「―――っと、これでラスト!」
腰に命綱を巻いたアカネが船に絡みついていたワイヤーをナイフで断ち切る。
クロック・ゴートを束縛していた柵を全て取り払い、額の汗を拭っていると耳朶を通信が叩いた。
どうやらジャミングも効果を失ったらしい。
「エル? コムギ? セブン? そっちは大丈夫?」
『ああ、なんとかね。 そっちもワイヤー掃除ご苦労様』
『ぶ、無事みたいで何よりですぅ』
『アカネ様、当機はすぐにでも再発進が可能な状態です。 急ぎお戻りを』
帰ってきた返事に、アカネは内心で安堵を得た。
この様子ならとりあえず大事には至っていなかったようだ。
まあ、一番危なかったのは表にいた自分たちであるのは理解しているのだが。
「ありがとう。 でも、出発はちょっと待っててくれるかしら?」
『―――あの男か?』
「ええ」
言いつつ、アカネは【黒狼鬼】の船を見上げる。
環境があるらしい場所からは黒煙が立ち上っている。
先ほどまで見ていた出来事が夢でないのなら、あの青年はあそこにいるのだろう。
『やはりファーストキスの相手は気になるか?』
「ひん剥いて甲板から逆さにつるされたいって意味?」
『やばいな、これ声がマジだ』
通信越しに静かな怒気をたたきつけられ、エルが参ったような苦笑を上げる。
それに意識を割くこともなく、アカネは青年がいるだろう煙の出どころへと視線を向ける。
そうしてしばらく見上げた後、彼女は改めてエルに話しかける。
「ねえ、ちょっとお願いがあるんだけど」
***
瓦礫と炎と煙で彩られたブリッジは、さらに血と肉によって地獄絵図の有様を強めていた。
「ガアアァッ!!」
「ハハハハハハ!!」
怒号と共に斧を振るう黒鬼に、それを笑いながら避けつつ爪を振るう青年。
その余波で散るのは、傷ついて転がる黒狼鬼の部下だ。
「ぎゃあああああ!!」
「ひ、ひっ、ひぃいいいいいいい!」
「か、頭! 待っゲブゥッ!?」
青年が避けた一撃が死に体で転がっていた者にとどめを刺し、逃げようと這いずっていた者を叩き潰し、許しを乞うていた者を一顧だにせず撃ち砕く。
そしてそれを為している彼らの頭目は、しかしなに一つ気にも留めない。
黒狼鬼の頭にあるのは、もはや青年への殺意と憎悪だけであり、彼をすり潰すまでは他の何がどうなろうとも気にも留めることはない。
有体に言ってしまえば、完全に狂ってしまっていた。
文字通りの狂戦士と化した黒狼鬼の暴虐に、対する青年は喜色満面といった様相だ。
己を屠らんとする暴威への恐怖も、その煽りで散っていく命に対する憐憫もありはしない。
これはこれで、狂気的な在り様だった。
「ええと、こういうときなんて言うんだっけ? ―――ああ、『鬼さんこちら』か。
いや、狼っぽい感じもあるから……『ワンちゃん、こちら』か? ハハハ!」
「クソがぁ!!」
青年の嘲弄じみた物言いに、黒狼鬼が更に猛って斧砲の刃を振るう。
それで散るのは彼の部下たちだ。
振り下ろされ叩きつけられた先、薙ぎ払ったその軌道、砲口から飛び出した散弾の射線上。
それぞれが届く範囲にいる者のことごとくが物言わぬ肉片へと変えられていく。
例外は青年だけで、彼は自信を狙う攻撃を避け続け、その合間に黒狼鬼へと一撃を見舞っている。
しかし黒狼鬼の纏う装甲は抜けないのか、傷を付けることは叶わなかった。
だが青年はそれを承知の上で、敢えて挑発するかのようにわざとらしくも大げさに爪を振るう。
それが余計に黒狼鬼を猛り狂わせていた。
「ガァア!!」
吠えながら斧砲を振るった先は、瓦礫の山だ。
岩のような建材の破片と鉄材が砕かれながら青年のいるほうへとばら撒かれる。
「うわっと、あぶねぇ」
しかしやはり当たらない。
素直な感想かもしれぬその言葉も、今は挑発にしか聞き取れない。
故に、黒狼鬼の怒りと憎悪は更に滾ることとなり、
「クソが!! クソがクソがクソがクソがクソガキがあああああああ!!!」
雄叫びじみた怨嗟と共に、なおもその斧砲を振り回す。
薙ぎ払いも散弾の砲撃も悉く避けられるが、その怒りの裏側で黒狼鬼は冷静な思考を頭の片隅でしていた。
(このガキ、わけのわからん力だが……)
眼前で攻撃を回避し続ける青年を見ながら、その姿をつぶさに観察し―――装甲の下の口元を笑みの形に歪める。
なぜかと言えば、正気を見出したのだ。
(こいつの攻撃は俺の装甲を抜けねえ。 つまり受けるところさえ間違えなきゃ怖くはねえってことだ。
そして……)
勢いよく振り下ろし、瓦礫に埋もれた先端を跳ね上げる動きでその瓦礫自体を打ち上げる。
青年はそれをバックステップで回避するが、
「くっ!?」
いくつかが、青年の体の表面を引っ掻ける。
それはかすり傷ほどしかできない微々たるものだが、その事実に黒狼鬼は愉悦の笑みをとうとう隠し切れなくなる。
