【完結】フーディーニの魔法   作:ようぐそうとほうとふ

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後日談ー二〇一六

 世界は変わった、と父は言った。

 

 空は鈍色だった。

 私はコートの襟を立て荷物を持ち、もう戻ることのないであろう生家を眺めた。

 くすんだ白い壁に風雨で汚れ茶色に変色した赤い屋根の、きわめてオーソドックスな住宅だ。

 屋根の上では雨をたっぷり溜め込んだどす黒い雲が空を覆っていた。今にも中身をぶち撒けそうだ。けれども風は妙に乾いている。別れの日だというのに、なんだか気味の悪い天気だ。

 

 生まれてからずっと、19年間ここで暮らした。嫌な思い出のほうが多いというのにいざ別れというときになって、急に胸に寂しさが込み上げてきた。 

 私は感傷を振り払うように背を向け、歩きだした。もうすぐバスが来てしまう。

 

 バス停につくとすぐに目的のバスが来た。私は前方に杖をあてがい、乗り込んだ。一等市民席はガラガラだった。後部の二等市民席にはくすんだ色をした作業着の男性が四、五人ほど膝を突き合わせて乗っていた。

 彼らは決して私と目を合わせようとしなかった。かわりに若干緊張をはらんだ声色で何かをヒソヒソと話している。私はそれを不快には思わない。公共交通機関ではごく当たり前のことだ。彼らは私が戯れに魔法をかけて彼らをヒキガエルにしやしまいかおそれている。

 そう、私と彼らは同じヒトの形をしているが全く違う生き物だ。

 一等市民、二等市民という名称がついているが、要するに魔法が使えるか使えないかという区別なのだ。

 

 19年前、世界は変わった。

 

 ヴォルデモートと名乗る闇の魔法使いが引き起こしたマグルとの戦争で大勢の魔法使いが死んだ。その何十倍もの数のマグルも死んだ。

 世界が終わるかと思った、と母は言った。

 だがその時、ついに魔法使いは立ち上がった。イギリス魔法省を筆頭に各国魔法省は機密保持法を撤廃し、マグルの戦争を無理やり終結させたのだ。

 当時の国際魔法協力部の長ウラジーミル・プロップの手腕によりヨーロッパで起きていたマグルとの戦争は迅速に収束し、マグルの政府を乗っ取って魔法使いによる支配機構が完成した。

 

 そしてこの素晴らしい、魔法使いが堂々と歩ける社会が始まったのだ。

 私は自分の胸についたバッジを指で撫でた。魔法省の職員であることを示す“M”のバッジ。この社会に最大の貢献をする市民の証だ。

 

 魔法省に入るにはいくつもの難関試験をくぐり抜ける必要がある。昔(新世界になる前、マグルが我が物顔で表を歩いていた時代)では、コネと血筋の良さがまずあって、魔法使いとしての技量は一部の役職を除き重視されていなかった。

 しかし今は実力のみが重視される時代だ。たとえマグル生まれでも魔法使いとして優秀ならば出世できる。純血でも愚鈍ならば、マグルの仕事場の現場監督くらいしかなることができない。

 魔法学校の組分けは成績によって行われるようになった。試験全ては記録され、管理され、素行はすべて屋敷しもべ妖精により監視されている。七年の教育課程を受け、優秀で認められたものだけが1年間にわたり行われる入省試験に挑めるのだ。

 

 そして私はすべての試験を突破し、国際魔法協力部へ配属されることが決まった。

 新人研修はフェノスカンジア魔法統合体管轄の施設で行われる。私のキャリアはそこから始まる。

 

 

 バスが目的地に到着した。私は降りて、港の客船乗車口へ急ぐ。公共の場ではあらゆる場所で杖の提示が必要だ。私が杖を掲げゲートに触れると、守衛が愛想よく微笑んだ。私の胸に掲げるバッジがわかったのだろう。私は誇らしい気持ちになって微笑み返した。

 

 杖一本一本は魔法省のデータベースに登録されており、通行履歴や使用履歴が蓄積されていく。一等市民ならばほとんどの公共サービスを杖の提示のみで受けられる。

 マグル(つまり二等市民)は杖をかかげる代わりに金を払う。貨幣文化はどうやってもマグルと切り離すことができなかった。第一、際限なく増えて減ってくマグルたち全員を私達のように杖ごとに管理するなどリソースの無駄遣いだ。

