長い刻―――いつ目覚めるとも分からない封印の中で、フウコは何度も、彼女に対話を試みた。
肉体の活動は停止しても、魂の交流は可能だった。はたして、どちらの精神世界をベースとしているのか定かではないが、蒼い空と碧い海が覆うその世界では、魂は自由に動けた。時折、空には砂塵のような雲が生まれたり、冷たい風が吹いたりすることもあるけれど、おそらくは、それらはもう一人のフウコの心情の変化を象徴しているのだろう。雲が何を表し、風が何を伝えようとしているのかは、分からないが。
檻も、まだ作っていない、互いに自由な世界。
けれど、フウコの言葉に、一度も彼女は返事をしなかった。小さな身体を丸めて、顔を挙げてもくれない。だけど、いつか封印が解かれた時、平和な世を破壊するようなことをしてほしくなくて、何度も対話を求めた。
何度も……、何度も…………。
どれ程の時間が経過したのか。
精神世界では、肉体が感じるべき時間経過を得ることができないため、分からない。ただ、出来れば、扉間が生きている時に、封印を解いてほしいという願いはあった。あったのだが、その願望は、限りなく遠いものだと、悲しく理解していた。
だけど、自分は誓った。
封印される前に、彼に誓ったのだ。
里の平和を守ると。
☆ ☆ ☆
「この身体を、貴方に返すことはできない」
檻を隔てて、フウコは断言した。
身体の支配権を渡せば、瞬く間に彼女は、里を壊す。今は、うちは一族という爆弾を抱えてしまっている。何としても、渡すことはできない。
「―――ふふふ。酷いなあ、フウコさんは」
ついさっきまで、悲痛な表情を浮かべていた彼女は一転して、笑みを浮かべた。
自分よりも年下のはずなのに、彼女の笑みは、背筋を寒くさせるほどの妖艶さを放っていた。
小さな彼女の手が、檻を掴む。フウコは、すぐに精神チャクラを檻に注いだ。
今、彼女を抑え込んでいるのは、精神チャクラをただ具現化しただけの柱だ。封印術でも何でもない。元々の年齢に差があるため、精神チャクラにおいては大幅な差がある。檻を破られることは万に一つもないのだが、それでも、警戒してしまう。
檻の中からでも、彼女は幻術を行使することが出来てしまうのだ。檻は彼女の精神世界での動きを拘束するだけで、彼女のチャクラそのものは縛れない。
身体の支配権を、虎視眈々と狙う彼女から、どのような不意も食らわないように、檻にチャクラを集中させたのだが、彼女は意に介さないまま、ケタケタと笑った。
「人から色んなもの、盗んでおいて。人の色んなものに、寄生しておいて。少し、悪いなあって、思ったりしないの? ふふふ、酷いなあ」
「フウコちゃんも、知ってるでしょ? 今、木の葉は危険な時期なの。もし、私のことが気に食わないなら、全部終わってからにして」
肉体のベースとなっているのは、彼女の方だ。そのため、肉体が獲得する経験や知識を、彼女はフウコと同じように得ている。
言葉遣いや忍術の知識も、全て、彼女は知っている。もちろん、うちは一族のことも。
逆に、自分が支配権を持っていない時は、外で何が行われているのかを、知ることはできない。そう、自分はこの身体においては【部外者】なのだ。それを証明するのは、この世界での自分の姿。かつての本来の姿ではなく、彼女の身体が成長した姿に、精神の形は模られている。
彼女は「嫌だよ」と、赤い瞳で見上げてきた。
「寄生虫みたいに生きてるくせに。人の身体に寄生して、人の家族に寄生して、人の友達に寄生して……ふふふ、気持ち悪い。次は何? 財産とか?」
「静かにして」
「酷いなあ、酷いなぁあ? ふふふ」
神経を逆撫でされる、挑発的な声。
いつから、彼女の言葉に、感情を揺さぶられるようになってしまったのだろう。
冷静になるために、客観的に自分を見ようとするが、上手くいかない。
