伊吹萃香もどきが行く   作:葛城

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続くかもしれないし、続かないかもしれない話
オリ設定入っていたり入っていなかったりするけど、あまり深く考えないように

誰か、こういう話を書いてください


第一話:チート前提大陸と鬼娘

 

 ――滑って転んで頭を打った。

 

 文字にすれば、なんてことはない。頭を打ったということだけを考えれば早急に対応なりを考えねばならない話だが、事実だけを見れば……まあ、そう珍しい話ではなかった。

 

 大人であろうと子供であろうと滑って転ぶことはあるし、そこに老若男女の区別はなく、美人であろうが不細工であろうが関係ない。肌の色が白かろうが黒かろうが黄色だろうが、関係ない。洗剤であろうとバナナであろうと氷であろうと何であろうと、滑る時は誰もが滑る。タイミングと力の入れ具合と摩擦とがかみ合って転ぶことには、何の意味もない。

 

 ……しかし、だ。

 

 滑って転んで頭を打った、その後。一瞬ばかり気が遠くなった後、痛みに滲み出た涙を指先で拭って身体を起こした『彼』は……動揺を露わにした。

 

 何故か……それは、目の前の景色が一変していたからであった。

 

 滑って転んで頭を打つ、その直前。彼の記憶が確かなら、眼前には見慣れた景色だけが広がっていたはずだ。

 

 各敷地を隔てているコンクリートに、剥げ掛けた白線が見え隠れしているアスファルト。薄汚れているうえに点滅している街灯に照らされた電柱に、遠くの方に見えるコンビニの明かり。そして、通行人と思わしき人影が二つ……それが、彼が直前まで目にした光景であった……はずだ。

 

 なのに、どういうことだろうか。

 

 身体を起こした彼の眼前には……木々が広がっていた。それも、一本や二本ではない。見渡す限りの全てが木々であり、その一本一本が分厚く大きく……膨大な樹齢を思わせるものであった。

 

 間違っても、直前まで眼前に広がっていた景色にはそんなものはなかった。彼は、最寄りのコンビニへと向かっていた。何百回と通った道……なのに、目の前には初めて見る景色だけが広がっていた。

 

 電柱もない。外灯もない。立ち並ぶ家々もないし、駐車場もない。コカ・コーラの自動販売機もないし、路地もない。通り過ぎた自転車も消えていたし、路駐されている自動車も消えていた。

 

 ……背筋に、嫌な汗が流れるのを彼は知覚した。

 

 振り返れば、景色は同じ。無限に続いているのかと思わせるほどに木々の向こうは深く、その先が見えない。頭上へと目をやれば、四方八方の木々より伸ばされた枝葉によって、空を見ることすらできない。

 

 足元へと視線を落とせば、そこに広がっているのは剥き出しの大地。何処を見ても、見慣れたアスファルトはない。標識だってないし、白線だってない。そのままの自然がそこにはあって……加えて、さらに、だ。

 

 彼は……気づいた。己の恰好が一変していたことに、この時になって気づいた。運動不足でたるんでいた己が身体は小さく頼りない……子供のソレへと変わり果てていたことに、彼は初めて気づいた。

 

 しかも、ただの子供ではない。上はノースリーブ、下はロングスカートで履物は革靴。スカートには幾つものフリルによってふわりと広がっており、相当な値段が張りそうな代物で……加えて両手と腰には何故か、鎖と思わしき物体が三つほど繋っていた。

 

 鎖……そう、鎖だ。物体と称したのは、鎖からは重さを全く感じない為。反射的に引っ張ってみるが、外れない。先端にはそれぞれ球体、三角錐、四角い形の分銅に繋がっており、身動ぎする度にごろごろと地面を擦っていた。

 

 ――これは、夢か?

 

 ここまで来て、反射的にそう思った彼は己が頬を力強く抓った。下手すれば内出血を起こすほどに力が込められたその指先には、彼の偽りない動揺と藁にも縋る思いとが混ざり合っていた。

 

 しかし、悲しいことに。彼の願いは叶わず、ただただ苦痛だけが伝わるばかりで、目の前の景色が変わることはおろか、その気配すら見られない。抓れば抓るほど、逆にその痛みが余計な現実感を彼にもたらした。

 

 ……そ、そうだ。何か――何か、自分の姿を見られる物は!?

 

 その結果……辛うじて麻痺していた精神が復帰を果たしたのは、まさしく皮肉以外の何物でもなかった。その時の彼の狼狽っぷりときたら、もはや言葉では言い表せられないぐらいのものであったのだから。

 

 けれども、そんな中ですぐにお目当ての物が見つかったのは、これまた不幸中の幸いという他なかった。ただし、それは鏡などという御立派なモノではなく、地面に溜まっていた銀色の液体であったのだが……それはいい。

 

 とにかく、代わりになるのなら何でもいい。半ば倒れ込む様に四つん這いになった彼は、生まれたての小鹿のようにへっぴり腰で覗き込み……そして、絶句した。

 

 この時になって、ようやく彼は知った。己は子供になった……のではない。手足や体の大きさこそ子供のそれだが、その姿は……おおよそ、彼が知る人のそれではなかったことを。

 

 顔立ちこそ将来を期待させるものであったが、重要なのはそこではない。かつての己よりも一回り小さい頭の両端から伸びる、巨大な対の角。尻の辺りまで伸びる茶髪は大きな可愛らしい赤いリボンで纏められ見覚えはおろか流行からも外れた衣服。

 

 おおよそ見掛けたことのない出で立ちであったが、彼には見覚えがあった。ただ、それは現実に存在する人物ではない。もう何年も前……一時期、憑りつかれるようにプレイしていた『東方Project』というゲームの中に登場するキャラクターの一つ。

 

 その名を――伊吹萃香。

 

 銀の水溜りに映し出されたソコに映っていたのは、まさしく、彼の記憶にある伊吹萃香、その者で。そのことを思い出した彼は……驚愕のあまり、しばしの間呼吸することすら忘れてしまった。

 

 ……これは、どういうことだ?