 

 手つづきを済ませ、待合席に座った。

 壁には大きなテレビがかけてあり、ニュースを伝えている。

 

『ウラジーミル・プロップ氏逝去』

 

 連日報じられているお決まりのニュースだった。

 一週間前、革命の立役者にして今の社会の礎を作ったウラジーミル・プロップが死んだのだ。三年ほど前から政界から退いていたとはいえ、大物の訃報はメディアを哀悼一色に塗り替えた。

 現大臣パーシー・ウィーズリーの涙ぐましい演説。これももう何度聞いたことか。私はいい加減うんざりしていたのだが、間違ってもそんなことは口に出さない。

 

 テレビの画面の中にウラジーミルの唯一の肉親、アレクセイ・プロップが映り込んでいた。彼は父親を殺しアズカバンに服役していたらしい。

 元犯罪者ということもありこれまで公の場に出ては来なかったが、さすがに弟の葬式には顔を出さざるを得なかったようだ。しかしそのような過去に配慮してか、カメラは彼をズームにはせず、ただ棺に寄り添う姿を遠景でとらえるのみにとどまっている。

 アレクセイはウラジーミルと双子だった。棺に入ったウラジーミルを見て、自分がいるような気分になったりしないのだろうか。

 

 汽笛の音が聞こえた。船が来たらしい。

 

 他の乗客がまばらに立ち上がり、乗船口に並び始めた。急いだってしょうがないので私はもう少しだけテレビを眺めることにした。

 ウラジーミル・プロップの功績。惜しむ声。渡英してからの苦労と努力に、悲しい生い立ち。エンターテイメントとしてはいささか出来すぎているように思えた。

 技術省の責任者、ブルック・ドゥンビアがインタビューに答えていた。彼はマグル製品を魔法で使えるようにして社会に貢献した技術者で、今も官僚をやる傍らでマグルの科学者とともに月へ行こうとしているらしい。

 

「私は彼から多くを学び、そして多くを教えたと思うね。ああ、彼とは親友だった。まあ彼に聞けば仲のいい他人だと言われるだろうがね。悪巧みもたくさんしたよ。とても、とても楽しかった。…彼ももう、休んでいいだろう」

 

 CMに入った。私は席を立ち、船に乗り込んだ。

 船はとても古く錆びついていた。もはや錆色で塗られたのではないかと思うほどだ。

 客室は一等市民と二等市民で明確に席の分けられていないものだった。一番早い船はこれしかなかった。

 もっとも客はまばらなのでたいしてストレスは感じない。どうせ二等市民は一等市民に近寄りたがらないのだから。

 私は飛行機は嫌いなので海で大陸に渡った後陸路で任地へ向かう。およそ17時間の船旅だ。私は一等市民用の個室に荷物を置いてからデッキに出た。

 海に出ても延々曇り空が続いていた。風は潮の香りと湿気でべたつく。

 

 ブリテン島はとっくに水平線にしずんでいた。

 イギリスに戻れるのは早くても半年後。辞令によっては他国の領事館に三年は従事することになる。

 私は、できればここには戻ってきたくない。

 そうやって感傷にぼんやりと浸りながら海を眺めておると太陽も沈み、海はどんどん真っ黒な闇に包まれていった。

 

 ふと周りを見た。5メートルほど向こうで黒いコートを着た男が私と同じように水平線を眺めていた。デッキには私と男以外誰もいなかった。

 ふいに頬を雨粒が濡らした。ついに降り出したらしい。雨はあっという間に足を早め、海風と共にデッキに振り付けた。 

 

「濡れますよ」

 

 私は思わず男に声をかけた。男は私に気づき、こちらを向いた。メガネをかけていて、ぱっと見の印象よりもずいぶん老けていた。なぜかどこかで見た顔だなと思った。

 男はくたびれた様子をしていた。枯れ草色の髪はオールバックにするよう撫で付けられているが、何本か毛束がこぼれて額にかかっている。目元に刻まれたシワは深く、苦労を感じさせられた。よく見ると顎から頬にかけて古傷があり、それを隠すかのように無精ひげが生えていた。しかしそれでも不思議と二等市民のような下品さは感じない。

