奈にクロームは痛ましげに眉を寄せたが、なにも聞かず質問に答えてくれた。
ヴァリアーは暗殺のエキスパート集団だ。その守護者に抜擢されるなんて、さすが骸が弟子として育て上げただけのことはある。
この何年かで利奈も頻繁にイタリアに行ったし、ヴァリアーの本拠地にも数度顔を出した。でも、そのフランとは一度も顔を合わせたことがない。
当たり前だ。あのころはマーモンも生きていたし、そもそもミルフィオーレファミリー自体、誕生していなかったのだから。
お待ちかねのパンケーキが届いて、会話は一度中断された。
クロームがいる手前、はしゃぎながら口に運んだけれど、そのじつ食欲はほとんどない。ミルフィオーレが侵攻を開始してから、食欲は落ちる一方だ。それでも朝食を摂っていなかったおかげか、抵抗なく食べられた。
やはり、落ち込んでいるときに食べるここのパンケーキは絶品なのである。
「……ねえ、利奈」
顔が上げられない。声だけで、クロームがどんな顔をしているのかがわかる。
「そういえばさ」
キウイにフォークを刺しながら話題を変える。
「イタリアに行ってるあいだ、犬たちはなにをしてたの? 骸さんは修行で、ほかのみんなは?」
「……私たちは、ミルフィオーレの情報を集めてた」
骸はマフィア界全体を憎んでいる。新興ファミリーの情報収集は欠かせないだろう。
そして今日、骸はその情報の一部を提供しにやってきた。こちらが与えた逃亡者情報のお返しだ。
情報収集の途中、クロームはミルフィオーレの雨の守護者に襲われたが、骸とともに戦い、なんとかその守護者を退けたそうだ。
ボンゴレの霧の守護者とその代理人、二人で力を合わせたにもかかわらず取り逃がしたのは、やはり骸のブランクがたたったからだろう。
八年近く黒曜ランドで引きこもり生活を余儀なくされていたせいで、骸はだいぶ身体が鈍っている。それに、幻術の腕は落ちていなくても、今はリングという新兵器が幅を利かせている時代だ。幻術だけでは勝てない世界になってしまった。
(それに、向こうは精製度が極めて高いリングを所持している)
マーレリングの精製度はA以上。ボンゴレリングがあれば対抗できたのだろうが、あれはとうの昔、綱吉が破壊してしまった。リングが兵器として意味を持つ日が来るなんて、だれが予想できたであろうか。
食の進まない話をしながらも、なんとかパンケーキを平らげる。小食のクロームも食べきれたようで、フォークを置いた。
「はあー、食べた食べた。おなかいっぱい」
「私も。美味しかった」
控えめな感想を口にするクローム。しかしその目は利奈を窺っており、利奈は観念して逸らしていた目をクロームに合わせた。
話を聞くだけ聞いておいて、自分はだんまりなんて、虫が良すぎるだろう。
「利奈は、大丈夫なの? 寝てないんでしょう?」
「……あんまりね」
苦笑気味に答えた。
寝付けない。食欲もない。それでも、仕事中は身体が勝手に動いてくれる。原動力になっているのは、怒りだろう。今の待遇に憤りを感じているおかげで働けるのだから、皮肉なものである。
「リング関係の仕事から外されたの。……マーモンのことがあってからかな」
因果関係はないはずだ。仕事上はなにも影響がなかったのだから。家でどれだけ泣いたって、だれの目にも入らないのだから。
「それで、地元の仕事に回されて。でも、ミルフィオーレのことで頭がいっぱいで。だって、知らないところでだれかが死んでるんだもの。忘れられるわけないじゃない」
こうしているあいだにも、きっとだれかが戦っている。そして、亡くなっている。名前どころか、死者の人数すら知ることが許されないなんて、あんまりだ。利奈にとって、彼らの死は他人事ではない。
水のグラスを手に取った利奈は、そのまま一気に飲み干してグラスを置いた。心情とは真逆に、氷が軽快な音を立てる。
「私たちのところに来る?」
「え?」
クロームの顔は本気だった。気休めの提案でないと感じ、作り笑いをやめる。
「利奈なら大丈夫。骸様もわかってくれるだろうし、きっと」
「それはできない」
考えるよりも先に、答えが口から飛び出した。クロームよりも驚いてしまうが、それが嘘偽りない本心なのだと気付いて、利奈は今度こそ微笑んだ。
「前に骸さんも言ってくれたけど、それはいいよ。私、骸さんの仲間にはなれそうにないし」
利奈と骸では、価値観が根本から違いすぎている。
骸個人に関しては好印象を持っているものの、彼の思想、目標に関して、利奈は少しも賛同できていない。骸がマフィアの殲滅にこだわっているうちは、彼らと一緒に歩むのは不可能だろう。骸がやろうとしていることを、利奈は認められない。
