魔法少女まどか?ナノカ   作:唐揚ちきん

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第百六話 別れの挨拶

「政夫……政夫!」

 

 誰かが僕を呼ぶ声がすぐ傍から聞こえた。

 驚いて、顔を上げるとそこには少し心配そうな眼鏡を掛けた利発そうな女性が僕の顔を覗き込んでいる。

 

「どうしたの? 急に黙り込んでぼうっとし出したりして」

 

 光沢のある濡れ羽色の髪に整った目鼻立ちのその人を見て、僕は(しば)し言葉を失い、そして震える声で尋ねた。

 

「お……母、さん?」

 

「え? ええ、お母さんだけど……一体どうしたの?」

 

 僕の反応に不思議そうにするお母さんを見て、なぜだか突然目から涙がこぼれた。

 胸の奥から強烈な感情が押し寄せてきて、縋りつくように僕はお母さんに抱きつく。悲しいのか、嬉しいのか、それすらも判断することができなかったが、言葉に形容できない感情が僕を突き動かしていた。

 

「ど、どうしたの、政夫? 急に泣き出したりして。幼稚園で何か嫌な事でもあったの? 何あったならお母さんが何とかするから教えて、ね?」

 

 お母さんは膝を突いて、小さな僕の身体を優しく包み込むように抱き締めてくれた。右手で頭を撫でて、左手で背中を(なだ)めるように優しく叩く。

 僕が泣いた時にいつもやってくれるその仕草が堪らなく心に染み込んだ。

 どうしてだろう。お母さんの顔を見たら急に胸が切なくなって涙が止まらなくなった。

 しがみ付くようにお母さんが着ていたオレンジ色のエプロンを掴み、顔を押し当てて声を上げて泣き続けた。

 

「何があったってお母さんが解決してあげるから安心して、政夫。あなたはお母さんが守ってあげる」

 

 心を落ち着かせるその静かで優しい声で慰められて、次第にしゃくり上げながらも僕の涙は少しずつその量を減らし、やがて完全に止まった。

 呼吸が落ち着くと僕はお母さんのエプロンに埋めていた顔を離し、周りを眺める。そこは何一つ変哲のない僕の家のキッチンだった。

 火にかけられたお鍋から、いい匂いが漂ってきて、今が夕飯前だということを思い出す。それに気が付いたせいか小さくお腹が鳴った。

 

「……ひょっとしてお腹が空いて泣いての? もう、心配させないでよ。すぐにできるからもうちょっと待ってて」

 

 少しだけ呆れたようなお母さんにそう言われて、僕は恥ずかしくなって俯く。

 すると、近くでチリンと小さな鈴の音が聞こえてきた。それに続けてニャアという鳴き声が耳に届く。

 そちらを向くと、リビングの方から黒い小さな子猫がとことこと僕の方に近付いて来るのが見えた。

 

「ほら、スイミーも政夫の事心配して来ちゃったじゃない。大丈夫だよって、安心させてあげなさい」

 

 お母さんは僕の背中を優しく、ぽんと叩くと再びキッチンで料理を作り始めた。

 スイミーは僕の足元にまでやって来ると、そのふわふわした身体を僕に擦り付けて甘え始める。

 その小さくて身体を危なげな手付きで頑張って抱きかかえると、首輪に付いた小さな鈴がまた音を立てた。

 

「心配してくれて、ありがとう。スイミー」

  

「ニャァ」

 

 僕の言葉に応答するように鳴くスイミーに僕は頬をくっ付ける。そうすると、スイミーは嫌がるどころか嬉しそうに尻尾を揺れ動かした。

 そんな僕らを見て、お母さんは鍋をお玉でかき混ぜながら、温かな笑顔で微笑んだ。

 優しくて、幸せな世界を体感して胸の中がいっぱいになる。

 

 ――政夫くん!

 

 その瞬間、どこからか声が聞こえた。そして、同時に頭の中で一人の女の子の顔が思い浮かぶ。

 ピンクのツインテール髪の中学生くらいの……背の低い穏やかそうな女の子だ。

 

「うっ……」

 

 激しい頭痛がして、僕は抱えていたスイミーを放してしまう。

 スイミーは軽やかな足取りで難なく着地すると僕を見上げて心配そうに一声鳴いた。けれど、僕はそれに気を配る余裕もなく、思い浮かんだピンク色の髪の女の子のことで思考がいっぱいになる。

 僕は知っている。この女の子のことを知っている。

 とても、とても大切な人だったことを覚えている。

 

 ――政夫くんっ! お願い、目を覚まして!!

