Die Zeit heilt alle Wunden《完結》   作:日々あとむ

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第三幕 彼方より来たる 其之一

 

 カツン、カツン。鉱石同士がぶつかる軽い音が室内に響く。

「……ふむ。なるほどね。君の言い分は分かった」

 カツン。男の言葉に合わせて、チェスの黒い駒が動く。その一手を確認し、王国の第三王女であるラナー・ティエール・シャルドロン・ライル・ヴァイセルフは美しい白魚のような手で白い駒を掴み、男の一手に対抗した。

「上がってくる報告書を読んで気になってみたので、つい接触してみたが――ふむ。君はまさに精神の異形種。その精神構造は酷く我々に近い。セバスと比べれば、君より本物の異形種であるセバスの方が余程人間らしい精神構造をしているだろうね」

 カツン。また一手。黒い駒を動かした男はしかし、そこで申し訳なさそうな顔をする。

「いや、失礼――。さすがに同胞を人間という下等生物の精神構造に似ている、などというのはこの上ない侮辱だった。後で謝罪をしておこう」

 美しい人間の少女であるラナーを化け物呼ばわりした口で、しかし男はそのラナーに謝罪するのではなくセバスという同僚へ謝罪した。色々と複雑な関係ではありそうだが、男も同僚を人間如きに例えるのは気が引けたのだろう。

 勿論、ラナーには関係のない話だけれど。

「さて……話を戻そう。君の言い分はつまりこうだね。その、クライムという少年と幸せになりたい(・・・・・・・)

「その通りですわ、偉大なる御方」

 カツン。白い駒を進めながら、ラナーは男の言葉に頷く。ラナーの願いはそれだけだ。猿の群れに一人取り残された人間のような、そうした周囲からの無理解によって精神構造が歪に捻じれたラナーは、幼い頃に出逢ったクライムという少年と、幸せになりたい。愛する男と一緒にいたい。鎖で繋ぎたい。犬のように這いつくばって慕って欲しい。それだけを想って生きていた。

 だが、ラナーはこの国の第三王女。しかしクライムは単なる貧民。今は王女付きの護衛兵士という身分であるが、もとはどこの馬の骨とも知れぬ卑しい少年。ラナーと結ばれる可能性は皆無であった。

 故に、ラナーは兄である第二王子と取引し、第二王子を王座に就ける働きをする代わりに辺境に土地を貰いひっそりと暮らすか、あるいは第二王子が懇意にしているあの頭の良い大貴族も共犯に巻き込んで、嫁ごうと思っていたのだが――。

 現在、ラナーは難しい状況にある。ラナーにとっては自明でもあったのだが、しかし王国の崩壊が早過ぎる。本来ならば自分が生きている間には崩壊しないように、立て直しを図る予定だった。

 だが、エ・ランテルの死都化。そして痺れを切らした法国による介入によってもたらされた、戦士長の暗殺。そうした嫌な事件が重なった結果、王国の滅びはラナーが生きている内に起きそうだ。

 それは困る。本当に困るのだ。腐っても第三王女である自分だ。王国の滅びは間違いなく他国の介入ではなく民衆からの糾弾――自滅になるだろう。その時王族の血を引く自分は、多少の人気取り程度では誤魔化せないほどの殺意を持たれることになる。

 勿論、愛する男に守られながら、愛する男と共に命を終える生というのも、中々に素敵だろうとは思う。しかしクライムを馬鹿にされるのは許せない。無知で愚昧な民衆どもに、愛する男を愚弄されて許せる女がいるだろうか。

 だからこそ、ラナーは今かなりの気を遣いながら、メイドを、貴族を、陰から操作していた。そうと露見しないように。

 万能薬になるという薬草を必要としたのも、ここで父親に――王に崩御されては困るからだ。もう少し生きて、粘り、自分に時間を作って欲しい。

 だが、その最後の目論見はしくじった。まさか薬草が魔物に生えていて、しかもその魔物が既に他国の冒険者に討伐されていたとは思いもしなかった。こういう時に、ラナーは自らの手足である王国の情報網のみすぼらしさに舌打ちしたくなる。幸い、その魔物を討伐したという冒険者とは話がつき、組合経由で代わりの治癒魔法の巻物(スクロール)が送られてきたらしいが、さすがのラナーもその込められた魔法は探れない。例の大貴族ならば知っているだろうが、未だラナーは接触するに相応しい機会がなかった。この件に関して知っていることは一つだけだ。

 王国は、その巻物(スクロール)のために国宝を一つ手放した。

「なるほど。なるほど……で、あるならば、私が言いたいことは分かるね。賢い君のことだ」

 カツン。男の手で動かされる黒い駒。ここまで、何一つ男はミスを犯していない。だからラナーも、決してミスを犯さなかった。一手でも油断した瞬間――男は平然と、ラナーの首を折るだろう。

