――そのときの利奈は、とてつもなく不機嫌で、とてつもなく苛立っていた。
味方がたくさんいても、居場所を作っても、流れに抗っても、結局はなにもできない自分の無力さが、いやというほど身に染みていた。
でも、そんな自分を嫌いにはならなかったし、泣いたり叫んだりしながらも、覚悟ひとつで現実は変えられた。
そのきっかけは間違いなく風紀委員で、だからこそ、辞めろと言われたときにはショックを受けたけれど。
(不貞腐れて泣き寝入りするくらいなら、全力で行って返り討ちになってやる……!)
羅列していけばキリがないほどの修羅場で揉まれた利奈の精神は、数分後に起こりえる最悪の結末を前にしても、微塵も揺らがなかった。
「ヒバリさんは屋上にいる。ディーノさんに連絡を取って、修行を中断してもらった」
哲矢は学校の表門に停めた車の中だ。
付き添いを断ったのは利奈だったけれど、元からついてくる気はなかっただろう。彼はシートベルトを外すそぶりを見せなかったのだから。
「お前は止めても聞かないからな。算段はついているんだろう?」
「それは……わかんないですけど」
哲矢は利奈を子ども扱いしなかった。風紀財団職員の利奈と同じ扱いだった。
そして利奈が風紀委員を辞める可能性なんて、微塵も考えていなかった。
利奈が疑わないように、彼も疑わない。風紀委員に入った人間は、骨の髄まで風紀に染まっているのである。
(なんか変なの。なりたくてなったわけじゃないのに)
それでも、自分の意思以外で腕章を外すのはいやだった。
退会を告げられたとき、心臓が強く痛んだ。
取り上げられるならいっそと自分の手で外したけれど、委員長に直接突き返せはしなかった。
勝つ算段なんて付いていない。玉砕覚悟の一発勝負だ。
車のドアを開けながら哲矢にそう答えたら、哲矢は苦笑いを浮かべて言った。
「そこまでの覚悟をもって挑めるんなら、お前は立派な風紀委員だよ」
屋上のドアを開く。
あのときは開けてすぐに引きずり込まれたけれど、今日はなにも起きなかった。
身構えていただけに拍子抜けするが、息をついてる暇なんてない。勝負はこれからなのだ。
(……いた)
恭弥はフェンス越しの町を眺めていた。
表門とは違う方角だけど、恭弥なら停められた車に気付いているだろう。
もちろん、屋上のドアを開けて利奈が入ってきたことも。
ゆっくり、ゆっくりと恭弥の背中に近づいていく。
風紀委員でなくなったから奇襲を受けてもおかしくはないが、恭弥から殺気の類は感じ取れない。
穏やかともいえる静けさに、かえって利奈はためらった。恭弥の後ろ姿に、畏れを抱いたのだ。
(でも、行かなきゃ)
五メートル。他人の距離だ。遠くないかと聞かれる距離でもある。
さらに一歩、二歩、三歩でいつもの距離。もう一歩で声をかけたくなるのを堪えて、距離をなくす。
フェンスが眼前に迫ったところでようやく足を止めると、見慣れているのに初めての並盛町が視界いっぱいに広がった。
(……全然、変わってない)
あったものがなくなっていても、なかったものが増えていても、町全体の雰囲気は利奈が知る並盛町のままだった。
利奈からすれば点と点で移動した十年でも、並盛町は線で進んでいる。
この光景が、風紀委員の守るべき――いや、風紀委員長が財団を築いてまで守ろうとした並盛町なのだ。
(っと、そうだ、ヒバリさん!)
初めての景色に見入ってしまった利奈が慌てて隣に目をやると、正面に向いていた恭弥の瞳が、ゆっくりと利奈を捉えた。
「……おはようございます」
「……」
気の利いた言葉が出なくて、つい、いつも通りの挨拶をしてしまった。
恭弥からの返事がないのもいつものことだったが、その眼差しは利奈の顔より下を向いている。
「腕章を持ってきたの?」
「いえ。あ、腕章は持ってないです。草壁さんに預けました」
左腕を見せるべく体を捻ると、ないのを確認してから恭弥は眉をしかめた。
「それじゃあ、いったいなにしに来たんだい? 預けたって報告?」
「違います。ヒバリさんと話し合いをしに来ました」
「へえ」
色のない相槌だが、聞く姿勢にはなっている。
それを確認してから利奈は胸を張った。
(よし……!)