 

 事態を、上手く呑み込めなかった。それは、当然の話であった。

 

 何せ、彼には一般的な男として育った31年間の記憶がある。上流とは言えないが下流とも言えない平凡な家庭で育ち、まあまあの大学を経てまあまあの会社に入社し、昨日も働いていた記憶がある。

 

 なのに、この姿になる直前がない。滑って転んだ、その瞬間にはもう、この姿だ。5分か、10分か。徐々に思考が動き始める最中、彼は己が頬を摩る。見れば見るほど、映し出された己の顔はゲームキャラの伊吹萃香だ。

 

 妖怪と呼ばれる怪異的存在の中で、上位種にして最強種とも作中で称えられていた『鬼』の中でも、さらに強大であるとして恐れられた……四天王が一人、酒呑童子こと、伊吹萃香、そのものだ。

 

 恐る恐る両端へと伸びる角を摩りながら、彼は……ハッと目を見開いて、股に手を当てる。そのまましばしの沈黙の後……深々と、それはもう全身の気力が込められたため息を吐いた。

 

 ……本物であった。何もかもが、現実であった。

 

 角に触れた指先の感触も、角から伝わる触れられた感触も。股より感じ取った喪失感も、その喪失感すらもごく自然な物として受け入れている自らの不自然さも。

 

 嗅ぎ取れる緑の臭いも、踏み締めた大地の感触も、頬を摩る湿り気も、本物で。ジャラジャラと鳴る鎖の異音も、自らの唇より零れる吐息も、合わせて漏れ出た可愛らしい声色も……全てが、本物であった。

 

 ……はは、何だこれ。

 

 あまりの事態に、彼……いや、もはや彼女、か。彼女は、乾いた笑みを浮かべてその場にて膝を抱えると、己が身体を抱き締める様に身体を丸めた。それしか、今の彼女にはできなかった。

 

 何が何だか……全く分からなかった。しかし、事態が何一つ分からないながらも、何かとんでもないことが起こっている……それだけは、たった一つ、それだけは理解できた。

 

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………どれぐらいの間、そうして膝を抱えていたのか。体感にして数分……実際にはどれぐらい経っているのか、それは当の彼女……伊吹萃香にも分からなかった。時計が手元にないのもそうだが、理由は他にもあった。

 

 単に、周囲の明るさが変わらないのだ。彼女の座っている場所もそうだが、目に映る範囲全ての空が枝葉で覆い隠されている。そのせいで今が昼なのか夜なのか、日が沈んだのか夜が明けたのかが分からない。

 

 時間の流れを感じさせるものがあればまた、別なのかもしれないが、あいにく彼女の前には姿を見せなかった。加えて、何の不調も覚えなかったことが彼女から時間の感覚を奪うこととなった。

 

 具体的にいえば、喉が乾かないのだ。加えて、汗も掻かない。座りっぱなしでも手足は全く痛まないし、腹だって空かない。ぼんやりと意識を飛ばし続けても、身体のどこからも全く不調の声が上がらないのである。

 

 もしかしたら、彼女となってしまった彼が知り得ていた、『伊吹萃香』というキャラクター設定がそのままに現れているのかもしれないが、呆然と座り込んだ彼女にも分からないことで……同時に、どうでもよいことであった。

 

 ――早く、醒めろ。何でもいいから、早くこの悪夢から醒めろ。

 

 今の彼女の脳裏を埋めるのは、その言葉だけ。目を瞑っていれば、時間が経てば夢は覚める。これが現実であったとしても、いずれは覚めるのだ。だから、早く、早く俺をそこへ戻してくれ。

 

 ただ、その一心に。両親の顔、友達の顔、したかったこと、やりたかったこと、やれなかったこと、やらなかったこと……様々な思い出が走馬灯のように脳裏を過ってゆくのを、彼女はぼんやりとした頭で眺め――ん?

 

 ……不意に。足先、尻から伝わってきた振動に、彼女はのろのろとした動きで膝から顔をあげた。動きがとろいのは疲労しているから……ではなく、気力が萎えていたからである。

 

 無理もない。滑って転んで頭を打ったかと思えば、ゲームのキャラクターそっくりの姿に変わっていたのだ。加えて、気付けば文明のぶの字も見られない、見覚えのない場所にいたとなれば……途方に暮れるのも致し方ないことであった。

 

 とはいえ、今はそっちよりも振動だ。振動は、周期的であった。びりり、びりり、びりり。僅かに伝わってくるそれらは立っていれば気付かないほどに弱弱しいものであったが、どうしたことか……徐々に強くなっているように、彼女には思えた。

 

「…………?」

 

 地震だろうか。いや、地震なら、こんな太鼓のように規則正しく断続的には来ないだろう。しかし、地震以外に地面が揺れるなんてことがあるのだろうか。

 

 そこまで考えた辺りで、彼女はようやく……実際にどれだけそうしていたかはさておき、のろのろとその場にて立ち上がった。まるで芋虫が仰け反ったかのような所作であったが、まあ、それはいい。

