僕と兄アレクセイが対等にいられるのは子供用二段ベッドの中だけだった。いや、厳密に言えば対等ではなく、子供用二段ベッドは上が兄、下が僕で一度も上を譲ってもらったことはない。
僕と兄が二人きりになるのは寝る前のほんの数十分だけだった。昼間、兄は純血の一族たちが集まって魔法の勉強をする学校のようなところに通っており、夕ご飯になるまで帰ってこなかった。僕は自宅で母と父手製の教科書を読んだり、家にあった本を読んで過ごしていた。傍系とはいえプロップ家。本棚には貴重な本の写本が多く、僕の頭は使えもしない呪文や魔法理論でいっぱいになった。
それでもやはり杖は僕を祝福しなかった。魔力はある、しかしながらどうしてもその魔力をのせることができなかった。双子が生まれて「代々受け継がれていた古い杖はどちらのものになるのでしょうね。」なんて悩んでいた両親はむしろ安心しただろうか?残念ながらその杖も、両親も、兄も妹も、何もかもこの世に残っていない。
「あーあ。行きたくない」
兄は毎日のように上からものを言う。僕の行けない学校についての話を延々として睡魔が来るのを待っていた。僕は兄の声が止むまで寝れないから、兄の1日を思い浮かべながらおしゃべりの終わりを待った。
僕と同じ顔をした兄が何を思って何をしたか。想像の中で僕と兄の区別はなかった。想像の中の少年は僕であり兄だった。そんな想像で心を慰める僕のなんていじらしい事。忍耐は美徳だと思わないか?惨めさが美徳だとすれば僕は相当美しく気高いわけだ。笑える。
「お前が魔法を使えたら替え玉になってもらえたのに」
「僕が魔法を使えたら僕も通ってたよ」
「あ、そうか。だめじゃん」
兄に悪気がないのは承知だったが、僕にとって残酷なことを平気で言う。だから僕は本当は兄を憎んでいたのかもしれない。ただし当時の僕は刺すような悲しみから目に涙を溜めるばかりだった。
僕は兄と違って家以外の世界を知らなかったし、下手したら一生知らずに終わるのかもしれない。今まで読んできた素晴らしい世界についての本の数々。まばゆい羨望が僕の目をくらませた。
「ヴォーヴァ、僕の友達が一度君にあってみたいんだって」
「アリョーシャ。僕は笑われたくないんだ」
「まあまあ、ただ会うだけだよ。僕はお前に友達が一人もいないのを心配してるんだぜ」
たしかに僕は友達は一人もいなかった。家から出ることも少なかった。しかしそう言われた11歳の時には妹ナージャがいて世話で忙しかったし、孤独や退屈も紛れていた。余計なおせっかいだ、と突っぱねたかったが兄の頼みを断ると呪文が飛んでくるので結局は兄に従う羽目になる。
大抵の理不尽は仕方のないことだと諦めがついていたが、兄の友達に会うなんてとんでもなかった。話を聞く限り兄と同じかそれ以上に野蛮なガキ共。奴らが魔法の使えない僕を見てどんな罵倒を吐き出すか、想像するのは容易だ。子供は弱者にどこまでも残酷だ。それでも僕は逆らえない。僕はまだこのとき痛がりやだった。
当然、僕は兄の友達からも魔法が使えないことをからかわれ、四方から呪文をかけられて泥まみれになった。帰ってから母に服を汚すなとヒステリックに怒鳴られ、怒鳴ったという罪悪感から泣く母を慰めて、兄のいる二段ベッドで眠った。
兄は幼い頃は無意識だったが、次第に意識的に僕に対して魔法の話題を振ってくるようになった。純血の子どもたちと傍系の子どもたちのカーストと、それにまつわる小競り合いについて。誰にもバレずに嫌いなやつのバッグに汚物を入れる魔法。僕が絶対に入れない世界にまつわる様々な話を。
16歳になる頃にはさすがに寛容な僕も兄の悪意に辟易していた。そして可愛い妹、花を咲かせる魔法が大好きなナージャも意地悪な兄を避けていた。
ナージャは名前通り僕にとっての希望のようなもので、泥の中で光る砂金のように僕の心を慰めてくれていた。
「ヴォーヴァ、わたしにはもっとわがままにしていいよ」
マグルの図書館に通っていたことを咎められ、アリョーシャに本をすべて破かれたときにナージャが言った言葉はこれまで読んだどの本よりも実生活に役立つものだった。
「あのね。アリョーシャの杖隠しちゃえばいいんだよ!そしたらもう意地悪できないもん」
ナージャのように伸びやかにたおやかに育てられると心まで澄み渡ったうつくしいものになれるのだ。僕も女の子だったら…いや、せめてアレクセイと双子でなかったらこういうふうな子供になれたのだろうか?ああ、でもこの子には魔法の才能がある。
結局はそういう事なのだろう。
…
さて、時間は飛んで現在はふくろう試験3日前。5年生は半狂乱で勉強に取り組んでいて、その他も学年末に向けて各々学習に励んでいる。素晴らしいことだ。
闇の魔術に対する防衛術の教室ではアーニーの放課後自主連クラブが終わった代わりに放課後自習クラブが開催されていた。寮の得点がほしい監督生や首席が教師役になり下級生の勉強を監督するという極めて健全なクラブであり、一切の杖の使用を禁じている。これが意外と評判が良く、そこには自主連クラブの穏健派(僕に従順という意味だ)の生徒も多く通っていた。
マクミランとスミスの亀裂はまさしく決定的なものであり、両者の間には冷戦期のソヴィエトとアメリカを思わせる緊張感がはしっていた。…我ながら実感のこもった喩えでは?
