参考資料①https://youtu.be/Is4jnKdapDw ②https://youtu.be/CWe7oDJgtrQ
私の左手首は平らでまっさらだ。腕時計をはめなくなったのはいつ頃からだろう。
『時間とどう付き合うか』だなんて、この年齢になってようやく意識し始めた私を世間はなんて思うかな。そこらかしこに設置された時計は、東京にいる事実も明確に告げているのだと、そんな解釈を聞かせたら笑われるに違いない。きっと含み笑いだ。
色褪せない思い出は繰り返す日々につれて確かに過去になっていて。「ノリと勢い」は今じゃすっかり萎んでしまったんじゃないか。あの青春をすっぽり置いてきてしまったんじゃないか。一日の疲れを抱いて横たわったベットの上で、ふと沸いたように不安になってしまう。卒業式からどれくらい経ったかを明確に記憶している一方で、破ったカレンダーの枚数を曖昧な感覚に変換する、健気な努力も覚えちゃったり。
どうでもいいことだけに付き合わせて肝心な事には関わらせない。
時間に曖昧だった私は、時間に不義理な私に変わっていた。
なので私は、今日寝坊しました。
目覚ましのスイッチを入れ忘れたのもそうだけど、ここのところ連続で残業を片付けていたせいもある。買い換えたばかりの毛布があんまりにも気持ち良いのもいけないな。
シャワーに着替えに髪のセットに化粧に忘れ物のチェックも。学生時代の私だったら二時間は超えていたに違いない。都会の荒波に揉まれて、安斎千代美はグレードアップされたのだ。起きたばかりの毛布の中で意味もなく唸ったり、眼鏡を持っていこうかいくまいか悩んでいたのは強者故の慢心だ。多分。節操のない社会人生活で編み出した処世術が活きたに違いない。何事も前向きだから、「元を正せば」とかいった考えは切って捨ててやる。重要なのは今じゃないか。
屁理屈を散々並べつつ、私はマンションの自動ドアを飛び出した。吹き曝しになったゴミ捨て置き場の防鳥ネットに足を取られ危うく転びかけた。前のめりになった勢いをそのままに、小走りで駅まで向かった。半分ヤケクソになって腕だって振ってしまう。幟を下ろしたパン屋さんから漂った香りも、駅中に最近できたばかりの喫茶店に掲げられたコーヒーの張り紙も無視。
発車ベルをBGMに改札を走り抜けた。
「すいません!乗ります!」
加えて30回くらい心の中で謝って電車に飛び込む。息が上がるのを我慢して、扉に髪が挟まっていないか確認。よしよし大丈夫。
正午になろうかという時間帯だからか私を見る白けた目玉の数は多くはなかった。向かいの優先席に腰をのっけたおばあちゃんの、もの言いたげな顔なんて気にも留めてないからな。
電車内の冷めきった空気が何のその、空いていた隅っこの席に陣取る。広げた新聞で外界から身を守るサラリーマンの如く、読みかけだった文庫本で視界を埋めておく。さっきまでお休みしていた脳みそが浮ついてる。内容が入ってこない文字の羅列に目を遊ばせ、暫く電車の揺れに意識を任せた。
タイツ越しに感じる痒みに身じろぐのも気が引けて「あー失敗したな」と。起床から溜めっぱなしの嘆息が今になって出た。意識してもいないのに、馬鹿みたいなボリュームで。あーガタンゴトン。
「コホン」
ええい何だ。そんなに厭味ったらしくしなくたっていいじゃないか。私だって、許されるものなら一人ひとりに謝ったっていいんだぞ。でもやったら引くだろ。
耳まで真っ赤になってるのが自分にも判った。堪らなくてしょうがない心地で背を丸めた。羽織っていたパーカーのポケットで、紙の掠れる感触がした。
『ご都合さえ宜しければ、是非いらしてください』
実家から転送されてきた茶封筒。そっけない社交辞令に簡素なお誘い。同封されたチケットに踊る威勢のいい謳い文句との対比が冗談みたいだ。いくら疎遠な知人に宛てるにしたって、もうちょっと気の利いた文面があるだろうに。別に何を期待していたでもないけど。滑らかな手触りの封筒に丸っこくも礼節を弁えた筆跡で、送り主の名前が書かれていた。
西住まほ。
先月と先々月の月刊雑誌の表紙をデカデカとバストアップで飾っていた。最近になってテレビやラジオが騒ぎ始めた。社会人リーグから満を期してのプロデビュー。西住流次期家元。同世代の戦車乗りで知らない者はいない。そんでもって私と、友達だった。
“だった”という言い方に変な解釈は必要じゃない。
