~マミ視点~
ビルの縁に腰掛け、夜の見滝原を見渡す。
建物から漏れる強い照明は、夜空の星々を見辛くするほど眩く、そこが『あの場所』と『この場所』の違いを如実に表していた。
『あの場所』——偽の見滝原市の世界。
そして、そこでの否定の魔王との戦い。
あまりにも濃密な激動の時間は過ぎてしまえば、ただの夢のように思えた。
いや、本当にただの長い夢を見ていただけだったのかもしれない。
あの後、目を覚ました私は佐倉さんと共に自分の家の床で倒れ込んでいた。
佐倉さんも同じ体験をしたという話を聞かなければ、あの凄絶な経験を単なる夢で片付けていただろう。
それほどにこの街はいつも通りだった。
たった一人の少女が消えた事を除いては……。
暁美ほむら。私と共に見滝原市を守る魔法少女。
彼女が私たちに姿を見せる事は二度となかった。
暁美さんの住むマンションにも行ってみたが、帰ってきている様子は皆無だった。
私は自分の手元にあるソウルジェムを眺める。
曇りのないオパールのような宝石には、穢れ一つない。
あれから数日、魔獣退治の日々に戻ったというのに、ソウルジェムの濁り方が変わった。
魔法の使用を控えるようになった訳でもないのに、濁り難くなっている。
気のせいではない。長年、魔法少女としてソウルジェムの浄化をしているからこそ分かる。
自分が最も嫌っていたものを受け止める事ができたからだろうか?
―—容赦のない判断を下せる冷徹な自分。
そんな自分を恐れ、忌み嫌っていたのも懐かしく思えた。
今となってはあの経験は私にとってかけがえのない思い出になっている。私の醜さが、今の私を支えている。
改めて、魔法少女としての自分を受け入れられた。
ぎゅっとソウルジェムを両手で握り締める。
指の隙間から淡い黄色の光が漏れ、私の顔を優しく照らした。
「おい。なーに一人で
赤いポニーテールを揺らし、背後から声を掛けたのは佐倉さんだった。
「嫌だわ、佐倉さん。後ろからいきなり近付いてくるなんて、びっくりして私が縁から落ちたらどうする気だったの?」
「嘘吐け。とっくに気付いていたくせに」
呆れたようにそう言うと、私の隣に
いつもなら女の子なのに、はしたないと叱るところだが、ここに座る私も人の事をとやかく言えるほどお淑やかとは言い難い。
「また、あの時の事思い出してたのか?」
顔をこちらに向けずに、彼女は尋ねた。
赤い
「そういうあなたはもう思い出さない? 美樹さんたちの事も」
「さやかの事は今もまだ時々思い出すよ。でも、前ほど落ち込んだりはしねぇ。あいつはあいつで上手くやれてそうだしな。うじうじすんのはアタシの主義じゃない」
「それは良かったわ。でも、暁美さんが居なくなって、二人だけになったからこの街のパトロールは大変よね。キュゥべえは新しい魔法少女と契約するつもりはないのかしら?」
佐倉さんの顔に寂しさが垣間見え、強引に話題を変えて、誤魔化そうとした。
彼女はそんな意図を理解したらしく、肩を竦めて小さく笑った。
「マミ……アンタ、話題の転換のしかた下手すぎ。大丈夫だよ、もう湿っぽくなんかならないって。それよりキュゥべえの勧誘だったか、あれなんか自粛してるみたいなんだよ」
話の変更に乗ってくれた彼女は興味深い事を教えてくれた。
どうやらキュゥべえは魔法少女の勧誘を積極的に行わなくなったらしい。
魔法少女のソウルジェムが濁り難くなった事が関連しているのだという。
キュゥべえに詳しく問い詰めようとしたそうなのだが、発言を濁し、そこだけは詳細に話そうとしなかったそうだ。
「問い詰められても喋らないのは意外ね。聞かれなかった事は一切話そうとしない代わりに、聞けば大抵の事ははなしてくれるのに……」
「まあ、あいつも何かあったって事だろ。アタシら魔法少女にとっては良い事だしな」
そう答えた後、佐倉さんは少し黙り込んだ。
何か他に話したい事があるけれど、本当に話すべき内容なのか悩んでいる。そういう類の沈黙だ。
彼女とは長い付き合いになるのに、たまにこういう遠慮をするところがある。
可愛らしいが、ちょっと面倒くさい。
「何かあるんでしょう。話してちょうだい。それが目的で私に会いに来たんでしょ?」
「あー……大層な事でもないんだけどさ。……昨日、まどかの家族に会ったよ」
「鹿目さんの家族に?」
鹿目まどか。あの偽の見滝原市で出会った魔法少女の仲間。
そして、私たち魔法少女を取り巻くルール……円環の理そのもの。
その彼女の『家族』として存在していた人々。
彼らにとっては、鹿目まどかなどという娘は最初から存在しなかったはずだ。
