――落ちていく。落ちていく。落ちていく。
無理やり切断された意識は戻らず、そのまま深い眠りに沈みこんでいく。
激昂していた利奈の意識も、ぬかるんだ暗闇のなかで静かに熱を冷まされていた。
……ねえ、わかる?
目尻から流れた涙は、幾重にも線を描きながら枕に染み込んでいく。
室内は暗く、だれもいない。廊下で絶えず響く声は壁に遮られ、利奈の耳には届かない。
夢を見ていた。
夢のなかで利奈は椅子に座っていて、目の前に広がる映像を眺めていた。
……どうしてこうなったのか、わかる?
後ろから声が聞こえるが、利奈は振り向こうとも答えようともしなかった。
これが夢であることも、後ろにいるのが自分自身であることもわかっていた。
(……私ってなんだったんだろう)
巻き込まれただけのはずだった。
救いの手が伸ばされるのを待っていればいいだけだと思っていた。
それなのに運命は、因果は、利奈をたやすく舞台の真ん中へと引っ張り上げる。
スポットライトに照らされた自分は、その命は、だれかの犠牲によって保たれているものだった。それを、気付かされた。
また映像が止まった。
繰り返し見せられる短い映像の最後は、決まってあの男だった。
『君がいたから、沢田綱吉は死んだんだ』
愉快そうに細められる瞳。弾むような声。
何度繰り返しても、けして擦り切れることなく利奈の胸を刺していく。
そして戻った冒頭。この世界に来たばかりの、綱吉と隼人に出会ったばかりの場面。
優しく受け入れてくれた綱吉の命を奪ったのは――
「違う」
初めて声を出した。
その瞬間、後ろから伸びてきた腕が利奈の首にまとわりついた。
「なにが違うの?」
「私じゃない。沢田君の命を奪ったのは私じゃない」
惑わされてはいけない。あいつの言葉に耳を貸してはいけない。
首に回された腕に力がこもる。
「でも、私のせいで沢田君は死んだんだよ」
確かにそうかもしれない。
巻き込まれただけの被害者だからとなにもしなかったせいで、綱吉は殺されてしまったのかもしれない。
「それでも」
責める相手を、憎しみを向ける先を間違えてはいけない。
今は後悔に首を絞められている場合じゃない。
「殺すの」
あいつを。
そのためには、被害者でいる自分を殺して、生まれ変わらなければならない。
傍観者ではなく、当事者になるのだ。自らの意思で、舞台を駆け抜けなければ。
覚醒の気配にぎゅっと拳を握り締める。
「できるの?」
やらなければ殺される。
このままなにもしなければ、心から先に殺されていくだろう。
無力さを噛みしめて、絶望を抱いて。そんなふうにあいつに心を食い殺されるくらいなら、命を懸けて殺しにいく。
必要なのは、殺される覚悟ではなく殺す覚悟だ。でなければきっと、あの男は殺せない。
「だから――」
利奈は目を開けた。
夢であることを知っていたので、夢から覚めても動揺はしなかった。
起き上がって自分の言葉を反芻しようとした利奈だったが、違和感に気付いて天井を見上げる。
(空調が、止まってる?)
部屋の空気はじっとりと停滞していた。
部屋が暗いのは電気を消されているからだろうが、空調が止まっているのは変だ。
この部屋に空調を止める装置はないし、利奈を運んだあとに空調を止めたって意味がないだろう。
ベッドから足を降ろそうとして、もうひとつの異常に気付いた。
部屋が暗すぎるのだ。
いつもなら、電気を消されていても廊下の明かりで物の輪郭は判別できていた。
それが今は、自分の身体さえも視認できないほど室内が暗くなっている。
(廊下も暗いってこと? そんなことあるの?)