パーシーの監視が時たま入る以外は至って平和で健全であり、僕は期せずして学級運営に成功していた。おまけに杖を生徒の前で振るわなくていい大義名分まで手に入れた。ようやく教師としての無駄な時間が実を結んだが、僕の目的はそんな平和なものではない。
『いいニュースと悪いニュースどっちから聞きたい?』
黒電話越しにBDの低い、空気を震わす声が尋ねる。魔法を使ってるので電話回線と違って音の劣化が少なく、まるで耳元で囁かれているようだった。
本物より優れたまがい物の黒電話でしか通信をしない風変わりなやつ。これは単なる彼の趣味で、マグル製品を改造して好事家に売り払うついでに営業をしている。彼いわく、最もよく売れるのはアンティーク銃。ついでアイロンだった。
アイロン?何を馬鹿なと言いたいところだがマグル製品好きの変人は鉄とネジとギミックが好きで、中でも一風変わった蒸気を吹き出すアイロンはマニアにはたまらないらしい。
「じゃあ悪いニュース」
『近々ダンブルドアがあっちから引き上げる』
「いいニュースは?」
『それはル…旦那に聞いてくれ』
「それじゃあお前は実質悪いニュースしか持ってないじゃないか」
『まあな。ほら。キャッチが入るぜ』
黒電話でウェイティングコールとは魔法は便利だな全く。割り込み音が入り、電話の主が変わった。(純マグル製と勝手が違うのはご愛嬌だ)
『ウラジーミル』
「ルシウス、貴方か。いいニュースは?」
『いいニュースだと?ああ、たしかにその通りだな』
ルシウスの勿体つけた喋り方は癪に障る。手短に、用件を言えばお互い不快な思いをせずに済むっていうのに。
『機は熟した。ついにあの方がご決断なさった』
「やれやれやっとゴーサインか」
『やむを得まい。あの方はお前の働きに疑問を呈していた。あの方はここ最近の小僧の心を読んでようやくお前を信用したのだよ』
「そりゃありがたいね」
『相変わらず無礼だな。5日後、日暮れに』
「ああ」
5日後のタイムテーブルを思い描き、そこから逆算して僕の行動を計画するに、僕はほとんど何もしなくていい。やれることはやりつくしている。
『ヴォーヴァ。ヴォーヴァってば』
「あ?まだ繋いでたのか」
『俺にもいいニュースがあったの忘れててさ。あの棚、直ったよ』
「間違いないか?」
『ばっちり。どうする?テストはいつにする』
「うん。本当にいいニュースだ。仕事が格段に楽になるよ。そうだな…早速明日取り掛かろう」
『はいよ。あ、ゲラートの爺さんが代わってほしいって言ってるけど』
「悪いが採点が残ってるんだ。決行日にまた」
さて、秋から取り組んでいた仕事がようやく実るわけだし酒でも飲もう。スプラウトから貰った自家製オーク酒。創始者のハッフルパフは料理好きだったらしいが、寮監もそうでなければなれないのだろうか。彼女は時折手料理を振る舞ってくれるがどれも美味かった。美味しいですと伝えたら酒をもらった。
なんやかんや、教師生活も悪くなかった。何度か杖を使わないと厳しい状況があったがなんとか乗り切ったしこのままパーシーの独裁体制が続くのなら続けても楽しいかもしれない。5日後のことの成り行き次第ではそれも可能だ。
まあ偶然について考えても仕方がない。大抵のことはケ・セラ・セラ。なるようになるさ。
……
ふくろう試験中、僕は綿密に段取りを復習し、可能な限りの不確定要素を排除した。計画に参加する死喰い人、魔法省内協力者とそれぞれの役割。誰がどういう無茶をするか。腹立たしいことにルシウスのための仕事は今までで一番やりがいを感じられる。
真面目に働くのも今日が最後であればいいが、もし成功したらさらに難易度の高い仕事が待っている。グリンデルバルドを脱獄させた時点でとっくに覚悟していたが改めて思うと、いい住処、いい居場所を追い求めて随分遠いところに来てしまった。どこかで失敗すると思っていた綱渡りだがどういうわけかいつになっても失敗しない。
万が一成功し続けていってしまったら、僕はどうなるのだろうか。片輪が歪んだ車輌では転ばなくてもまっすぐは進めない。確実に訪れる破綻を感じながら、もう15年経つ。それでもまだ僕は平気で息をしている。