 価値を、示さなくてはならない。役に立つことを、見せなければならない。そうでなければ生き残れない。これだけの頭脳の持ち主だ。ラナーは今までの短い人生で、一度として自分と同格の頭脳と渡り合ったことが無い。故に不利。男の雰囲気は、自らより格上の頭脳とやらが存在することを、疑っていないのだ。

 信じられない悪夢である。この目の前の男より、頭のおかしい持ち主がいる。絶対にいる。そうでなければおかしいほどに、男はラナーの手を読んでいる。慢心はしても、油断はしていない。傲慢なまでの自負によって、男の精神は支えられている。格上がいることも、格下がいることも、男は何も疑っていない。

 ラナーは知らなかった。自分と同じ頭脳の持ち主がいるなんて、一度だって思いもしなかった。

 だから、ラナーは油断も慢心も出来ない。価値を見せなければ。役に立つということを示さなければ。でなければ、自分に未来はない。男は実に呆気なく、ラナーという王国一の美少女の首を圧し折るだろう。そこいらの有象無象と同じように。

 カツン。ラナーも白い駒を動かして一手打った。

「勿論ですわ、偉大なる御方」

 男は遠い場所からやって来た。よって、周囲の情勢について無知である。最初に目を付けたのがズタボロの王国であったとは運が良い。勿論、この国をもっと無様で惨たらしい目に遭わせてやろうという趣味の一環だったのだろうが、ラナーにとっては実に運が良い。帝国に行かれなくて、本当に良かった。

「ところで――」

 カツン。男が打った一手に、即座に一手を打つ。安堵の息が内心で漏れた。なんとか、最後までミスを犯さずにゲームを終えることが出来た。チェスというのは先手が圧倒的に有利だ。同格同士で戦えば必ず先手が勝つほどに。

 だからこそラナーは先手である白を選び、男は後手である黒を選んだ。巻き返しを許すようでは価値が無く、先手で必ず勝利出来ないようならば意味は無い。二人のチェスゲームとは、即ち最初から勝敗の分かりきったゲームであったのだ。

「チェックですわ、偉大なる御方」

「ふむ……」

 男は顎に手をやり、くつくつと嗤った。おぞましい、人間にはとても出せないような、悪魔の笑みであった。男は笑みを浮かべながら片手を持ち上げる。そして――ラナーが気がついた時、チェス盤には黒のキングのみが存在し、他の駒がどこにも存在しなかった。

「今、何かしたかね?」

「いいえ、何も」

 男の言葉に、ラナーは首を横に振る。そうだ、最初から勝ち目など無い。幾らゲームで打ち勝とうと、男がその気になれば、容易く盤上は薙ぎ払われる。

 勝敗は初めから分かりきっている。どれだけ盤上で他の駒が敗北しようとも、肝心のキングが無敵であったならそれは意味を成さない。これは初めからそういう勝負。最初から、ラナーに勝ち目などありはしないのだ。

「君には期待しているよ、お嬢さん。君が献上してくれた情報は、こちらでしっかりと役に立てよう」

 男は席を立つ。カチンカチンと、床で音が鳴った。男の腰から生えた金属質な長い尾が、床を擦る音だった。

「シャドウデーモンを幾つかつけておこう。何かどうしようもなくなった時は、声をかけるといい。場合によっては手助けしてあげよう」

「感謝いたします、偉大なる御方」

 ラナーは椅子から立ち上がり、膝を折って忠誠を示した。勿論、男はラナーが困り果てようと手助けなどしないだろう。ラナーにつけられた魔物は、ラナーの周囲の変化を探り、どう行動するのが一番効果的か見極めようとする監視に過ぎない。

「では、また会おうお嬢さん。君の手腕に期待している。フフ……」

 金属質な長い尾を翻しながら、男が室内の明かりの届かない闇へと消えていく。その姿をラナーは見送り……そして完全に姿が消えた後、立ち上がって自らの影を見た。

「…………」

 この影の中に、魔物がいる。しかしラナーは気にしない。彼らの目的を考えれば、ラナーが期待に応えるかぎりは生かしてくれるだろう。しくじれば即座に首が物理的に飛ぶ命綱無しの綱渡りめいた、危ういものであったが、それでもそうすることが最善手。

 そう……これが最善手だ。彼らに魂を売る。人類を裏切る。それがもっとも幸せになれる方法だとラナーは一目見て理解した。

 あれは勝てない。“蒼の薔薇”でも勝てない。アレはきっと、そういう領域の生き物ではない。おそらく、神話の域にいる魔物だ。それがラナーと同様の化け物染みた知性を使って侵略に来ているのだ。抵抗なぞ出来るはずもない。