逆に、完全に感情を暴発させられる一言が、フウコの意識を揺さぶった。
「きっと、イロミちゃん、悲しんじゃうかもね」
感情が、赤くなる。
瞼を、無意識に大きく開いていた。
思い出されるのは、笑顔で自分の名を明るく呼んでくれる、親友の姿。
「自分の大切な友達が、本当は、偽物だったなんて知ったら、泣いちゃうかも。ううん、きっと軽蔑すると思うなあ」
「……静かにして」
首の後ろがざわざわと慌てだす。ぐちゃぐちゃになりだす自分の感情を統制できなくなってきた。
それを察したかのように、彼女は言葉を強め、ニタニタと粘着質に口角を吊り上げた。
「だって、イロミちゃんが友達だと思ってるのは、イロミちゃんと友達になったのは、私なんだもんね。フウコさんじゃなくて、わ・た・し! ふふふ。ああ、今でも、しっかり思い出せるの。イロミちゃんと、手を繋いで、あの綺麗で楽しい夜を探検したこと。色んなこと、お話ししたの。それでね、約束したんだ。また一緒に、今度は目一杯遊ぼうねって」
「……黙れ」
「悲しかったと思うなあ、イロミちゃん。アカデミーで、フウコさんを見た時。すっごい悲しかったんだと思うよ? 私も、凄く悲しかった。本当なら、私だったのに。でも、良かったぁ。イロミちゃん、目が視えるようになってて。ふふ、フウコさんは知らないでしょ? 盲目だった頃のイロミちゃんを、純粋なイロミちゃんを。フウコさんは、だから、ただの、寄生虫なの。イロミちゃんの友達ですらないの。偽物だから。ああ、イロミちゃん、イロミちゃん……ふふ、素敵な名前。ねえ、さっさと、身体、返して? フウコさんは、本当の友達じゃないんだから。ねえねえ、早く、返してよ、偽物」
「黙れぇッ!」
喉が裂けるほどの、大声―――それは、意識して出したものではなかった。
気が付けば、声を荒げていたのだ。
九尾の事件の時に、仮面の男に向けて荒げた声と遜色ない。ただ、殺意ではなく、純粋な怒りだけが含まれている違いしかなかった。
大股で檻に近づくと、フウコは右手で彼女の前髪を乱暴に引っ張り上げ、自分の額を彼女の額にぶつけた。
痛みで表情を歪める彼女に、フウコは容赦なく言い放つ。
「貴方には、絶対に、身体を渡さない」
「……っ、ふ、ふふふ。その身体は、私のなのに、渡さないって。変なの。いっ……!」
前髪を掴む右手に力を入れた。
「いい? もう二度と、私の……私たちの邪魔をしないで」
「どうせ、上手くいかないんだから」
「成功させる。イタチとシスイがいれば、絶対に、大丈夫だから」
「いつになったら、じゃあ、身体、返してくれるの?」
「貴方が里の平和に手を出さないって、誓ってくれたら」
この時、フウコは、脳裏に微かによぎった未来へのイメージを無視した。
目の前にいる子が、本当に、心から改心して、里の平和を守っていくと誓った後の未来。
イタチと兄妹として健やかに過ごしていく、彼女。
シスイと楽しそうに里を歩いていく、彼女。
イロミと共に頑張りながら忍として生きていく、彼女。
彼ら彼女らの影で、孤独に、置いてかれる自分。
忘れられていく、自分。
怒りに任せて、フウコは、そのイメージを見ようともしない。
目の前の、彼女が、優しい笑顔を、作った。
「嫌だよ、ばぁか。あははははははッ!」
彼女が嗤って否定してくれたのに、安堵している自分がいることを、フウコは、無視した。
☆ ☆ ☆
『もう、会うことはないかもしれないね、フウコちゃん』
『私も、そう思うな。というより、フウコさん、もう二度と、私の前に顔を出さないで。気持ち悪いから』
『さようなら、フウコちゃん』
『ふふふ。もうすぐ……、もうすぐなの……。マダラ様が、私を助けに来てくれる。そして、夢の世界に、連れてってくれるの。ふふふ』
もはや後戻りできない決別を互いに宣言し、フウコは、意識を身体に戻した。
