「――赤城」
呼んだ。
「……赤城」
名を、呼んだ。
「赤城。赤城。赤城」
繰り返し、何度も、何度も、何度も何度も何度も何度も――何度も。
「赤城」
確かめるように、その名を呼んだ。
数年ぶりに呼びかけるその名は、思った以上に彼の心にしっくりと落ち着いた。――数年ぶりに見た赤城の姿は、思った以上に、昔のままであった。
「よかった。ここまで来て、かける言葉が出てこないんじゃないかと思ったぞ。……久しぶりだな、赤城」
船の上から、海に浮かぶ赤城に目をやる。彼女は、もはや身動き一つ取らず立ち尽くしていた。ただ、目は合わせなかった。どこか俯くように、虚ろな視点を鬱屈とさせた表情とともに海へと投げていた。
「言ったよな。……あの戦いが終わったら、話があるって。この際だ、単刀直入に言うぞ」
かつて、赤城に向けた言葉。それは思い返してみればあまりに気恥ずかしいものではあったが、もはやそれを気にする余裕は、満には無いのだった。
「好きだ、赤城」
嘘偽りなく、あまりに飾らない一言であった。
“赤城”が、ゆらりと、幽鬼のごとく生の感じられない瞳を向ける。深海棲艦のフラグシップ級に則する黄色の瞳。
「愛している。君と一生を共にしたいくらいに」
続ける。
「ひと目見たとき、君の姿に見惚れ惹かれた」
続ける。
「やがて言葉を交わして、君の心に魅惚れ惹かれた」
――続ける。
「君の黒髪が好きだ。君のスラリとした体躯が好きだ」
――――続ける。
「君の優しい声音が好きだ。君の揺れない瞳が好きだ」
――――――――続ける。
「君の飾らない言葉が好きだ。君の示してくれる道が好きだ」
続ける。続ける。続ける。続ける。続ける。続ける。続ける。続ける。
「――君が僕に見せてくれたすべての表情がたまらなく愛おしい」
そうして、
「知っているか赤城。僕は君によって導かれたんだ。君は多くのことを僕に教えてくれた。君は多くのことで僕を救ってくれた。だから――」
そうして。
「君は僕の――希望だったんだ」
一度、そこまで一息も入れず言い切った。
赤城は、微動だにせず立ち尽くし、それをただ聞いていた。黄色の帯を伴った瞳が揺れる。――その光が、揺らめいたように思えた。震えるように。
「……」
――――
沈黙であった。
おそらく、十秒ほど。たっぷり赤城と満は視線を向け合った。満は特にそこへ意思を向けることはなく、ただ確かめるように、赤城を見た。
そして、その瞳をゆっくりと閉じると、身を乗り出していた艦種の先から、一度身を引いて、それから大きく周囲の空気を吸い込んでゆく。
そして、
「――こっちを見ろ。僕は、ここにいる!!」
あらん限り、普段の彼からは想像もつかないほどの轟きを伴って、砲撃にすら負けないと言わんばかりの声量が、振動を生んだ。
赤城は、答えること無く、ただそれを聞いていた。フラグシップを称する瞳の光が、淡く広がり、彼女の白味が刺した頬へ拡がる。
「僕は変わったぞ。この三年、三年だ! 三年の間、前に進み続けてきた。これは事実だ。僕の思い込みでもなんでもなければ、誰かのおべっかでもない」
胸元に手を寄せて、もう片方の手を大げさに広げて、
「これが僕の三年だ。これが君が救った僕の姿だ。誇れ赤城。僕は、今もなおこの海に手を伸ばしている――!」
一つ、そこまで言ってまた息を吐き出す。
同時に、胸元の手を、もう片方の手と同様に広げた。
「なぁ……赤城、君の瞳に、世界はどんな色で映っているんだ? 僕は、どんな色で映っているんだ? ――南雲機動部隊は、どうだ?」
もう一度、満は赤城の元へと身体を近づける。
「無だとは言わせない。モノクロだとは言わせない。セピアだとは言わせない。ありえない、ありえないんだそんなこと。でなければ、君がそんな姿になる理由がない」
瞳は、絶えず赤城へと向けられている。赤城の瞳を、赤城の姿を、掴んで離さず、ずっとずっと。
「解っているんだろ? だから応えろ。赤城、僕の言葉に応えるんだ」
ならば、赤城は――?
