恭弥の殺気を背中に浴びたときから、攻撃が来ると察知していた。そしてそれは振り向いた直後になるであろうことも。
だからこそ後ろを向くことを躊躇っていたのだけれど、まさか、読み通りになるなんて。
(かわせなかった……)
イメージができていたにもかかわらず避けられなかった。恭弥の動きは想像をはるかに上回っていた。
付け焼き刃の技術をあざ笑うかのように、恭弥の天性の才能は利奈を屠った。
利奈にできたのは、顔を逸らしてダメージを辛うじて軽減させることと、自分から転がって衝撃を逃がすことだけだった。
しかもそれらも、レヴィに言わせれば落第点だっただろう。成功していれば頬にも手にも痛みはなかったはずなのだから。
(やっぱり、私じゃ駄目なんだろうな)
受け身すら取れないようでは、復讐なんて夢のまた夢だったのだ。
こんなときなのに笑ってしまいそうになる。
「なにしてんだ、ヒバリ!」
武が利奈を庇って前に立った。
しかし恭弥の目は利奈を射抜き続けていた。
「……いったい、なにをしていたの」
恭弥は声を荒げなかった。
今までも荒げたことなんてなかったけれど、普段よりもずっと静かな口調に、利奈は心底震えあがった。
「無断欠席。委員会への連絡もなし。僕からの電話にも応答なし。どういうこと?」
声の温度すら絶対零度だ。これは本気で怒っている。
(そうだ。ヒバリさんと私じゃ、来た日が違う)
この世界で利奈が過ごした時間分、十年前の世界でも利奈がいない時間が経過している。
そのあいだ学校を休み続け、風紀委員の仕事にでなかった利奈を、恭弥は決して許しはしないだろう。風紀を守るのが彼の仕事なのだから。
「おいヒバリ、話聞けって! 前にも言っただろ、俺たちはいきなり十年後に飛ばされて――」
「関係ない」
そこでやっと恭弥は武に目を向けた。
「君達の欠席理由はどうでもいい。興味もないからね。
でも、相沢は風紀委員で、僕の配下だ。扱いは僕が決める」
「だからって、いきなり殴るのはなしだろ」
武はなおも庇ってくれたが、恭弥はそれを無視してこちらに視線を戻す。
射竦められて身体が動かない。その視線が左腕を舐めた。
「腕章は?」
「……あ、ります」
「ちょうだい」
呼吸が止まった。
恭弥の言葉の意味がわかり、粛々と命令に従わなければならないことは承知しながらも、利奈は横に首を振った。
「今は、持ってないです」
苦し紛れの嘘だった。
本当は肌身離さず持ち歩いている。ズボンのポケットに入っている。でもそれを言ったら渡さなければならなくなる。それだけはできない。
「なら持ってきて」
「……」
「僕に逆らうの?」
渡せない。この腕章はこの時代の恭弥に託されたものだ。
それに、これを返してしまったら――
「おい、ヒバリ!」
「邪魔」
恭弥は武を押しのけようとしたが、武は負けじと腕を広げた。
険悪な雰囲気に、利奈は慌てて立ち上がる。このままだと、なんの関係もない武が巻き込まれてしまう。
「山本君、いいよ。大丈夫、私のせいだから」
「いいから」
前に出ようとしたけれど、武に腕で制された。そして武は恭弥を強く睨む。
「ヒバリ。これ以上やると、俺も本気で怒るぜ」
「山本君!」
恭弥は動かない。数十秒の長い沈黙ののち、唐突に恭弥の圧力が緩んだ。
「……わかった。もういいよ」
もう、恭弥の声に色はなかった。しかし利奈は愕然として唇を震わせた。
恭弥が次に言う言葉がわかってしまったからだ。
(やめて)
利奈の願いもむなしく、恭弥は続けた。
「相沢利奈。君を、風紀委員から退会させる」
「っ!」
死刑宣告に近い言葉を、恭弥は無表情のままに吐き出した。怒りすらも消え失せた眼差しに、利奈は言葉を失った。
無関心。切り捨てた残骸を見るような目だ。
「じゃあ、それだけだから。これ以上は煩わせないでね」
恭弥が踵を返す。
「待てよ!」
武が一歩を踏み出したが、すぐに振り返って狼狽し始めた。
利奈が勢いよく両膝を折ったからだ。
「相沢? お、おい、相沢!?」
武の声が遠い。
耳が、頭が、ガンガンと痛む。
(退会。退会。……辞めさせられた)