 

 とにかく、振動が徐々に強まっているのは確かだ。その証拠に、ぼんやりとしていたからこそ気付けた微かな振動が、今でははっきりと感じ取れるほどになっている。 

 

 いや、感じ取れるどころではない。強まり続ける振動は彼女の身体どころか、周囲の木々すら揺らし始めている。ばっさばっさと身動ぎする枝葉からぼろぼろと落ちてくる枯葉やら何やらを慌てて払いのけながら、彼女は周囲を見回し――あっ。

 

 それは――突然のことであった。

 

 ふっと、頭上に影が差した。そう、思った彼女が頭上を見上げた、その瞬間。巨大な黒い塊が視界全てを覆い隠した――そう認識したと同時に、凄まじい衝撃と共に彼女は身動きが取れなくなった。

 

 何が起こった――そう思った時にはもう、眼前全てを覆い隠していた黒い塊が動いた。呆然と、先ほどとは違う理由で呆けていた彼女は、そうして露わになった世界に……あんぐりと、大口を開けたまま固まった。

 

 何故なら、先ほどまで被さるように広がっていた枝葉の覆いは、ぽかりと開かれて。その先には眩しさすら覚える青空と……その青空の半分を埋めている、超巨大熊がいたからであった。

 

 見た目こそ見覚えのある熊だが、その大きさが実に馬鹿げていた。見える範囲での目測なので正確な全長は不明だが、少なくとも三十……いや、四十メートルに届こうかという巨体であったのだ。

 

 その巨大熊が、こちらを見つめている。山吹色の巨大な瞳が、こちらを見下ろしている……それを理解したと同時に、彼女はかつてないぐらいにはねた心臓の鼓動と共に身体を窪みから起こし――再び、絶句する。

 

 言い表すのであれば、彼女を中心点としたクレーター。おそらく深さ2メートル近いそのクレーターは真新しく、ぱらぱらと境目の縁が割れて土埃が崩れて流れているのが見えた。

 

 ――踏まれたのだ。

 

 そう、事態を認識した瞬間、ぶわっと全身の毛孔から汗が噴き出したのを彼女は知覚した。と、同時に、彼女はその場から……巨大熊から少しでも距離を取ろうと駆け出した。

 

 ――直後、再び掛かる圧力。

 

 おふぅ、と声にならない呻き声が地中へと放たれると同時に、彼女の視界全てが真っ暗になった。鼻腔より伝わる大地の香りと、背中を埋め尽くす圧力から、再び踏みつけられたのだということを彼女は理解した。

 

 だが、今度は一度では終わらなかった。おそらく、踏みつけたのに生きていたことが巨大熊の気を引いてしまったのだろう。二度、三度、四度、五度。踏みつけられる度に陥没してゆく窪みと共に、彼女の身体も沈んでゆく。

 

 衝撃に、周囲の木々がびりびりと揺れ動く。何本もの枝葉が折れて砕けて飛び散り、合間を行き来していた虫やら何やらが一斉に飛び立つ。ギャーギャーと辺りを飛び交う鳥たちの悲鳴の下で、ようやく足を外せば……彼女の身体はもう、外からでは分からないぐらいに奥深く沈められていた。

 

 もはや、原形が分からないぐらいのミンチになってしまったのか……いや、違う。山吹色の瞳を向けていた巨大熊の身体が、ぴくりと動く。何故かといえば、今しがた巨大熊が踏み潰した小さい何かが、窪みの中心より這い出てきたからであった。

 

 当然ながら、小さい何かの正体は彼女であった。不思議なことに、彼女は無事であった。己の体格よりも数十倍……いや、数百倍に匹敵する巨体に踏み潰されたというのに、口に入った土埃に眉根をしかめる程度のダメージしか受けていなかったのだ。

 

 数多に存在する妖怪の中でも上位種にして最強種とも形容される『鬼』の中でも、四天王と称えられる鬼の中の鬼。さすがは、伊吹萃香(の、身体)というべきなのだろう。

 

 その心が受けた衝撃は別として、その肉体は正しく金剛であったようだ。手触りこそ柔らかいものの、鬼の肌は強靭かつ頑丈。数十トンに匹敵するであろう体重でも、その身体を破壊することはできないようであった。

 

 何もかもが不明で不本意ながら、この身体はやはり記憶にある『伊吹萃香』のソレで間違いないようだ。最後にぶるぶると顔を振って泥を振り払った彼女は……大きく息を吐いてから、巨大熊を見上げた。途端、びくん、と身動ぎする熊を見て……彼女は、肩の力が抜けてゆくのを実感した。

 

 不思議なことに……怖くないのだ。先ほど、踏みつけられた時は怖かった……いや、これは少し違う。フッと胸中より湧き出た答えに、彼女は目を瞬かせる。

 

 ――これは、『鬼』の感覚なのだ。

 

 先ほど踏みつけられた時はまだ、人間の感覚だった。それ故に狼狽し、逃げようと巨大熊に背を向けた。だが、今は違う。数回に及ぶ踏みつけによって、感覚が鬼のソレに強制的に切り替わったのだ。

 

 合わせて、自分の中にあった精神……数十年に渡って培った何かが変わり始めてゆくのを知覚する。さながらそれは、描かれた絵の上に、新たな絵が塗り込まれてゆくかのようで……ハッと我に返った時にはもう、『伊吹萃香』と『彼』との境目が消えていた。

