スザクにギアスをかけてしまったことは計算外だが他は予定の範囲内で済んだと言えるだろう。
黒の騎士団本部へ戻ったらすぐにフロートシステムの解析を行うよう手筈を整えて、あとはあのオレンジについて情報を集めなければならない。
それとこのナリタ攻防戦が終われば日本解放戦線は崩壊する可能性が高い。そうなればキョウトから使者が送られてくるだろう。その対応もしなければ。
ルルーシュはこれからすべきことを脳内で羅列しながら胸を晒したC.C.の傷口を眺めていた。手には圧迫止血したために真っ赤に染まった布を持っている。
KGFに銃撃されて風穴が空いていた筈の胸には今やピンク色の肉芽組織が見え隠れするばかりになった。完璧とは言えないが大凡の傷が埋まり、出血も止まっている。
C.C.が不老不死だと知ってはいた。しかしこうして普通の人間であれば即死していて当然の傷が治る現実を見るとコードという存在の不可思議さに背筋が震える。全くもって得体の知れない力だ。
「クロヴィスの残した報告書通り傷の再生スピードが普通じゃないな。血液サンプルは回収しておくとして、傷口を撮影しておくか……」
写真を撮影するためにごろんとC.C.の細い体躯を丸太のように転がす。起きる様子は無い。傷事態は既に治っているのだが出血があまりに多かったらしい。
転がした際に砂利で汚れた傷口を湿らせた布で拭く。
すぐに傷が治るのならば傷を洗おうが包帯を巻こうが意味は無いかもしれない。しかしただ眺めているにはC.C.の傷はあまりに痛々しかった。華奢な肢体は多量の出血のせいで青白く変色している。傷口には皮膚の無い肉が盛り上がり内臓を晒しているようにも見えた。
「ん……」
呻くばかりだったC.C.の口から微かに明確な言葉が出てきて傷を洗う手を止める。繰り返し呟かれる単語は人の名前のようだった。小さな呟きにルルーシュはC.C.の口元に耳を近づけた。
「———」
掠れるような声だった。しかしその声はしっかりとルルーシュに届いた。
C.C.はうっすらと眼を見開いて普段よりも幼げな顔で微笑む。天邪鬼な笑みしか知らないルルーシュはあまりに純真なC.C.の笑顔に虚を突かれて思わず見惚れた。
「……やっと呼んでくれたね、私の名前」
夢心地なのか、C.C.にはルルーシュの姿が見えていないようだった。
心底安心した顔とねだる様に甘える口調は初めて聞くものであり、恋人や配偶者に向けるような熱を帯びていた。自分を恋人とでも見間違えたのだろうか。
長い年月を生きてきたであろうC.C.にこれまで恋人や夫がいた時期があったとしても不思議ではない。しかし普段の人を食ったような言動のせいでルルーシュには彼女が誰かと寄り添って生きている場面を想像することすら困難だった。
しかしそれも当然か。
彼女は不老不死だ。C.C.に恋人がいたことがあるというのは、恋人と死に別れたことがあるという事実に直結している。もしかすると彼女はこれまでの人生で幾度も、恋人や夫、他にも愛する人の死と直面したことがあるのかもしれない。
自分はジェレミアが死んだ一度だけで復讐のために黒の騎士団を立ち上げる程に激怒した。理性で抑え込めない程にとんでもなく悲しく、怒りが無限に湧いて出てきた。
それが幾度もとなるとどれ程に辛いのか想像もできない。C.C.の人を遠ざけようとする飄々とした態度の理由の一端をルルーシュは垣間見たような気がした。
傷口を洗って布を巻いている間にC.C.は眼を覚ました。
C.C.は琥珀色の目をぱちりと開くなり上体を起こして薄暗い洞窟をきょろきょろを見回した。すぐ傍ににルルーシュが座っていることを認めて眠気を取り払うように瞬きを繰り返す。
「起きたか」
「ああ。ここはどこだ」
「ナリタ連山にある洞窟の一つだ。ここならば追手も来ないだろう。痛みはあるか?」
