男がいた。彼は喰種だった。彼は天使に出会った。天使は翼をもがれていた。彼は天使に手を差し伸べた。
ビッグマダムの前日譚です。
捏造多々あり。原作既読推奨。


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亡きマダムに捧ぐ


マダムよどうか、安らかに

 初めに見た時は、ただの「家畜」だった。

 

 彼女と最初に出会ったのは、とある地下会場で、好みの飼いビトを探していた時。

 閉塞された空間で響き渡る家畜の悲鳴と、誰とも知れぬ怒号と、喰種達の笑い声とを、香しい血と肉の匂いと喰種達の倒錯した熱気が包み込む。檻の格子にこびりついた血痕や、解体ショーで抜き取られ、捨て置かれた腸の鈍い光沢が生み出すグロテスクは、この場においてはただ余興を装飾するのみである。

 まあ、興じるのは喰種だけで、家畜らにとってはただの悲劇だっただろうが。

 少なくとも俺にとっては、あれらの喉から絞り出された絶叫や命乞いは、食事の呼び鈴よりも身近で耳障りの良い音楽でしかなく、それに耳を傾けながら並べられた商品を物色することは、実に気分のいい道中だった。

 

 その、喰種の天国と、人間の地獄が入り混じった奇妙な世界の中。

 彼女は檻の中にいて、俺はその外にいた。

 その対比が示すものは、至極単純だ。

 奪われた者と、奪い、これからも奪っていく者。

 明日を、自由を、命の尊厳を。

 およそ人が持ち合わせられる限りのほとんどを奪われた彼女は、何処を見るでもなく、ただ虚空に視線を漂わせていた。その姿は、一縷の希望すらない家畜にお似合いな諦観だったが、美しく、今にも折れてしまいそうなほどに儚い印象を抱かせる彼女が纏うには、あまりにも相応しくなかった。

 

 いや違う。ただ単に、俺が気に入らなかっただけだ。

 

 だから俺は、彼女に手を差し伸べた。いつもの享楽的なものとは異なる、妙な衝動だったように思う。

 やっと焦点を定まらせて俺の目を見た彼女は、戸惑ったように目を揺らし、おずおずと、手を伸ばした。

 触れ合った手は力なく、しかし温かい熱が宿っていた。

 彼女は生きている。彼女は奪われていて、彼女は諦めていて、それでも彼女は生きている。

 柄にもなく、喰種らしくもなく、「守らなければ」と感じた。

 だから俺は、彼女をかった。

 そして「家畜」は、俺の「飼いビト」になった。

 

 

――――

 

 

 買って、飼ってからすぐ。

 彼女が「彼女」ではなく「彼」であることが判明した。

 しかしその事実によって俺の彼への庇護欲が薄れることは全く無く、その後の行動にも何ら支障をきたすことは無かった。

 

 彼は何も喋らなかった。

 始めは慣れない環境に戸惑っているだけなのかと思っていたが、風呂に入れて、温かい食事を施して、柔らかい布団で寝かしてと自分なりに愛情――他の飼いビトは皆冷たい牢屋に収容されており、そこを考慮すれば正しく破格の扱いの一言に尽きるだろう――を注ぎ、見守っている内に、彼がいつ害を加えられるのかと恐れていることに気付いた。

 

 常に怯えているのだ。

 特に、肌に触れた時の強張りが顕著だった。

 別に取って食おうという訳ではなかったのだが――喰種が言うと説得力の欠片も見当たらないが――、一度絶望した彼は弱者故の理不尽な不幸と、強者のみが有する不条理な対価交換というものを知っているらしく、いくら甘い言葉をかけても表面だけで納得して、その実、中身や身体の反射は全く伴っていなかった。

 生かされている意味は、甘やかされているその対価は、一体自分に何をさせようというのか。

 そんなことを、幼心(おさなごころ)なりに考えているのだろう。

 警戒心を持っているのは良いことだが、俺としては、対価だ何だなどどうでもよく、彼を自分なりに幸せに出来ればそれで良かったので、その一向に心を開かない姿は、酷くもどかしかった。

 彼には喰種への恐怖と、奪われる者の心構えが骨身に染みているのだろう。

 俺は、とうとう迷ってしまった。

 

 悩んだ末に、その苦悩の大本である彼自身に、どうすれば信じてくれるのかと聞いてみた。

 果たして彼の返事は、己が弱者であることを理解した、実に賢明で、哀しいものだった。

 十にも満たない子供の彼は、たどたどしい口調でこう言った。

 

「危ないことしたり、痛いことしたごほうびなら信じます」

 