幻術のせいで、肉体に変な負担がかかってしまっていたのか、気だるい疲れがやってくる。
「おい、フウコ」
視界がはっきりしてくると同時に、心地の良いシスイの声が、鼓膜を揺らした。頭を垂れていたせいで、真っ先に目に入ったのは自分の両足と地面だった。右手には、彼の手の感触が。顔を挙げて、隣の彼の顔を見ると、不思議そうな表情を浮かべていた。
「どうしたんだ? 急に黙って」
「……ああ、シスイ」
どれくらいの時間が経過していたのか、とか。
意識を底に沈めていた間に自分の身体に変化はなかったのか、とか。
それらの些細な事柄を脇に、フウコは彼の首筋に左手を伸ばしていた。
「な、なんだ? くすぐったいぞ」
繋がってる。
筋肉と血液の温かさが、確かにある。
幻術だと分かってから、彼の生存は確定したようなものだったけれど、ほんの微かな不安も、あった。
こうして手を伸ばして感じ取ってみるまで、安心できなかった。
―――ああ、生きてる。良かった。
安堵と共に肩の力が大きく抜けてしまい、つい、身体が、彼に寄りかかってしまった。
「……どうした?」
優しい声。
フウコは力なく、首を横に振って否定する。
自分のことを―――うちはフウコの事を話すことは、出来ない。
それは、ヒルゼンやダンゾウらから、口止めされているからだ。
しかし、どうだろうか?
話してしまえば……、話すと、どうなるのだろうか?
与太話だと、いなしてくれるだろうか。
それとも、本当に信じて、この不可思議な自分の状態を解決しようとするのだろうか。
あるいは、自分を、軽蔑するのだろうか。
予測が難しい。
シスイなら、もしかしたら、この事態を解決してくれるかもしれない。彼の人格なら、ありえる。
そう思う反面、暗い想像も、影のように心の底で蠢いているのも、想像の中に入り込もうとしているのが分かる。
―――いや、
もう止めよう、とフウコは判断する。
もう、彼女に対話を求めても、意味がない。
つい先ほど、完全な、決別をしたのだから。
この身体は、もう、私の―――。
「……お線香は?」
「消えたみたいだな」
そう、とフウコは呟く。
「じゃあ、帰らないとね。イタチが心配。怒ってるかもしれない」
「そうだなあ。あまり遅いと、俺が殺される」
そんな筈はない。そう思うと、本当に微かにだけ、笑みを浮かべてしまった。彼なりの、ジョークなのかもしれない。それに、様子が変だと感じているようだけれど、彼が深く訊いてこないのも、もしかしたら気を使ってくれているのだろうか。
二人は立ち上がる。
気だるさを感じながらも、意外と難なく立つことが出来た。シスイと二人で、ここに訪れた痕跡を消す。帰路を歩く時も、辺りに誰かいないかと気配を集中させる。しかし、何だか集中できていないような気がした。
自分の右手を握ってくれているシスイの体温が、その原因だった。フウコも、彼の左手を強く握っている。
「……ああ、シスイ」
「ん? なんだ」
「伝え忘れてたことがあるの。ダンゾウが、今後は、危険な任務はしなくていいって」
「お、それは良いな。サボりたい放題だ」
「いや、でも、形式だけはするようにだって。だから、本部には顔を出して」
「なんだ、そうなのか。まあ、気を利かせてくれたのだけは、嬉しいな。これで、少しだけ楽になる」
ダンゾウが協力的だというのは、イタチもシスイも知っている。しかし二人とも、完全に彼のことを信用している訳ではないのも、事実だ。それでもシスイは、笑顔を浮かべている。
いつでも、彼は笑顔だ。
彼ほど、笑顔が似合う人物を、知らない。
彼の手を握る手が、少しだけ、また強くなった。
ただ、彼が死んだ、あの幻術の映像が、頭から離れない。
あの瞬間に抱いた、喪失感。
彼の命と、彼と共に過ごすであろう楽しい未来。
イタチとイロミが悲しむ姿も思い浮かんだ。
それは、悲しい現実だった。
怖いと、思った。