「無い」
C.C.は包帯を巻いてある胸元を見下ろして苦笑と共に首を振った。
「手当など私には必要無いぞ」
「そうらしいな」
「だから助ける意味なんて無かったんだ。お前はいつもつまらんところでプライドに拘る」
人を小馬鹿にしているな口調だが今はそれ以上にC.C.の自身を蔑ろにする言動が目についた。不老不死でも痛みものは痛いだろうに。
しかしそう率直に指摘するとせせら笑って否定するのだろう。素直でない女に意趣返しをするべくルルーシュはC.C.の耳元に口を寄せた。
「だが、おかげでいいことを知ったよ」
限りなく囁くような小さな声はC.C.の鼓膜を確かに揺らした。
「————」
C.C.は眼を見開いてのけ反った。珍しく動揺しているC.C.の顔をルルーシュは満足気に眺めた。この天邪鬼で素直さに欠ける女にしては美しい名前だ。
忌々し気に歪められた顔に向かってせせら笑う。
「趣味が悪いな、盗み聞きだなんて」
「いい名前じゃないか。C.C.よりずっと人間らしい」
「馬鹿馬鹿しい。私に人間らしさなど———どうせ、私は……私には、」
胸の奥底から息を吐いてC.C.は唇を噛みしめる。
ルルーシュは名前を捨てなかった。強くあるためだと彼女は言った。
C.C.は過去を背負うのが嫌で名前を捨てた。しかし背負っていたものは、大事なものだった。大事なものだと気づくのは、いつだって捨ててからだった。でも一度捨てたものを今更拾い上げるなんて土台無理な話だった。
そうして自分はC.C.になった。過去の無い女。ただの記号でしかない存在。コードを運ぶ魔女。それで十分。
魔女になる前の自分の名前はもう相応しくない。人間ではなくなってしまった自分とは関係の無いものだ。だから捨てたのだ。生きて行く上で必要のないものだと判断したから。
だというのに、こんな奴に一度呼ばれただけで胸が痛くなる。捨てたことを後悔しそうになる。
人間であった時の事。孤独でなかった時。人の温もり。優しさ。労わり。そういった、愛と呼ばわれるべきもの。いらないと判断して捨てた、全ての温かいものたち。
優しいシスター。そして自分を愛した多くの人々。
「———忘れたんだ、全部。何もかも。今更名前なんて……名前なんて」
唇を噛みしめてC.C.は耐えよう、耐えようと顔を歪めた。しかしとうとうぽたぽたと涙が落ちる。涙はバケツに限界まで溜められた水がとうとう溢れて少しずつ零れるようだった。体を小さく丸めて固い地面の上に水たまりを作る。
その光景をルルーシュは美しいと思った。
C.C.はずっと一人で耐えてきた。名前を呼ばれるだけで泣きたくなる程に酷い孤独をたった一人で耐えた。とてつもなく長い年月を。彼女は強い。
そして今、強い彼女は涙を流して弱さを曝け出している。
ルルーシュは泣かせてしまった心苦しさからC.C.から目を逸らすも、あまりの美しさに頬を赤らめていた。
これまで出会った女性の中でマリアンヌが最も美しいと思っていた。しかしC.C.はマリアンヌより美しいかもしれない。強い女が見せる弱い一面は胸が締め付けられるように美しかった。
すすり泣くC.C.のしゃくり声だけが洞窟の中に反響し、ルルーシュはきまりが悪そうに頭を掻いた。
「その、C.C.……いい機会だから言っておく」
C.C.に負けず劣らず自分も素直でない自覚はある。そう簡単に素直になれる程能天気な人生を送っていないのだからしょうがない。
だがこういった時に素直になれない性分は厄介だ。ルルーシュは小さく咳払いをした。
「………さっきは、助かった。今までもそうだ。ギアスのことも。だから、一度しか言わないぞ………」
ルルーシュはC.C.を見据えて小さく口を開いた。
「ありがとう」
C.C.は零れる程に大きく目を見開いた。その衝撃で目じりから涙が弾く。
