僕が物心ついた時には、この世に生をうけた事自体に意味を感じてはいなかった事を覚えている。
両親も神様もこの世界も何て無駄な物を構築したのだろうかと、失礼ではあると解っていながらもその考えを捨てきれなかった。
僕の世界は何処までも無色な世界だった。色のある世界の中で色のある者として生きていきたいと考えた事が無かったわけでは無い。
だが、その考えが定着しなかった事を考慮すれば、その意思さえも薄弱だった。
そんな僕の世界に色が生まれたのは、いや、僕にとっての
…現在では次女であらせられるが、僕にとってはあの方こそが次期党首に相応しいと今でも確信している。
そのお姿を見た瞬間にそれは解った。この方が僕の全てであり、この方に全てを奉げる為に僕は生まれ落ちたのだと。
最早一目惚れと言っても良いかもしれないが、その様な俗な言葉でこの信仰心にも似た感情を貶めたくはない。
彼女の名前は朱染刈愛。どこまでも無垢で美しいお方だ。
その言葉、その肌、その心、その表情…。あのお方の全てが僕を魅了してやまなかった。
これでも僕の得意分野はハニートラップや魅了などの色事による暗殺だ。
その僕が魅了されると言うのだから僕が愚かなのか、刈愛様が美しすぎたのかは判らない。
恐らくその両方が正しいのだろうけれど。
当主の妻であり、彼女の母である朱染玉露。
僕の直接的な上司は実質的にこの人である。全てを見通す眼を持ちながら愛する男の心を掴む術を見通せなかった哀れな方だ。
玉露様は刈愛様を一流の、否、超一流の殺し屋として育て上げようとしていた。
刈愛様の美しい手を醜い者共の血で汚させたくはない。僕は自ら玉露様に頭を下げて刈愛様の代わりに実働要員として手を汚す事を願い出た。
刈愛様には遥か高みでそのお体を汚す事無く何時までもお心安らかに居て欲しい。
それが僕の唯一の望みだった。
玉露様は僕の少々珍しい能力と成長性を買ってそれを認めた。
それから僕は進んで汚れた。汚れれば汚れる程、汚れの元が刈愛様から離れていくような気がした。
ファーストキスは好きでも無い女にくれてやった。男に身を任せた事もある。
何れも利用し尽くした後殺した。殺して殺して殺した。
それで刈愛様が汚れないのならば、それだけで良かった。
でも、初めてキスをした日の夜は少しだけ泣いたのを覚えている。ああ、無様で大切な懐かしい思い出だった。
僕の最初の絶望は何だっただろうか?
初めてキスをした日?
男に汚された日?
始めて殺しをした日?
けがらわしいこの身が刈愛様に触れるべきでは無いとしっかりと再確認できた日?
いや、そのどれも違う。
僕にとっての真の絶望は、僕が知らない所で既に刈愛様がその手で他者を殺めた事を知った日だった。
その日僕は玉露様を殺す事さえ考えた。
だが、殺しの術で身体を染めて尚、その魂は染まることなく無垢だった。
そう言えば、他にも幾つも思い出がある。
無論、思い出すべきでない類のものだ。
刈愛様に玉露様がターゲットの男を誘惑して二人きりになったところで殺せと、
その経験が無いのであれば周囲の男を見繕えと言った時だった。
それだけでも吐き気がするような出来事だが、玉露様は珍しく刈愛様様に優しい顔をしたと思えばその練習台にこの僕を指定してきたのだ。
「刈愛を良く知る者で口も堅く女にも慣れた者がいたでしょう」と。
この…っ、この穢れ尽くした身で刈愛様に触れるなどと、最初に彼女に一番近くまで繋がる男になるなどと、恐れ多いどころでは無い。
血を吐きそうだった。眩暈がした。自分の返答が耳に聞こえなかった。立つ事だけで精いっぱいだった。
恥ずかしそうに俯きながら少しだけ此方を見た刈愛様に期待した己を絶殺したかった。
僕は刈愛様を拒絶するような言葉を放ち、その日も一人で泣いた。
次の日からは更に汚れる深みも自ら進めた。
もう、それしか僕に出来る事は無かった。
そしていつの段階になった時だろうか?
御伽の国計画の最終段階に来た時だっただろうか?
玉露様は真祖の血肉を配下の者達に移す実験を行おうとしていた。
僕はその最初の被験者に立候補した。
朱染亞愛でもなく赤夜萌香でもなく刈愛様を次期党首に据える為にこの身に惜しい事など無かった。
珍しく玉露様も困惑していた。ご自分が発案した事だと言うのに迷われる理由が判らなかった。
刈愛様が頂点であるという真実を形にするために迷って等欲しくは無かった。
それに…もう
儀式の間際、刈愛様から長女の座を奪った朱染亞愛に告げられた。
「欲しいなら手にしてしまえばいい。それだけだろう?
何を怖がっている刈愛様刈愛様刈愛様とお前はそんな小さな視点でしか物事を語らない。
もっと広い世界を持て。――――そうすればこうもならなかったのだ」
その言葉は僕の中の怒りを燃やすには十分だった。
僕の
世界は刈愛様で刈愛様が世界だ。どこまでも広大で無垢な存在を二度と貶めるな。
僕が初めて明確に他者に向けた怒りに亞愛は随分と驚いたようだった。
思えば亞愛とは良く共に仕事をしたものだ。僕が潜入して内通して、亞愛がお膳立てされた場を荒らして回った。
だが、それだけだ。仲間意識が全く芽生えなかったとは言わないが、刈愛様の存在の前では全てが小さかった。
僕は儀式に望み、
僕が僕である内に、僕の人生で最後の我儘として、唯一解っていて刈愛様を傷つける様な事を言葉にした。
「――刈愛様、心の底から愛していました」
ただ一度だけ愛しき女(ひと)の首筋に牙を