 

「僕が海に出るといつもこういう冷たい雨が降る」

 

 男はほとんど独り言のように呟いた。私は返事をするべきか迷った。

 

「冷えるので、中にはいったほうがよろしいですよ」

「あなたのおっしゃる通りだ。さて…」

 

 男は胸ポケットから小さな銀色に光るものを取り出し、海に投げ捨てた。私がそれがなにかたずねる前に、男ははにかみながら言った。

 

「不法投棄にはならないだろ?」

「ええ…」

 

 男と私は船内に入り、デッキを眺めることのできる大きな椅子に座った。

 

「何を捨てたんです?」

「義理さ」

 

 私は年にふつりあいな気障ったらしいセリフに思わず男を凝視してしまった。男はちょっと照れるように苦笑いした。

 

「ばかみたいに聞こえるが、本当なんだ」

「何かのバッジに見えましたが」

「そう。職業バッジ。もうあの国には戻らないから、必要ない」

「移住ですか?」

「というよりかは帰郷だね。その前に野暮用があって、ヌルメンガード城に行かなきゃならないんだ」

「奇遇ですね、私はヌルメンガードの近くの研修施設に向かう予定でして」

「となると君は魔法省のエリートか。ああ、道理で素敵なバッジをしていると思った」

 

 私はホッとした。私が誰でどんな努力を積み重ねてきたか、このバッジを見ればすぐにわかってもらえる。尊敬してもらえる。

 

「それにしても、ポートキーを使えば一瞬なのに船旅とは物好きだね」

「確かにそうですね。でも私には…なんというか、時間が必要だったんです。今までの自分とわかれる時間というか」

 

 妙に話しやすい男だった。赤の他人だから気楽と言うのもあるのだろうけど、なんとか彼の興味を引きたいと思わせる雰囲気がある。魅力、と言えばいいのだろうか。

「じゃあ僕と同じだ。僕も移動時間でこれまでの人生を振り返るつもりだったから」

「私、お邪魔でしたか?」

「いいや。振り返ってみたら全然大したことなかったんだ。島が見えなくなる頃には全部済んでしまったよ」

「そんなことありますか?」

「ああ。人生そんなもんさ」

 

 私にはそうは思えなかった。私の感じてきた苦しみ、悲しみ、喜び、たった19年でこんなにも胸を一杯にするのに。

 

「僕は年を取ったからそう言えるだけだがね」

 

 男はそう言って黙った。私たちは二、三当たり障りのない世間話を交わした。彼はとても知性を感じさせる話し方で、なんとなく偉い立場にいた人なんじゃないかと思った。

 けれどもお互い名は尋ねなかった。少なくとも私はそれも旅の醍醐味のような気がしたからだ。

 

 男が個室に戻るというので、私も途中まで一緒に行こうとした。しかし男が向かおうとしたのは階下の二等市民用の個室だった。

 

「失礼ですがあなたは一等市民ではないのですか?」

「ああ、違うよ。ほら」

 私が尋ねると男はコートの下にさした杖を見せた。

「ではなぜ二等市民用の部屋を?」

「自由だからさ」

 私は男が何を言っているのかよくわからなくて聞き返した。

「自由?二等市民は魔法が使えません。仕事も学業も選択肢は狭いですし、移動や食事、住処だってなんだって貨幣がなければどうしようもならないんですよ?」

 

 私の疑問に男はやけにウケたらしい。くくっと笑って答えた。

 

「逆だ。金さえ払えば誰にも行方を知られずにどこにだって行ける。自由だ。それに選択肢の話をするならば君だって何も選べていないだろう」

 

 男はそう言い捨てて、下へ降りていった。

 私はあの杖が偽物なんじゃないかとも思ったが、二等市民がそんな危険を犯すとは思えない。

 二等市民の立場は弱いのだ。私達が少しでも気に入らなければ彼らを甚振ることができる。(しかも私達は大した罰をくらわない)