何よりも来てほしくない現実だと、思った。
シスイの家の前に着く。会話は特に無かったけれど、あっという間だった。
「術の調整は、いつにする?」
術。
それが示すのは、一つしかなかった。
「イタチの予定次第だと思う。でも、明日は会合がないから、夜にでも出来るかも」
「分かった。決まったら、連絡してくれ」
「うん」
「……何か、辛いことでもあったか?」
「え?」
顔を挙げると、シスイの顔は真剣だった。
けれど、すぐに彼は、また笑って、繋がっている手を軽く上げた。
「今日はいつもより強く握ってくれるからな。というか、少し痛いくらいだ」
言われて初めて、フウコは自分の手が予想以上の力で彼の手を握っていることに気が付いた。慌てて、力を緩める。
「……ごめん」
「いや、謝らなくていいって。嬉しいけどさ。ただ、様子が変だぞ?」
「気にしないで、何でもないから」
「あんまり、無理するなよ。お前は昔っから、一人になりたがるからな。アカデミーの頃は殆ど友達作らなかったし、さっさと卒業するし」
「ありがとう。おやすみ、シスイ」
「ああ、また明日な」
ゆっくりと、手が離れる。
まず、手のひらから彼の体温が離れた。そして指先。まるで飴細工を扱うように、指の一本一本から、離れていく。
「おやすみ、フウコ」
完全に離れてしまった寂しさの代わりに、彼の言葉が入り込んで、安心する。
シスイが家の中に入っていくのを見てから、フウコも、足を帰路に進めた。
家に帰ると、まだフガクは帰ってきていなかった。既にミコトは寝静まっていて、けれど、イタチは居間にいた。
いったい何をしていたのか。
真剣な表情で尋ねてくる彼が可笑しかった。
☆ ☆ ☆
全てが、上手くいくはずだった。
少なくとも、強大な邪魔が入る要因は皆無のはずだと、フウコは考えていた。
仮面の男にはマーキングを施し、いついかなる時に木の葉隠れの里に侵入してきても、確実に対応できるようにしている。自分の中に巣くう彼女は、もうこの身体を奪い返すこともできない。
あとは、自分たちが開発した【複合幻術・
かれこれ、何度もシミュレーションを行った。
考えられるアクシデントも話し合い、それに対応する効率的なパターンもシミュレートした。
何度も繰り返した。
本当なら、まだまだ、調整は必要なのだけれど、時間が無くなってきたのだ。
翌日、フウコとイタチに、フガクから、とある話しが入り込んできた。
三日後。
うちは一族の中心人物と、火影を中心とした上層部が会談を行うことが決定した。
かれこれ、どれほど行われてきたのか、もはや回数すら覚えていない、無意味な会談。
互いに平行線の主張を繰り返し、最終的に分かることは、うちはと木の葉隠れの里には埋められない溝を明確にした、という空虚な現実だけ。
しかし、その会談が、ボーダーラインだと、フウコも、そしてイタチも、言葉を交わすことなく冷静に判断した。次の会談は、行われない。代わりに、クーデターが、準備期間を経て、起きるだろう。
フウコとイタチは、その後、シスイと合流し、話し合った。三人とも、その日は特に予定が無かったのが幸いだった。
集まったのは、夕方頃。
場所は、顔岩の上。
そこで三人は、最後の調整を行った。
術は、何も問題なく、成功した。
「あとはタイミングだけだな。どうする?」
術の調整も終わる頃には、太陽は西の空に消え、三人の影が薄くなり、空そのものが影になり始めていた。
地面に描かれたうちはの町の図を見下ろしながら呟いたイタチに、シスイが応える。
「なるべく、一度にうちは一族を幻術に嵌めれる時がいいな」
「なら、準備期間がいいな」
「他には考えられないか?」
シスイは真剣な表情で自分の顎を撫でた。
本番は、一回限り。ミスは許されない。