終わりはいつ来るんだろうか。僕はレイズし続けている。今まで誰もコールしてくれなかった。僕のゲームはいつも僕だけ。敗者も勝者もいなかった。しかし今回は違う。僕は勝つことも負けることもできるはずだ。
中庭の松明が灯った。構内で一番早く灯る松明。夕暮れを告げる明かりだ。僕は席を立たずに待った。
ヴォルデモートかゴーサインを出したということはポッターはやがてここに来るということだ。僕から探しに行く必要はない。やつはどうやらポッターの心をほとんど見透かしているらしいし、その上慎重で疑い深い。そんなやつの判断ならば確実だろう。
魔法の才能があればマグルの不可能を千は可能にするのに、僕のような哀れな無能を使わなければ水晶玉一つ盗むことができないのだ。いや、むしろそれでも全てが完璧にはならないと考えると、人生という欠けた器を満たす空虚な旅に終わりなどないのだと思わされる。
そんな物思いにふけっていると、外から扉が叩かれた。時計を見て、棚を見て、僕は首を傾げる。
扉を開けてそこにいたのは予想に反してポッターだった。
………
ポッターは息を切らしていた。走っただけでは出ないような汗が首筋にたれていて、ぜぇぜぇ言いながらたどたどしく僕に懇願する。
「暖炉を、貸してください」
「暖炉だって?何があった」
「いいから早く!」
ポッターはドラコを殴ったときと同じような迫力で怒鳴る。おお怖い。僕は眉をひそめて彼を部屋に入れ、落ち着くんだ、とか何があった?とか適切な言葉を投げつける。
「事情を知らないままに緊急時の対応をするわけにはいかないんだよ。説明してくれ」
「僕の、大切な家族が拷問を受けているんです!」
「なぜそんな…」
「夢です!試験中に見たんです!お願いですプロップ先生、この学校で外につながる暖炉はここだけだ」
「はあ…単身箒で飛び出さないだけの理性はあるようだね」
想定外だった。僕の授業のせいかハーマイオニー・グレンジャーの日頃の説得のせいか、彼は一時患っていたプッツン癖を治してしまったらしい。いや、それでもまだ自分へ頼ってくれただけマシか。スネイプやマクゴナガルに駆けつけられていたらすべてが水の泡だった。
予想ではポッターは魔法省へ直行するはずだったが、もちろんルシウスのような狡猾な男がペテンを仕掛けてないわけはない。シリウス・ブラック家のしもべ妖精、クリーチャーだかモンスターだかそんな名前のやつが屋敷の暖炉に主を近付けないようにしているはずだ。そして彼の不在を仄めかすように指示している。(親戚同士で騙しあうなんて因果だねえ)
「でも僕もまた監視されているということを忘れないでくれよ。パーシーに訪問先がバレない時間は一分に満たない」
「それでもいいんです。罰はすべて僕が受けますから…!」
こんなに必死になるポッターを見るのは新鮮だった。僕は2.3秒逡巡するふりをしてから渋々イエスを口にした。ポッターは煙突粉をひったくるやいなや暖炉に頭を突っ込む。僕はそれに耳を傾ける。
「シリウス!」
ポッターの叫びは誰にも届かない。暫くすると彼の背中が不安で震えだし、すぐにびくんと跳ねてしもべ妖精の名を呼んだ。
「クリーチャー!シリウスはどこに?」
数秒の間。ポッターは今度は怒りで震えだす。大声を出し始めたらすぐに辞めさせなければならない。袖をまくると同時にポッターの肺が大きく膨らんだ。
「この人でなし!お前なんかー」
罵倒が完全に終わる前に僕は彼を引っ張り出し、尋常ではないポッターの声に慌てたふりをして肩を揺する。
「どうした。なにがあった?」
「シリウスが…」
事情を知らないという体の僕に漏らすほど彼は動揺していた。怒ったり、恐れたり、震えたり…子供は流れる時間が違うんじゃないかってくらいに動的で忙しない。
「やっぱり魔法省にいる。僕、行かなきゃ…!」
「魔法省だって?」
「あの扉の向こうだ。あいつはずっとシリウスを殺すための計画を考えていたんだ。僕が気付けていれば…!」
「なんてことだ。…ポッター、自分を責めてはいけないよ。それにまだ間に合うかもしれない」
僕は神と如何なる人間をも信じてないが、イヴを誘惑した蛇になったような気分でポッターに語りかけた。
「僕が君を魔法省に連れて行こう。なんてことは無い。ホグズミード村への抜け穴を、君は知っていたね?」