私たちのように魔力を持たない一般人である彼らには、私たちと同じように記憶に留めておく事もできないだろう。
夢の内容がすぐに頭から消えてしまうように。たとえ覚えていたとしても、それは起きてから数秒程度。
意識が覚醒した途端に忘れてしまう。
「何か話したの?」
私の問いに佐倉さんは、首を横に振って答えた。
「いいや。夕暮れ時の川沿いの公園で家族団らんしているところを見かけただけだ。向こうはアタシにも気付いてなかったよ」
「そう。それなら……」
良かったじゃないと、言おうとしたところを食い気味で言葉を続けた。
「でも、まどかの弟……って言っていいのかも分かんねーけど。そいつが地面に木の棒で絵を書いてたんだ」
佐倉さんは私の顔を覗き込み、静かに言った。
「ツインテールの女の子の絵。ありゃ、どう見てもまどかの似顔絵だった。親二人はアニメかなんかのキャラだと思ってたみたいだけどな」
「たっくん、だったっけ。大人と違って、子供の彼には多少魔力があっても不思議じゃないわ」
幼い子供である彼には第二次成長期を迎える少女たちとは比べ物にならないとはいえ、大人よりも激しい感情エネルギーを持っている。
まして、あの世界で数日間鹿目さんの近くで過ごしていたのなら、何らかの影響を受けていたとしてもおかしくはない。
姉弟の絆がほんの小さな奇跡を起こしたというなら、感動的な話だ。いずれ薄れてしまうとしても、確かに彼は鹿目さんとの思い出を感じられるのだから。
「それだけなら、別にマミに話そうとは思わなかったんだが、その横にもう一つ、絵があった」
複雑な感情を込めて、彼女は続きを話す。
「長い帽子と棒のようなものを持った男の子の絵……。あいつだった。あいつだったんだよ」
彼女の言わんとしている事が察せられた。
『あいつ』というのは……彼の事だ。
ゴンべえ。本当に何だったのか、私にも分からない。
少年にもかかわらず、魔法を操り、最後まで私たちを圧倒した、“魔法少女の敵”。
「そう……」
「ああ……」
何も言えなくなった私はお互いに二の句を告げずに、沈黙した。
何気なく、見上げた空に月が顔を出していた。
街の明るさで気付かなかったけれど、今夜は満月だ。
「綺麗な満月ね」
「そうだな……」
彼を倒せたのか、私たちはその結末を見届ける事なく、意識を奪われた。
きっと、鹿目さんは勝利したのだろう。それは分かる。そうでなければ、私たちが今こうして無事に生きている事がその証拠だ。
円環の理は未だ健在だ。
それでも彼に対する感情は複雑なのだ。
憎むべきかもしれない。もしくは感謝するべきなのかもしれない。
でも、どちらにも傾く事のできない想いが私たちの心にしこりのように凝り固まっている。
「複雑ね。でも、もう二度と彼のような存在が生まれない事を願うわ」
「同感だ……。それじゃ、そろそろ」
「ええ。近付いてきたみたいだし、始めましょう」
魔獣の気配を感じ取った私たちは、変身した後、月に背を向け、夜の闇の中へと足を踏み入れる。
それが私たちの――魔法少女の役目なのだから。
~さやか視点~
どこまでも広がる黒い宇宙。
煌々と輝く星々は己の存在を主張するように光っていた。
その中で青い巨大な球体が自分こそが真の主役と言うかのように鎮座している。
地球は青かった。
人類初の宇宙飛行士がそう言ったと歴史の授業では習った。
現代では誰もが知っている事実だけれど、こうして肉眼でその事を確かめたのは歴史上でも一握りだろう。
でも、私はその光景を見ている。
世界の中でもまだほとんどの人が訪れた事のない、月の上で。
私は今、月面に居る。
目の前には、私と同じように
ヘルメットや宇宙服の代わりに、可愛らしい衣装を身に纏った数えきれないほど数の少女たち。彼女たちは全員、円環の理に導かれ、
魔法少女たちは、黙って私の
彼女を挟んだ隣になぎさが立っている。並んだ魔法少女たちの方を静かに見つめている。
私は横目で
雪のように純白だった一対の翼は片翼を漆黒に染まり、前髪の一房は黒く変色している。
桃色のソウルジェムはその外側を黒い装飾が纏わり、割れたリンゴのような形状へと変形していた。
前よりも伸びた伸長と頭髪。全体的に女性らしい起伏が増え、可愛らしいというよりも美しいと表現した方が相応しい容姿になっている。
金色と黒の左右で異なる瞳を持つその女性は優し気な微笑を
『皆、今まで私に付いて来てくれて本当にありがとう。それから、私の我がままに巻き込んでしまって、ごめんなさい』
子供に無償の愛を注ぐ母親のように柔らかな安心感のある声音で、