それは、うちは一族に、自分たちの裏切りが発覚するということもあるが、他にも、シスイの万華鏡写輪眼による【別天神】の制約によるところもある。
別天神は、最上級クラスの幻術である。
通常の幻術とは異なり、幻術を仕掛けられている、ということを対象者に認識させない。それはつまり、思考回路そのものを書き換えるのと同意と言っても誤りはないだろう。術は、術者が解除しない限りは永続的に作用される。
しかし、その強大な力のせいなのか、別天神には制約が存在する。
一度使用すると、次に使用できるまでには、長い期間を要するのだ。
右眼と左眼、合わせて二度しか使用できない。
理想を言えば、一度目の使用だけで、うちは一族全員を幻術に閉じ込めたい。しかし、それは里の警備を担う警務部隊に所属するうちはには、夜勤担当者がローテンションで幾人か存在するため、町にうちは一族全員が収まることは、現状ありえない。
そのため、プランとして。
一度目の使用で、大半を幻術に嵌め。
二度目の使用で、残りを嵌める。
故に重要なのは、一度目のタイミングなのだ。
なるべく、二度目の使用の際の人数を減らしたい。
シスイがフウコを見る。真剣な彼の顔を、フウコは見つめ返す。
「ダンゾウには協力を仰げるんだな?」
フウコは頷く。
「問題ない。だけど、手数は限られると思う」
「多人数だと、他の人たちに感づかれるか……」
「それに、手を貸してくれるのは、直前だけ。だから、外から、例えば警務部隊の夜勤を別の人に交代させるとか、そういうのはできない。実質手伝ってもらえるのは、私たちが、幻術でコントロールしている時に、万が一、零しがあった場合に、その人を捕らえることくらいだけだと思う」
ダンゾウには既に、自分たちのプランは説明してある。その際に、ダンゾウの対応も聞かされていた。
暗部は慎重に動かざるを得ないのは、分かり切っていた部分ではあるため、シスイは特に失望したようなリアクションはしなかった。
議論はそのまま続いた。
様々な可能性を模索し、より信頼の高いものを話し合い、しかし、やはり結論として、会談が終わった翌日に決行することになった。
その日なら、多くの者が、せっせとクーデターの準備をするだろうと判断したからだ。
完全に油断し、同時にほとんどの者たちが街に集まる。
決行時間は、子の正刻。
それが、三人で導き出した、最終結論だった。
「私は、このことをダンゾウに伝えに行く」
イタチとシスイは同時に頷いた。いよいよ本番の日時が決まったことによって、二人の表情は真剣だった。けれど、緊張している訳ではないということが、何となく分かる。おそらく、自分と同じなのだろう、とフウコは判断した。
もうすぐで、こんなくだらない時間が終わる。
こんな、うちはのくだらない思想に費やさなければならない時間が。
内側から崩壊するのではないかという不安に駆られる夜にも、愚かしい戯言が繰り広げられる会合に参加する日も、消えてなくなる。
待っているのは、間違いなく、有意義な日々。
喜びと興奮が、三人の胸の中にはあった。
イタチは家に帰っていく。フウコに暗部の仕事が入ったから今日は帰りが遅い、ということをフガクとミコトに伝える為にだ。
シスイも家に帰ったが、彼とはすぐにまた会う予定だった。彼はフウコと異なり、本当に暗部の任務が入っている。入っている、と言っても、形だけで、ただ本部に顔を出すだけである。家に帰るのは、暗部として色々と準備する為だ。
「またな」と言って姿を消す時に、ようやくシスイは笑顔を見せた。その笑顔を見るだけで、力が湧いてくる。
心の力。
クーデターを阻止することができるという、確信だ。
全て、上手くいく。間違いない。
顔岩の上に、一人になったフウコは、おもむろに、そこから見下ろす事の出来る里の風景を眺めた。
すっかり夜になってしまったものの、まだ里の至る所から住居の光が溢れている。街頭の下を歩く人の姿も確認できる。