 私達が彼らを絶滅させないのは、私達がやりたくないことを彼らにやらせるためだ。社会を成り立たせるために必要な土台、それを支える彼ら。彼らは私達同様社会の一員で大切な歯車なのだから。

 けれども、換えはある。誰もいらない部品にはなりたくない。

 

 私は自分の部屋に戻り、用意していた弁当を食べた。そしてベッドに寝転がり、あの男のことを考えるのはやめようと決めた。

 

 持ってきた資料を読み返したりアルバムを眺めたりしながら、私は今までの人生を振り返った。

 四人家族。私と弟がまだ小さい頃に建てられた小さな庭付きの家。まだ一等市民、二等市民という明確な区別がついていない時期だった。

 旧時代のようにマグルに紛れてこっそりと暮らそうとしていた魔法使いの父と、マグルの母親。(私の世代だとこの身分違いの恋で生まれた子供は多い。しかし制度が決まってからはほとんどが魔法使い同士で結婚するようになった)

 私が初めて魔法を使った日のことをよく覚えている。両親は安心して泣いていた。

 私が家をたつとき二人がいたら、一体どんな顔をしていたのだろう。

 

 

 汽笛で目が覚めた。どうやら眠りこけてしまったらしい。来たときと反対側のデッキに出ると他の乗客が水平線にかすかに見える島を見てわいわいと話している。

 私は売店でパンを手に入れ、個室で身支度をしながらそれを食べた。

 やはりあちらよりも肌寒い。

 

 港に降り立って、自分のコートがいささか薄手だったと気づく。もっとも杖をひとふりすれば防寒はできるのだが。

 

「やあ。人生の振り返りは終わったかい」

 

 声をかけられて振り返ると、昨日の妙な男が立っていた。荷物はなく、磁器製の壺を抱えている。

 そうだった。彼は私と行き先が同じなのだからどうやったってまた会う羽目になるのだった。

 

「まだ終わっていません」

「ここからバス?」

「そのつもりです」

「僕はタクシーをとってるんだけど、よかったら一緒にどうだい」

 

 私は時刻表を見た。次のバスが来るまでなんと三時間もある。船が早くつきすぎたのだ。

 私はしばし悩んだ。一等市民だと言い張る謎の男についていくのは危険ではなかろうか。

 しかしこの男に覚える妙な既視感と好奇心は無視し難い。

 男はこちらを見つめていた。その眼差しを受け、私はようやく彼をどこで見たのか思い出した。

 

「…ご一緒させてもらっていいですか」

「もちろん。さっき呼んだからもう来るよ」

 

 すぐに車がやってきた。普通の乗用車の屋根に空きを知らせる小さなランプがついている二等市民向けの個人タクシーだ。

 

「ここから長いよ。休憩が欲しくなったら言ってくれ」

「はい」

 

 私は男の隣に乗り込んだ。運転手はろくに挨拶もせず乱暴にアクセルを踏んだ。

 港の周りは殺風景なコンクリートと枯れ草で覆われていた。しばらくすると森があり、チラホラと繁華街らしき建物が木々の隙間から見えた。どうやら大通りを外れた道を行くつもりらしい。

 

「昨日、私は何も選べてない…とおっしゃいましたね。それはどういう意味でしょう」

「そのままの意味だが…」

「私は自分で選んで、このバッジを勝ち取ったのです。魔法族の社会への最大の奉仕者になりたくてなったんです」

「どうしてそんなに必死なんだい」

「必死ですって?」

「君の言い方はまるで失敗をごまかそうとする子供みたいだ」

「失礼ですよ。いくらあなたが…歳上でも」

「後ろめたいことがあるんだね」

 

 私は黙った。今までそんなことを言ってくる人はいなかった。学校では誰もが善き市民として“選ばれるため”に他人の事情にわざわざ突っ込もうとしなかったし、人間関係には成績がそのまま反映された。

 魔法使い。あり得べき最善のヒトの姿。

 

「別に、僕は君の面接官でも先生でもない。だがおせっかいを承知で言うが、君の抱えるその感情は適切に処置しないと将来重荷になるだろうね」

「どうしてそんなことがわかるんですか?」

「僕がそうだったからさ。君は故郷を捨てるつもりで船に乗ったんだろう?」

 