『だから、今。この時を以ってあなたたちの魂に終わりを与げる。もう二度と永遠に囚われる事のない、終焉をあなたたちへ』
魔法少女たちは手を伸ばす。
『本当は一人一人名前を呼んで送ってあげたいけれど、それよりも早くあなたたちの望むものを渡すね? さようなら。ありがとう』
彼女たちの真上に巨大な、とても巨大な一枚の黒い布が現れる。
膨大な人数の彼女たちを一度に包むほどの大きなその布が、彼女たちを覆い尽くすと、すとんと月面に落ちた。
絨毯のように広がったその布は
あれほど密集して両手を伸ばしていた魔法少女の行列は一人残らず、月から消え失せていた。
跡形もなく、この世から消滅したのだ。
あらゆる魔法と奇跡を消す、否定の魔法によって。
私を除けば、この場所に居るのはなぎさ。そして、
『本当によかったの? なぎさちゃんやさやかちゃんだって、もう耐えられないと思っていたんじゃなかったの?』
事実、本当に私たちの事を心配しての質問だろう。
それでも、私には
喉から出かけていた疑問がとうとう我慢の限界を超えて、口を突いた。
『
魔力は感情から放たれるエネルギーだ。感情なくしては魔法は使えない。
否定の魔法が今も使えるという事は、人格すら消滅してなおゴンべえが感情を持っている事の証明だ。
永遠に続く魔法少女の悪夢を消すために、永遠にあいつは苦しまなくてはいけないのだ。
それを分かっていて、まどかはこれだけの人数の魔法少女のために、否定の魔法を使った。
大好きな人の心を削って、それ以外の多くを救う。そんな選択、馬鹿げている。
だから、まどかはこの光景を見て、悲しむと思った。あるいは嘆くはずだと考えた。
でも、まどかは一切動じる事なく、彼女たちが消滅する様を眺めているだけだった。
そのあいつと同じ黒い瞳には僅かな動揺さえ浮かばなかった。
『あんたはもう、私の……あたしの知ってるまどかじゃない……!』
『うん。そうだね。私はもうさやかちゃんの知ってる
『…………』
言葉を失った。
私の言葉を否定する事なく、当然の事実を受け入れようにまどかは頷いた。
否定してほしかった。違うって。私はさやかちゃんの知っているまどかだよって、答えてほしかった。
申し訳なさそうな顔でまどかは私に諭す。
『ごめんね、さやかちゃん。私はもう自分の在り方を決めているの。だから、さやかちゃんが望む私には戻れない』
『どうして、そうなったのですか?』
絶句している私の代わりになぎさが尋ねた。
驚いた事に彼女の眼差しは、私よりも冷静にまどかを見つめている。
『……大人に、なったからかな? うまく説明するのは難しいけど、私は綺麗な事だけを言うつもりも、するつもりもない。たとえ、それが正しくない事だとしても、私が目的を成すために必要だと思える事なら、私は
『それが、なぎさたちと争う原因になったとしても……?』
『うん。そうなるのは嫌だけど、もしそうなっても後悔しないよ』
晴れやかな表情で即答する彼女に私は、何も反論できなかった。
明確に理解した。
どうして、他の魔法少女たちのようにまどかに命を委ねられなかったのか。
どうして、彼女の存在を素直に受け入れられなかったのか。
私は……。
『それなら、なぎさはもう少しだけまどかを見守っていてあげるのです。まどかが道を踏み外さないように』
なぎさはそう宣言をしてから、視線を私へと放る。
お前はどうするつもりだ。そう尋ねているのが伝わった。
気持ちは、私も同じだ。
『私も! 私もまだまどかと一緒に居る! それでもしもまどかが、誰かを踏みにじるような存在になったら……』
『私を
見透かしたように台詞の先をまどかが取った。
冗談のように言っているが、彼女の瞳は笑っていない。
それだけの覚悟があって、彼女は言っているのだろう。
だから、私は真っすぐに、黄色と黒のオッドアイを見つめ返し、言い放つ。
『うん。それが私の役目だよ』
『ありがとう。それじゃあ、二人とも。もう少しだけよろしくね』
まどかは、ようやく私の知っている笑顔を向けてくれた。
円環の理は、きっとゴンべえの言葉通り、完膚なきまで壊された。
うち壊され、解体され、そして、創造された。
無邪気に奇跡を信じる少女は殺された。
代わりに生まれたのが、目の前に居る女性。
黒に染まる事を恐れない、私たちの女神様。
自分とは対極のあの男を吸収し、変質した理。
きっと、その理に名前を付けるなら、そう――。
『太極の理』。
希望にも、絶望にも塗り潰される事のない、彼女の法。
新たな魔法少女の理だ。
これで本当にまどかナノカの投稿は最後です。