 ラナーとクライムが幸せになるためには、これがきっと最善手。

「……クライム。貴方は私が守ります」

 愛する男を思い、ラナーは呟いた。その囁くような呟きは、螢の光のように呆気なく闇に溶けていく。

 

        

 

 絶望と共に、彼らは産声を上げた。

 

 

 ある日、気がつけば最後の支配者が姿を現さなくなっていた。

 それは最後の支配者が玉座の間を訪れた時のこと。幾人かを連れて、美しい白い悪魔をじっと見つめていた日のことだ。彼は何かを思い出すように呟いた後、白い悪魔から視線を逸らし連れ歩いていた部下たちを元の場所へ戻し、そしてギルド武器を手放して足早にこの地下墳墓を去っていった。

 彼がどこへ消えたかは分からない。誰も地下墳墓の外へ向かうことは許されていない。だから彼らは、いつも通りに飽きもせず退屈な日常を過ごしていた。

 幾ら待っても、かかさず地下墳墓へと姿を現していた最後の支配者が還って来なくとも。

 その悲しく惨めな日常が崩れたのは、第一階層から第三階層の守護者がある報告を部下から受けた時である。陽の差し込まぬ地下墳墓の地表に続く道に、日が差し込んでいたと言うのだ。

 その報告を聞いた階層守護者は異常有りと認識し、地下墳墓の外へ一歩出た。そして――美しい吸血鬼の目の前に広がったのは、どこまでも続くような草原と、美しい晴れた青空であった。

 その、あまりに変わってしまった地表部分に、吸血鬼は混乱した。必死に知恵を振り絞り、無い頭で考えて……けれど結論が出ずに、彼女は守護者統括である美しい白い悪魔へと魔法で報告した。

 外の世界を一度も見たことはない彼らであったが、それでも外がどういう世界かは知っていたのだ。だからこそすぐさま階層守護者たちは集められ、第六階層で議論を交わし……外の世界を確認するための部隊の編成が行われた。

 第七階層守護者の赤い悪魔と、第六階層守護者の双子の闇妖精、そして吸血鬼。四者の部下たちと戦闘メイドの人狼。

 彼らは周囲を調査し、知恵のありそうな者達を見つければ地下墳墓へと連れ去り、脳を解剖する。そうして周囲の森と草原周辺を捜し回って出した結論が、ここは自分たちの知る世界――『ヘルヘイム』では無いということだ。

 彼らのいた世界――『ヘルヘイム』は常闇と冷気の世界であり、常に空は厚く黒い雲に覆われている。夜の世界はひたすらに陰鬱だ。水晶平原、紫毒の沼地、氷河城。異形種たちの楽園こそ彼らの故郷。

 だが……ここは違う。『ユグドラシル』の『ヘルヘイム』ではない。

 美しい晴れた青空。のどかな草原。広がる豊かな大自然。これではまるで、話に聞く『アースガルズ』や『ミズガルズ』……人間種や亜人種のサラダボウルである。

 故に、彼らの結論は早かった。ここは『ヘルヘイム』ではなく別の『ユグドラシル』世界なのだろう、と。

 『ユグドラシル』という世界はおかしいもので、その世界は巨大な樹木の形をしている。そこにある葉の一枚一枚こそが一つの世界。この世は無数の世界の集合体なのだ。

 もっとも、その葉を喰らうというワールドエネミー……九曜の世界喰いなる化け物もこの世には存在するようだが。既に討伐されているので、世界滅亡の危機は既に終わったと思っていいだろう。勿論、ワールドエネミーは他にも存在するのだが、『ユグドラシル』を喰らおうとするような気狂いはソイツだけなので大丈夫だろう。

 問題は、世界が複数存在すること。そして自分たちは一度も地下墳墓より出たことがなく、別世界へと渡る秘奥を知らないことだ。

 勿論、偉大なる至高の四十一人は平然とその秘奥を修得しているし、一部のネームドモンスターなどもその秘奥を修得しているそうだが、残念ながら彼らはその秘奥を修得していなかった。手段があることは知っていても、肝心の術式を知らなかったのである。

 偉大なる支配者の一人でもいれば、話は違ったのかも知れない。しかし現在は誰もいない。最後の支配者も帰らなくなって久しい。

 そう……そこで、彼らは最後の支配者が帰らなくなったのではなく、帰って来れなくなったことに思い至った。

 なにせ、この地下墳墓は丸ごと移動してしまっているのだ。間違いなく、ここは『ヘルヘイム』ではない。地下墳墓へと帰還した支配者は、おそらく酷く驚いたことだろう。あるべき場所へ、あるべき物が無いことに。