西住と私はそれほど多く会話したのでも、ましてやセンチになるような別れをしたのでもなかった。顔を合わせれば率先して挨拶もするが、かといって頻繁に連絡を取り合うような仲じゃない。なんとなく知り合ってなんとなく会わなくなる。私の持ち合わせる常識内で捉えるなら『友達』と括るに足る関係性。
アイツはどう思っていたんだろう。言っちゃあれだが、当時から人付き合いから縁遠いようなイメージがあって。滅多に上がらない口角も手伝って近づき難いオーラを発しては、必要最低限な台詞しか喋ろうとしなかったアイツは。
手紙を貰って嬉しかったのは本当だ。どれだけ他人行儀で味のない文面だろうと、西住が直接寄越してくれたというだけで十分だった。
だからどうしたと言われれば特に意味はない。意味はないのは私が誰よりも理解しているつもり。
ポケットの中で封筒が折れ曲がってやしないか、気を配りなるべく背筋を伸ばして座り直す。気付いた頃には捲った本のページが随分な厚さになってしまって、栞は遥か彼方だ。空しく思ったのは何故かな。
駅の改札を出た途端にお腹の虫が可哀そうな悲鳴をあげたから、コンビニでシリアルバーとミネラルウォーターを買った。車も疎らな駐車場で暇したタイヤブロックに立って、少しだけ自尊心を取り戻す。卑屈が過ぎる。
そんな取り留めのない思考に浸っていると、モソモソ食事する私の足元に鳥が一匹寄ってきた。鳩でなはいな。渡り鳥でなかろうか。
そいつは自前の白い体毛をさも見せ散らかすように毛繕いしながら、意味ありげに徘徊しだすときた。私がミネラルウォーターを喉に通す間もウロウロと。「はよしろ」と言いたげに。
都心部に根差すような鳥はどうしてこうも気安いんだ。いいのかそれで。私はいいけど。
” 観念した”と表現するのは悔しいので、背後から掻っ攫わなかった気心に免じてやろう。シリアルバーの一かけらを砕いて落としてやった。誰かに見咎められやしないかと咄嗟に目が泳いだ。
春の青空のその先で大きな大きな横断幕を掲げた気球が浮かんでいる。スローモーションにゆったり揺れて『シーズン開幕』の文字を運ぶ眼下に、これまたデカい学園艦がどっかり東京湾を占領していた。遠近感覚が狂ってしまったのかと錯覚するような図体に見覚えがあって、何と呼ばれているのかも知っている。
黒森峰女学院。めっきり減ってしまった戦車道界隈の知識は最早ミーハーレベルに落ち着いてしまっているけど、ここが開幕戦として選ばれるところに依然として佇む西住流の影響力をひしひしと感じる。
ダストボックスに向けてシリアルバーの袋を放り込むのと同じくして、渡り鳥も食事を終えていた。鳥目が何事かを訴えてくるような気がして「もう無いぞ」とあしらった。
用済みとばかりにさっさと飛び立っていく。どこにしまっていたのか鮮やかな青と白を羽ばたかせて。
いいよなお前たちは。いっちょまえに飛べる綺麗さがあって。
ぼんやりとした予想以上の、正に「ごった返した」学園艦の盛況具合に、久しく忘れてたお祭り気分が蘇る。さすがにパスタとかピザの出店はなかったけれど、焼きたてのドーナツを匂いに誘われて買ってしまった。ついでにビールもどうかと勧められたのをぐっと堪えた自分を褒めてやりたい。
応援グッズを並べた物販コーナーが目に入った。せっかくだからと立ち寄ってみたものの、どれも案外良い値段がするもんでちょっとびっくりした。
「今だとこんなのが人気なんですよー」
人懐こい笑顔の店員さんが広げてみせたパーカーの、所属するチーム名を押しのけてプリントされた『西住まほ』。よくよく見ればほとんどのグッズに同じ名前がプリントされてるじゃないか。
更に「イチオシです!」と手渡されたものなんか、軽く両手で持たないといけないようなサイズの西住の顔(だけの)プラ板だ。しかも刺すような眼光の。何に使うんだと聞いたら、掲げて相手チームにプレッシャーを送るんだとか。試合中に観客席は見ないだろ。
結局、『西住流』タオルを一枚だけ買ってしまった。値段はコバルト包丁と同じ。
戦車道自体の人気も差し置いて、どこもかしこも隙があれば『西住まほ』。高校の時からファンクラブも存在していたくらいだから、順当といえば順当かもしれないな。来る場所を間違えたのかと思う猜疑心と同等に共に押し寄せる西住の存在感と熱気が、紛れもなくここが目的地だと告げている。