 私はこの男に何もかも見透かされているような気持ちになった。どうしてそこまでわかるのだろう。

 私がデッキに出て、彼を見つけたときに感じたシンパシーと同じものを彼も感じていたのだろうか。

 

「でも君は捨てきれてない。だから僕とタクシーに乗ったんだ。君は心のどこかで、聞き手を欲しているんだ」

 

 私は反論できなかった。彼の言葉は私の本心を的確に言葉にしているように思われた。

 

「…確かに私は、もう家に帰るつもりはありません。何もかも捨て去りたい。でも…家にはまだ、家族がいる」

「ご両親?」

「いいえ、弟です」

 

 話し始めた途端、胸がぎゅっと痛むのを感じた。

 弟。

 私が捨てていこうとしているもの。

 

「弟は二等市民なんです」

 

 初めて家族以外の他人に告白した。多分今の私は顔が真っ赤になっているのだろう。やけに車内が暑い気がする。

「…べつに、そこまで珍しいことでもないよ」

「それだけじゃないんです。弟は、その…影で悪い事をしているみたいで」

「悪い事ね」

 私はちらりと男の方を見た。男はこちらをじっと見ている。口元にはほんの少し、挑発的な笑みを浮かべている。どうやら私の小賢しい誤魔化しなんて見抜いているようだった。

 

「不法移民を手引きをしていました。ほかにも多分暴力や、薬物取引なんかも。私は…証拠を掴んでいました」

「それを握り潰したんだね」

「ええ。二等市民の犯罪は、重罪でない限り彼ら同士で裁きます。一等市民である私が証拠を握りつぶすのは、なんの罪にも問われない行為です」

「わかってるよ」

「他にもいろいろ、弟の愚かな行いを隠匿する手助けをしました。けれどももう…嫌だったんです」

 

 忘れもしない、私が首席に指名された17歳の夏。母は私を抱きしめて褒めた。自分が二等市民だから苦労させていたのではないかと、いつも悔いていた。父が亡くなってからずっと家を守ってきた立派な女性だった。

 

「弟はどうしようもないマグルです。魔法が使えないのはお前のせいだと同じマグルの母親を殴りました。私は一年の大半をホグワーツで過ごしていたので、現場は見ていません。けれども最後に見た母の背中はあざで真っ黒になっていました」

 

 私は抱きしめた母の襟元の下にあざがあるのを見た。いいや。もっと昔から、それに気付いていた。

 

「最後に母のいる家に泊まった日も、弟は母を殴っていました。けれども私は、それを無視した」

 

 母のことは愛していた。けれども、弟と母の間に充満する暴力の雰囲気は見ないふりをし続けていた。

 魔法使いはそんな淫らな気配を醸したりしない。暴力とは、悪とは、マグルのみが持つ悪徳なのだ。私はそれに近づきたくなかったのだ。かれらの野蛮に向き合うなんてまっぴらだ。だから私は逃げるように学校へ帰った。

 

「私は一週間後、寮の談話室で母の訃報を聞きました。過失にせよ故意にせよ、私には弟がやったのだという確信がありました。でも私は休暇が来るまで帰りませんでした。内申に響きますから」

 

 母はとっくに墓に埋められていて、弟は家を空けていた。二等市民の事故死なんてまともに調査されない。だって彼らは替えのきく部品だから。

 私は母の墓前にすら行かなかった。ただただ、やるせなさで動けなかった。

 

「そして、それからずっと私は家族というものから逃げている」

「なるほど。君はまだ逃避の途中なわけか」

 

 私の告白に、男はどんな顔をしていたのだろう。ただ、声は優しかった。私は自分の膝を見つめていた。ピクリとも動けなかった。

 

「君と似た悩みを持つ人を知っているよ。まあ諸々逆なんだが。いい方法がある」

 

 私の手に、男の手が重なった。やけに綺麗な手だった。

 

「君の弟が母親にしたのと同じようにすればいい。ただし杖は使わずに、その手で」

 