 これはいけない。非常にまずい。このような不敬が許されるはずがない。

 あの慈悲深き支配者はまず『ヘルヘイム』中を探すだろう。そして『ヘルヘイム』の隅から隅まで探した後に、別の世界を探すはずだ。地下墳墓の姿を探して。

 そのような手間を、支配者にさせるわけにはいかない。支配者にそのような手間をさせるなど、従僕として恥ずべき行為だ。ならばやるべきことは一つ。

 最短で、この世界を支配する。この世界に我らの名を轟かせ、支配者がすぐに分かるようにするのだ。

 そうすれば、この世界に来た途端に支配者に気づいてもらえるはずだ。勿論、支配するだけでは終わらない。世界を渡る秘奥を我々が知らないのなら、他からその知識を奪えばいい。そして『ヘルヘイム』に還るのだ。

 そうと決まれば話は簡単であった。地下墳墓でも一、二を争う頭脳の持ち主である白い悪魔と赤い悪魔は知恵を出し合い、まずは周辺の森や草原を支配することから始めた。更に、人間の大きな国を幾つか見繕い、いい感じに終わっている国家を見つけて、人間種の見た目に変化出来るあるいは人間種にしか見えない者達を情報収集に送り込む。

 最初は慎重だった。慎重すぎるほどだった。しかし――

 一ヶ月も過ぎない頃に、彼らは警戒するだけの理由がこの世界に存在しないことに気がついてしまった。

 弱い。あまりに弱過ぎる。誰も彼も、どこにも自分たちを脅かすほどの生命種が見当たらない。あの大森林に棲息する弱過ぎるゴブリンやオーガ、トロール。リザードマンなど。リザードマン最強というシャシャ兄弟の貧弱さ。争うに値しない。少し小突いてやれば(・・・・・・・・・)、森の生き物たちは、彼らはすぐに格の違いを悟って平伏する。

 人間の国もそうだ。人間の国を調べて、周辺国家最強の戦士が既に死亡していることを知り、ちょうどよく人間狩りの中にいた武技という未知の技術のサンプルとして捕獲した男が、その最強の戦士に匹敵する戦士だと知った時のやるせなさ。舐めているのか、と思ったほどである。白い悪魔や赤い悪魔などは馬鹿にされているのかと憤った。

 だが違う。違うのだ。本当に、彼らは全体的に貧弱な世界で生きていたのである。

 そうと知った時、彼らは警戒を止めた。そんなものよりも、名を轟かせることを重視する方向にシフトしようとしたのである。

 そして――彼らはその無警戒を、ある日唐突に突きつけられた。自分たちが支配者抜きで動かせる最大戦力……階層守護者の吸血鬼が彼らを裏切ったのである。

 その日、吸血鬼はいつものように現地の者たちを従僕化させて、地下墳墓へと連れ帰ろうと出かけていた。吸血鬼の従僕化で安全に、完璧に相手の支配が行えるからだ。

 そうして吸血鬼は外へ出て――そこで何があったのか。吸血鬼はあり得ないことに何らかの状態異常を起こしたのだ。幸い、同時に行動させていた別の階層守護者が吸血鬼に何かした連中は皆殺しにしたが、しかしその階層守護者は状態異常を起こした吸血鬼と戦闘になり、性能で劣っていたその階層守護者は吸血鬼のことを諦めて帰還する他なかった。

 一体何が起こったのか。様々な議論が交わされたが、しかし結論は出なかった。幸い、吸血鬼をその状態異常にかけた術者は排除しているため、放置という選択も取れる。こういった状態異常は、術者以外に命令(コマンド)入力は行えないものなのだ。

 よって、彼らは結論付けた。接触すれば死に至る爆弾として使おう、と。

 吸血鬼は強い。自分たちの中で最強であり、最大戦力である。勿論倒せないわけではないが、急ぎ倒す必要も無いのならそのまま使用すればいい。

 ――勿論、危険はあった。しかし、彼らは仲間想いでもあった。殺して状態異常が解除される保証はなく、至高の四十一人なくして自分たちの蘇生は叶わない。仲間想いでもあった彼らは、必要以上に仲間を殺すことを忌避したい感情もあった。

 彼らにとって、警戒すべきは未知の異能のみ。戦闘能力という意味では、この世界の者たちは圧倒的に自分たちに劣る。比べることさえ烏滸がましい。ならばそれでいいじゃないか。

 だから今も、敵も味方も区別できなくなった美しい吸血鬼は呆けたまま、夢遊病のように地下墳墓に近い草原を彷徨っている。

 そして彼らは、失ったものを求めて、あるかも分からないモノを探し続けている。

 

 今も、ずっと――――。もはや還らないモノを求めて――――。

 

 

 


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