すっかり空になった器を持って調理場に戻った利奈は、眼前で広がるありえない光景に凍りついた。
調理場には京子とハル。そして二人に挟まれた、よく見慣れた後ろ姿がある。
「わあ、リンゴが白鳥になった!」
「こんなに速いのに幅が均一です! すごい包丁さばきです!」
「あはは、ちょっと齧ったくらいなんですけどね」
そんなことを言いながらも、まんなかの人物は手を止めずにリンゴを切っていく。背後からでもわかる包丁技術だ。
「今度はお花です! はひー、食べるのがもったいなくなっちゃいそうです!」
「うんうん、ほんと、飾っておきたくなっちゃうねー」
「いえいえ。ほんのささやかなお礼ですから、そんな大層な」
(だれ、あの人)
歓声を上げる二人に愛想よく対応する哲矢を、利奈は宇宙人に攫われた人間を見るようなまなざしで凝視した。
――草壁哲矢。並盛中学校の風紀委員会副委員長。
利奈の知っている哲矢はとにかく硬派でしかつめらしく、こんなに朗らかに笑ったりなんてしなかった。
声をかけるタイミングを逃し、利奈は無言のままテーブルの上におぼんを置いた。
空の食器が音を立て、三人が振り返る。
「おかえり。草壁さんが利奈に用があるんだって」
「ああ! クロームさん、完食してくれたんですね! お元気でしたか!?」
(ごめん、草壁さんの変わりようがすごすぎて追いつかない)
まず、目の前の哲矢について説明してほしい。
他校生のハルはともかく、京子は風紀委員としての哲矢を知っているのだから、これが正常でないことを知っているはずだ。
いや、思い至る正解なんて、ただひとつだけれど。
「……この世界の、草壁さんですか?」
でなければ困る。でなければ、元の世界の風紀委員一同が驚き嘆いて悲しんでしまう。
いや、どっちにしろ驚くと思うけれど。
「ああ、俺はこの世界の人間だよ。変わらずに恭さんの下で働いてる」
「……恭さん?」
「おっと、中坊の俺はヒバリさん呼びだったな。……おい、その顔はやめろ」
十年という月日は残酷だ。それを今、はっきりと感じ取った。
(草壁さんがヒバリさんをあだ名で呼んでる……。
待って待って待って、まさか私もそう呼んでたわけじゃないよね? え、それが当たり前の世界だったりしないよね? だとしたら私、今すぐ未来を変えたいんだけど)
「利奈? どうしたの?」
「り、利奈さん、表情筋がデンジャラスなことになってますよ……? あの、もしもし?」
「ハッ」
部外者がいることを思い出し、彼方へ飛び立っていた思考を呼び戻す。
そして二人がまったく見ていないのをいいことに般若のオーラをまといだした哲矢に、忘れかけていた風紀委員としての建前を取り戻す。
「失礼しました、副委員長」
「今は副委員長じゃないがな」
(そうだった……)
動揺のあまり、今の哲矢を前の哲矢と統合してしまうところだった。
利奈への態度は以前と同じものなので、なんとか態勢を整えられそうだ。
「そっか、利奈は草壁さんと会うの初めてだっけ。なら、びっくりしちゃうよねー」
ほわんと京子が微笑むが、びっくりどころではない。恭弥が群れたと聞かされるくらいの衝撃があった。
並盛中学校風紀委員会副委員長を背負ってるだけあって、恭弥と同じくらい硬派な存在だったのだから。
「ここではなんだ、少し場所を変えるぞ」
「行っちゃうんですか? リンゴ、ありがとうございました!」
「ああ、いえ。朝食をご馳走になったお礼ですので。ごちそうさまでした」
これが社会人になった人の礼節というものなのだろうか。
