いつのまにか朝になっていたようだ。
時計はないけれど、机の上に置かれた料理を見てそう判断した。
トレイに載っているのはパン、サラダ、ウインナー、それと水の入ったグラス。どう見ても朝食のメニューだ。
朝食の席に座ることなく、利奈は室内を歩き回る。
引き出しを開けてはみたけれど、中にはなにも入っていなかった。
(鏡……ないのかな)
部屋のどこを探しても鏡が見つからない。
探す場所が尽きたので、自分がどんな顔をしているのか確認することは諦めた。ベッドに戻って座りこむ。
ブラシすらなかったので、髪も手櫛で梳くしかない。
なんとなく手触りが悪いように感じるのは、昨日お風呂に入っていないからだろう。
その前日には入浴したけれど、そのあとにリング争奪戦があったので、どことなく体がべたついている。頼めばシャワーくらい浴びさせてもらえるだろうか。
(あの人に聞いておけばよかった。……ひどい顔してるだろうな)
目元を人差し指の背で撫でてみる。ヒリヒリと痛むし、厚ぼったさを感じた。
昨日、正一が部屋を出て行ったあと。
することもなかった利奈は、ベッドに寝っ転がった。
そしてこれまでのこと、これからのことに思いを馳せ――二人の顔を思い浮かべた。
生まれる前から利奈を知っていて、生まれてからもずっとそばにいてくれた、両親の顔を。
(お母さん……お父さん……。会いたい)
夜中に家を抜け出したから、驚いて、心配して、探し回っているだろう。
でも、どこを探しても見つかるわけがない。利奈は未来にいるのだから。
そこまで想像したところで、ハッとしたのだ。
この世界に利奈がいることを、過去の世界のだれも知らない。
そしてこの世界のほとんどの人が、ここにいる利奈が何者であるかを知らない。
ボンゴレアジトにいたほんの数名しか今の利奈を知らないし、利奈が知っているのも、ほんのわずかな人数だけなのだ。
この世界の両親は、利奈を知らない。利奈だってこの世界の両親を知らない。
だれも利奈を知らない。利奈もだれも知らない。
だれにも正体を知られてはならないし、明かしてもいけない。
助けがくるのかもわからない状況にいいようもない恐怖と孤独を感じ、利奈は声も出さずに涙を流したのだ。
(あー、喉痛い。いくらなんでも泣きすぎた)
涙と一緒に食欲も出て行ってしまったので、食べ物には目もくれずに水に手を伸ばす。
最初から常温の水だったのか、グラスに水滴はついていなかった。
一息で呷って再びベッドに寝転がる。枕はしっとりと濡れていた。
(……いつになったら出られるのかな)
食事はこうやって運ばれてきているし、拘束もされていないから待遇は悪くないだろう。
だからといって、ここに閉じ込められたままではいつまでも過去に戻れない。
(いつもならヒバリさんが乗り込んでくれるのになあ……)
そう思ってから、少し笑う。
あの人なら、きっといつでもどこでも駆けつけてくれるだろう。十年の時間差など飛び越えて大暴れしてくれそうだ。
並森町を離れ、県外の山奥に連れ去られたときでさえ、バイクで車に突撃してきたような人だ。
あのときはドアに押しつぶされて死ぬかと思ったけれど、ちゃんと手を差し伸べて助け出して――そこで利奈は我に返った。
時の流れとともに、思い出がかなり美化されている。
(あのときは窓から無理やり引っこ抜かれたよね?
しかも私乗ってるの知ってたのに車にぶつかってくるって、まったく心配されてないよね?)