「え…」

「君たち魔法使いは杖に頼りすぎだ。人間なんてものは硬いもので頭を殴れば簡単に死ぬんだから。杖を使えばすべてが当局に記録される。逆に言えば、使わなければなんでもできるだろう。マグル同士の殺し合いに法廷が余計な人員を裂くわけない。ちょっと工夫すれば捕まらない。君の弟みたいにね」

 

 私は思わず、まじまじと男を見つめてしまった。

 ああ、やはりそうだ。メガネや髪型でかなり雰囲気が変わっているけど、彼は…。

 

「銃は19年前から入手しづらいから、ナイフがいいだろう。刺したら必ず抜くんだ。五箇所は刺したほうがいいね。男女の体格差は不安だろうから、寝てる顔面に枕を押し付けて素早くやるといい。泥棒に見せかけるんだ」

「…そんな…野蛮なこと…」

「野蛮?」

 

 男は笑った。

 

「それが人間だ」

 

 

 

 ヌルメンガード城は再建され、今は単なる記念碑と同じようにそこに佇んでいる。法律区分的には自由に入れる史跡にあたるが、牢獄として使われるような立地だ。物好きな観光客以外来やしない。

 

 私は彼に付き合うことにした。施設に伝えた到着時間までかなり時間があったし、彼がヌルメンガードにどんな用事があるのか興味があったからだ。

 

より大きな善の為に(For the greater good)

 

 門柱に刻まれた文字はホコリがたくさん詰まってて潰れている。

 

 監視員もおそらく二等市民だ。(フェノスカンジアでの呼び方は確か単に市民だったか)門のそばに建てられた小さな小屋から私達の顔をちらりと見ただけでテレビに視線を戻した。

「まったく、何も学んじゃいないな」

 男はそれを見てひねくれた笑みを浮かべた。城内に入って中央にある螺旋階段を登った。私は無言で男についていった。

 最上階にはゲラート・グリンデルバルドがいた牢屋がある。もちろん当時の再現にすぎないので誰でも入ることができるし、汚れた風の塗装はされてるがどこか真新しい。

 ゲラート・グリンデルバルドは脱獄後ずっと行方不明のままだ。戦争で死んだとも、僻地で畑を耕しているとも言われてるが、どちらにせよもうかなりの高齢だ。また昔のように各地を扇動して回るようなことはないだろう。

 それにもう世界を焚き付ける必要なんてない。きっと今の時代はグリンデルバルドの望む世界だ。

 

 男は最上階につくと迷わず鉄格子の中に入った。そしてずっと抱えていた陶器のつぼを開け、ひっくり返した。中から灰がドサッと落ちて、あたりにふわりと漂った。

 

「それ…遺灰ですか?」

「ああ。死んだらここに撒いてやろうって決めてたんだ。もう邪魔されたくないからね」

 私は彼が何を言いたいのか、よくわからなかった。ここに骨をまかれるべき人は一人しかいない。それを彼が持ってる理由。それを尋ねたくてたまらなくなった。

 

「…あの」

「ん?」

 

 男は笑みを携えていた。こんな薄暗い牢獄で遺骨を撒いて、微笑んでいた。

 こんなに穏やかなのに死を感じさせる笑顔は見たことがなかった。

 

 私は疑問を投げかけるのをやめて、首を振った。

 

「私はもう行きます。ここまで乗せてくれてありがとうございました」

「僕こそ付き合ってくれてありがとう」

 

 私は背を向けて、階段へ向かった。

 

 

「…さようなら。アレクセイ・プロップさん」

 

 私のつぶやきに、背後からいたずらっぽい声がかかった。

 

「惜しい」

 

 私は振り返らなかった。

 

 

 施設に付き、部屋に通された。四人部屋は二段ベッドで、しかもベッドが近すぎて、ホグワーツの寝室のほうがまだプライバシーが守られているなと苦笑いした。

 けれどもきっと隣人は優しく、善良だ。私もきっとそう振る舞うだろう。それが、この社会に求められる魔法使いのあるべき姿だから。

 素晴らしい新世界、そしてそこから皮一枚隔てただけの、暴力と悪徳の旧世界。私とその世界を繋ぐ弟という呪い。

 

 男の言っていたことを反芻した。

 

 魔法使いの社会では暴力は、秩序を乱すことは許されない。同胞へ力を振るうことは何よりも許しがたい犯罪だ。けれども、マグルに対しては違う。

 