 

 そうだ、この子は僕のことを好きだと言ってくれた女の子。

 そして、僕が心の底から好きになった、ただ一人の女の子。

 

「政夫!? どうしたの!? 大丈夫? 頭が痛いの?」

 

 お母さんが鍋の火を止めて、僕の方に心配そうに寄り添う。

 僕はお母さんを見上げる。幼い僕にはとても大きくて、頼り甲斐のあるお母さん。

 四歳の夏に病気が発症する前の、一番美しい時のままの姿だ。きっとこの頃のお母さんが僕の中で一番大きかったのだろう。

 ああ。何もかも思い出した。嫌なことも、嬉しかったことも、何もかもを。

 僕は、屈んで僕の額に手を当てていたお母さんへ目を向けて話し出す。

 

「お母さん……僕、思い出したよ。全部、お母さんがもう居なくなちゃったことも」

 

 僕の言葉にお母さんは僅かに顔を強張らせた後、それを誤魔化すかのように捲くし立てるように喋り出す。

 

「政夫? 何を言っているの? そんな変な事言い出すなんて……熱はないみたいだけど一応、念のために病院に行きましょう。待ってて、すぐに車を……」

 

「母さん!!」

 

 ぴしゃりと母さんを強く呼ぶと、母さんは台詞を途切れさせて目を逸らした。

 足元に居るスイミーは僕の声にびくりと驚いた後、弱々しい声で小さく鳴く。

 

「今、見ているこの光景は天国なのか、僕が作り出した都合のいい光景なのかは分からない……けどさ、どちらにしたってそんなところ(・・・・・・)へは逃げ込めないよ」

 

「政夫……もういいじゃない。あなたは十分過ぎるほど頑張った。ここに居れば、もうこれ以上辛い思いなんてしなくて済むのよ?」

 

 僕を労わってくれる母さんのその言葉はとても優しくて、僕のことを慈しんでくれているということが感じ取れた。スイミーも一緒に居てよ、とでもいうように足元に纏わり着く。

 確かにここに居れば、もう僕は傷付くことも、苦しむことも、裏切られることもないのだろう。

 でも、それは『夕田政夫』の生き方じゃない。

 辛い現実から目を背けて、優しい幻想に縋るなんて生き方は僕の一番許せないものだ。

 

「母さん。あなたが産んでくれた息子(ぼく)はもうあの頃みたいに弱くはないよ」

 

 一度目を瞑り、もう一度開くとさっきの低い目線から、僕の知る『いつもの高さ』の目線に切り替わる。

 幼く小さかった僕の姿も、14歳の僕に戻り、今では着慣れた見滝原中の白い学ランを身に纏っていた。

 目の前に居た母さんは今の僕よりも身長が低かった。あの頃は安心感の塊のように見えていた母さんは思ったよりも小柄で、かつてよりもずっと頼りなく見えた。

 きっと、昔の母さんは幼い僕に立派な母親であるように頑張っていたのだろう。頼りになる、優しくて包容力のあるように努力していたのだろう。

 他ならない……僕のために。

 我が母ながら素晴らしい女性だと思う。こんな人に産んでもらい、愛してもらった自分を心から誇りに感じる。

 

「母さんに聞いてほしいことがあるんだ」

 

 これがただの都合のいい幻想だとしても、母さんに聞いてもらいたいことが一つだけあった。

 

「……何かしら?」

 

 少しだけ悲しげで、諦めたような表情を浮かべる母さんに僕はこう宣言した。

 

「僕、好きな女の子ができたんだ」

 

 僅かに驚いたようで少しだけ目を見開いた後、目蓋(まぶた)を閉じ、そして開いた時にはいつものあの朗らかな笑顔を浮かべていた。

 

「そう、そうなの。おめでとう、政夫」

 

「うん!」

 

 母さんの反応は知らなかったことを聞かされたというよりは、この場でそんな言うとは思わなかったという驚きに見えた。

 人見知りで他人との間に壁を作っていた頃の僕を知っている母さんからすれば、面と向かって誰かのことを好きだと発言する今の僕は感慨深いものがあるのだと思う。

 僕たちが居た場所が次第に少しずつ、砂のようにこぼれ落ちて形を失い、端から消滅していく。

 周囲が広大な真っ白い世界へと変わると、スイミーを抱き上げて、母さんは僕に向けて別れの言葉を投げ掛けた。

 

「政夫。さようなら」

 

「うん。さようなら、母さん、スイミー」

 

 それは九年前に僕と母さんが交わせなかった最期の別れの挨拶だった。

 消えていく世界の中で、母さんの腕の中のスイミーが悲しそうにニャアと鳴いた声だけが最後まで耳に残った。

 僕に安らぎをくれた大切な存在に別れを告げて、僕の意識は闇の中に落ちていく。

 