散々文句を浴びせた記憶も蘇ってきて、利奈は乾いた笑い声をあげた。
――そうだ、あの人はいつでもどこでも、人のことなんてまるで考えていなかった。
自分がしたいまま、やりたいようにやるだけだ。
「……それでも、助けてくれたのにな」
視界が滲み、利奈は目を閉じながら丸めた体を抱き締めた。
現実はそんなに都合のいいものではない。
この世界に利奈の知っている恭弥はいない。いるのは、利奈の知らない、十年歳を取った雲雀恭弥だ。
(……この世界のヒバリさんは、私のことをあまりよく思ってないみたいだし)
この世界の恭弥とは一言も言葉を交わしていない。彼が利奈を拒絶していることが伝わってきたからだ。
それが傷つくべきことなのかどうかはわからないけれど、とにかく利奈は、この世界の恭弥から受け入れられていなかった。
そうして寝転がったまま、どれくらい経っただろう。
部屋の入り口の方からドアの開閉音が聞こえ、利奈はごろりと寝返りを打った。
入り口には青年が立っている。
(食事係の人?)
訝しみながらも利奈は体を起こす。
青年は白い制服も黒い制服も着ていなかった。
(……工事の人?)
青年は作業用と思われるつなぎを着ていた。
手にはなにも持っていないし、部屋の入り口から動こうともしていない。
そのうえ顔を凝視してくるものだから、利奈は布団を引き寄せて体を隠した。
「……あの、なにか用ですか?」
「……」
呼びかけの応えは返ってこない。
叫ぶか逃げるかしても許されそうな状況ではあるが、利奈はそうしなかった。
部屋の奥にあるベッドを使っていたおかげで、お互いの距離は遠い。なので、まじまじと見つめ返す余裕があった。
(なんか、すごく嬉しそうな顔……)
好奇心に満ち溢れた子供のような目をしている。
口に咥えているのは煙草と思いきや棒付きキャンディだったようで、犬の尻尾のようにぶんぶんと上下に揺れていた。
「……あのー」
いつまでも見つめ合ってはいられないと、もう一度呼びかける。
それで我に返ったのか、男は利奈を見つめるのをやめ、机の上に置かれている手つかずの料理に目を向けた。そして何事か納得したような顔で、一度頷く。
「あんたが、正一の連れてきた子?」
ようやく声を発した青年だが、利奈はまず、その声に驚いた。
その低音が、この時代のランボにそっくりだったからだ。
(兄弟……じゃないよね。髪の色全然違うし、顔似てないし)
この人も外国人だけど、顔立ちの雰囲気がまるで違う。親戚でもないだろう。
赤の他人であると判断したところで、今度はその質問内容に意識が向く。
この基地まで利奈を連れてきたのはγたちだが、この部屋に連れてきたのは正一だ。
だから正一に連れてこられたかと聞かれればそうなるのだが、質問が大雑把すぎて答えられない。せめて、ボンゴレファミリーのとか、拉致されたとかを付け加えてほしい。
答えないままでいると、彼は利奈との距離を詰め、つなぎのポケットから小さな紙きれを取り出した。
「これ、読んで」
最小限の警戒心を払いながらも、利奈は紙片を受け取った。
紙には、筆を指でつまみ上げながら書いたようなひょろひょろとした字で、二文字の漢字が書かれている。
<酢鼻>
「……すばな?」
「……オッケー、ジャポネーゼだ」
紙を返すと、なぜか落胆したような表情を見せながら男は紙切れをしまった。
ジャポネーゼというのは語感的に日本人という意味だろうが、なにがしたいのかまったくもってわからない。
「あれ、食べないの?」
机に置かれたままになっている食事に目をやって彼が言う。
「いらないです。片付けても大丈夫です」
食事のトレイを下げに来た人なのだろうか。
そのわりには奇行が目立つが、これも捕虜の取り調べの一環なのかもしれない。
彼はトレイには近づかず、入り口を振り返った。
「モスカ」
ドアが開いた。モスカなる人物を見ようと、視界の邪魔になっている彼を避けるために首を動かすが、人の姿はない。
(……? あっ、いた!)
機械音に視線を落とせば、小型のロボットがゆっくりと床を滑走していた。
(うわあ! 未来のロボットだ!)