認めてもらえたばかりだったのに。ずっと拠り所にしていたものだったのに。
じわじわと広がる絶望に頬の痛みも忘れ、利奈は呆然とその場に座りつくした。
__
思えばずっと、相沢利奈は風紀委員だった。
話をするようになったのは、一学期の終わりごろ。慌てて荷物をひっくり返す利奈の手にぶつかったことがきっかけだった。
その前にも存在を意識したことがあったような気がするけれど、よく覚えていない。
とにかく、記憶のなかの利奈は、ずっと風紀委員だった。
「痛むか?」
とにかく冷やさなければと、医療室から氷嚢と冷えた湿布を持ってきた。
利奈の部屋で湿布を貼って氷嚢を渡せば、利奈はゆるゆると首を振る。
「大丈夫。そんなに痛くなかったから」
そんなわけがない。あの恭弥が全力で殴りつけたのだ。
頑なに遠慮する利奈の手当てを半ば強引に行ったが、確かに頬は腫れていなかったし、口の中が切れている様子もなかった。
(あれでも、手加減してたんだな……)
それだけの理性はあったのだと安堵したものの、やはり恭弥の行動は滅茶苦茶だった。間違っていた。
利奈は被害者だ。巻き込まれただけで、落ち度はない。
それなのに恭弥は自身の方針を曲げず、暴力を振るったうえに彼女の誇りを奪い取った。
退会を言い渡されたときの利奈の表情を思い出すと、胸の中が熱くなる。
(やっぱり、追いかけるべきだったか)
しかし、そうしていたら利奈は一人ぼっちになっていた。
呆然自失の利奈を一人きりにはできず、こうやって部屋まで送り届けて怪我の手当てもした。そのあいだ、利奈はずっとなんでもないような顔で喋り続けていた。
「なんかごめんね、巻き込んで。でも、ほんと大したことじゃないから。
ヒバリさんっていつもあんな感じだし、そんなに気にしないで」
「私、いつも班の人とかに叩かれたり殴られたりしてるんだよ。だから慣れてるの。
むしろいつも通りっていうか、ちょっと安心した――って言ったらうそになるけど。とにかく大丈夫だから!」
「ほんとに大丈夫だって。山本君も疲れてるでしょ? あとは自分でできるから、山本君も部屋に戻りなよ。はい、おやすみー……だめなのね」
利奈がおどけて喋るほど、痛々しさを感じ取ってしまった。
喋れば喋るほど武の表情が硬くなるのを察してか、利奈も最終的には黙り込んだ。
静かな部屋のなかで、時計の針の音がやけに大きく聞こえてくる。昼も夜も関係ない場所なのに、夜の静けさが広がった。
利奈に、なんて声をかければいいのだろう。
自分の身に置き換えるとすれば、野球部を辞めさせられるようなものだろうか。
自身も無断欠席している状態なので、わりと現実味を感じるシチュエーションである。
(……つらいな、それは)
想像した武は、たちまちかける言葉を失い頭を掻いた。
野球は一人じゃできない。
野球部を辞めさせられるのは、自分が骨折するよりも深刻な状況だ。
ましてや、並盛中学校の風紀委員に代わりはない。ほかの委員に入ればいいとか、そういう問題ではないのだ。
並んで座っているベッドが軋む。
沈黙は重く、つい体を揺すってしまう。利奈も同じなのか、氷嚢をしきりに動かしていた。中の氷が音を立てている。
「……なあ」
「うん」
言葉がまとまらないから、まとめるのを諦めて声をかけた。
励ませばいいのか、慰めればいいのか、憤慨すればいいのか、それすらもまとまっていない。
「相沢はさ、どうして風紀委員になったんだ?」
「え?」
「……あー、いや。ちょっと気になって」
言いたいことはそれではなかった。もっとほかに言うべき言葉があったはずだった。
でもなにも言えなくて、そんなくだらない質問しかできなかった。
「んー。成り行きって言えばいいのかな。
いろいろあって、どうしても入らなきゃいけなくなっちゃった感じ。私じゃなくて、ヒバリさんのアイディア」
「ヒバリの?」
驚いたものの、それ以外ないだろう。
あそこは恭弥にすべての決定権がある。
それから武は、利奈が風紀委員に入った経緯の詳細を、本人の口からすべて聞かされた。
話していると気が紛れるのか、話しているうちに利奈の表情が明るくなっていく。