 

 いったい、何が起こったのか。何故、そうなったのか。彼女自身、それを上手く言葉に言い表せられなかった。けれども、どうしてか彼女はそれをごく当たり前のこととして認識し、順応を進めてゆく。

 

 知識が……流れ込んでくる。言葉にすればそんな感覚を、彼女は覚えた。

 

 数十年の彼の記憶を上から塗り固めるように、膨大な知識が流し込まれる。『鬼』とはどういうものなのか。『伊吹萃香』とはどういうものなのか。その身に宿る『力』が、伊吹萃香という存在を構成する一切合財が、混ざり合って溶け合ってゆく。

 

 精神の中心にあるのは、元々そこにあった『彼』だ。間違いなく、何処にでもいる平凡で普通の人間の男であった『彼』だ。しかし、その周囲はもう『伊吹萃香』で覆われ、見えなくなる。

 

 時間にすれば数秒という、あまりに短い時間。しかし、それでも決定的であった。気付けば『彼』ではなく、『伊吹萃香』でもなく、彼でありながら伊吹萃香でもある『彼女』へと成り果てていた……と。

 

 ――再び、影が彼女の身体を遮った。

 

 踏まれる……それを認識した瞬間、彼女の身体は動いていた。屈むようにして振り上げた拳が、びきびきと軋む。一拍の後、綺麗な半円を描いて放たれた強烈なアッパーパンチが、迫り来る巨大熊の片足を粉砕していた。

 

 ……仮にその場を見た者が居たならば、信じ難い光景だと目を疑う光景であっただろう。

 

 何故なら、たかだか背丈130cm程度の少女が放った拳が、その数十倍にも達する巨大生物の片足を受け止めたのだ。しかも、吸収しきれなかった威力は巨大熊の骨を、筋肉を、関節を貫通し、血飛沫と共に巨体をも押し上げたのであった。

 

 数十メートルに達する巨体とはいえ、堪えきれない激痛だったのだろう。彼方まで響き渡る悲鳴は爆音が如きであり、巨大熊は尻餅を突いた。衝撃と共に大地が揺れ、ばりばりと空気を震わせて木々が揺れる。ぎゃーぎゃーとさらに喚き立てる鳥達の喧騒を他所に、萃香となった彼女は……その身より噴き出す『力』に目を向けていた。

 

 どんどん、『力』が湧いてくる。合わせて、使い方も。核となる『彼』はそのことに怯えて縮こまり、殻となる『伊吹萃香』は漲り獰猛に。そして、それら全てを包む『彼女』は……相反する感情に戸惑いながらも、気付けば溢れ出す力と共に唱えていた。

 

「――『ミッシングパワー』!」

 

 直後、彼女の身体が巨大化し始める。その勢いは凄まじく、押し退けられた木々が弾けて折れ曲がり、踏み締めた地面が陥没してヒビが入るも、止まる気配は微塵もなく。瞬く間にその身体は5メートルを超え、10メートルを超え……巨大熊にも並ぶサイズへと変貌した。

 

 ――ミッシングパワー。正式な名は、鬼符『ミッシングパワー』。

 

 それは、伊吹萃香が持つ『密と疎を操る程度の能力』を応用させたもの。どういうことかといえば、具体的には様々な物質(思いやエネルギーといった肉眼では感知できないものまで)を集めたり散らしたりすることができるということ。

 

 今しがた彼女がやったのも、同じ。様々なエネルギーやら何やらを集めて自らの肉体に取り込み、再構成。その身を数倍~数百倍にまで巨大化させ、巨大熊に対峙した……というわけであった。

 

「――うぉああ!!」

 

 そうなれば、決着は一瞬であった。只でさえ圧倒的な体格差を跳ね除けていたというのに、サイズがほぼ同等ともなれば、結果は想像するまでもない。

 

 気づいた巨大熊は逃げようとしたが、遅かった。圧し掛かる彼女が降り下ろした、一発の拳。たったそれだけで巨大熊の頭部は破壊され、相殺しきれなかった威力が地面を砕き、べこりとクレーターを作った。

 

 血飛沫やら、脳髄やら、砕けた骨やら肉やらが、四方八方に飛び散る。四肢を痙攣させ、あげられなかった断末魔を伝える巨大熊の亡骸から降りた彼女は……改めて周囲を見やり、愕然とした。

 

 それは、地平線の彼方までが、目に見える全てが、自然であった……というわけではない。遠くの方に平原やら草原やらがあって、その向こうには巨大な山脈が幾つも見える。しかし、そこへ至るまでの何処にも文明の気配が見られない……というわけでもない。

 

 彼女を愕然とさせた最大の理由は、はるか頭上を飛び交う……これまでの常識を疑う巨大な虫やら怪鳥やらの馬鹿げた存在であった。

 

 虫もそうだが、鳥の方も見た目からして記憶にあるソレではない異形さだ。だが、何よりも馬鹿げているのは、そのサイズだ。遠目からなので正確さに欠けるが、どちらも十数メートルにも達する巨体である。

 

 突然変異的なアレかと思いたいが、違うだろう。そのサイズの生物が、一つ二つではないから。パッと見た限りでも50近い数の巨体が確認できるだけでなく、中には……三桁にも達しているのではないかという巨大なトカゲの姿もあった。

 

 『彼』が住んでいた国……いや、世界では、そんな生物はファンタジーだ。恐竜等の巨大生物が生息していた時代もあったが、それを差し引いたとしても……あまりに、全てが大き過ぎる。

 

 ――ここは自分が住んでいた世界では……ない?

