大学生と化したガールズが何かに折り合いをつける話
(pixivからの転載です)

参考資料https://youtu.be/vg2cGSPb-mw


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いつかさよなら

 例年に比べて遅くなると予測された冬の訪れは年末になっても列島に雪を運ぶ気配がなく、衣替えのタイミングもズレ込んだ。気温の振れ幅が大きくなり、コートの下に着込む枚数を昨日と今日で変えなければならない日々が続いた。こういう気候は高齢者や幼児に影響を与えやすい、なんて事が昨日の新聞に載っていた気がする。

 みほは高齢でも年少でもないけど、どうやら連日の不安定な気候の被害者となったようだ。今朝になってから身体が重いと訴えるので熱を測ってやると表示された数字は平熱より若干高い。おまけにティッシュで鼻をかんだ形跡も見られた。

 今日は休めと諭すのも聞かずに活動を開始しようとするのでちょっと口論になりかけたけど、最終的に私が折れる形に。

 こういう変なところで頑固なのはやっぱり姉妹だ。

 

 

 二ヶ月前、西住隊長にとって大学最期の公式試合が終わった。

 見事な勝利で幕を閉じた結果に反してみほの表情は暗く、何故そんな顔をするのかと問えば「これでお姉ちゃんは引退しちゃうんだなって」、と返してきた。

 無論私自身も解っていた事だが、彼女のそれと抱えている心情との相違を察して「そうね」の一言で済ませることしかできなかった。

 少し前、例えば高校時代の自分なら嫌みの一つでも言ってやったに違いない。かつては考え付かないような思考のロジックを辿った事に私自身少々驚いた。

 試合後のデブリーフィングを終えた後、隊長から戦車部隊隊長として、引退を控えた最上級生の一人として行った挨拶に私達下級生は敬礼で応えた。中には感極まる様子の子もいたが誰一人として涙を流さない毅然とした態度で上級生達を見送っていた。戦車乗りとしてあるべき別れのカタチだった。

 

 それから二月後の今夜、引退式が執り行われる。あの格式取った送別を表とするなら、これから向かうのは裏の送別会。

 『引退式』と言えばと聞こえはいいが、実質は宴会とほぼ変わらない。礼節整った別れが済んだなら、今夜は酒と肴を片手にもっとフランクな形で見送ろうというのが我が校の伝統らしく、あの日溜め込んだ皆の涙や言葉はこの場で発散される。こういう建前と本音を使い分ける姿勢は日本人らしいなと勝手に思う。

 私とみほも漏れずに参加する予定だっだが、当日の朝からみほはこの有様。本人は頑なに出席すると言うので連れてきたが、こんな状態のこの子を騒がしい場へと連れて行くのは罪悪感の方が強い。

 すべき挨拶を済ませたら早めに失礼する事としよう。みほ本人は最後まで残りたがるだろうが知った事か。大学に入って直ぐ、西住隊長から「みほの面倒を看てやってくれ」と仰せつかっているのだ。

 

 

 みほを助手席に乗せて下宿先を出発したはいいものの、信号で車が停車する度に「ふぅ」とか「はぁ」とか隣で息をつかれるこっちの身にもなって欲しい。

 

「なんでよりによって今日そうなるの」

「ごめんなさい・・・」

「私に謝ったってしょうがないでしょ」

 

 日が落ちて一気に冷え込んだせいか車内の温度がなかなか上がってこない。多めに着込むよう言いつけておいて良かった。

 

「あと20分くらいで着くから、それまでに鼻水引っ込めなさい」

 

 青信号でも動こうとしない前走車に鳴らしたクラクションと、みほが鼻をかむ音が重る。このシーズンは人も車も行きかう量が増すからあまり好きじゃない。普段戦車ばかり乗っているせいか、車体をスムーズに動かせない状況に多少の苛立ちを感じてしまう。

 チラリと助手席の方を見ると、鼻を赤くしたみほの顔が車窓に映っていた。大学に入ってから少し伸ばした髪型に隠れて表情は読み取れなかったが、何を考えているかなんて私には大抵想像がつく。繊細なようで案外単純なこの子の感情図と、眼前のネオンライトの群れを重ねがら、伸ばした左手で白い頬を抓ってやった。

 

「え、えりふぁふぁんいふぁいでふ、ないすうんでふふぁ」

 

 暫くしてから手を放してやると、みほは頬をさすりながら睨んでくる。

 