そもそも、人を殺す仕事はまっぴらごめんだった。この手を他人の血で汚したくはない。
「それに、ヒバリさんも許してくれないだろうしね。真っ先に殺されちゃう」
「……そう」
冗談めかして笑うと、クロームはおとなしく引き下がった。
骸が本気でボンゴレを狙い始めたら、クロームはどうするのだろうか。骸に従って、こちらに牙を剥くのだろうか。戦わなければならない日が来てしまうのだろうか。
そんな未来が来ないことを、利奈は切に願う。
「そろそろ戻ろっか。あっちももう終わってるでしょ」
椅子から腰を浮かせて伝票を摘む。クロームが財布を取り出したけれど、経費で落とすからと財布をしまわせた。お客様との食事だから、問題なく落とせるだろう。
「私は仕事場に戻るよ。なんか、気持ち打ち明けたらスッキリした。
今日はごめんね。今度埋め合わせするから、許して」
クロームに気を遣わせて、あんな提案までさせてしまった。
それほどまでに、切羽詰まっているように見えたのだろう。実際、危ないところまできているのかもしれない。
しかしクロームは首を傾けた。
「……? 謝られることなんて、されてないよ?」
謙遜ではなく、本心で言ってくれるのだからクロームは優しい。
そんなクロームの背に、利奈はぴょんと飛びついた。
「いーの! 埋め合わせってことで、お茶会しよ? 骸さんと……千種とか犬も呼んでみてさ」
(めんどいとか、肉のほうがいいとかで断られそうだけど)
楽しい予定を立てておけば、これからの仕事も頑張れる。立て直せる。
今みたいに本音で話せば、恭弥だってわかってくれるかもしれない。それでも采配は変わらないかもしれないけれど、そのときはそのときだ。自分にできることをやり切ればいい。
そう、思っていた。
______
「――リングに関する今回の収穫は以上です」
書類をめくりきった恭弥に骸がそう告げると、恭弥が書類から目を上げた。
どうやら彼の期待には応えられなかったようだが、それも当然だ。骸たちはリングの情報を得るためにイタリアに行っていたわけではないのだから。
「ボンゴレ側からなにか働きかけはありましたか? こちらは今のところ首尾よくやっていますが」
「なにも。そのときを待て、くらいかな」
「不服そうですね」
「そう見えるならそうなんじゃない」
ミルフィオーレに対する十代目――綱吉の作戦は、前代未聞にして荒唐無稽。彼の忠実なる右腕が耳にしたら、発狂すること間違いなしな捨て身の作戦だ。この作戦をすぐさま思いついた彼は、自己犠牲精神が強すぎる。
「ところで、そのときを待てと言われたのなら、現状維持が基本ですよね。どうして彼女を追い払うような真似を?」
「君には関係ない」
恭弥はわかりやすく眉根を寄せた。
「ありますよ。彼女は僕の恩人ですから」
これは嘘ではない。
程度はともかく、彼女の協力に助けられた面がある以上、借りは返さなければならない。
しかし骸の言葉を挑発と取ったのか、恭弥はより一層険しい顔で骸を睨んだ。
どちらかが立ち上がれば、それが開戦の合図となりえる。そんな殺伐とした空気を入れ替えるように、ドアが開いた。
「戻りました。……終わったところですか?」
「ええ。いいタイミングです」
戻ってきたのはクロームだけで、利奈の姿は見当たらない。
明日にはクロームを残して戻らなければならないので、別れの挨拶を済ませておくつもりだったのに。
「では、僕も好き勝手やらせてもらいますので。あとの処理などは、ボンゴレと貴方にお任せします」
「……」
「さあ、行きますよ」
クロームにそう促しながら、骸は委員長室を退出した。
クロームは室内の恭弥に頭を下げ、それから骸を追いかけてその隣に並ぶ。
「どうでした? 久々の友人との再会は」
「……利奈、すごく疲れてた」
「でしょうね。あの顔を見ればわかります」
やつれていたどころの話ではない。あれはなにかに憑りつかれた人間の顔だ。
あの様子だと、それに気付いていないのは本人だけだろう。周りからは、腫れもの扱いされているに違いない。
「心配もしてた。二人きりにしたから、喧嘩してたらどうしようって」
「まったく……彼はともかく、僕はそこまで短慮じゃありませんよ。それに杞憂というものです」
骸はちらりと後ろを振り返った。
――そう、杞憂なのだ。だいたい、前提が間違っている。
「断じて二人きりではなかったですしね。そうでしょう? セイ」
「……」
少女が、笑った。