チケットに印字された席番号まで辿り着いて腰を下ろしても、すっかり気圧された心地に息をつく暇がなかった。これまで耳と目だけで感じていたものが今日は五感全てに訴えかけてくる。せっかく買ったドーナツだって味がしてこない。
「気まずいなぁ」
独りごちた。喧騒に飲み込まれて自分でも聞こえなかったのがますます悪い。こんなに大勢から注目を集める人物に会ったところで、私は何をどうしたいのか。ポケットに入れっぱなしの封筒には、もう届いた時のような滑らかさはない。無意識の内にそれを握っていた。さもお守りか何かのように。
薄々感付いていた事実。
全ては社交辞令に過ぎない。高校時代からの律義なアイツにとっては儀礼の一環で、私は数いる招待客の一人ってだけ。こともあろうに、私は都合のいい既成事実として利用しているんだ。『友達』だなんて呼び諂うことで、無理やり自分の価値を高めようと。
言い訳がましい思考を携えて、今ここにいる理由を探していた。きっと意味はない。意味はないのは私が誰よりも理解しているつもり。
アナウンスが流れた。もうすぐプレイベントが始まるらしい。大型ビジョンに映る双方のチームメンバーを紹介したプロモーション映像。ラストを飾るのが誰かは決まってる。
入場口から離れた場所だったからか周囲の席が空きっぱなしだ。なんだよ寂しいなぁ。もっといい席用意してくれよ西住。
ドーナツが奪った口内の水分をミネラルウォーターで潤した。朝からこんなのばっかだな。
「久しぶりだな安斎」
そう言ったのは誰なのか。深めに被った帽子にジャージ姿の女性が私を見下ろしている。声と顔。聞き覚えのある声。見覚えのある顔。
「に、にしずみ?」
「うん」
「え゛え゛え゛え゛え゛!!??」
なんだそのジャージ!ダサい!
おい、おい!座るな。自然に隣に座るな!チケット持ってるのか!あ、でも選手だから?いいのか?じゃなくて。えっと。
「お前試合!始まる!」
「今はウォームアップ中」
「けど」
「休憩がてらだよ」
もういいよ。
びっくりして心臓バクバク。いくらなんでも急過ぎる。心の準備くらいさせてくれ。そういえば、いざ会って何を話すか考えてなかった。
潤したばっかりの喉があっという間に乾いて、ミネラルウォーターの最後の一口を含む。ダメだ、まったく。
気を落ち着かせるための呼吸をタイミングにして、揺れっぱなしの視線を西住に向けてみる。私と対照的にブレない瞳が前だけを見ている。
「えーと、久しぶりだな」
「うん」
「元気、だったか?」
「おかげさまで」
「そっかよかった」
「そっちは?」
「私も元気?だと思う、うん。そこそこ」
言葉を探している私がいる。次々と浮かんでは消えていく中から取捨選択を繰り返す。おかしいな。こういう場面は初めてじゃないってのに。
「眼鏡」
「へ?」
「かけるんだ、知らなかった。よく似合ってる」
お世辞なんて一体何処で覚えてきたんだと、小恥ずかしくて頭の中で叫ぶ。両目の真ん中、鼻のてっぺんがむずむず痒い。今朝のドタバタの最中で下したとっさの判断になぜだか優越感も感じちゃったり。
「そっちこそ髪切ったのか」
「いいや、帽子の中にしまってるだけ」
あ、そうですか。
どうしよう会話が続かない。
割れんばかりの歓声と拍手が聞こえた。スクリーンに映る西住と『ティーガーⅡ・チームリーダー』の文字。
「隊長じゃないんだ」
「さすがにルーキーには任せられないさ」
それを踏まえてもリーダーに抜擢されるのはさすがだ。素直な尊敬と、今こうして西住を持て余していることへの罪悪感が降って湧いてしまった。
「なぁ」
「ん?」
「ブリーフィングとか、あるんじゃないか」
「…そうだな」
「あっ!違うぞ、どっか行ってくれとかじゃなくてだな!」
「うん」
「私なんか構ってないでさ」
「うん」
「今日はさ、お前が主役みたいなものだろ?」
「そうかな」
「皆楽しみにしてる、知らないのか」
ほんのちょっとだけ嫌味っぽくなってしまったのが嫌で咽たふりして咳込んだ。ズレた眼鏡も両手で直す。西住は腰かけたシートの肘掛を無視して、両手を祈るように組んでいる。丁寧に切り揃えられた爪。大きな爪半月。
そこに一滴、頬からしたる汗が見えた。
「ほら、拭けよ」
例のタオルを差し出してやる。茶化すようなつもりで反応を期待したものの、プリントされた文字を無表情で凝視するだけだった。
「安斎、ここにいる人たちは戦車道のファンなのか」
「当たり前だろ」
「全員?」