もうここからこの景色を眺めることも、もう無いだろう。これからは、自分があの中に入って、平和を享受するのだから。
無意識に溢れ出てくる未来の予測に、フウコの口端は、子供のように、小さく笑顔をかたどった。
「うちはフウコだね」
予期せぬ、知らない声が、後ろからした。
男性の声。
だが、その声は、どこか、楽しそうにはしゃぐ無邪気さが含まれていた。
背筋を一瞬で震わせたその声に、フウコは笑みを消し、振り返る。
そこには―――白い男が、生えていた。
即座にフウコは、刀に手をかけた。
すぐに切り付けなかったのは、他に仲間がいるのではないかという、瞬時の判断によるもの。
完全に背後をとっていたにも関わらず、わざわざ声をかけてきたのに、嫌らしい罠の気配を感じ取ったのだ。
両眼は既に、写輪眼を展開している。
白い男―――白ゼツは、射殺すようなフウコの視線を受けながらも、飄々と笑って見せた。
「おっと! 俺を殺そうとしても、意味がないよ。別に戦いに来たわけじゃないからね」
「お前を殺すか殺さないかは、私が決める。お前は何だ」
低く、冷たい声。
間合いは、全力で動いて、たったの二歩ほど。
身体の姿勢から、その気になればいつでも首を切り捨てることができるだろう。
油断している、という訳ではない。
ただ本当に、目の前の男には、戦う気が無いのだと、フウコは判断したが、鋼のような集中力を切らすことはなかった。
白ゼツはにやりと笑う。
「俺は伝えに来ただけだよ。伝達役、それだけ。むしろ殺したら、損をするから気を付けた方がいいよ」
「なら、さっさと話せ」
「今、俺の仲間が、滝隠れの里を襲撃している」
「……滝隠れ?」
仲間の存在を示す言葉よりも、フウコの思考は先に滝隠れの里に引っ張られた。
まるで見当違いの方向から飛んできたワード。
しかし、すぐに、答えに行きつく。
「そう。七尾の人柱力を狙っているんだ」
全身の産毛が逆立った。
七尾。
尾獣。
それに関わる、最悪の人物の顔が想起された。
「今頃、暗部に救援要請が来ている頃だろうね。早く暗部に―――」
白ゼツの言葉は、そこで途切れることとなる。
音もなく接近したフウコによって、首を絞められたからだ。
たったの左腕一本。
彼女の左手が、白ゼツの首を掴み、身体を引き上げた。顔岩の上に埋まっていた下半身は芋のように引き上げられ、そして、地面に叩きつけられる。
容赦のない動作のフウコの表情は、怒りに染まっていた。
写輪眼で、白ゼツの両眼を見下ろす。
幻術だ。
「言え。うちはマダラはどこだ」
つい先ほどまで笑みを浮かべていた表情は一転し、虚ろな表情になった白ゼツは、呂律の回り切っていない口調で「知らない」と応えるしかなかった。
「七尾を狙って、何をしようとしている」
「知ら、ない……」
「襲撃しているのは誰だ」
「角都と、……大蛇、丸…………」
そこでフウコは、左手の握力を強めて、白ゼツの頸椎を圧し折った。
―――本当に、伝達だけだった。
つまりそれは、男の語ったことが真実であるということを示している。
深く考えるよりも先に、フウコは全速力でダンゾウの元へと向かった。
怒りと困惑。
それらの混沌とした感情を、歯を食いしばって抑え込みながら本部へ向かう。
ダンゾウは、いつもの執務室に、ただ一人でデスクに腰掛けていた。
「ダンゾウさんっ」
無表情を崩し、本部内であるにもかかわらず、様と付けない彼女を見て、ダンゾウの表情は小さく変化した。
ランプの灯りが、フウコの長い髪の毛の影を揺らす。
「滝隠れの里が襲撃されているというのは、本当ですか?」
「……どこでそれを耳にした」
「教えてください、事実ですか?」
彼の表情が硬くなる。