興味を惹かれた利奈は、青年が背を向けたのをいいことに、ベッドから身を乗り出した。
ガスマスクみたいな不気味な顔をしているけれど、サイズが小さいからそんなに怖く感じない。
腕で黒塗りのお盆を抱えていて、その上にはごはん、味噌汁、それにおかずと、和食が並んでいた。これが利奈の昼食なのだろう。
ロボットは青年の足元で一回動きを止めたのだが、青年があごで利奈を指し示すと、また動き出してベッドの横で止まった。
利奈を認識しているのか、顔が上を向いているのがちょっと不気味だったりもする。
「紹介する。ウチが造ったミニモスカ」
「え、貴方が造った!?」
びっくりして顔を上げたが、青年が腰をかがめてきたので利奈は軽く身を引いた。
彼はそれには構わず、利奈の顔をまじまじと見つめ、感心したように呟く。
「黒い目に、平坦な顔立ち。ジャポネーゼは本当に面白い顔をしてる」
怒っていいのか悪いのか、微妙なラインである。
悪口ではないのだろうと口調から判断して、利奈はやっと定番の質問をすることにした。
「貴方はだれ?」
「ウチも知りたい」
「ええっ!?」
まさかの記憶喪失者かと驚くが、青年の言いたいことはそういう意味ではなかった。
「ウチもあんたのことが知りたい。あんた、名前は?」
「ああ、そういう意味……。私はあぃ――」
そこで利奈は自分の口を両手で塞いだ。
「ん?」
青年が首をひねる。
(あっぶなー……! ポロっと名前言っちゃうところだった! しかもフルネームで!
ま、まさか最初からこれが目的だったり――しないか)
疑いの目で男を見上げたものの、どうして口を塞いでいるのかと、不思議そうな顔をしている。まるで利奈がおかしなことをしているみたいな反応だ。
「……あ、貴方の名前は?」
「ウチはスパナ」
スパナは隣のベッドに座りこむ。
「ミルフィオーレの、技術者だ」
(技術者……。ロボット造ったりする人?)
利奈がミニモスカに視線を落とすと、スパナはミニモスカの抱えていたお盆を取り上げた。
するとミニモスカは、キュルキュルと音を立てながら後ろに下がる。
「これはあんたの食事。ちゃんと日本の料理を調べて作った。
味もみたけれど、日本人の口に合ってるかはわからない」
「……これも、貴方が作ったの?」
尋ねると、スパナは深く頷いた。
お盆を持っている革手袋は作業用なのか大きめのサイズだ。
「あんたが食事をとらないって聞いたから、ウチが用意した。
洋食が日本人の口には合わなかったんだろ?」
なんというか、外国人らしい思いこみである。
しかし善意十割の気遣いを訂正するわけにもいかず、利奈は曖昧に笑みでごまかした。
どちらかというと洋食のほうが好みである。
「私、今お腹空いてないんです。だから、申し訳ないですけど……」
「空いてないわけがない。もう二時だ」
「えっ」
朝食が片付けられていないから、昼前だろうと思っていた。
どうやらスパナは、食事の準備にかなり手間取っていたらしい。
(でも、ほんとにおなか空いてないんだもん……)
ストレスで胃をやられるような性格ではないが、修羅場続きで食欲が激減している。
一昨日のリング争奪戦で負った怪我と、敵に盗られたというストレスが、物理的にも精神的にもダメージを与えていた。
利奈が一向に手を伸ばさないのを見て、スパナはお盆をミニモスカの腕に戻した。
そのまま部屋を出て行くかと思いきや、先ほどしまった紙きれをまた取り出して、利奈に見せる。
「これ、どうやったらスパナに読める?」
「え?」
再び提示された酢鼻に面食らいながらも、利奈は素直に考える。
「無理やり頑張ったらスパナになると思うけど……すはなか、すばなにしかならないと思います」
「……そう」
心なしかしょんぼりしているスパナを見て、その文字が意味するものに合点がいった。
彼は自分の名前を漢字で表そうとしているのだ。