 

 漠然とした予感が、脳裏を過った。いやそれは予感というよりも、確信にも似た不安……という方が正しいのかもしれない。

 

 ――ああ、もう。

 

 帰れ、ないのか。その言葉を胸中で呟いた瞬間……彼女は、涙が零れそうになった。

 

 何故かは分からない。だが、どうしてか分かるのだ。もう、己は帰れない。己が暮らしていたあの世界には帰れない。元の姿にも戻れないし、『伊吹萃香』にも成らない。

 

 ここは、己が暮らしていた世界ではない。どうしてか、それが分かってしまう。一切の疑いを抱かずに、そうなのだと納得してしまう。けれども、それが悲しかった。

 

 何もかもが、突然だ。何もかもが、いきなり変えられた。己の姿も、世界も、何もかもが突然で、そのことに思いを馳せる余裕すら……今の彼女にはない。

 

 何故なら――上空を旋回していた、蜂とバッタを混ぜ合わせたかのような一匹の虫が、彼女めがけて急降下してきたからだ。その目的は、どう考えても彼女の血肉だろう。

 

 十数メートルという巨大な虫が迫ってくる。その光景は、傍から見ても恐怖以外の何物でもない。しかし、彼女は違う。沸々と湧き起こる不安と焦燥感の中でも、『伊吹萃香』としての彼女は……何ら狼狽えることもなく、襲い掛かる虫を迎え撃っていた。

 

「――ぁぁあああああ!!?? くっそぉぉぉぉ!!」

 

 どこまでも続く青空に、可愛らしい声色に似つかわしくない罵詈雑言を響かせながら。

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………それからの彼女の日々は、まさしく修羅場であった。

 

 ここが、己の知る世界ではない。とにかくそれは分かったが、だからといって、じゃあここがどういう世界なのか……それは、当の彼女にもさっぱりであった。

 

 もしや、人間が存在しない世界なのだろうか……いや、まさか。

 

 そんな予感を覚えながらも、とにかく彼女はその場を離れた。あのまま留まっていても埒は明かない。兎にも角にも、探すのだ。この世界にも人間がいる、その可能性に賭けて。

 

 幸いにも、己が肉体は頑強な肉体を誇る『鬼』だ。核が一般的成人男性であるとはいえ、器はその『鬼』の中でもひと際強大な力を持つ、『伊吹萃香』であり、心は二つが交じり合った『彼女』だ。

 

 先ほどの巨大熊や巨大虫が襲い掛かってきたとしても、この身体ならば幾らでも立ち向かえる。心と器との間に違和感が少しあるが、徐々に馴染んで様々な術が使えるようになるだろう。

 

 そう判断した彼女は一度ミッシングパワーを解除して縮むと、森の中を駆け抜けた。その気になれば空を飛ぶこともできたが、そうすると上空を飛び交う虫たちとの交戦を避けられない。生理的に巨大虫を相手取るのは嫌だったので、彼女は地を駆けることを選んだ……のだが。

 

「――どいつもこいつも血に飢えすぎぃぃぃ!!!」

 

 元の場所を離れて、たった数時間。彼女の絶叫が、夕暮れの空に響き渡る。今は森を抜けて平原を駆け抜けているところだが、既に少しばかり後悔の念が湧いていた。

 

 ――何故か?

 

 それは単に……彼女がいるこの場所に出現する生物が、どいつもこいつも敵意がありすぎるだけでなく、その数が膨大なんてものでは済まされなかったからだ。

 

 まっすぐ行けば狼を思わせる巨大な獣にぶつかり、左に行けば粘液を纏った巨大な芋虫と遭する。ならばと右に行けば一匹数メートルサイズのハチが数百を超えて迫り、こっちじゃないと後ろに下がれば三桁メートルの巨大蛇との戦い。

 

 既に、交戦した回数は100を超えた。もはや、天然の地雷原を歩いているかのような気分だ。しかも、その全てが相手側からの一方的な攻撃からスタートするのだから、彼女としては堪ったものではない。

 

 身体は鬼でも、心は違う。動く者全て餌だと言わんばかりの獰猛さに辟易を通り越して嫌悪感すら抱き始めていた彼女は、途中から逃げの一択を取ることを選び、それ以降一度も足を止めることなく全速力で走り続けていた。

 

 不幸中の幸いなことに、『伊吹萃香』の身体は無尽蔵に近い体力を持っていた。故に、息を切らすこともなく、足の回転は全く緩まなかった……が、しかし。かれこれ一ヵ月ほど走り続けた辺りで、無視できない問題が発生した。

 

 それは、『酒が飲みたい』という欲求。疼きにも似たその欲求は苛立ちを覚えるほどに強く、徐々にそれを自覚し始めた彼女は、既に周囲から巨大生物が見られなくなっても足を止めようとはしなかった。

 

 だって、足を止めたらもう酒が飲みたくて飲みたくて苛立つだろうから。

 

 多分、これは鬼である『伊吹萃香』の器が持っていた、大酒のみの感覚に釣られているのだろう。そう、彼女は己を判断する。さすがは、素面になったのは数百年も前とゲーム中にて豪語していただけのことはある。

 

 加えて、この身体になる前の『彼』もそれなりに呑兵衛だった。つまり、酒の美味さを知っている。それ故に胸中から、腹の底から、次々に湧き起こる欲求は耐え難く、沸き立つマグマが如く欲望の熱は燻ることもなく滾らせ続けていた。