それは―――男が述べたことが、正に事実として起こっていることを示していた。フウコはすぐさま、踵を返そうとする。彼女の心の中には、九尾によって壊された里の姿と、冷たく動かなくなった波風ミナトとうずまきクシナの姿、そして苦しそうに泣き続ける赤子の姿が思い出された。
再び、あの惨劇が繰り広げられようとしている。
怒りに身を任せて、乱暴に部屋のドアを開けた。
「待て、フウコ」
暗く重いダンゾウの声が、部屋の壁に響く。
「冷静になれ」
「私は冷静です」
彼女の声は、花を踏みつぶすように、荒かった。
「まだ、マダラが関わっていると決まったわけではない」
「先ほど、マダラの仲間を殺しました。滝隠れの里を襲撃していると、わざわざ伝えに来たようです」
「だとしたら、尚のことだ。状況を理解しろ、フウコ」
「七尾をみすみす、奪われろというのですか?」
「お前が死んだら、うちは一族はどうなると思っている」
「このまま七尾を奪われても、同じことになります。私は、行かせていただきます」
仮面の男は、九尾を操っていた。
なら、七尾を操る事も可能なのだろう。
もう一度、あの夜がやってきたら―――誰が止めれるのか。
たとえ止めたとしても、疲弊した里を、うちは一族は容赦なく乗っ取りに動く。
状況はむしろ、悪化するのだ。
修正不可能なほどに。
いや、それは方便かもしれない。
ただ単純に、仮面の男を殺したい。
フウコは、後先を考えない怒りに、従属する安堵を求めていた。
大切な―――千手扉間が創り上げた平和を傷つけた、仮面の男を殺したいという欲求に。
ダンゾウの目が冷酷にこちらを睨んでいる。
失望と諦観の入り混じった視線を、怒りを込めた視線で受け止める。
「俺がフウコに付いていきます」
二人の視線は、部屋に入ってきたシスイに集中した。
ダンゾウもフウコも、驚きを隠せない。
「事情は大体、他の連中から聞きました。俺も行きます」
「お前らは……自分が何言っているのか、分かっているのかッ!」
「はい、分かっています」
硬い表情で、シスイは頷いた。
「その上で、言っています」
「駄目。シスイは里に残って。じゃないと―――」
「ダンゾウ様、フウコには絶対に無理はさせません。危険だと俺が判断した場合、すぐに離脱します。……それでは」
シスイに腕を強引に引っ張られ、部屋を出た。後ろから、強く引き止める声が聞こえてきたが、シスイが速度を上げ、二人は本部を離れる。
寝静まろうとする夜の里を、屋根を跳び、路地を駆け、門を潜り抜けた。そして、滝隠れの里の方向に数里ほど進むと、ようやくシスイは口を開いた。
「いいか、フウコ。無理はするな」
冷静で力強い声質。
これまで暗部として何度か任務を共に行ったことがある。【瞬身のシスイ】としての、彼。腕を引っ張られた状態のせいで、彼の顔は見えなかったが、研ぎ澄まされた表情が想像できた。
「俺たちにとって、今、重要なのは、里のことだ」
「…………分かってる」
「本当か?」
「お願い、シスイは、里に戻って。うちは一族には、私たちと違うパイプが暗部にはあるみたい。もしこの事態を知ったら」
「お前が里を離れているんだ。お前を抜きに里を乗っ取ると躍起になるほど、うちは一族はも馬鹿じゃない。たとえ暴走した場合、どっちみち、俺が里に残ったとしても、十五夜之都は三人いなければ成立しないんだぞ」
「……だけど―――」
「フウコ、俺は冷静だ」
と、シスイは言った。
「お前が里を出るなら、これが、里の為になる適切な判断だと思っている」
「……ごめん」
「責めてる訳じゃない。お前は、俺よりも頭が良い。何か考えがあってのことなんだろ?」
違う。
冷静な考えなんて、何もない。
ただ、怒りと殺意だけで、動いている。
自分を信じてくれているシスイへの罪悪感に顔を俯かせるが、未だ胸の中に溢れ出る黒い感情は減らなかった。
「大丈夫だ、心配するなよ」
驚き、顔を挙げる。
ちらりと見えた彼の口端が、確かに、笑っていた。