 私は簡単に弟を殺すことができる。

 

 そう思うだけでもずいぶん楽になった。

 

 仕事終わりに杖を置き、ナイフを寝てる弟の首に突き刺す。

 すぐに抜き、もう一度。

 指紋を残さないようにしてから家を荒らし偽装して、その場を立ち去ればいい。

 家の周りには誰もいない。夜風に当たりながら、返り血を浴びた服をドラム缶で燃やす。証拠のナイフは川に捨てて、翌朝何気ない顔でまた職場に顔を出す。

 

 すべてがうまく行くように思えた。

 また家に帰れるような気がした。

 

 私はノックの音にこたえ、これから半年間共に過ごす同僚ににこやかに挨拶し握手をかわした。なんて白々しいのだろう。

 けれどもこの同僚も弟と同じだ。

 魔法使いだってナイフ一本で簡単に殺せる。殺意を持つだけですべてのことがなんてことないように思えた。

 

 私はきっと、ちゃんとイギリスに帰れる。そしてマーケットでナイフを買って、あの家のドアを開ける。

 研ぎ澄ます。

 私の中のマグルの血でできた殺意の刃を。

 暴力を。

 ただいまを言うその日まで。

 

 


 

 

 

 世界は変わらない。

 

 19年経ってもちっともよくなっちゃいない。マシになったことといえば銃と弾薬が製造されなくなったことくらいだろうか。

 ゲラートの作り上げた新世界。魔法使いとマグルが共生する素晴らしい社会。両者の圧倒的な力の差異により両者は明確に分断された。分断は差別と偏見をもたらし、秩序を作り出す構造となった。

 けれども魔法使いたちはその構造に支配される。秩序、善性。戦争の生々しい傷跡を見るたびに何度も何度も刷り込まれる“魔法使いは善なるもの”という嘘っぱち。

 それをバカ正直に飲み込んで、自分たちは全体への奉仕者であるという自己満足に隷属する。恐怖はその輪から外れること。杖をおられて、虐げてきた人々の中へ蹴落とされること。

 バカバカしい。そして、相応しい。

 

 僕は雪を踏みしめて進む。僕が育った家。今は廃墟同然の屋敷跡は18年前に買い取ったまま手を付けていない。

 ほとんど朽ちかけてはいるが、まだ家としての形は保っている。窓ガラスは窓枠ごと壊れてるし、壁も崩れているが雪は凌げそうだ。

 僕は倒れていた椅子を起こす。それに腰掛け、やっと一息ついた。

 

 ポケットの中に入れていた拳銃をだした。マグルが持つ中で唯一魔法使いを即死に至らしめる武器。19年間大切にしまっていた僕の最後の狂気。

 

 弾丸は一発しかない。

 弾を詰めて、引き金に指をかけた。

 

 一息ついて、天井を見上げる。

 ゲラートは死んだ。ウラジーミル・プロップは結局最後まで返してもらえなかった。

 でもそれでいい。それがいいんだ。

 彼の骨は牢屋に撒いたから、これで間違っても誰かに邪魔されることはない。僕の犯した唯一の失敗は彼を牢屋から出したことだ。これで全てがチャラになる。

 

 僕もすっかり老いてしまった。もう立派なおじさんだ。醜い。なんて醜い生だろう。

 ゲラート、君のために醜さを耐えてきた。けれどももう義理も果たしただろう。

 

 銃口をこめかみに当てた。リボルバーではないから、引き金を引けば走馬灯を見る暇なく終わる。

 

 もう一度、人生を振り返ろうとした。

 ああでもやっぱり、地獄に持ってくほどの思い出なんて一欠片もない。

 

 僕の脳漿はかつて家族で囲んだ食卓の残骸に飛び散って、腐る前に凍りつくだろう。雪が溶ければ黒ずんだ染みとなって、もうそこかしこの汚れと対して区別がつかなくなる。

 僕の死体も同様に、微生物から狐まであらゆる生き物に食い散らかされてこの世界から消え去る。

 

 それのなんと美しいことか。

 

 指に力を込めた。

 

 そして僕は、

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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