夜中に部屋を出たことはないけれど、夜だからといって廊下の明かりを消したりはしないだろう。
スパナだって徹夜で作業をする日があると言っていた。
それに部屋の外には見張りの隊員が一人立っていたはずだ。廊下の明かりを消すなんてありえない。
(停電してるのかな。それなら部屋から抜け出すチャンスだけど……)
しかし利奈はこれを好機とは捉えていなかった。
利奈はこの建物の全容をまるで把握していない。抜け出したところで、右往左往しているうちに捕まるのがオチだろう。
メローネ基地が利奈の読み通り地下にあるのなら上に上がればいいが、万が一地上にある場合、上に行けば行くほど出口から遠ざかってしまう。
(どうせ捕まっちゃうだろうけど……やるって決めたんだから、やらなくちゃ。
様子見て、出られたら出て行っちゃおう)
尻込みしている場合ではない。
逃げ出したせいで牢屋に閉じ込められたとしても、それはそれで構わない。
この基地内にいるかぎり、どこにいたって利奈は捕虜なのだ。
何日も同じ部屋に閉じ込められていたのが幸いして、光源がなくても利奈は部屋の入り口までなんなく辿りつくことができた。
脱出するつもりなら荷物も持っていくべきだろうが、外が暗いのなら荷物を持っていないほうが目立たないだろう。どうせ逃げ切れはしないという諦観もある。
(暗くても外にだれかいるかもしれないし。
ううん、普通いるよね。こういうときって見張りを厳重にするのが鉄則だし。
それで全員ヒバリさんに倒される……ふふ)
思い出し笑いを浮かべながら、ドアに手を当てた利奈だったが、ひとつ、基本的なことを忘れていた。
――そう、自動ドアは停電時には作動しないのである。
(……あれ? あれあれ?)
何度もドアに手を重ね、間違ったのかと壁に手を這わせるが、ドアは一ミリたりとも動かなかった。
自動ドアの仕組みがすっかり頭から抜けていた利奈は、ドアが故障しているのかと顔色を変える。
せっかくの機会なのにと慌てるが、慌てるせいで機械の構造には思い至らない。
(こ、これどうやって開ければいいの!? 手で無理やり……って、指入らないよ!? なんか痛いし! 閉じ込められた!?)
利奈の手には包帯が巻かれている。ついでにまたもや肩の傷口が開いてしまっている。指先に力が籠められず、まるで歯が立たなかった。
もっと力があればとは、こういう場面で使う言葉だろう。
(うー、だめか。さっきの部屋に行って機械めちゃくちゃにしてやろうと思ったのに)
どれくらいの損害が出るかはわからないが、とりあえず嫌がらせにはなっただろう。
技術者のスパナが修理に駆り出されてしまうかもしれないが、そこはあまり考えないでおく。
どうしたものかとドアに両手をつきながら逡巡していたら、廊下を走る足音が、この部屋の前で止まった。
すかさずドアに耳を当てる。
「電気はまだ復旧しないのか? なにがどうなってるんだ。敵襲か?」
「制御コンピューターの入れ替え時にトラブルが起きたんだってさ。
非常用電源にも切り替わらないらしいし、しばらくはこのままになりそうだって」
どうやら、基地全体が大規模停電に陥っているらしい。
原因にまったく見当がつかない利奈は、そんなこともあるのかと他人事のように隊員の会話を盗み聞く。
「貴方も、一度部隊に戻って状況を確認した方がいいんじゃないですか。
自分は戦闘員でお役に立てませんし、よかったらこの部屋の見張り代わりますよ」
「おお、それは助かる。無線機と明かりを持ってくるまでのあいだ、頼めるか?」
「かまいませんよ。ついでに復旧までにかかる正確な時間も修理業者から聞いておいてくれるとありがたいです。部隊長に報告したいので」
「わかった」
足音が離れていく。
停電中とはいえ、ドアの前に二人も見張りがいるのでは、逃げ出すなんて不可能だろう。
残念に思いながらドアから身を離すが、そのドアが音もなく開いたので、利奈は面食らった。
懐中電灯のような光が利奈の足を照らし、胴を照らし、顔を照らし出す。
眩しさに目を細めるが、二人は利奈を照らすのをやめなかった。
「この部屋で合ってたみたいですねー。わかりやすい目印があって助かりましたー」
さっき聞いた声とはまったく違う声が聞こえる。
目元を手で隠しながら訪問者、あるいは侵入者の顔を確認しようとした利奈だったが、次に聞こえた声に、すぐさま顔色を変えた。
「シシ、だから言ったろ? 復旧させられる前に見つけ出せるって」
その声を聞いた瞬間、背筋が震えた。本能が警告を打ち鳴らした。
(なんで、こんなところに!?)