懐かしむ利奈の横顔は楽しげで、あんなことがなければ武だって笑っていただろう。なくなったものを惜しむ顔に見えなければ。
話に一区切りついたタイミングで、部屋の扉が開いた。
また恭弥かと身構えたが、戸口に立っていたのがリボーンだったので、すぐに肩の力を抜いた。利奈も息を吐き出している。
そんな二人の反応を、リボーンはおかしそうに見ていた。
「普通、ここは慌てるところだぞ。こんな時間になにやってんだ」
からかうようなリボーンの言葉に、利奈が乾いた笑みをこぼす。あんなことがあったあとなのだ。
「リボーン君はなんで来たの?」
「山本がお前を送りに行ったまんま戻ってこなかったからな。獄寺が探してたから、迎えに来た」
「獄寺が?」
同室とはいえ、隼人が武の戻りを気にするだろうか。綱吉が戻ってこないのならともかく。
しかし武は疑問を飲み込み、身軽に腰をあげた。
「悪い悪い、小僧にも世話掛けたな。んじゃ、俺は戻るぜ」
「あ、うん。どうもありがとね、いろいろと」
「おう」
かしこまる利奈に片手を上げて、武は廊下を出た。
そしてしゃがみこみ、リボーンの帽子に手を当てる。
「見てたのか?」
「なにをだ?」
「ヒバリに利奈が殴られたとこ」
小声で囁くと、歩き出すようにと目で促された。
やはり隼人が云々というのは建前だったらしい。
「俺は見てねーが、フゥ太がな。
風紀財団の通路を使ってヒバリがやってきたから、監視していたらしい」
「そうか。……じゃあ、なんで殴られたのかは知らねーな?」
利奈が無断欠席を理由に風紀委員を退会させられたことを伝えると、リボーンはぎゅっと眉間に皺を作った。巻き込んだ側として、思うところがあるらしい。
「……利奈の様子は?」
無言で首を振る。
いつも通りを無理して装っているということはわかるが、その裏の感情までは覗けなかった。あそこで粘っていたとしても、得られるものはなかっただろう。
攻めるなら、相手は利奈ではない。
「お前、ヒバリのところには行くんじゃねえぞ」
たまらず武は苦笑した。見事に行動を予測されていたからだ。
「ほんと、お見通しなのな」
「一応、ちょっと前まで専属で家庭教師やってたからな。それに、お前もツナ並とは言わねーがわかりやすい」
わかりやすいのは否定しないが、こんな短いやり取りでわかるものなのだろうか。
いや、リボーンの洞察力がずば抜けているのだろう。
「お前がなにしたってヒバリは撤回しねーぞ。
あいつは他人の言うことを聞き入れたりはしないからな」
承知している。しかし、引き下がるわけにはいかない。
それでは利奈があんまりだ。
「お前の気持ちもわかるが、あいつらにはあいつらのルールがある。
委員長のヒバリが利奈の退会を決めたんなら、俺たちがあいだに入ってできることはなにもねえ。かえって事態を悪化させちまうだけだ」
「だからって、このままじゃ相沢が――」
「落ち着け。俺だって、このままにしとくつもりはねえ。
あいつは俺たちに賭けたんだ。なんとしても勝たせてやるさ」
そう言ってリボーンが顔を上げた。
黒目がちな瞳のなかに、深い経験の色が滲んでいる。
「明日になったら、草壁にこの件を報告する。そしたら風紀財団が動き出すだろう。
あいつらにとっても、委員会でのいざこざは避けたいところだろうからな」
「風紀財団に……」
なるほど。外から手が出せないのなら、中で手を加えてもらえばいい。
風紀委員、いや、風紀財団の力を借りるという発想がなかった武は、幾分か身体の力を抜いた。
「それに利奈なら、俺たちが手を焼かなくても自分でなんとかしようとするだろう。
あいつにその意思があるんならな」
そこでリボーンは口元を引き上げた。
「あいつはなかなか骨があるやつだ」
「……知ってる」
でなければ、単身で夜の学校に乗り込んだりはしないだろう。
あのときの感触はまだ覚えている。手のひらを包んだ柔らかい感触を。
手のひらまで伝うほどに出血していたにもかかわらず、武の解毒を優先した利奈の、祈るような声音を。
(……だから、なんとかしたい)
左拳を握り締め、強く願う。
どうか、彼女が笑っていられますようにと。