この美しい少女、もしくは少年は、自分に礼を言ったのか。
こんな自分に。
真っすぐに自分を見るルルーシュの瞳を見返してC.C.はぱっと立ち上がった。衝動のままルルーシュに駆け寄って首に抱き縋る。温かい。頬を淡く染めた、あまりにも整った顔立ちをC.C.はうっそりと眺めた。
濡れるような小さな音を立てて唇が合わさる。ルルーシュの唇は柔らかくて甘い匂いがした。
C.C.はゆっくりと唇を離して額をルルーシュの胸元に擦り付けた。
「もう一度、呼べ」
「は?」
「名前だ。もう一度。大切に、優しく心を込めて」
唇に残る温かい感触に動揺していたルルーシュは呆然としたまま彼女の名前を口にした。
「———」
ふふ、とC.C.は笑い、首を振った。
ルルーシュに縋っていた手を離す。眼にはもう涙は無かった。
もう涙を流す必要は無かった。捨ててしまった温かいものは戻らない。しかしこの子供は捨ててしまったものを埋めてしまう程に温かい。
遠い昔に過去と共に捨てた名前をこの未熟で温かい子供が知っているということは、とても素晴らしい事なのかもしれない。
果てない道を素足で歩くような孤独がほんの少しだけ和らぐような気がした。
「駄目だな、全然駄目だ。優しさが足りない。素直さと労わりの心も。発音も怪しいし、何より暖かみに欠ける」
「っ、我儘な女だ」
C.C.はにやりと普段のように憎らしい顔で微笑んだ。
強気で、傲慢で、我儘で、しかし憎めない。いつものC.C.がそこにいた。
「お前に一ついいことを教えてやろう。女はちょっとぐらい我儘な方が美しいんだ。参考にしておくんだな、小娘」
「誰が小娘だ」
「お前はまだ小娘さ。愛の何たるかも知らん」
先ほどまでのしおらしい様子から一変してC.C.は上機嫌でひょいひょいと洞窟の出口に向かって歩き始めた。足取りは軽く鼻歌さえ歌い出しそうな様子だった。
その後をルルーシュは追った。現在の戦線の位置からするにこの周囲に敵はいない。洞窟から出て黒の騎士団に合流するのならば良いタイミングだ。
唇を指でなぞる。女性の柔らかい唇の感触に気恥ずかしさで頬が紅潮しているのが自分でも分かる。さっさと治まれと頬を揉む。
気分屋のC.C.のことだからどうせあのキスにも大した意味は無かったのだろう。そもそも身体的には同性なのだから挨拶の感覚だったのかもしれない。
だから一々恥ずかしがる方が馬鹿だ。何より、キス程度で動揺するなんてなんだか情けない。
「俺は家族を愛しているが」
「それはまた別だ」
先を歩くC.C.に付いて行きながらルルーシュは確かにナナリーに向ける愛は家族愛だろうと思った。ジェレミアに対しても同様で、家族愛と親愛が混ぜ合わさったものだろう。ナナリーとジェレミアから向けられる愛もそういった類のものに近い。
しかしそれも愛には違いない。
二度とは戻らない、かけがえのない愛だった。
「いや、知っているさ」
眼を伏せて悲し気に微笑むルルーシュにC.C.は眼を細めた。
■ ■ ■
ここ最近は夢ばかり見ているような気がする。
この光景も夢だろうと思いながら暗闇の中をジェレミアは一人で歩いていた。しばらく歩くと一本の光の筋が見えた。小走りにその光へと近づくと、常夜灯の仄かなオレンジ色の光が扉の隙間から漏れているようだった。
見慣れた小奇麗な扉。クラブハウスの、ルルーシュの部屋の扉だ。
扉の向こうから小さなすすり泣きが聞こえて音を立てないように注意しながら中に入る。部屋全体をオレンジ色に照らしている仄かな明かりを頼りに部屋を見回す。
普段は潔癖な程に片付けられている部屋にはあらゆるものが散乱していた。本棚に並べられていた専門書や哲学書は床に散らばり、ベッドにある筈のクッションは本棚の隙間に我が物顔で居座っている。ルルーシュのお気に入りのランプは壁に投げられたのか割れて破片が散乱していた。これは早く片付けないと危ないだろう。床に屈んで割れたガラスを摘まむと部屋の隅から視線を感じた。