私は「勿論」と言い返すつもりが、叶わなかった。
正面に向いてたはずの両目が私に狙いを定めているのに気付き息が詰まる。私のあらゆる情念を見抜いているようで。
「今までは」
私の身動きを縛り付けたままの両目は、今度は人で埋め尽くされた観客席へ向けられた。命じられた気がして私も仰ぐと数千数万の顔が一斉にこちらを見た気がした。そんなはずもないのに。
「今までとは違う気がするんだ」
それ以上言葉は続かなかった。そうと分かっていた。
どうしたんだ。嫌な事でもあったのか。
聞くのは簡単なのにしなかったのは、私にその資格があるよう思えなかったから。もしかしたら目を閉じたその瞬間に、あの暗闇で響く喧騒がまるで違うものに変貌するんじゃないのかと、勝手な空想が働く。
まだ数分しか経っていない私たちの会話に、一体どんな意味があるってんだ。相変わらずなのはどっちだ。昔も今も、西住の考えてることはサッパリだ。
だからさ。今日一番の、この数年ついぞ出番がなかった勇気を振り絞ろう。こういう時のための『ノリと勢い』だったろ。
「手を出せ西住」
体中に纏わりついた重さを言葉と一緒にかき消した。振り向いた無表情に負けじと、急かしつけては片手を引き寄せた。
やるじゃないか、私。
「うわっ、つめた」
「何だ?」
「まぁまぁ」
初めて触れる西住の身体はちょっぴり骨ばってた。逃げ出さないように両手で包み込む。
「どんな感じだ」
「柔らかい」
「そ、そうじゃなくてだな。なんというか、安心しないか?」
ジッとされるがままな西住にどうにか言い聞かせられないか、頭の中で探し回る。それは記憶だったり言葉だったり誰かの事だったり。
私が見つけ当てたのは、幼稚園の教室でピアノを引いている自分の姿だった。
「今日はみほも来てるんだろ」
「すごい、よく分かるな」
「他には?」
「他?」
考え込んだ西住の手に向けて体温を送り込む。足りない分は思い出の熱で補ってくれよ。
「お父様とお母様、黒森峰の後輩、みほの友人、それから…」
「ダージリンにケイ?」
「あぁ」
「カチューシャとノンナ、ミカも愛里寿も?」
「…はどうかな」
「全国中継だ、きっと見てる」
「それではキリがないな」
あ、笑ってる?だと嬉しい。
「皆お前のことが好きなんだよ。そこは変わりっこないさ」
「本当に?」
「あぁ」
「絶対?」
「絶対」
「安斎も?」
「う゛ぇ」
危うく顔を見てしまいそうだった。不意打ちとは卑怯だぞ。今度は本当に咳込んで、唇に意識を寄せ集める。
「わ、私は――」
子持ちの主婦だってもっとハキハキ言えるような台詞は、風に流して彼方に吹き飛ばしたい。水分の足りない口内に唾を飲み込む。気圧よ下がれ。
「君は戦車道を辞めてしまったと聞いた」
シナプスが揺れた。
「手紙を出すべきか迷ったんだ」
何かがお腹の底を満たし口から逆流してくる。両目から溢れてきそうで、必死になって我慢する。
「私はただ勝つことしか考えてこなかった。君は、そうでなかったのだろう」
この手の持ち主にだけは見せたくなかった。
「…すまない、意地の悪いことを言った。もう行くよ」
「私は――」
立ち上がったご主人につれられて手の中の西住が離れていく。途中まで追いかけたのは私が望んだから。
平らでまっさらな私の左手首。心臓から伝わる脈動の一定なリズムが、かつてそこにあったものを思い出させる。
「今でも考えるんだ、戦車道を続けてる自分の事」
「後悔してる?」
「後悔もしてる」
例えばどうかな。
今日、同じユニフォームジャケットを着ていたら。相手チーム側に対峙していたら。この場にすらいなかったら。過去と未来の隙間から今を掬い取る。
「それでもさ、今日はお前に会いたかったんだ」
意味なんか無くたって。世界中の誰に笑われたって。
「ありがとう」
声がした。風が鳴った。隊列を組んだ戦車隊が走った。花火が弾けた。陽気な音楽に囃されて歓声が上がった。一斉に私の中へ入り込んで駆け抜けていった。
振り返った西住が帽子のつばに指をかけて、そのまま頭上に掲げた。解き放たれ踊ったライトブラウンが綺麗。見とれた拍子に目が合う。
「今日はよろしく安斎」
そんな表情できるんだな。
電光掲示板の横に設置された時計。短針はもうすぐ長針に追いつくだろう。
空の向こう側に見えた青と白。
聞こえるか、私たちも始めようと思うんだ。数年飛ばしの再開をさ。
『Q』を待ってる