「じゃあ、さっさとここ出ましょうよ。さっきのに戻ってこられたらめんどくさくなりますしー」
「同感」
「来ないで!」
二人が室内に足を踏み入れようとしたので、利奈は声を張り上げた。
二人の動きが止まる。
「来ないで、あ、貴方はとくに!」
「……俺?」
ビシリと人差し指で指し示すと、心外そうに人影が首を傾げる。
しかし利奈は、ジリジリと後ろに下がりながら肩の傷口を押さえた。
「貴方――あんた、ベルでしょ?」
恭弥と利奈を襲い、双方に深手を負わせた男。
つい三日前の出来事を思い出しながら、利奈はぎゅっと唇を噛みしめた。
まさか、こんなところで再び顔を合わせることになろうとは。
「なに当たり前のこと聞いてんの? ってか、お前なんか変わった?」
「来ないで!」
どさくさ紛れに入ってこようとするので、利奈は掛け布団を投げつけた。
咄嗟の行動だったので布団は利奈の足元に落ちたが、それでベルは動きを止めた。
「……もしかして先輩、この人となんかあったんですか?
いったい、なにしでかしたんです?」
あまりの警戒具合に、もう一人の少年が疑いの眼差しをベルに向けた。
だいぶ変わった帽子を被っているが、今はそれを気にしていられる余裕がない。
「は? べつになにもしてねえよ」
「嘘! ひどいことしたじゃない!」
臆面もなく嘘をつくので、すかさず異を唱えた。
三日前のことを、覚えていないとは言わせない。
「うわあ……これは正直言って引くしかないですね。先輩、こんな年の離れた女の子に一体どんな性的暴りょゲロロッ!?」
「ぎゃあ!?」
ベルの投げたナイフが帽子越しに少年の頭部に突き刺さり、利奈は悲鳴を上げながらベッドの陰に隠れた。しかし――
「……痛いですー。ちょっとしたジョークじゃないですかー」
「うっせ、バーカ」
「え……?」
少年がなんら変わらない声で文句を言うので、恐る恐る顔を覗かせる。
そこには、ナイフが突き刺さりながらも平然とする少年の姿があった。
(え、ええ……?)
痛いと言ったわりにはたいしたことがなさそうだし、額からも血は流れていない。しかしナイフはどう見ても本物だ。
手品を見せられている気分になってくる。
「だいたい、こいつ俺とそんなに年変わんねーっての」
「いやいや、どうみても十歳は離れてるでしょ。ミーよりも子供じゃないですか」
少年の言葉に、ここが十年後の世界だったことを思い出す。
利奈にとっては三日前の事件でも、ベルにとっては過去の出来事になっているのだ。
よくよく見ればベルの風体もだいぶ様変わりしている。目元が隠れているのは相変わらずだったが。
「わ、私、十年前から来たの。……覚えてるでしょ、私にナイフ投げたの」
「わあ外道。さすが先輩ですね、清々しいほどの鬼畜具合ですー」
「お前にナイフを? ……あー、あれね。リング争奪戦」
さっきからやたらと態度が馴れ馴れしい気がするが、ずっと交流があったのだろうか。
今の利奈にはとても信じられないが。
「でもあれ、十年前の話だし」
「私にとっては三日前!」
「バリバリ最近じゃないですか。運悪いですねー、先輩」
「黙ってろフラン。じゃなきゃ死んでろ」
「お断りしますー。ミー、天寿を全うするつもりでいるんで」
フランと呼ばれた少年がフルフルと頭を振る。
先ほどからちょくちょくと口を挟んでくるけれど、ベルへのからかいの言葉ばかりである。
頭に被ってるカエルの着ぐるみ帽子も相まって、道化師のようだ。
「……にしても、ここで十年前のお前が出てくるとはね。
どうりでお前と面識のある人間寄こせって言われたわけだ」
「でもこれ、どうします? 警戒すごいですし、いっそのこと気絶させて無理やり連れて行きます?」
「お前、人のこと言えねえだろ絶対」
今のところ、二人から敵意は感じられない。