「君は――そこにいるんだろう?」
満は畳み掛けるように言葉を連ねた。
そして――
「……赤城! 僕は、君を見つけたぞ! そこにいる君を見つけたぞ! 君が迷っていることも、君が悩んでいることも。君のすべてを、君の行く末を見つけたぞ!」
――ようやくそこで、満は彼女に手を伸ばした。
求めるように、言葉を重ねた。
「僕はここにいる! 君はそこにいる。もう、僕らを隔てるものは何もない。君の悩みも、君の迷いも、全部僕が、かき分け君の前にいる!」
海の上と、海の上。
赤城も、満も、もはやその間にあるものを認識することはできなかった。
「君には帰る場所がある。君が作った。僕が育てた。僕達の鎮守府に、二人で」
もはや、満を引き止めるものはいなかった。
身体をかがめて、バネのように引き絞って――
「――共に帰るぞッ!」
島風が、思わず声を上げてその姿を見送った。
加賀が、目を見開いてその光景を視界に収めた。
「僕とともに来い――――」
そう、南雲満は、
「――赤城ィィィィィィイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイッッッ!!」
飛び出した。
海へと向けて、
――赤城へと向けて。
三年前、かぶると決めた軍帽が、どこかへと飛び、消え去ってゆく。
思い切り跳躍した彼は、そのまま赤城の元へと覆いかぶさるように飛びついて――そして、抱きついてその身体を確かめる。
「あぁ――温かい」
掻き寄せるように、その身体にしがみつく。
「赤城だ。君はあの時と変わらない――何一つ変わらない、僕の知っている赤城だ」
――、
「待たせたな、赤城。やっと君に辿り着いた。やっと――見つけた」
――――、
「はは、気がついているか?」
――――――――赤城の身体が、少しずつ、朱が増してゆく。それはまさしく、人の生きている鼓動に似ていた。生きている人の肌色に似ていた。
「君は今――」
赤城は、今――
「泣いているんだぞ?」
涙を、流している。
腕が、動いた。
身体が、動いた。
ただ一言を伝えたかった。
ただ彼の顔を見たかった。
だから、
――赤城は、
「満さん」
彼の名を、呼んだ。
途端に、彼女の世界は、彼女の姿は、見違えた。
――白の髪色は烏の濡羽色。
――白の装束は朱と白のツーカラー。
――黄色を伴う白の瞳は、黒の、光が宿った瞳に変わった。
――黒塗りの換装も、本来の赤城のものである甲板と、矢筒へと変わる。
「満さん。満さん。満さん」
呼んだ。
「……満さん」
名を、呼んだ。
「――満さん」
繰り返し、何度も、何度も、何度も何度も何度も何度も――何度も。
そして、
「……ここに、いるんですね」
そう、言った。
「その前に――」
対して、
「――一つ、いうことがあるだろ?」
僕はどっちでもいいけどな、そう続けて、そして待つ。赤城の言葉を。
「……赤城。ただいま、もどりました――!」
「…………あぁ、おかえり、赤城」
それから二人は、寄り添うように言葉を交わす。
「満さん……私は、とても嫌な女です。だって、貴方を愛してしまったことを、間違いだったと、後悔していたのですから」
「……知った事か、赤城。僕は君を好きになったんだ。君を愛してしまったんだ。全てをもって、君の全てを愛しているんだ。今更そんなことを言ったって」
もう、止まらない。満は、留まることなく、ここまで走り抜けてきたのだ。今更、赤城がそんな風に思っていたって、その愛を、止めることは絶対にない。
「――僕はもう、君を絶対に離さない」
「……はい」
「――――あぁ、赤城」
「……はい、満さん」
「僕はダメだな、軍人ではあっても、武人ではない」
「そうですね……私には、満さんは十六と少しの、幼い少年に見えます」
帽子を脱いだ彼の表情は、どことなくあどけない少年に思えた。その背丈も、その顔つきも、三年前と変わっていないのだから、当然だ。