「エリカさん、最近暴力的です」

「こんなのまだカワイイ方よ」

「なにかにつけてデコピンしてくるし」

「嫌ならもっとシャキっとしなさい」

「・・・・・・ブロッコリー残すクセに」

「あんたねぇ」

 

 さっきの口論をまだ引きずるのか。ていうかそれ今関係ある?あの縮小された森(?)嫌いなのよ悪かったわね。そういえば、ここのところのみほの私に対する罵りのレパートリーが増えてきた気がする。同棲したての頃は私から一歩的に言われ続けていたのが、口喧嘩を繰り返すうちに反撃してくるようになった。いったい誰のせいだ。私か。

 

「あんたがそんな状態じゃ、隊長も気持ち良く引退できないわよ」

 

 これもさっき言った気がする。

 助手席から反撃がなかったので再度確認すると、頬を抓る前の態勢に戻っている。車内の気温は徐々に暖かくなるのに対して、湿度は下がっていくのを感じた。

 互いに黙り込んでから数分して『引退式』の会場となっているレストランに到着。既に大半が来ているらしく、見覚えのある車が何台も駐車場に停まっていた。レストラン入口寄りに一番近い場所へ駐車し、車を降りる。歩き出したみほの横へ並び「気分はどうだ」と声をかけた。

 

「おかげで少し楽になりました。ありがとうございます」

「勧められても、出来る限り控えなさいよ」

「エリカさんが送ってくれるなら大丈夫です」

 

 そういう事じゃないでしょうと不安にはなったが、ここまで来て引き返す気もないだろう。木製のドアを開けてみほを促すと、続けて私も入店した。

 

 

 

 

 乾杯を済ませてからひっきりなしに席を移動するみほを常に視界に留めながら、ノンアルコールのビールを喉へ流し込む。

 類まれな戦車道の才能からは考えられない普段のみほの言動は、幸いにも周りの人間からは好意的に受け取られた。内気な性格と、あの西住まほの妹という事も手伝い入学当初は本人もおっかなびっくりしていたものだ。気付けば先輩から可愛がられ、後輩からは羨望されるようになったみほを見ていて、私自身どこかホッとしたのを覚えている。

 

 ホッとした、というのは多分私のエゴ。同じような始まりと、全く異る結果を迎えた過去を私は知っているから。

 

「まるでみほが主役になったようだな」

 

 宴会の席には場違いな、凛と張った声が聞こえた。

 

「隊長」

 

 佇まいを直そうと立ち上がるのを、右手で制される。

 

「無礼講というやつだ」

 

 隊長はそのまま空いている椅子に座ると、左手に持っていたワイングラスを琥珀色で満たしていく。

 彼女の飲酒する光景をほとんど目にした事が無かったので少々見入っていると、無言でグラスを向けられた事に遅れて気付き、慌てて自分のビールグラスを軽く当てた。

 

「無事、引退おめでとうございます」

「ありがとう。ようやく身の振り方も決まって安心しているよ」

 

 隊長が卒業後の進路を決めたのはつい最近らしい。戦車道を続けるにも、実業団かプロチームに行くかで長らく迷っていらしたのをみほから聞いていた。結果的には西住流が抱える企業への就職を決断されたようだ。勿論ゆくゆくはプロへ、という道を辿るらしいが。

 

「隊長はプロを選ばれなかったのですね」

「うむ」

 

 多少億劫な問いかけではあったが、二月振りの隊長との会話に口が緩む。

 

「最近は戦車道の肩身も狭いようでな」

「存じてます」

「背広の連中がひっきりなしに尋ねてくる気持ちが分からんでもなかったよ。母のあんな表情が、みほではなく私に向けられる日が来るとは」

 

 それはそうだろう。元黒森峰エース、インカレ4連覇を成し遂げた戦車長にして西住流の次期家元が満を期してのプロデビューかと、新聞でも騒がれていた。

 

「エリカあなた、小切手書いたことある?」

「いえ、経験はありません」

「ドラマとか小説でよくあるでしょう、好きな額を書きたまえってやつ。あれって実在するのね」

 

 琥珀色を喉に流し込み、ジョークを話すように言うものだから私はリアクションをとりかねた。「ハハハ」と乾いた笑いを出すのが精いっぱい。

 隊長は口元を綻ばせながら、グラスに張られた水面を見つめている。

 

「あんなに周囲が騒がしくなるのは後にも先にも無いだろうな」

「みほは、なんと言ったのですが」

 

 そう言った私を一瞥するも、直ぐにグラスへ向き直りワインを飲み干して答えた。

 