あっさりと頭を下げる哲矢にまた顎を外しそうになっていたら、それを戻すように頭を押さえつけられた。二人がいなかったら、拳骨を落とされていたに違いない。
「――さて、昨日の件についてだが。恭さんに委員会を辞めさせられたらしいな」
空き部屋に移った哲矢に、さっそく本題を切り出される。
利奈が使っている部屋の隣の部屋なので、ここも二段ベッドだ。
利奈は勧められたままに二段ベッドの下段に腰掛け、哲矢は反対側の壁に背中を預けた。
長くなったリーゼントがわずかに揺れるので、目を逸らす。
「ヒバリさんに聞いたんですか?」
「いや、リボーンさんだ。早朝に通信が届いた」
昨夜、武を迎えに来たのはリボーンだった。
そのときに武からあらかたの事情を聞かされたのだろう。行動が早い。
「じつは昨日、ディーノさんが、お前が戻ってきていると恭さんに伝えていたんだ」
そういえば、ディーノとは別れっぱなしになっている。
ツナたちの様子を見に行ったはずだけれど、先に恭弥に出会ってしまったのなら仕方ない。
戦闘狂の恭弥にとって、十年後のディーノは絶好の獲物なのだから。
(ヒバリさんと夜まで戦って、そのままヒバリさんの方のアジトに泊まったんだ。
で、ヒバリさんが私の話を聞いて怒った、と)
「いや、それ自体は悪くなかったし、お前を連れてきたんだから話すのは当たり前だったんだが――タイミングがまずかったというか」
「機嫌が悪かった?」
「そうじゃない。ただ、最初からお前にすさまじく腹を立てていてだな……」
それならば、昨日本人に直接聞かされた。
風紀委員が風紀を破ったのだから処罰対象になるのは当然だが、あそこまで怒るなんて、よほど腹に据えかねていたのだろう。
「無断欠席もそうだが、えらく奔走したそうだぞ。俺たちも」
「俺たち……って?」
「十年前の俺と、お前以外の風紀委員全員がだ。失踪したお前を探すために八方手を尽くして捜索したらしい。表からも裏からも、ひとつ残らず」
「それって……!」
意味を理解した利奈は、心の底から震え上がった。
(並盛町が更地になった……!)
並盛の秩序が、表社会の権力(警察)を使い、裏社会を力でねじ伏せたのだ。草一本残らなかっただろう。
「なんなら、隣接する市区町村すべて焼け野原になったそうだぞ。
腹立ちまぎれにいくつ組が潰されたか、聞きたいか?」
「聞きたくないです!」
即座に断ると、哲矢が苦笑いしながら肩をすくめた。
「だろうな。俺も聞かなかった。両手の指でも足りないだろう」
「うわあ……!」
なんということをしでかしてくれたのだろう。そして、なんということをしでかしてしまったのだろう。
まったくもって無関係だったにもかかわらず慈悲なく潰された組織の方々を思うと、悪人相手でも頭を垂れたくなってくる。
(そもそも、なんでそこまで!?
前に風紀委員が骸さんに襲われたりはしたけど――って、まさか骸さんのとこにも殴り込みに行ったんじゃ!?)
尋常じゃないくらい被害が広がっている。
委員一人を探すためにそこまでした風紀委員会が怖い。頼もしさよりも恐怖が勝る。
「ど、どうすればいいですか!? このままだと私、命ないですよね!?
みんなに土下座して回ればどうにかなります!?」
「落ち着け。気持ちはわかるが、慌てなくていい。
白蘭に勝ちさえすれば、すべてが元に戻るはずだ」
「過去の話でも!?」
「おそらく。未来に送るのも時間指定ができたんだ、逆もできるだろう」
(できなきゃ困る……!)