 彼は、自分が玩具になり得ることを知っていた。そして自分を弄ぼうとしない俺に戸惑い、返って恐怖を感じていたのだ。

 彼はとうに歪んでしまっていた。他人の好意を何の憂いもなく信じられる純粋無垢な心は、あの見世物小屋の中で穢され、塗りつぶされてしまったようだった。

 そして残ったのは、苦痛を対価にしなければ幸せの一つも勝ち取れない、ひた向きで愚かな従順さ。

 ただの飼いビトなら良かったのかもしれない。

 豚の鳴き真似をしろと言われれば「ぶー」と鳴き、ここで糞尿を垂れろと命令されればその通りに従う。褒美をやれば益々従順さに磨きがかかる筈だ。こんなに可愛らしい「ペット」を、早々に使い潰すことはない。

 

 しかし、しかしだ。

 私はそんなことは望んでいないんだ。

 彼の心の不安を拭ってやりたい。

 彼に美味しいご飯を食べさせてやりたい。

 彼を暖かな布団でくるんで、安らかに眠らせてやりたい。

 彼に自由を。生きる喜びを、思い出させてやりたい。

 そしてその為には。

 

 ――彼に、代償をやらなければならない。

 

 彼の心に安らぎを与えるためには、必要なことだった。

 例えそれが、陶器のような彼の身体を傷つけてしまうとしても。

 例えそれが、彼の心をより歪めてしまうことになろうとも。

 

 ――仕方がないんだ。

 

 そう思うことにした。

 腹の下で熱く胎動を始めた、醜い欲望から目を逸らして。

 

 

――――

 

 

 それから俺は、彼に幸せと代償を与え続けた。

 彼に美味しいご飯を食べさせてやって、暖かな布団でくるんでやって、彼の不安を拭い取ってやった。

 彼の体中に鞭打ってやって、肉体を限界の先まで鍛えてしごいてやって 、解体屋として人殺しに手を染めさせてやって、オークション前の余興に命懸けのサーカスを披露させてやった。

 やがて彼は、俺が抱き締めても身体を震わすことは無くなった。

 

 同時に、痛みに悲鳴を上げることも無くなっていった。痛覚が麻痺してしまったのだろう。黒かった髪も白くなり、ある時、抑えがたい独占欲に突き動かされた俺は、彼の性器をハンマーで潰した。思えばこれらは罪の証だった。しかしその頃の俺はとうに、彼に苦しみを与えること、彼の体を穢すことに無上の(よろこ)びを感じ、初めはあった筈の罪悪感すら背徳の愉悦へと移り変わっていて、気付いていても止める事が出来なかった。

 

 彼は天使。神がこの地獄のような世界に送り給うた、純白の天使。その真っ白な体躯を、まっさらな心を思うがままに染め上げ、堕天させるのは俺。他の誰でもない、俺。

 愉しかったが、それ以上に必死だった。

 彼の存在は酷く希薄で、ふわふわと浮いているように思えたのだ。特に人を殺させてからの彼は何をしても笑みを浮かべるだけで、まるで心と体が剥離したかのようだった。繋ぎ止めておかないと、いつの間にか何処かへ消え去ってしまいそうで。

 そういう意味では俺がやっていたことは、彼ではなく俺自身が安心するための、彼への楔だったのかもしれない。幸せをやる。不幸もやる。なんでもやる。だからここで満足してくれ。頼むから何処へも往かないでくれと。

 毎日毎日、縋る様に与え続けた。

 

 しかしその努力が報われることなく、ある日突然、彼は手のひらから零れ落ちてしまった。

 それは彼の意志ではない。憎々しいあの「白鳩」が(ついば)み、連れ去ってしまったのだ。

 俺は憎悪に燃え、悲愴に暮れた。

 だがその反面、安心してもいたんだ。

 俺は彼への嗜虐にすっかり憑りつかれてしまっていて、いつか彼を取り返しがつかなくなるくらいに壊してしまうのではないかと、日々恐々としていたから。

 

 その日を境として、俺は憑き物が落ちたように気が抜け、毎日をただ無為に過ごした。実際は表裏問わずの取引や、付き合いでオークションやディナーに赴いたりと忙しくはあったのだが、胸にぽっかりと穴が空いてしまった心持ちの俺にはどれも何の感慨もなく、まるで詰まらない即興劇を見させられているようだったので、何もないのも同然だった。

 

 時折気紛れに、あれほど入れ込んでいた「幸せと代償」を適当な飼いビトで試してみたが、やはり彼でないと駄目なようで、どころか彼の喪失を強く己に刻み付けられ、また自身の醜い欲望を剥き出しにされてしまったように思えて、酷い時には女々しくも泣いてしまっていた。