張った胸に手を当て、自信満々の笑みを浮かべる。
「私を、風紀委員として雇ってみませんか?
ああ、お願いじゃなくて売り込みです」
なにを言い出しているんだという言外の問いを声に出される前に、言葉を紡ぐ。
さいわい、後先考えない言動は得意だ。
「ヒバリさんも知ってるでしょうけど、私、けっこう便利なんですよ。
囮役にピッタリでしょ、捕まってもパニクったりしないでしょ、それに、最近修行積んで受け身も取れるようになったんです。
ヒバリさんに殴られたところも、わりと大丈夫です!」
そこで若干恭弥がイラつきを見せたが、手が出る前にと言葉を継ぎ足す。
「あと、これからに役立つと思って諜報とか潜入とか、そんな感じの勉強もしました。
資料まとめる能力も磨きましたし、マフィアとかの専門知識もちょっとだけ覚えてます。
事前準備や後処理がはかどりますよ!」
――白蘭抹殺訓練のかたわら、これからの風紀委員活動で活かせるだろう知識はなんでも教えてもらった。
こちらも付け焼き刃程度にと言われたが、マフィア最高峰の暗殺部隊に直々に教わったのだ。役に立たないはずがない。
「あと、何ヶ月か風紀委員に入ってたので仕事とかルールとかも完璧です。
新しい人入れて教えるより、何倍もよくないですか?」
ここでようやく恭弥に発言の機会を譲るが、恭弥はなんともいえない表情で利奈を見下ろし続ける。
呆れかえって言葉も出ないのか、ジロジロと無遠慮に見るのは止めていただきたい。素に戻ったら負けなのだ。
「相沢。いや、相沢利奈」
「はい」
「……君、本当にいい根性してるよね。この前も――いや、最初の方からずっと思ってたけど。一段とひどくなった」
(そうなった原因はだいたい風紀委員のせいですけどね!?)
なにを自分を棚に上げてとは思うが、利奈は笑みを崩さずに恭弥の皮肉を聞き流す。
この場合、褒め言葉として受け取っておくべきだろう。
「で、どう思います? 私をクビにするのは全然いいんですけど、抜けたとこ埋めるの面倒ですよ。
元の世界に戻ったら今までのことなかったことになるらしいから、退会させた理由を説明しなきゃいけなくなりますし。
私は協力しませんけど」
元の世界に戻ったところでだれも利奈を庇いはしないだろうが、戦闘に参加できない利奈は多くの事務作業を請け負っている。それをすべて把握しているのは利奈当人だけだ。
自分で辞めるわけじゃないから、仕事を引き継ぐ義理もない。
ひたすら理詰めで攻める利奈に、とうとう恭弥がため息をついた。
まだ根負けはしていないだろうが、それでも考え直させるくらいの威力はあっただろうか。
表情を窺うが、無表情になってしまったのでまったく心情が読めない。
攻めすぎただろうか。いや、超攻撃型の恭弥に挑むのなら、同じくらい攻撃的にいかなければ効果がないだろう。
守りに入るにも、守るべきものを奪われたのだから。
「……ヒバリさん?」
「なんでもないよ。最初からこんなに顔が厚い生徒だったか、思い返してただけだから」
「は!?」
(なに言ってんの!? ヒバリさんに言われたくないんですけど!?)