振り向くと、小さな子供。
多分中学生に上がるか、上がらないかくらい。色素の薄いコーカソイドの子供。黒い髪がぴんぴんと好き勝手に跳ねている。子供はパジャマに身を包んで膝を抱えるように座っていた。人形のように一点を見つめているので目の前で手を振ってみたが、反応は無い。暗くて見えていないのかもしれない。
そっと微かな常夜灯でも十分に顔が見える位置まで近づく。
ああ、あなたは、あなたは。
——————ルルーシュ様。
間違えようが無い。この人はルルーシュ様だ。
今のルルーシュのような華やかさや、皇族に相応しい風格なんてどこにもない。不安そうに指を咥えて部屋の隅で膝を抱えて座っている、小さな子供。ルルーシュだ。
長い間十分な栄養が摂れなかったために痩せこけていて、全身のあちこちに擦り傷がある。ああこれは、あの時期のルルーシュ様だ。アッシュフォードに保護されて間も無く、まだ心からアッシュフォードを信用できず、親友だったスザクと別れて、友達もまだできていない。一番不安定だった頃のルルーシュだ。
ルルーシュ様。名前を呼び掛けた瞬間ルルーシュは眼を見開いた。眼の先には成人男性であるジェレミアが居た。
「っ、いや!いや!嫌だ!」
ルルーシュはジェレミアから逃げるように身を捩った。爪で腕の皮膚を抉る様に掻きむしって踵で床を何度も叩く。恐慌状態なのか顔色を青白く変色させて髪を振り乱していた。
「嫌、嫌!触るな!俺は女じゃない!俺は女じゃない!」
悲痛なルルーシュの甲高い声が部屋に反響してジェレミアは眼を潤ませた。
なんて悪夢だ。そしてこれはただの悪夢ではなかった。現実にあったことだ。幸せだった5年間の生活の、幸せだったからこその悪夢だった。
戦争の最中では頼もしい程に冷静だったルルーシュは、アッシュフォードに庇護されてから暫くはこうして夜に暴れることがよくあった。
いやだ、やだ、やだ、と13歳になるというのに赤ん坊のような泣き声を上げるルルーシュ。爪で引き裂かれた肌から血が流れ、爪は真っ赤に染まっている。うぅー、うぅーと唸る様に泣いて自分の袖を噛んでいる。
近寄ることもできず暫くそのあまりにも悲痛な姿をただ眺めていた。男である自分が近くにいるせいでルルーシュが苦しんでいることは分かっている。しかしこんなルルーシュを放っておくわけにもいかなかった。自分の頬にも涙が流れていた。
うぅー、うぅー。おおよそ子供の泣き声ではない獣のような唸り声を上げてルルーシュは床に蹲る。
自分に何ができるんだろう。何をしてあげられるんだろう。思案していると小さなルルーシュは手近に落ちているものをジェレミアに投げつけ始めた。クッションに分厚い本、時計、置物。手当たり次第に何でも投げてくる。ジェレミアは避けようともしなかった。
ルルーシュは手が届く範囲の全てのものを力いっぱい投げつけた。しかしびくともしないジェレミアにこの男は容易にいなくなってはくれないと察したのか、ルルーシュは手近に落ちていたランプの破片を握り締めた。
そのまま頭上まで振りかぶり、自身の股座めがけて突き刺そうと閃かせる。
咄嗟に駆け寄って破片を叩き落とし、ルルーシュの身体を掴んで無理やりに抱き上げた。
「あぁ゛-!!あー!ア゛―!」
手負いの獣のように無茶苦茶に手足をばたつかせて暴れ始める。頬には幾筋もの涙の線が描かれていた。
わざと喉を傷めつけるような泣き方でルルーシュは激しく抵抗した。腕をつっぱり、殴り、蹴る。必死の抵抗はしかしジェレミアの腕を振り解くには至らなかった。
なにせその腕も足も少女の様に細かった。
「いや!いや!いやだ!!!」