「お姉ちゃんの進んだ道が、そのままお姉ちゃんの戦車道になるんだよ」

 

 「みほらしいですね」と返す傍ら、隊長のグラスに今度は違う色の液体が注がれていく。私の勘違いでなければ結構なペースではないだろうか。

 

「アルコールを嗜まれていたなんて、知りませんでした」

「ん?あぁ、エリカ達の前では初めてかもな」

 

 グラスが傾けられ、紅い色ががあっという間に透明に戻っていく。

 

「戦車に乗る予定が無い日は、こっそり酒蔵から拝借していたっけ」

「そ、それは大学に入ってからの話でしょうか」

 

 まるで随分前からそうだったように語るので思わず聞いてしまう。

 

「ふふ。どうだったかな」

 

 何てことだ。皆、ここに不良少女がいらっしゃる。「内緒だぞ」なんて可愛らしく唇に指を当てているのが憎らしい。酔っているのかこの人は。

 

「今日はエリカが送ってくれたんだな。世話をかける」

 

 幾ばくか失礼な事を考えていたのを振り払って意識を戻すと、隊長が私を見据えていた。

 

「もうみほと話をされたんですか」

「いや。どうにも予約が空かないらしくてな」

 

 ちょうど遠くの方から、先輩に泣きつかれたみほがつられる様に声をあげているのが聞こえた。不思議に思っていると、先程自分が空にしたノンアルコールビールの瓶が目に入る。なるほどと納得して、ふと高校時代を思い返す。

 あの頃の私は西住隊長に追い付きたくて、自分の能力を上げようと必死だった。本来副隊長になるべきだった人物との、自分でも理解できてしまう程の力量の差を何とか埋めるために。それが手段から目的に変わってしまうくらい。

(だから戦車に関しようがしまいが、隊長との会話中は必死に頭を働かせていたっけ)

 淡い記憶から思い出が這い出して来る。自身とプライド、挫折と悔しさ、努力と結果、別れと再会、そしてあの全国大会。

 どれも今までしまいこんでいたものだ。なぜしまう必要がある。

 わたしは黒森峰の記憶を、持て余そうとしている。

 

「エリカらしいわね」

 

 隊長が呟いた。独り言なのか、私に向けたのか。言葉の意図をも掴みかねてポカンとしていた私を、茶化すような視線で見つめてくる。そうかと思えばクツクツと笑い始めてしまうので、本格的に焦らざるをえない。

 なんだか、今日の隊長は別人のようだ。

 

「エリカ、少し付き合いなさい」

 

 辟易している私を置いて立ち上がると、スタスタと歩き出してしまった。一瞬どうしたものかと思いみほを確認する。よし、あの人だかりに囲まれているうちは暫く問題なさそうだ。

 

 

 

 バルコニーへ向かった隊長を追って外に出る。冬の夜は私の身体を縮こまらせたが、人口密度の高い場所から解放されたせいかむしろ心地いい。隊長もそれは同じなのか、石造りの塀に腰を乗せながら目を閉じ、夜風を受けていた。

 側まで歩いていき対面するように立つ。私の姿を見ると、先程の微笑を思い出したように再開する。

 

「だから言ってるでしょう。無礼講だって」

 

 私が不思議そうにしていると口元の笑みを崩さずに告げた。

 

「崩しなさいエリカ」

 

 言われて気付いた。無意識のうちに背筋を張り手を後ろに組んでいたのだ。慌てて取り直すも、どういう姿勢をとるべきなのか。

 

「かけて」

 

 そう言って、自分の腰掛けている塀を指さした。少し憚られた感情をグッと押し込んで「失礼します」と宛がわれた場所に背中を預ける。私が隊長を少し見上げる格好となった。

 

「ここは静かだな」

 

 空を見上げながら発せられた言葉の声量は、思いのほか大きかった。つられて見上げれば都会らしからぬ数の星が散りばめられているのに息を呑む。

 

「黒森峰の野営訓練を思い出すわね」

「えぇ、確かに」

 

けど、あの時はもっと星の数が多かった気がする。隣にいたのも隊長でななくみほだった。まだ入学間もなくて、クジで決まった即席の班にあの子はいた。テントを張ってさあ寝ようという時に夜空を見上げたみほが突然言ったのだ。

 

『星がこんなに近いですよ!』

「星がこんなに近いな」

 

 心の奥を見透かされた気がして隊長を仰ぎ見る。まるで私がそうする事を分かっていたように、隊長もこちらを見ていた。

 

「どうした?そんな顔をして」

 