 

 俺の心は彼と共にある。

 俺には彼がいないと駄目なんだ。

 彼がいなければ、俺の心は永遠にからっぽのままだ。

 

 それでも俺は、彼を取り戻そうとは思わなかった。

 

 心燃やす気力すら削がれていた事もあったのだが、それ以上に、彼が目の前から消えてすぐ、まだ熱を残していた心に俺は、一つの決意を含んでいたのだ。

 

 ――もう二度と、彼の前には姿を表さない。

 

 彼に拒絶されたくない我が身可愛さも、確かにある。喰種に家族を殺された孤児や保護された飼いビトが復讐に燃え、喰種捜査官になるのはよくある話だ。憎まれるだけのことを俺はした。もし俺が今一度、彼の前に姿を現したなら、彼は問答無用に俺を殺そうとするに違いない。

 だがそれ以上に、彼には人として生きてほしかったのだ。自分の見ていないところで健やかに、のびのびと。

 

 ヒトではなく、人として。

 

 

――――

 

 

 不定期に開かれるオークションの集い。これまでと同じ、詰まらない出し物に鼻息を荒げて参加して、なのに心の下は冷えていて、いくつか適当な飼いビトを買って終わり。

 

 だと思っていた。なのに――

 

「――続いての商品のご紹介です」

 

 一目見て、息を忘れた。

 

「こちらもカタログにはございません。ふたたび高値がつきそうな、何とも美しい少女のご紹介です」

「ほぉ」「白い肌に大きな瞳!」「良いわぁ」「まるで人形のようじゃないか!」

 

 彼と似ている? いや似ているというよりもまるで――。

 周りの喧騒など耳に入らなかった。だがその中で不思議と、壇上に立つ彼女、いや彼の声だけがはっきりと聞こえた。何年も会っていないのに一声で分かった。

 

「御代は結構」

 

 ――ああ……彼だ。

 

 壇上で踊るように喰種を切り伏せていく彼から目が離せない。

 髪を染めたの? とか、声変わりしたのね、その声も素敵よ、とか、その足はどうしたの? 歩くのに不自由ない? とか。話したいことはいくらでも湧いてくるのに、足が縫い付けられたように動かない。

 気付けば会場にいた喰種達は逃げたか殺されたでこの場から消えており――不意に、彼がこちらを向いた。心臓が締め付けられる。

 

「……じゅ…」

 

 彼の名を呼ぼうとするが、上手く言葉が出ず、喉で詰まってしまった。

 

「マ」

 

 そして彼が何か言いかけた矢先、俺の護衛の喰種が彼に攻撃を加えたために、それを聞くことはできなかった。それから俺は配下の者達に引っ張られるようにして会場を後にし、非常用の逃走通路へ向かった。

 ……彼と話したければ配下の手など、容易く振り払えた。また、真に彼のことを想うのならば、彼だとわかるなり遁走することが最善だったはずだ。なのに俺は、その場に留まるのみで、しかし呼びかけられればその場から離れた。

 

 結局俺は、怖かったのだ。彼に嫌われ、憎まれているのを知ることも、彼から逃げることも。

 それでいて許して欲しかったのだ。自身の罪を。

 

 ……本当に、自分の醜さで目が潰れそうだ。

 

――――

 

 逃走ルートは会場の地下にある。会場を下ってすぐの場所に大人数用のものが一つ、そしてそのさらに奥に小さな、上位の資産家のみが知る秘密の出口が一つあった。言わずもがな、前者は囮の役目を担っており、俺は後者のルートを使って逃げることとなった。

 

 資産家は複数いたが、俺は最後に逃げると名乗り出た。通路は狭く、図体のでかい自分が早くに出てしまっては、後続の者達が苦労する、なんて、今後の俺の心象が良くなるような、もっともらしい理由を挙げてはみたものの、実際のところ、彼ともう一度会いたいだけだった。

 

 馬鹿な話である。ここまで彼が来てくれる確証などないのに、きっと来てくれると、頼りない願望に縋りついているのだ。

配下の者達には先に逃げるよう言ったが、何か予感したのか、死地に赴くような声音で「お供します」などと。こいつらも馬鹿な連中である。人間らしく生かしてやったことに恩を感じているのか、変な忠誠心を持っていた。喰種の俺にそんなもの、お門違いだというのに。

 

 やがて喰種捜査官が突入してきたようで、囮の出口の方はにわかに騒がしくなった。

 もうすぐだ、もうすぐ彼に会える。

 まだ彼が来るかもわかってもいないのに、俺の心は不安と期待で揺れていた。

 