まるで拒否の言葉しか知らないように暴れて泣き喚く。思わずジェレミアは腕を解いた。小さな、弱々しい体が床に蹲る。
哀れでならなかった。哀れだと思うことこそが最も不敬だと知りながら、そう思わずにはいられなかった。
「ルルーシュ様、ジェレミアです。分かりますか?」
「いやだ、いやだ!」
「ルルーシュ様、こちらを向いて下さい」
「いやだ、いやだあ、たすけて」
床に膝をついてルルーシュの頬をそっと撫でてみた。ルルーシュの眼はしかとこちらを向き、いやだ、という言葉だけを発してぐちゃぐちゃに泣き出してしまった。
しかしジェレミアはたすけてという言葉がルルーシュの口から零れたのを確かに聞いた。
「大丈夫ですよ、たすけにきました」
「いやだ、いやだ」
「たすけに来たんですよ、ルルーシュ様」
「…………だっこ」
「?」
「だっこ」
ようやく聞こえた、いやだ、以外の単語にほっとして細い胴に腕を回して軽い体を抱き締めた。未だ小柄なルルーシュは腕の中にすっぽり収まる程に小さくて温かい。
今のように細いながらも縦に伸びた体躯はそこには無い。痩せっぽちのただの子供。ジェレミアの子供時代とは大違いの、がりがりの子供。腕の中ですんすんと鼻を鳴らし、「ゔぅ、うぅう、」と孤独と痛みに耐える猛獣の様に微かな呻き声を立てる。可哀想に。可哀想なんて言葉で済ませられる感情ではないけれど。
ぽろぽろと落ちていた涙が止まる兆しを見せてきてルルーシュの頬を撫でてみた。ルルーシュは気にもせず唇で「いやだ」と繰り返している。
この人の世界には敵しかいないのか。拒否することしか、戦うことしか。それもしょうがないかもしれない。戦い通しの人生だった。まだ十年と少しだけなのに。この子供は、あまりに理不尽な目に遭い過ぎてきた。
「ルルーシュ様」
出来得る限りで優しく呼びかけると「だっこ」と返ってくる。腕に力をこめてきつくきつく抱きしめた。それでもルルーシュは抱き返す腕を回さない。されるがままにジェレミアにだっこされている。よしよしと頭を撫でると微かに目を細めて、恐る恐る腕を首に回してきた。
それが例えようもなく嬉しくて柔らかい髪に顔を埋めると、ルルーシュはくすぐったそうに身じろいだ。
「……じぇれみあ」
「はい」
「ジェレミアだ……」
「はい、そうです———大丈夫ですよ、もう大丈夫ですからね」
「———そうか」
頭を撫でるとしっかりと服を握り締めて抱き着いてきた。
この子供は体温を欲している。体温とは、愛だ。純粋な愛と呼べるものがこの子供には絶望的なまでに不足している。それは安心とも、信頼とも言い換えられる、普通の子供ならば無償で与えられる筈のものだった。
止めどなく涙が溢れる。力をこめて抱き締めると幼いルルーシュは腕の中で微かに身じろいだ。
幼い子供の世話なんてしたことが無くて、どうあやせばよいのかなんて見当もつかない。それでもあまりに静かな空間に堪えられず耳元で今日あった小さなことを細々と話した。
いつも売り切れのパンを今朝は買えたこと、仕事で部下が悩んでいる様子だったこと、新しいプロジェクトは上手くいきそうだということ、CMで見た車が格好良かったということ、夕焼けが綺麗だったということ。
他愛ない事ばかりだったけれどルルーシュは一つ一つに小さく頷きを返した。暫くすると幾分か力の抜けた様子でうとうとと体を揺らす。あばら骨の浮いた背中を撫でさするとルルーシュの瞼が重たくなる。いとけない様子に胸が締め付けられる。
どうしてこんな子供が、あんなに酷い目に遭わないといけなかったんだろう。
理由なんて無いと分かっている。でも時々、この理不尽な世界にやりきれなくなる。これまでも尋常じゃなく酷い目に遭ってきたのに、これからの生活もこの人は保障されていない。