 

 兎にも角にも、人だ。人を見付ければ少しは状況が好転するだろうし、上手くいけば酒にも有りつける。この際、飲めるアルコールなら何でもいい。何でもいいから、酒が飲みたい。

 

 その一心で、走る。とにかく、走る。走っていればそのうち人に会えると願って、ひたすら走る。

 

 身の丈数百メートルに達する巨大ミミズの腹を突進して突き破り、千メートルにも及ぶ巨大亀の背中を飛び越え、襲い掛かる超巨大猿の首を捻じ切って、走る、走る、走る。

 

 その間、様々な障害が彼女の前に立ち塞がった。

 

 鬱陶しく縋り付いてくる黒い霧のようなやつを蹴散らしたり、首から上が緑色の球体になっている裸の男を相手にしたり、妙な気分にさせる蛇を踏み潰したり、穴倉に潜むよく分からんやつを炎で追い払ったりしながら、彼女はひたすら走り続けた。

 

 ある時は巨大化し、ある時は霧のように自らを粒子化させ、ある時は分身して事に当たり、ある時は面倒になって超巨大化したりして……まあ、頑張った。

 

 そうして、来る日も来る日も、走る、走る、走る。朝が来て、夜が来て、朝が来て、夜が来て……延々と同じことを繰り返してもなお、走り続け……そして、遂に彼女は見つけた。

 

 文明の証である、巨大船を。

 

 大きな、それはもう鬼の視力を持ってしても地平線の彼方まで続いているようにしか見えない、大きな海。その海岸にて止まっていた巨大船へと駆け寄った彼女は、素早く自らを霧に変えて船内へと忍び込んだのであった。

 

 

 

 

 ……。

 ……。

 …………それからの日々は、彼女にとっては正しく天国であった。まあ、文明の中に身を置いたことでタガが外れただけ……というのが正しいのかもしれない。

 

 というのも、彼女は最悪の場合、己以外知的生命体が存在しないという可能性を想定していた。何せ、数メートルサイズの虫が珍しくなく、大きなもので百メートル近いやつがゴロゴロいる場所を走り回っていたのである。

 

 『彼』が居た世界の文明と力を全て集結させたとしても、まず間違いなく人類は全滅必至だろう。しかし、その可能性は低くなった。それ故に今、張っていた気が解れ、湧き起こる欲求に身を浸すのは……仕方ないことであった。

 

 船の中には大勢の人々がいて、何やら忙しなく張り詰めた雰囲気であったが、彼女には関係ない。開かれた欲望の蓋を閉じられなくなった彼女は、思うがまま欲望を発散させ続けた。

 

 広々とした風呂に浸かりながら盗んだワインをラッパ飲みし、厨房より盗んだビール樽を風呂上がりの牛乳が如き勢いで傾け、冷蔵庫より取って来たチーズをつまみにウィスキーを何本も空にし、寝酒代わりに焼酎のボトルを空にする。

 

 我慢に我慢を重ねた末での飲酒。その美味さと来たら格別としか言いようがなく、加えて、『鬼』の身体にはよく浸みた。戦いの火照りを労わるかのように全身へと回るアルコールは、もはや麻薬にも等しい爽快感を彼女に与えた。

 

「かぁぁ、うめぇぇマジうめぇぇ……っ!」

 

 いちおう、見つからないよう船内ダクトの中に身を隠しながら、彼女はその日も飲む。来る日も飲む。ひたすら酒と惰眠を貪り、食っちゃ寝&食っちゃ寝。

 

 止まっていた船が動き、大海原を進む。備蓄している食糧(主に酒)の減りが早すぎることにひと騒動が起きている最中であっても、彼女は高鼾を掻いていた。

 

 勝手に忍び込んでいることに少しばかりの申し訳なさはあったが、それも肉体がもたらす欲求の前では蝋燭のようにか弱く。よろしいことではないなあ……と思いつつ、彼女は来る日も来る日も食っちゃ寝を繰り返した。

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………そうして、そんな自堕落な日々をどれぐらい送ったことか。

 

 起きては飲んで、飲んでは酔って、酔っては飲んで、飲んでは寝る。人間がやれば二日で死にそうなことを延々と繰り返せば、鬼であっても泥酔してべろんべろんになるのはまあ……当然の結果であった。

 

「……んぇ? とまっらかぁ?」

 

 おかげで、船が止まったことにすら彼女は気付けなかった。何時もとは違う慌ただしさを耳にしてようやく彼女が外に目を向けたのは、昼を大きく回った辺りであった。

 

 船の外を見やれば、どうやら……大きな港に着いたようだった。自身が乗る船以外にも大小様々な船やら何やらが停泊しており、港には様々な衣服を身に纏った人々が集まっているのが見えた。

 

 ……どこか、懐かしさを覚える。反射的に涙が零れそうになったのを、彼女は寸でのところで堪えた。

 

 走り続けた日々がどれほどのモノなのかを、彼女は記憶していない。しかし、少なくとも……10年かそこら、延々と走り続けていたのは確かだ。それ故に、こうして文明の中に戻れたのは嬉しかった。

 

(良かった。本当に、良かった。この船に乗っているやつが人類最後の生き残りとか、そういう展開じゃなくて良かった……!)

 

 ……いや、まあ、うん。例えそれが、己の暮らしていた世界ではなくとも……はて、そういえば……この人たちはいったい、何をしているのだろうか?