 赤ワインのせいだろうか、笑みを象った唇がいやに紅い。

 隊長の背中越しに、雲に隠れていた月が顔を出し始た。

 

「私はなエリカ、最近黒森峰の事を考えるんだ」 

 

 きっと飲み過ぎたんです、今日ほど饒舌で表情を変える貴女を見た事がありません。

 

「忘れていた事もどんどん思い出してしまう」

 

 月に照らされたその姿は暗闇の中でもはっきりと輪郭を保っている。なのにどうだろう。表情だけは髪に隠れて捉えられない。

 

(一体いつからですか。あなたも髪を伸ばし始めたのは。)

 

「お前はどうだ。あの頃を思い出す事はあるか?それとも」

 

 何故そんなことを聞くのですか。

 

「忘れちゃった?」

 

 一瞬だけ目元が露わになった。あなたのそんなカオは始めてみます。

 

「エリカ、私には好きな人がいたのよ」

 

 あなたは本当に隊長なんですか。

 

「ずっと誰にも言わなかったけど、片思いをしてたの」

 

 隊長は、西住まほはそんな人ではなかったはずです。

 

「結局最後まで思いは告げなかったけど」

 

 いつの間にか私の耳元まで屈んだ彼女は、囁くように喋り続ける。

 

「それも今日でおしまい」

 

 もはや私の視界に写るのは夜空に浮かぶ月だけだった。

 いつからだろう、人が月に行く事を夢見だしたのは。この星と月の距離が思っていたよりも近いと判明したのは。

 

「エリカ」

 

もう私と月を隔てるものは何もなかった。

 

「みほを頼んだぞ」

 

 

 

 私は走り出し広間に居たみほの手をほとんど引っ張るように掴み、店を出て車に乗り込みキーをエンジンに挿しこんでいた。

 呼吸が定まらない。脳の奥の方からドクンドクンと音が聞こえる。今揺れているのは車体なのか私自身なのか判別がつかない。

 

「エリカさん!」

 

 みほの声。暗闇だった景色が、うっすら色のある世界に戻っていく。どこから目をつぶっていたの。

 

「突然どうしたんですか」

 

「みほ」

 

 助手席から身を乗り出して私の肩を掴んでいる。強い口調とは裏腹に心配そうな表情を向けている。

 

「あっ!もしかして」

 

口を開けながら手を上下するみほのジェスチャー。

 

「リバースでしたか!?」

 

 

「っ、はぁ~~」

 

 糸が切れたように身体の強張りが解ける。シートの座席に身体を預けると、どっと汗が噴き出した。車のエンジン音がやけに近く感じる。

 

「そうね、ちょっと」

「急に引っ張られるから・・・」

 

身体と思考が落ち着いてきて、みほの手を握ったままだったのに気付いた。

 

「驚かせたわね、ごめん」

 

 その手を放そうとしても、身体中でその部分だけ固まったように動かない。車内の気温は外の冷気とほぼ同じになっていた。背中を伝ったのは汗なのか。

 

「・・・エリカさん?」

 

一度深呼吸をして改めて手の筋肉に命令を下す。徐々にみほの手を離していく。

 

「今日はもう帰りますか?」

 

私は頷くしかなかった。

 

 

 

 

 時刻が23時に近づくと、夕方の混雑が嘘のように車は走行し続けた。等間隔に設置された街灯の明かりと、思い出したようにすれ違う対向車の光以外に動くものはない。ラジオからは聞き古された歌謡曲が流れている。

 

「皆さんに心配しないよう伝えておきました」

 

 携帯をしまいながら告げるみほに一言感謝しながら、私も後でメールを入れるよう決めた。動転していたとはいえあまりに無礼が過ぎた。引退式を無言で走り去っていくなんて前代未聞かもしれない。

 

「そういえば風邪はどうなったの」

「へ?」

 

 行きの車内と打って変わりピンピンしているみほの様子を見ると、そんなもの吹っ飛んでしまったようだけど。

 

「なんだか皆さんに挨拶してたら元気になっちゃいました」

「どんだけ単純なのあんた」

 

 そうゆうところは心底羨ましい。この性格のせいか、私は嫌な事があると直ぐに体調に表れてしまう。

 

「先輩全員にしっかりお別れが言えてよかったです」

「・・・隊長にはしたの」

「お姉ちゃん?もちろん」

 

 あの人に嘘をつかれた事よりも先程の出来事を思い出してしまうのが私は辛かった。

 冷たい夜風、星空、月、あの人の声。フラッシュバックする記憶に身体が震えそうになるのをなんとか堪える。

 

(なんであんな事をしたんだ)

 

 浮かんだ単純な疑問に私が答えを見出せるはずもなく、ごまかすようにアクセルペダルを踏み込む。あの人は、西住隊長は私になにを言いたかったんだろう。酔った勢いだろうか。なぜみほと話していないなんて嘘をついたんだ。いまさら黒森峰の話なんて。好きな人がいたと言っていた。片思い。もう終わり?