腕の中の温かい塊に顔を埋めた。小さな寝息に導かれるようにジェレミアの瞼も重くなってくる。心地よい体温に段々と意識が遠のく。
ふと目を覚ます。しまった。ルルーシュをベッドに移す前に寝てしまった。それに部屋の掃除もしていない。起きたルルーシュが歩き回ってランプの破片で怪我をしてしまっては大変だ。まだ朝になっていないといいが。
焦って周囲を見回すと人工的な冷たい光に囲まれていた。画質の悪いテレビのような視界は何故かと思えば、周囲全てがガラスに囲まれているせいだった。ガラス越しに沢山の白衣が揺らめいている。腕の中の温かい塊は無くなっていた。
口から零れた水泡がぼこぼこと頭上へと流れていく。酷く寒い。ここはどこだろう。今はいつだったか。
何度も反響する木霊のような声がさざ波のように周囲に満ちている。意味はよく分からなかったが段々と声は大きくなりジェレミアの鼓膜を揺らした。
「No.21930覚醒しました。バイタルチェックをお願いします」
「全く、こんな状態で逃げ出すとは」
「しかしジークフリードのデータも取れましたから結果としては良かったのではないでしょうか」
「BIS 90台で安定。TOFモニター外してください。血ガスオーダー今出しました」
「バイタルは安定……もっと監視を強化する必要があるかな」
「必要無いでしょう。ジークフリートのシステムにロックをかけておけば問題は無いでしょうし」
騒ぐ白衣の群れの中でジェレミアはふと思い出した。
途切れ途切れの記憶で、意識もあやふやで、恐らく自分は死に体なのだろう。ベッドに横たわっている末期の病人のように、人間としての理性も知性も殆ど残ってはいないと自分でさえ分かってしまう。それどころか最早自分は人間ではないのかもしれない。
しかしそんな様に成り果ててさえその一言だけは鮮明にジェレミアの本質に刻み付けられていた。
あの金色の子供の天気でも告げるような軽い口調の一言が、こんなになってしまったジェレミアを今も突き動かしている。
ルルーシュはゼロに殺されたんだよ。
「————ぁぁぁぁあ゛あぁあああアアアアア゛あ゛あああ゛!!」
体中についていたコードを引っぺがし、引きちぎられた留置針の痕から血が流れるのを気にもせずジェレミアは慟哭した。しかしそれ以上体が動かない。目障りなガラスを破壊してすぐに飛び出して行きたいのに体は意思を裏切りまともに動かない。
何故だ。今の自分の力ならば強化ガラス程度木っ端微塵に砕けるのに。改造手術を受けてそれだけの力を得たというのに。
騎士としてあまりに未熟な自分はずっと力が欲しかった。ルルーシュを守るための力を。だがルルーシュは死んだ。
死んでしまった。もういない。
彼の人は、あの美しい人はゼロに殺されてしまった。
ならば復讐だ。両の拳を握り締める。これは復讐のための力だ。主君がむざむざと殺されて黙っている騎士がいるものか。
「No.21930、錯乱していますね」
「やはり気管挿管すればよかったか」
「鎮静をして再度静脈ラインを取り直しますか」
「足に取ろう。腕ではまた抜かれかねん」
落ち着き払った研究員達は全身を痙攣させるジェレミアを遠巻きに観察している。
右眼から赤い筋を流しながらジェレミアは唯一思い通りになる舌と声門だけを暴れさせた。
「こ、ここ、殺してやる!殺してやる!こここ、ころし、殺して差し上げるのでございます!ゼ、ゼロ、ゼロ!!私、あなたに、殺して、私は!!死んで頂きますので、私は、わ、わわわ私は、!!、———あぁ、しかしもう、」
悪夢はまだ続いていた。そうだろう。これは悪夢だ。そうに違いない。
しかしいくら否定しようとも手術を施されて数か月しか経っていない体の痛みが否定してくる。
これは現実だ。
いつだって悪夢なんかより、現実の方がずっと理不尽にできている。