 

 船を出迎えるにしては、集まっている人々の恰好が物騒すぎる。銃器を携えている者は当然のこと、装甲車やら救急車やらクレーン車やら、人種と車種の展覧会かと思うほどの多種多様の顔ぶれを前に、彼女は首を傾げつつも自らを霧に変えて船を降りる。

 

(……怯えている?)

 

 霧に変えたのでこちらの姿は見えていないはずだ。しかし、どうしたことか……港に集まっている大半の者たちの顔に浮かんでいるのは、恐怖だ。得体の知れない何かに襲われた後みたいに、その顔には不安と恐れが見え隠れしている。

 

 いったい、何に怯えているのだろうか。

 

 人々の視線の先を追い掛けてみるが、上手くいかない。恐怖が恐怖を呼び、恐れが伝染しているせいだろう。おそらく恐怖の震源は同じなのだろうが、その震源がどこにあるのかが彼女の目を持ってしても不明であった。

 

 これは……下手に騒がれても面倒だ。何を切っ掛けにして暴発するか分かったものではない。

 

 そう判断した彼女は、いちおう船から遠く、人々の集まりより離れた場所にて実体化する。一人か二人、「……子供?」たまたま目にした人が見付けて目を瞬かせていたが、彼女は構うことなく人だかりより距離を取る。

 

 しかし、その足取りは実に不安定だ。まあ、あれだけ飲んでいれば無理もない。前にふらり、後ろにふらり、右に揺れて左に揺れて、転倒しないのがもはや不思議なぐらいの千鳥足。器用にも誰にもぶつかることもせず、彼女はそのまま港を出る……ところだったのだが。

 

「――そこのお嬢ちゃん、ちょいと止まりんさい」

「んぇ?」

 

 直前になって初めて、彼女は声を掛けられた。何だと振り返った彼女の目に止まったのは……無精ひげが目立つ男と、その後ろに集まる幾人かの男女であった。

 

 ……こいつら、普通じゃないな。

 

 一目で、ひげの男が只者ではないことを見抜いた。いや、そいつだけではない。そいつの傍に控えている幾人もの男女も似たようなもので、見た目で判断するのは駄目なタイプであると、彼女は瞬時に認識した。

 

 酔いに酔い潰れている肉体とは別に、精神の奥深い所にある『彼』が警戒を見せる。一般人であった『彼』だからこそ分かる直感に内心目を細めながら、「なんか用?」彼女は彼ら彼女らに向き直った。

 

「んー、あー、そうだな。何やらフラフラとしておったからな。ちょいと心配に思っただけだ」

「んふぇー、そーかー、それなら大丈夫だからお構いなくー」

 

 頬を掻いて心配する男に彼女は手を振ると、再び歩き「――いや、待てい」出そうとしたが、またそいつに止められた。振り返れば、目つきが鋭くなっている男女たちの中で、無精髭のその男だけは興味深そうにこちらを見つめていた。

 

「おぬし、随分と酔っておるようだが、何処ぞで飲んで来た?」

 

 言うておくが、この港には飲める店は一軒もないぞ。そう告げた男に、彼女はしばし視線をさ迷わせた後……まあいいか、という感じで正直に話すことにした。

 

「飲んだのは船の中だよ。おかげで楽しい船旅だったよー」

「ほう、船の中……か。はて、変だな。ワシが知る限り、あの船らの乗組員の中には、おぬしのようなお嬢ちゃんはいないはずだが?」

「そりゃあそうさ。私は忍び込んだから――ん、なに?」

 

 忍び込んだ。そう答えた瞬間、そいつの傍に居た男女が一斉に攻撃を繰り出して来た。それは刃であったり棍棒であったり飛び道具であったり様々だが、全てが正確に彼女の身体へとぶち当たった……のだが。

 

「いきなり、何だ?」

「ほう、今のを受けても無傷か、やるもんだ」

「え、今のって攻撃だったの?」

「……ほっほ、恐れ入る。ところで、その角は自前か?」

「自前だよー。触ったらぶっ飛ばすよ」

 

 彼女は、無傷であった。当たった刃は欠け、棍棒にはヒビが入り、飛び道具は全て折れ曲がって周囲に散らばった。「おいおい、嘘だろ……」絶句する男女たちと称賛する無精髭のそいつを尻目に、彼女はどうしたもんかと首を傾げた。

 

 彼女の肉体は、頑強な肉体を持つ鬼の中でも最上位に君臨する、『伊吹萃香』のソレだ。一発一撃が必殺の威力であったとしても、彼女にとっては水鉄砲が豆鉄砲に変わった程度の違いしかなかった。人間と鬼とでは、それほどに差があるのだ。

 

「どうやら、ここでおぬしを捕えるのは至難の業のようだ。お互い、無用な争いは避けるに限る……そう、おぬしも思うだろう?」

「ん~、ま~、そ~いうことになるんじゃないかな~」

 

 いやまあ、仕掛けたのはそっちだけど……という言葉を、彼女は笑顔の中に隠す。「か、会長!」何やら憤慨する男女を後ろ手で宥めながら、「とはいえ、だ」その男は続けた。

 

「はいそうですかと、見逃すわけにもいかん。悪いようにはせんから、少しばかりワシに時間を譲ってはくれんか?」

「んあー、酒くれるならいいよ」

 

 ――いいんかよ!