 

 *

 

 

「……ぅ……」

 

 薄目を開くと世界がぼやけて見えた。

 熟睡していたのを無理やり叩き起こされたかのように頭が回らない。身体全体の感覚が鈍っていて、背中からの感触がほとんど伝わって来なかった。

 気分が悪い。意識が曖昧で、夢と現実の境界があやふやだ。

 

「政夫くんっ!」

 

 誰かの声が僕を呼ぶ。顔を動かすとピンク色の髪をした女の子が僕の手を握って、涙を流している。

 

「ま、どか……さん?」

 

「そうだよ! 私だよ!! ……よかったぁ。本当に、本当によかった……」

 

 まどかさんだ。僕の、大好きなたった一人の恋人。

 その瞬間、急激に脳が活性化して思考が回転を始める。

 思い出した。僕はまどかさんを庇って暁美に銃で撃たれて、それで……それで確か……。

 死んだはずだ。心臓を撃たれたのだ。生きているはずがない。

 とっさにまどかさんに握られていない方の手で心臓の辺りの胸を触る。すると、胸の上に置いてあった何かを掴んだ。

 それを顔に近付けて見つめる。それは見覚えのある宝石だった。この街に来て何度も見ることになった魔法少女の変身アイテム。魔力の塊。魔法少女にされた女の子の魂。

 ――ソウルジェム。

 今まで見てきたどれよりも一回り小さいそのソウルジェムは黒い色をしていた。

 一瞬、濁って孵化寸前なのかと思ったが、どうも色の質感が違う。

 あの不快感のある穢れた黒ではなく、透明感のある清潔な黒。クリアブラックと言った方が分かりやすいだろうか。

 濁ったのではなく、元からこの色だったということがその美しさから見て取れるほど見事な黒色だった。

 

「それは『君』のソウルジェムだよ。政夫」

 

 そう言ったのは、僕を挟んでまどかさんの反対側に居たニュゥべえだった。

 まだ魔法少女の姿で女の子座りをして酷く疲労困憊(ひろうこんぱい)の顔をしている。

 

「は? これが、僕の? それはどういう……」

 

 寝ていた上半身を起こして、ニュゥべえに問いかけようとした時、不愉快な頭に直接響くような声がそれを遮った。

 

『まさか、願い事も聞かないままでの魂の分離に成功するとは思わなかったよ。自力で奇跡を起こしたという訳だ。そう言えば君は魔法少女でもあるんだったね、独立個体』

 

 視界にちらりと映ったのは可愛いさの欠片もない無表情の似非マスコット、旧べえ。

 見つけ次第、ニュゥべえに捕獲してもらいたいと思っていた相手だが、今はそれよりも奴の聞き捨てならない台詞が気になった。

 魂の分離? そうか、段々見えてきた。死ぬ寸前にニュゥべえは僕の魂……即ち、ソウルジェムを生成することで僕の命を文字通り繋ぎとめたということか。

 

『でも、随分と小さくて不安定なソウルジェムだ。ちゃんとしたプロセスを無視したせいだろうね。恐らく、魔法も使えないほどの欠陥品だよ。劣化ソウルジェムとでも言えばいいかな』

 

「…………」

 

 旧べえの発言にニュゥべえは無言で俯いた。奴の発言を肯定しているのだろう。

 僕にとってはそんな瑣末なことはどうでもいい。彼女が僕のために頑張ってくれたというのは状況を見れば理解できる。

 旧べえがまどかさんに契約を持ちかける最高のタイミングを邪魔するために無理をしてくれたのだろう。

 

「ありがとう。僕のために頑張ってくれたんだね、ニュゥべえ」

 

 黒いソウルジェムを持った手で彼女の頭を労うために軽く撫でた。

 ニュゥべえは僕に撫でられると俯いていた顔を上げて、疲れの残る顔で微笑んだ。

 

「政夫……。うん! ボク、頑張ったよ!」

 

「まどかさんも契約をしないで耐えてくれたんだね」

 

 ニュゥべえから、まどかさんの方に顔の向きを変えると、まどかさんは涙で腫れた顔でこくりと頷く。

 

「うん……私にできる事は信じる事だけだから」

 

「それは誰にでもできることじゃないよ。ニュゥべえを信じてくれてありがとう」

 

「まさお、くん。本当によかった」

 

 まどかさんをぎゅっと強く抱き締めて背中を軽く二、三度叩く。

 そして、彼女の後ろに居る織莉子姉さんにもお礼を言った。

 

「織莉子姉さんもありがとうございます。まどかさんを守るために一人で無茶させてしまいました」

 