 初めに来たのは彼ではなかった。三白眼の男。逞しい体つきも嫌いではないが、今はいらない。

 次に眼帯を着けた女が来た。先ほど競り落とした、見目の良い隻眼の喰種だ。捜査官だったのか。これも今はいらないが、興味のあるふうを装ってみる。これは、後のための布石である。

 あの連中に倣うわけではないが、精々上手く、ピエロを演じてみようではないか。

 

 そうして配下が殺され、捜査官の二人に止めを刺そうとした瞬間――ついに彼が来た。

 

「じゅ…什造ちゃん…!」

 

「こんにちわ、ママ」

 

 彼の周りには捜査官が数名。彼が中央にいるということは、部下なのだろうか。出世したのね、などと、次から次に言いたいことが増えて困る。しかしそれは我慢だ。

 俺は狼狽えたように後ずさり、逃走を図った。追ってくる捜査官達。ここらで口汚い台詞でも吐いてみる。

 

「どけ、三下どもがあああああッッ!!!」

「ぐう…護衛は何してるのよオオオ」

「什造ちゃん…玲ちゃん!! ヘルプ…ストップ…! ママにたてつくの!? 育ててやったのに…!!」

 

「ママを…うらんでいる!? そうなの!?」

 

 道化に徹そうと決めたのに、最後に零れたのは心からの問いだった。漏れてしまった本当の俺に、彼が気付いていなければいいのだが。

 俺は什造の部下たちの連携に翻弄され、隙を狙った什造の大振りの一撃に叩き斬られて地に落ち、最後は壁際に追い詰められた。

 

 彼が近づいてくる。大鎌を携えた美しい彼は、罪人を裁く死神のようで。浅ましくも未だ贖罪(しょくざい)を求めている俺は、こうべを垂れてしまいそうになる。

 しかし、心の全てを明かし、粛々と断罪を願うなど、あってはならない。それは最も安易でありながら、俺の過ちを、最も取り返しのつかないものにまで貶める行為である。俺は彼に許されてはならないのだ。

 俺はさも愚かしく、彼に命乞いをした。

 

「ヒ…ヒイイイ…ッ!!!

謝るわ…どんな償いもする…!!

 

だから…殺さないで…」

 

 我ながら滑稽であった。死ぬことなんて、今更恐ろしくもないくせに。

 少し間をおいて、彼はぽつり、ぽつりと語りだした。それは彼が俺に贈る、最初で最後の、感謝と手向けの言葉であった。

 

「――ママ」

「…傷だけが」

「あなたからもらった何かでした」

「傷だけが懐かしい…」

 

 身体よりも痛い。結局俺がしたことは、幸せにするなんて方便に(かこつ)けた、単なる利己的欲求の解放だったのか。

 自慢にはならないが、罵声を浴びせられるくらいの覚悟はしていた。

それなのに――。

 

「……周りの誰があなたをどう言おうと、」

「僕は」

「あなたをうらんだことなんてない」

「これは…仕事です」

 

「…ッ…」

 ああ、お前は本当に純粋無垢な、俺の天使だったんだね。

 彼は、私を恨んでいなかった。過ちが無かったことになった訳でもないのに、安堵が胸に満ちていき、同時に喜びも沸き上がる。今すぐにでも彼に懺悔をして、何時かのように抱きしめてしまいたい。そんな独りよがりの欲求に従ったなら、どれだけ気持ちよかっただろうか。

 けれども今宵ばかりはお預け。彼と再会してから、地下に降りるまでに考えた最低の即興劇。主演は貴方で悪役(ヒール)は私。お前が俺を乗り越えてくれるようとっておきの醜態(さよなら)を、どうかその目に焼き付けてほしい。

 

「クソガキが…ッ!!! 教えてやる、私がお前を飼ってたのはたまたま造形がよかったからだボケが。勘違いすんじゃねえぞ。お前なんか一度も、愛して――」

 

 と、突如として動いた捜査官達が俺に斬りかかり、什造に斬られた時点で限界だった俺の身体は、その衝撃によって意識を手放した。もう目覚めることはないだろう。

薄れゆく視界の中で、目の前の玲が何か言っているのが見える。耳が聞こえないのは幸か不幸か。最後の言葉、恨み言でなければいいな、なんて。どこまでも身勝手なことを考えて、俺は瞼を下ろした。

 

――これで俺は、俺を許せる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――可愛い玲、玉のように美しい子。私はお前の父になれたろうか、母になれたろうか。

 

――資格なんてないけれど、幸せになれますようにと、祈ることくらいは許してくれないだろうか。

 

――迷惑かもしれないけど、ああ――私の心は、未だお前と共にある。




(lie)

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