「あぁ……赤城、僕は君にしがみつこうとするのに、どうにも疲れてしまったみたいだ」
ようやく安心したように、満の手から力が抜けた。続けて込めることは、少しばかり難しそうに思えた。
「ご安心を――これからは私が、ずっと貴方を支えます。共に在って、共に歩いて、貴方の隣で、ずっと……」
だから、赤城は言う。
証明のように、そっと告げた。
「――愛しています。満さん」
♪
かくして、北方海域艦隊決戦は終息した。
すべて、ぶちまけるだけぶちまけて、出せるものをすべて出しきって、――かくして赤城は――正規空母赤城として、再び満の鎮守府に所属することになった。
コレ事態は満や各艦娘、そしてかの第一艦隊提督の根回しなどが合わさった結果である。そして同時に、それはある一つの事実を表しているのだ。
「……そういうわけだ。私達第一艦隊は後処理でもう少しこちらに残る。それにしても、本当にすごかったなアレは」
長門が、呆れ気味に嘆息してみせる。ただ、その表情は明らかに会話の主、赤城をからかっていることは明白だ。
「――愛しています。か、私もいつか誰かに囁いてみたいものだな」
「……怒りますよ、長門さん」
「はは、馬に蹴られないうちに、私は退散するとしよう。では、一足先にハネムーンを楽しむといい」
黒髪を揺らし、踵を返して右手を振って、長門はその場を後にする。去り際に残した言葉に、赤城は思わず顔を真っ赤にさせて、口をわなわなと震わせていた。
「それでは――今までありがとうございました、山口“
「ええ、こちらこそ。……南雲満提督。貴方はこれで北の警備府副司令という立場から退き、貴方の鎮守府の総司令一本に切り替わる。その意味をよく覚えておいて」
「……今度貴方の力を借りる時は、きっと世界の危機だと思いますよ。だからその時はよろしくお願いします」
「……ふふ。解っているわ、任せてよね!」
山口は、その癖のあるショートヘアを風になびかせて、華やかな笑顔で満を見送る。――満と赤城は横並びだ。二人の背中には移動用の旅客機がある。山口と長門――そしてもう一人はその見送り。
島風達はすでに旅客機へと乗り込んでいた。そして山口達も、満と赤城の元を離れる。
「では――加賀さん」
赤城が、最後の一人の名を呼んだ。
「……お幸せに」
「――貴方も長門さんみたいなことを言うのですか!?」
ぽつりと零した加賀の発言に、赤城は猛烈な反応を示してみせた。隣にいる満が、思わず吹き出してしまうほどに。
「……こほん」
慌てて咳払いをしようとして――
「……っ! けほ、けほ……む、むせ」
「大丈夫か? 赤城」
むせた。
直ぐに満が背中を撫でて落ち着かせ、改めて、もう一度赤城は咳払いをした。
「そういうわけで、加賀さんはまた第一艦隊に戻るのですよね?」
「提督修行に戻るともいいます。第一艦隊は換装置き場でもありますから、……もしかしたら、先日の海戦が、私の最後の出撃になるかもしれません」
「それは無いんじゃないか? 山口提督みたく、また戦場に立つことはあるだろう。なにせ戦える提督だぞ? 戦力的にコレほど有効なカードはないだろう」
それもそうかと、加賀は頷く。
「……そうですね。では、どうしようかしら。私は赤城に、一言こら、と怒るべきなのでしょうか」
「ははは、それで赤城が反省するわけないだろう。皆そうだが、大概頑固だからな」
即答であった。
ならば、加賀は腕組みをして考えこむ。
「そんなに悩む必要はないんじゃないか? 今、かける言葉は、そうないだろう」
「だから悩んでいるのよ、提督。……でも、そうね」
――どうやら決定したようだ。加賀は、居直った様子で赤城に向く。ちらりと満を見てから、改めて赤城に向き直る。
「……いってらっしゃい、赤城さん」
「――、」
赤城は、一拍して。
「――いってきます」
そう、応えた。