 織莉子姉さんは僕のその言葉に首を横に振って答えた。

 

「いいえ、私は結局何にもできなかったわ。暁美さんも止められず、そのせいでまー君に命に関わる大怪我をさせてしまった……」

 

 うな垂れる彼女に僕は穏やかに笑いかけた。

 

「それは違います。織莉子姉さんが頑張ってくれなかったら、僕が到着する前にまどかさんは死んでいたかもしれません。僕がまどかさんを守れたのは織莉子姉さんのおかげですよ」

 

 それに暁美が織莉子姉さんとの戦いでソウルジェムを強奪して、邪魔者は完全に倒したと慢心していたからニュゥべえの擬態が成功したという部分もある。

 暴走していたとはいえ、隙のない暁美はこうでもしなければ僕の細工に気付いていたかもしれない。

 

「まー君……」

 

 見れば胸元の制服はぱっくりと裂け、その下からは黄色いリボンが包帯の如く巻かれている。血が滲んでいないことから傷の方は大分治っているようで安心した。

 僕がそれをまじまじと見つめていると、織莉子姉さんは恥ずかしそうに両手で胸元を隠す。僕の方はまったく、そういった意識はなかったが、よく見れば結構際どい格好をしているので織莉子姉さんからしたら羞恥を抱くのは当然だ。

 

「あー……ご、ごめんなさい」

 

「い、いいのよ。まー君にだったら見られても……」

 

「えっ?」

 

 頬を赤く染める織莉子姉さんの思わせぶりな台詞に一瞬どきっとしたが、抱き締めていたまどかさんがむっとした表情で僕を抓ってくるため自重する。

 

「もうっ! 政夫くんのスケベ」

 

「ええ!? いや、僕はまどかさん一筋で何も(やま)しいこと考えてないよ!?」

 

「……本当?」

 

 少しだけ疑るような視線を僕に向けるまどかさん。

 こんな時だというのにそれが酷く可愛くて堪らなくなる。

 

「うん、本当。まどかさん以外の女の子の身体に興味ないから安心して」

 

 さらにぎゅっとまどかさんを抱き締める力を強める。ふわっとした女の子独特の甘い香りがして、僕の心音を早めた。

 

「ほら、まどかさんのおかげでさっきまで止まってた心臓こんなに脈打ってるよ。聞こえる?」

 

「う、うん。……政夫くんって意外に大胆だよね」

 

 お互いに密着した身体のせいで、頬が上気してきて、艶っぽい雰囲気になりかけたが、そうは問屋が卸してくれない。

 部屋の後ろにて、黄色いリボンが拘束具のように身体に巻きついている暁美とそれを囲む魔法少女が視界に入り、僕は思考をピンク色から模様替えする。

 手の中にあるソウルジェムと同じ黒色に変えた思考で僕はそちらを見つめる。

 完全に身動きを封じ込められ、顔以外に黄色いリボンでできた拘束具を付けられた暁美。

 そして、それを美樹、巴さん、杏子さん、呉先輩がそれぞれの武器を持ち、少しでも変な動きを見せたら対処できるように剣呑な表情で監視していた。

 まどかさんを一度身体から引き離して、立ち上がり、僕は暁美の方へと近付いていく。

 

「ほむらさん……」

 

 暁美に声をかけると、彼女は僕を見て安堵したように頬を弛めた。

 

「よかった。政夫……。助かったのね」

 

「……自分でやっておいてよくもそんな事が言えるな」

 

 怒気を露にそう言い放ったのは僕ではなく、呉先輩だった。

 呉先輩は織莉子姉さんとも仲がよかったから、暁美の所業にはこの中で一番頭に来ているのだろう。今にでもそのカギ爪で斬りかからんばかりの眼光をしている。

 だが、彼女が暁美への憎悪を抑えていたのはきっと僕が目を覚ますまで待っていたからだ。

 この部屋に居る全ての人間が僕へと視線を集中させる。

 ――暁美ほむらをどう裁くのか。

 それを皆が僕に無言で尋ねている。いや、判決を委ねているのではなく、処刑法を聞いているといった方が正しいだろう。

 ここに居る暁美以外の人間が全員暁美を許す気など微塵もない。まどかさんでさえも、暁美に明確に敵意を持っているのが見て取れる。

 ならば、僕は被害者として、答えなくてはならない。

 彼女の所業に対するその罰を。

 




ここまで引っ張ってしまうとは私自身も思っていませんでした。
でも、どうして政夫ママとシーン書き足したかったので、延びてしまいました。
政夫のお母さん、夕田弓子は若干ほむらっぽい性格をしています。

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