しかし十年経ったとはいえ、見逃す振りをしてナイフを投げつけてくるような人間だ。一瞬たりとも油断はできない。
「それで、こんなところまでなにしに来たの? 私を殺せって依頼があったの?」
「ちげーよ。んな依頼だったら断ってるし」
「おっと好感度を上げにきたー。必死だー……というのは置いといて。
ミーたちは貴方を救出しにきたんですよ」
フランの言葉でさらに利奈は混乱した。
ベルの所属するヴァリアーは暗殺部隊だったはずだ。命を奪いにきたのならとにかく、助けにきたとはどういうことだろう。
「救出? なんでベルが? 仕事変えたの?」
「変えてねえよ。
そんなことより、さっきのが戻ってくる前にさっさと逃げねえと」
「ですねー。そんなわけで、これ着てもらえます? サイズたぶん合わないですけど」
そう言ってフランが利奈に黒い制服を差し出した。
ミルフィオーレブラックスペルの制服で、よくよく見てみれば、二人も同じ制服を着ていた。
「……信じろって言うの? 貴方たちを?」
制服を受け取らずに尋ねたら、あからさまにめんどくさいという顔をされた。
しかし、利奈からすれば当然の問いだった。
昨日の敵は今日の味方といっても、あまりにも急すぎる。
(十年前のことっていったって、ベルは沢田君の敵だったし……このまま私を攫って、今度はヴァリアーが沢田君たちを脅す……とか……)
利奈はぎゅっと唇を噛みしめた。
綱吉はもういない。殺されたのだ。
しかしフランは、思ってもみなかった言葉を口にした。
「ミーたちっていうか、ボンゴレを信じればいいんじゃないですかね。貴方の救出を依頼したの、ボンゴレでしたから」
「!?」
ボンゴレという言葉は、ボンゴレファミリーのボス、沢田綱吉を指し示す。
利奈はすぐさま制服を持つフランの腕を掴んだ。
「ど、どういうこと!? 沢田君、生きてるの?」
「え、死んだんですか?」
「ベル!」
すかさず話を横に振るが、ベルは肩をすくめた。
「知らね。依頼あったの今日じゃねえし」
「なんだ……」
脱力しながら腕を引く。
ついでに制服も受け取ってしまったが、こうなったら彼らについていくしかないだろう。
少なくとも、あの男の目の届くところにいるよりは何倍もましだ。
「これも嘘だったら絶対に許さないから。
そしたらヴァリアーは依頼人を騙す最低な組織だって噂してやるから」
「いいからさっさと着替えてもらえますー? 幻術でこの部屋隠すのわりと疲れるんですよねー」
「こっち見ないでよ! 見たら殺すから!」
布団を被りながら服を着替える。
同じ空間に二人も異性がいるなかで着替えさせられるなんて、もはや拷問である。
「暗くてどうせ見えねえよ……十年前のほうがうっせえな、お前」
部屋の外を確認しながら呟くベル。
今のところ、見張りが戻ってくる気配はないようだ。
「あー、退屈。やっぱ受けるんじゃなかったかも」
「ですね。まあ、ミーに拒否権はなかったんですけど」
「あ? お前は別に面識ないから断れたろ。断らせねーけど」
「いや、絶対に助けろって師匠に釘刺されましたから。姉さんも電話で泣きながら助けてあげてなんていうし……」
「ねえ、ペンある?」
着替え途中、あるものに気付いて利奈は声を張り上げた。
「持ってないですね」
「持ってねえよそんなの」
「じゃあナイフ貸して。ちょっとだけ」
「は? なんでそんなもん……」
「いいからいいから」
渋るベルからナイフを借りて、紙を引っ掻いて文字を刻む。
「はい、終わった。じゃあ行こ!」
紙袋を持って意気揚々と声をかけてきた利奈に、フランの目がじっとりと細まる。
「驚くほど神経太いですね、この人」
「そういうやつだから」
十年分の付き合いがあるベルは、返されたナイフをしまいながら、こいつらしいと口元に笑みを浮かべた。