 

「エリカさん、踏切です!」

「えっ」

 

 言われてからようやく気付く。慌ててブレーキをかけて、半ば急ブレーキになりかけたため身体が前のめりになってしまった。あと10メートル遅かったら間に合わなかったかもしれない。

 

「ご、ごめんなさい」

「ホントに大丈夫なんですか・・・?」

 

 何をやっているんだ私は。これじゃあ行きの車内と立場が逆じゃない。

 車体が止まったのを確認して、ラジオを切り窓を開ける。車内に流れ込んできた警報器の音と冷たい空気で、雑念を払おうと試みた。少しはましになった気がするが、一度ぶり返してしまった思考を止めるのは容易ではなかった。否応にも中断していた記憶の再生が止まらない。

 

 隊長に謝るべきか。なぜいまさら黒森峰。あの人の声がまだ耳元に残っている。電車はまだなの。思い出したくないのに思い出す。まだ来ないの。何を忘れたんだっけか。早く来なさいよ。そんな事思い出してどうする。遮断機が降りていない。忘れた理由があるんじゃないの。電車は来ないの。理由があるなら尚更駄目よ。これだけ待ってるのに来ないじゃない。いけない、これ以上考えちゃ。来ないなら通ってもいいでしょ。

 

「エリカさん」

 

 みほ、聞いて遮断機が下りていないわ

 

「今日の引退式で」

 

 警報器が鳴っているのに電車が来ないの

 

「誰かと話をしましたか?」

「隊長としたわ」

「お姉ちゃんと?」

「えぇ」

 

 不意に見上げた夜空は雲ひとつなく澄んでいて、大きくて綺麗な月だけが浮かんでいる。

 私はおもむろにブレーキから足を離した。ゆっくりと車体が前進する。

 

「エリカさん、電車が来ますよ」

 

 みほがそんな事を言うので、またブレーキ踏む。

 

「大丈夫よ来ないわ」

「でも、危ないです」

 

 さっきまでの心配そうだったみほの口調が、聞き覚えのある、しかし滅多に聞く事が無いようなものに変わっていた。

 

「でも電車は来ない」

「来ないわけありません」

「さっきから全然来ないじゃない」

「直ぐに来ます」

 

私は何かに突き動かされているような自分と、それを俯瞰している自分を同時に感じていた。

 

「来ないわよ」

「来ます」

「来ない」

「来るはずです」

「来るわけない。何を根拠に言ってるの」

「根拠はありません」

「ふざけないで」

 

 ふざけているのはどっちだ。私は何をムキになっているんだ。警報が鳴り響いている。単調な音のリズムが脳内の思考をシンプルにしていく

 

「私は早く渡りたいの。あそこへ行きたい。今行けば間に合うわ。」

 

 もうたくさんだ。邪魔しないで。

 

「じゃあ私を置いていってください」

 

 視線がみほのそれとぶつかった。

 

「エリカさんがどうしてもと言うなら、私はそれを止めません。けど、わたしは行けません」

「いやよ。一緒に来て」

「駄目です」

「みほ」

 

 みほの瞳は私を捉えたまま決して離れず、暖かな手の平はギアに乗せていた私の手を覆っている。

 

「エリカさんの進む道です。私の進む道ではありません」

 

 じゃあどうして手を放さないの。どうして瞳の中から逃がしてくれないの。

 

「選ぶのはエリカさんですよ」

 

 あなたはそんなに意地っ張りだったかしら。そんなに迷いの無い子だった?

 

「わたしは、もう選びました」

 

 違う、迷いが無いわけじゃない。既に済ませていたんだ。私が出来ないでいる事をとっくの昔に。

 弱虫で臆病な私とは大違い。

 

「こんなに怖いのは生まれて初めてよ。とても怖い」

 

 そうこぼした返事だろうか。握った手をより強く、瞳はより鮮明に私を捉えた。

 嗚呼、今のあなた戦車に乗っている時そのものね。

 

 

 

 いつしか止んだ警報の代わりに、電車の通過する力強い音だけが木霊していた。


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