さすがに噛みつきたくなったけれど、ぐっとこらえて自分の頬を摘んだ。
そして、もはや執念で笑みを作り直す。
若干恭弥が引いたが、それはどうでもいい。こうなったら顔すら武器にしてしまおう。
「ふふ。厚いだけじゃなくて、広いんですよ、私の顔。
十年後のヴァリアーとも面識があります」
「……」
恭弥がピクリと動いた。ここにきて少しだけ恭弥の興味が引けたようだ。こんなに羅列して、やっとである。
やはり恭弥には、損得勘定よりも本能に訴えたほうが効果的なようだ。
「イタリアでヴァリアーの屋敷にお世話になってたんです。
だから幹部の――この前戦ったベルとかの情報も持ってます。場所もちゃんと覚えてますから、元の世界に戻れなかったときに腹いせに咬み殺しにいけますよ」
「ワオ。それは魅力的だね」
吟味するように恭弥は顎に手を当てた。
(そこに魅力感じるんだ……)
煽ったのは利奈だが、思ったよりも食いつきがいい。
世話になった人たちを売るような発言だが、白蘭を阻止できなかった場合は世界が滅亡するので、そんな機会はそもそも生まれない。
ずるいやり方だけど、使える手はすべて使うつもりでここにやってきたのだ。きっと雷撃隊の人たちもいい手だと褒めてくれると信じたい。
考え込んでいた恭弥が、ふと思いついたように表情を変える。
「そうだ。
君、物覚えはいいほうかい?」
「はい? 物覚え?」
なんの話だろうと聞き返す。
「前から構想はあったんだけど、この世界で僕は財団を作ってるみたいだからさ。
せっかくだし、設立に使える情報を集めておきたい。僕は跳ね馬を咬み殺すので忙しいから――」
「やります!」
利奈はすさまじい勢いで食いついた。
「物覚えいいです! やれます! やらせてください!」
「交渉成立だ。そうだな、とりあえず」
顎に当てていた手がゆっくりと下りて、学ランの肩をなぞる。その手が腕章に触れ、そして腕章とともにさらに下へと下っていく。
恭弥は袖から腕章を引き抜くと、利奈の眼前へと差し出した。
「これでいい?」
声が出なかった。
風紀委員の誇りである腕章を、ほかでもない風紀委員長が外したのだ。
「だ、だだだ、だいじょぶです! 私の草壁さんがまだ持ってますから! それはもらえません!」
とんでもないと利奈は首を振った。元風紀委員としては辞退せざるを得ない。
「僕はいいけど、君は腕章がないと風紀委員に見えないから。
制服着てるんだから、腕章はつけて」
「で、でもヒバリさんのつけるなんてそんな畏れ怖いこと!」
「相沢」
「はいつけます!」
押し頂いて、おっかなびっくり左腕につける。
今までつけていたものとまったく同じ物だけど、恭弥がつけていたものだと思うと恐れ多くて左腕が閉じられない。微妙に腕を上げてしまう。
「それとこれ。跳ね馬から押しつけられたやつ」
「ディーノさんから?」
「君に渡すようにって。さっき」
渡されたのは線がついていないイヤホンだった。マイク機能も付いているのか、先端から棒が伸びている。
試しに耳に入れてみても音はしない。
「この時代の通信機じゃない? 草壁も似たようなの使ってた」
「通信機……スイッチ入れてみますね」
スイッチらしき突起を押すと、一回振動した。
(……これと似たのヴァリアーで見たな)
耳に入れ直して、試しに声を発してみる。
「も、もしもーし」
『お! つけたか!』
ディーノの声だ。
驚くほど鮮明な音声に、技術の進歩を実感してしまう。
『それつけてるってことは、もう大丈夫ってことだよな! よかった、ホッとしたぜ』
「あ、はい、まあ……。その、お世話をかけまして?」
「ねえ、早く戻って来いって伝えて。どうせディーノだろ?」
「はい。ディーノさん、ヒバリさんが早く来いって」
『わかったわかった。そうだ、せっかくだからってお前にケーキ買ってきたんだよ。
お前、この店のケーキ好きか?』
「すみません、どこのお店ですか?」
テレビ通話じゃないのだから、せめて袋を見させてほしい。あと中身。
『悪い、店の名前忘れた! たぶん中に書いてあると思う!』
「アハハ……。じゃあ、中身教えてください」
苦笑気味に尋ねると、恭弥がフェンスの外を指差した。フェンスの外、校庭の先に――
『ケーキとタルト! どっちもうまそうだったぜ!』
『ボス、ミルフィーユとフルーツタルトだ』
『そうそう、ミルフィーユとフルーツタルト! ここのミルフィーユ、おすすめらしい!
見えるかー!』
ぶんぶんとこちらに向かって手を振るディーノと、ロマーリオの姿があった。
利奈が風紀委員に戻ることをまったく疑っていなかったその様子に、利奈は今度こそ心から笑い、恭弥は心から仏頂面になった。