「ギヒ、ヒハ! とうとう喰らったなぁ、オイ!!」
再度の振り下ろしを、青年はこともなく避けて見せる。
黒狼鬼のみせた態度に、呆れたような色を混ぜてため息をついた。
「オイオイ……ちょっと掠っただけで大喜びとか、ちょっとばっかし小さすぎるぜ?」
「ああ、そうだなぁ……それじゃあ」
と、黒狼鬼は先ほどまで以上に力強く踏み込んだ。
一瞬のうちに間合いを詰め、振り上げた凶器を青年へと振り下ろす。
「ハッ、繰り返しだって……」
既に見飽きている攻撃を笑って避ける青年、しかしその視界の端に黒い影が映る。
「な―――!?」
驚愕に目を張るも一瞬、それは青年の頬に突き刺さり、彼の体を大きく吹き飛ばす。
一方で、今度こそ黒狼鬼はけたたましい哄笑を廃墟じみたブリッジに響かせる。
「ギャハハハハハハハ―――!! これくらいなら盛大に笑かせてもらうぜぇ―――!!!」
黒狼鬼は青年を吹き飛ばした自身の拳を掲げ、勝ち誇るようにはしゃぐ。
青年のほうはというと、上体を起こして横合いに赤い唾を吐き捨てる。
黒狼鬼を鋭く睨みつけながら、青年はしかし笑って見せる。
「………だからよ、ちっとばっかし喰らったくらいでいちいち喜んでんじゃねえって言ってるんだよ。 気持ち悪ィ」
青年に言いざまに対し、黒狼鬼は鼻を鳴らす。
そして彼を見下しながら、指差し言い放つ。
「わかってねえな? 俺が何でテメェに攻撃当てられたと思う?」
その問いかけに、青年は答えない。
だが、おそらくそれは自覚しているはずだろう。
黒狼鬼は教えるためではなく、敗北を突きつけてやるためだけにその答えを明らかにする。
「テメェの動きも、攻撃も、魔力ありきの強化前提だ。 ……それが切れかけてんだよ。 だから―――」
斧砲を跳ね上げ、その砲口を向ける。
青年は一瞬早く横跳びに退き、間一髪のところでまき散らされた散弾を避けきる。
だが、
「オラ!」
「ぐがっ!!」
黒鬼が蹴り上げた瓦礫が彼の顔面を強打する。
顔から跳ね上げられるように転がされ、身を起こしてみれば右のこめかみから血を川のように流していた。
よく見れば青年の体に流れる汗の量は増え、息もだいぶ荒くなっている。
それは黒狼鬼の推測が正しいことを如実に証明してしまっていた。
「それが無くなれば、テメェはただの……」
「くっ!」
呻きながら青年の左手が燐光を纏った手刀となって放たれる。
黒狼鬼はそれを軽く払いのけると、
「……鈍間でひ弱なクソガキだ」
斧砲の太い砲身で青年の胴を横薙ぎに払う。
わき腹から痛烈な一撃を見舞われ、吹き飛んだ青年は瓦礫まみれの床に転がりながら腹を抑えて悶える。
その無様さに、黒狼鬼はひと際けたたましい笑い声をあげる。
「ギャハハハハハハハハハ――――!! ざまあねェなああああああ!!」
嘲いながら青年を踏みつけようと近付き、右足を持ち上げる黒鬼。
その時、蹲っていた青年が一瞬にして身を翻す。
その速度は魔力が漲っていた時と遜色はない。
故に黒狼鬼がその速さに反応することはできず、青年が振りかぶった手刀は光を散らしながらまっすぐ黒狼鬼の喉笛へと吸い込まれていく。
そして、そして―――
「――――なぁ? 気は済んだか?」
―――何ら痛痒を感じさせない声で、黒狼鬼が青年に尋ねる。
青年の手刀は、喉を覆う装甲で完全に受け止められていた。
無言で目を見開く青年を、黒狼鬼は前髪を掴んで持ち上げる。
細い繊維が千切れる音を聞きながら、青年は間近で黒鬼の目を見た。
鉄の面の奥にある輝きは、愉悦に染まってひどく醜い。
「ざぁんねんだったなぁ? ここは薄いと思ってたようだが……そういう考えのやつのために一番防御を固めてあんだよ」
喉仏をさらすように首を反りながら、黒狼鬼は幼子に語り掛けるような言い草で青年を嘲う。
その脳裏で、彼はこの後どうこの青年を料理してやるかを考えていた。
斧砲で手足を落としてやるか、いやそれならば踏み砕いたほうが苦しいだろう。
そのあとは時間をかけてゆっくりと腹を裂き、肋を圧し折り、目鼻を抉って愉しもう。
ああ、その前に芋虫にした男の前であの女どもを嬲るというのも素晴らしい。
そんな酸鼻極まる未来図を描いていたその時だった。
「――――ハッ」
その思考に冷や水を浴びせるがごとく、鼻で笑う呼気が至近から届く。
言わずもがな、今この手で吊り下げている青年からだ。
ヤケにでもなったのか、そう聞こうとした寸前に、
「そうか、じゃあこっちをもらうぜ?」
ズン、という衝撃が己の体に走ったことを黒狼鬼は感じた。
疑問に思い、ゆっくりと体を見下ろせば―――
「―――は?」
―――青年の右手が、装甲を破って黒狼鬼の胸板の内側へと埋まっていた。
青年ピンチ!?……と思いきやなこの展開。
どういうことかは次回にて。
……わりとひどい理由ではありますが。