とんでもない事態になってしまった。
過去でのすべてが空回りだったと知らされた恭弥は、さぞかし激昂しただろう。
だからこそ、あんな夜更けにもかかわらず、ボンゴレアジトに乗り込んできたのだから。
「話が出たのは夕食中だったんだが、膳を蹴飛ばす勢いで立ち上がられてな。
俺とディーノさんで押さえつけてなんとか宥めたんだが、就寝してから、いつのまにか部屋を抜け出していたようで」
「なるほど……」
いくらなんでも、夜通し部屋の前で見張っているわけにもいかなかっただろう。
邪魔者がいなくなってから悠々とこちらに向かったのであろう恭弥の姿を想像し、利奈はため息をついた。
部屋着からわざわざ学ランに着替えたのだろうから、ご苦労なことである。
「だがまあ、そんなに気にする必要はない。
俺もこの前、中坊の俺と間違えられて退会させられそうになったが、不問になった」
「草壁さんも……って、間違えられたんですか? 中学生に?」
「……逆はよくあったんだが。
あのときは距離があったし、恭さんも過去から来たばかりで混乱していた。無理もない」
口ではそう言いながらも、哲矢の目には諦観の色が浮かんでいた。距離や状況のせいでないことを、うっすらと理解しているのだろう。
風紀委員の大半は老け顔である。
「草壁さんでもクビになったりするんですね。なんでクビになったんですか?」
「なりかけた、だ。
メローネ基地で初対面したんだが、そのとき俺は怪我を負ったみなさんを運んでいた。
それが群れていると認識されたらしい」
「怪我してる人を助けてただけで……?」
「……区別をしない人だからな」
それはもはや、見境がないというのではなかろうか。
常日頃見境なく群れを襲っている人だから、矛盾はしていないけれど。
「だが、状況が状況だからと判断されたのか、その場では俺の処罰が保留になった。
戻ってからも沙汰はなかったし、温情をいただけたようだ」
「見逃してもらえたんですね」
「ああ。だからお前の処罰も、事と次第によっては取り消される可能性がある。
あまり気にかけるな」
「……無理です」
気にかけるなと言われても、今日は朝からそのことばかり考えてきたのだ。
クロームのことを考えているあいだは忘れられたけれど、解決の兆しが見えてからはずっと、昨日の件が頭をもたげていた。
なにしろ、なんの弁解もさせてもらえないまま、いきなり吹っ飛ばされたのだ。
当たり所が悪かったら、歯が折れていた可能性だってあった。
(よりにもよって! 顔! 女の子の顔トンファーで振り抜くとか! 防御してなかったら大惨事だったんだけど!)
思い出すだけで腹が立ってくる。
こんなにムカつくのなら、当たらないとしても髪飾りを投げつけておけばよかった。
二秒で咬み殺されるだろうけれど。
「そうだ。これ、持っててもらえますか?」
ブレザーの内ポケットに隠すようにしまっていた腕章を取り出し、ベッドから降りる。
「ん? ……持ってたのか」
「昨日回収されそうになったんですけど、そのとき持ってなかったんです。
少し預かってください」
哲矢は懐かしそうに腕章を眺めている。
腕章は階級に関わらずみんな同じデザインだが、利奈の腕章はふちがわずかに切れている。
ほつれるほどの傷ではないが、ほかのものとの見分けはつきやすい。
「わかった。ほとぼりが冷めるまで俺が預かっておく。
俺からもそれとなく口添えしておくから、お前はしばらく様子を見ていろ」
哲矢が利奈と同じようにスーツのポケットに腕章を入れたのを見て、利奈はにっこりと笑みを浮かべた。
これで、ようやく肩の荷が下りる。
「ところで草壁さん。もうひとつお願いがあるんですけど」
「なんだ?」
こちらに目を向けた哲矢に、見せつけるように腕を広げる。
哲矢はこの世界の恭弥と同じように黒いスーツを身に着けているが、利奈は今の恭弥と同じように制服を身に着けている。並盛中学校の標準服を。
「私、制服着てるじゃないですか。行きたいところがあるんで、連れてってください」
「行きたいところ――いや、待て待て、お前まさか」
哲矢の言葉を遮るように利奈は手を打ち合わせた。
拝むようにではなく、挑むように。
手のひらと手のひらではなく、手のひらと拳で。爛々と光る瞳で。
「ヒバリさんのところに連れてってください。
あっちの頭が冷えるのなんか待ってられません。こっちから挑戦状叩きつけてきます」
熱意のこもった声と揺るがぬ決意を秘めた瞳に、哲矢は天を振り仰いだ。
激昂した利奈は、ともすれば恭弥よりも強烈だったことを思い出しながら。