(なんでまたそんなことを……ううん、それよりも)
「あの、なんで出て行かないんですか?」
訝しみながら尋ねる利奈に、スパナは目を瞬いた。
「あんたと話したいから」
臆面もなく言い放たれた言葉に面食らう利奈を尻目に、スパナが箸の持ち手を掴む。
「ウチ、日本が好きなんだ。お茶とか工芸とか、文化とか。すごく興味がある。
フォークで刺さずに摘み取る仕草も美しいし、この漆塗りとかいう染め方も素晴らしい」
唐突に親日家であることをアピールしだすスパナ。
だからこそ、部屋に入ったときに利奈の顔を注視していたのだろう。外でやったら即通報案件である。
「もちろん日本人にも好意を抱いている。だからあんたとも仲良くしたい。名前は?」
「……言えない。
貴方は多分知らないんだろうけど、私は人質なの。だからなにも話さない」
「そっか」
その件については興味がないようだ。
技術者だと名乗っていたし、ミルフィオーレファミリーに忠誠を誓っている構成員ではないのかもしれない。
だとしたら、逆に情報を引き出すチャンスである。利奈はグッと前のめりになった。
「あの、ここで一番偉い人って誰ですか」
「……責任者って意味だったら、正一だろうね」
やはり本人の言っていたとおり、正一がここの最高権力者であるらしい。
よくぞ利奈の前に姿を現したものである。
咥えていた棒を口から出して、スパナはつなぎのポケットから新しいキャンディを取り出した。先端がへこんでいる、変わった形のキャンディだ。
もうひとつ出して利奈に渡そうとしてきたけれど、それは手で制して遠慮した。
「このメローネ基地すべてを管轄してるのは正一だし、ミルフィオーレファミリーの中でも実質ナンバーツーなんじゃないかな。興味はないけど」
「……仲いいの?」
最高責任者だと知っていながら敬称をつけずに名前呼びだし、その口ぶりはかなり親しげだ。
「正一もプログラマーだしね。新しい兵器の構想とかもしてたよ。
うちはモスカを弄るのが好きだけど、正一はバーチャル空間的な戦闘をよく考案してたし」
(なんか、聞いたら聞いたぶん以上に教えてくれるな、この人……)
そのうち、重要な機密なんかもうっかり喋ってくれそうだ。
人質相手だからか、子供相手だからか、まったく警戒を滲ませていない。
「……私がいつ解放されるかとか、知ってたりします?」
「わからない。あんたの処遇は正一も決めかねてるみたいだったし」
「そうですか……」
知っていたらあっさりと教えてくれそうな口ぶりだったが、知らないのなら仕方がない。
それでも利奈が気落ちしたのが伝わったのか、スパナは言葉を続けた。
「どうなるかはわからないけど、正一はあんたを解放したがっているように見えた。
だから、そんな心配しなくても大丈夫」
「……本当?」
コクリと、飴を咥えたまま頷かれる。
「本当。もし最悪の事態になりかけても、あんたの命乞いはしてあげる。日本人だし」
元気づけようとしてくれているのだろうけれど、それはあんまり喜べなかった。
(だってそれって、私が日本人じゃなかったら見殺すってことだよね……)
視線を落としたら、ミニモスカと目が合った。
それを合図と捉えたのか、ミニモスカがお盆を渡そうと腕を上げる。
「食べられるときに食べておいた方がいい。長丁場なら、体力は大切」
またもや食事を勧められ、利奈は観念するようにお盆を受け取った。
味噌汁はまだ湯気が立っている。食欲がなくても、汁物なら飲めるかもしれない。
「……いただきます」
手を合わせてから、味噌汁の入ったお椀を手に取った。
黒塗りのお椀に口をつける利奈を、スパナは緊張の面持ちで見守る。
「どう?」
器から口を離すと、間髪入れずにスパナに尋ねられた。
「……すごく、おいしい」
スパナが嬉しそうに口元を緩める。
そのまま箸を手に取って食事を始めた利奈を、スパナは終始優しげな瞳で見つめ続けていた。