 

 そんな怒号がその男の傍から一斉に上がったが、構うことなく男は「ここで立ち話も何じゃ。うちんところに来い」彼女へと手招きした。

 

 男が指し示したのは、人々が集まっている港より少しばかり離れた所。彼女が向かおうとしていた方向とは反対の位置に停止している、大きな気球船であった。

 

 あれに乗るのだろうか……考えたら、初めての気球船か。特に思うところもない彼女は、素直に後に続く。そうなれば、警戒心を見せていた男女たちも、しぶしぶその男に従った。

 

「――ところで、歩きながらで申し訳ないんだが、どうやって船に忍び込んだか教えてくれんか?」

 

 そのまま、気球船に向かう途中。世間話をするかのような気楽さでその男から尋ねられた。

 

「自慢ではないが、この港はワシらが知る中でも最もセキュリティに力を入れている港でな。ワシらも出発の際には目を光らせておったが、お嬢ちゃんはそれを掻い潜ったわけだろう? どうやったか、参考までに教えてくれんか?」

 

 ほくそ笑む……というよりは、興味深そうに。ニヤニヤと頬を緩めるその男の言葉に、彼女は目を瞬かせた。

 

 港を出発ということは、この船が出発した場所……つまり、ここだ。彼女が乗り込んだのは、この港ではない。「ん~、私が乗り込んだのはここじゃないぞ」なので、彼女は素直に答えることにした。

 

「私が乗り込んだのは、もっと大きな浜辺に船を止めていた時だぞ。あの船よりもでっかい虫やら獣やらがウジャウジャいる場所だから、そっちに気を取られて――」

「待てっ、おぬし、今何と言うた!?」

「――気付けな……何だよ急に大声出して」

 

 だが、しかし。突然、大声を出して言葉を遮った男に、彼女は目を瞬かせて言葉を止めた。しかし、男は構うことなく彼女へと詰め寄った。

 

「まさか、暗黒大陸から乗り込んできたというのか!?」

 

 ――何それ?

 

 そう言い掛けた彼女であったが、寸でのところでその言葉を呑み込んだ。何故なら、それまで浮かべていた飄々とした態度が男からは微塵もなくなり、どこか鬼気迫る雰囲気を立ち昇らせていたからであった。

 

 ……これ、下手なこと言うと戦いになるんじゃなかろうか?

 

 そんな予感が、彼女の脳裏を過る。事実、傍にいる他の者たちもまた、男と同じく……いや、この男以上の気合を露わにして、彼女を睨みつけている。そのことに、お願いだからいきなり攻撃は止めてくれよと彼女は内心、頭を掻いた。

 

「その『アンコクタイリク』ってのが何なのかは知らんが、私はその浜辺に泊まっていたあの船に乗り込んだ。私が言えるのは、それだけだぞ」

 

 だから、気を静めろ。

 

 両手で肩を押しやった彼女は、そう言って男(と、その他)を宥める。それによって、多少なりとも我を取り戻したのだろう。「……はは、すまぬな」幾分か声色を落ち着かせた男は、何かを考えるかのように無精ひげ髭を撫でると……ぽつりと、呟いた。

 

「一つ聞くが、おぬし……緑色をした球体の頭を持つ人間を見たことはあるか?」

「――んあ、ああ、あいつ? 通り過ぎるだけだっつってんのに、延々と鬱陶しく絡んで来るから、ぶっ倒したけど……駄目だった?」

「……倒した? ブリオンをか? あやつはかなり手強いはずだが……?」

「ブリオンっていうのか。手強いっていうより、しつこいって感じかな。言葉も通じないし、一度目を付けられると倒すまでずーっと追いかけて来るから面倒なやつだよ」

 

 正直な感想を述べると、無精ひげのそいつと傍の男女たちは絶句したように押し黙ってしまった。はて、自分は何か不味いことを言ってしまったのだろうか?

 

 そう思って首を傾げると、いち早く復帰した男が、「そうか、面倒な奴……か」くっくっくと喉を鳴らして笑みを浮かべた。それを見て、彼女は目を細めた。

 

「言っておくけど、行かない方が身の為だぞ。おっさん……あんた程度じゃあ、倒せて数体だ。数で攻められると間違いなく殺されるからな、本当に止めておけよ」

 

 だから、命を粗末にするな。

 

 言外に秘めたその言葉は、彼女からすれば完全な親切心からの忠告であった。

 

 上から目線だと言われればそれまでだが、実際にあそこで戦いまくった彼女だからこそ、『伊吹萃香』でもある己だからこそ、分かることであった。

 

 実際、彼女が生きていられたのは『伊吹萃香』という強大な力を持つ肉体があったおかげだ。仮に鬼の力を有していたとしても、『彼』のままであったなら……間違いなく、ここに辿り着く前に命を落としていただろう。

 

 だからこそ、思うのだ。眼前の男は、強い。確かな強さを、感じ取れる。見ただけで、その強さが彼女には分かる。だが、それでもアレと戦うには力不足である。

 

 そう、率直に判断したからこそ、彼女は怒りを買うと分かっていてもなお、無暗に命を捨てるなと忠告した……のだが。

 

「――ふはははは! ワシが、程度、か。なるほど、なるほど。さすがは、暗黒大陸出身のことはある……では、ものの次いでだ。ワシの力量を測ってもらおうか」

「……はっ?」

「お主の望む報酬を払う。だから、一戦ばかり……お相手願おう」

 

 まさか、そこから(試合という意味での)手合せを願われるとは……思わなかった。ちなみに、嫌だったが拒否すると鬱陶しく絡んできたので渋々了承する形になってしまったのは、彼女にとっては不覚であった。

 


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