日常で見せる、軽やかな声。
すぐに彼の笑みは消えて、声は無機質に近づいた。
「無理はするな。いいな、フウコ」
「……分かった」
手が離れ、身体が軽くなる。
二人は、速度を上げた。
☆ ☆ ☆
滝隠れの里は、その名の通り、滝の中に存在している。
何の変哲もない、しかし壮大な滝の裏に潜む唯一の入り口で侵入者を防ぎ、その奥にある幾つもの大きな水溜りの通路は蟻の巣のように入り組み侵入者を迷わせる。里の者ではない限り、決して里まで辿り着くことは許されない、自然の障害。
しかし―――今、滝隠れの里は、襲撃を受けていた。
いや、もう襲撃し終わったという表現が正しいだろう。もはや、たった二人の侵入者に抵抗できる者はいなかった。誰もが血を流し倒れ、息をしている者の方が数は少ないだろう。必死の抵抗をした跡は、里の中央にそびえ立つ巨木に数えきれないほどの傷を作っていた。
にもかかわらず、二人の侵入者には、目立った傷痕は見受けられなかった。
二人が羽織る黒い下地に赤い雲の紋様が描かれたロングコートに、ようやく砂埃が付着する程度で、傍らに倒れる者達の間を悠々と歩いていた。
「この程度で忍里を名乗るなんて、随分とまあ、お粗末なものね」
大蛇丸は嘲る。蛇のような瞳で、憐れむように辺りを見回した。白化粧をした顔の前を、長い黒髪が揺れる。
「参考までに訊いておくけど、故郷を破壊するのはどんな気分なのかしら?」
「ふん、何も」
頭巾を被り、マスクで顔を覆っている男―――角都は、言葉通り、感情もなく応える。彼は大蛇丸より少しだけ前を進み、暗に道案内をしていた。
「大した賞金首もいない里になど、興味は無い。金にならないからな」
「あらそう。まあ私も、大して珍しいおもちゃもなさそうだから、興味なんて沸かないけど」
「相変わらず、貴様はどうしようもないな」
「貴方に言われたくはないわね」
そこで一度、二人の会話は途絶える。
同じ組織に所属しているが、かといって友好的な関係が築けるという訳ではない。そもそも、集団とは相いれない者達ばかりなのだから、当然といえば当然である。互いに苛立ちを覚えることは会っても、友人関係のように仲睦まじい気まずさなど生まれる訳がなかった。
二人が進む先には、七尾の人柱力が祀られている祠。小さな門を抜け、薄暗い通路を進んでいく。
「七尾の人柱力はどのようなものなの?」
「俺も直接見たことはない。だが、虫だと聞いたことはある」
「昆虫採集ということ……。あまり、気が乗らないわね」
「黙ってろ」
祠の奥には、石で造られた祭壇があった。それなりに歴史を感じる古臭さが祭壇から感じ取れるが、奇妙なことに、祭壇の上に経っている檻は、比較的真新しかった。
そう、檻。
虫篭のように、檻は直方体の形をしていた。
中には、一人の少女。
緑色の短い髪の毛、褐色の肌。少女は、膝を抱えて、蹲っている。
「これが、七尾の人柱力?」
檻の前に立ち、大蛇丸は少女を見下ろす。
憐憫の感情など湧いてはこない。既に頭の中では、さっさとこれを捕まえてノルマを達成したいという算段しかなく、ただ角都に確認を取っただけだった。角都は小さく頷く。
「……貴方たちは、誰っすか?」
少女は、俯きながら尋ねた。
「フウを、助けに来てくれんすか?」
「ええ、そうよ。貴方を解放してあげるわ」
どこの里でも、人柱力の扱いは変わらない。
天災として認識される尾獣を体内に封印された人柱力は、人々から疎まれる。
この少女も同じだろう。檻は少女を守るためのものではなく、里の者たちを守るためのもの。
故に、これから彼女を攫う自分たちの行為が助けに該当してもおかしくはない。
少女―――フウは立ち上がる。
その表情は、どこか壊れたような、笑顔だった。
「……そうっすか。ようやく…………、フウは、自由になれるんすね。もう、里の人たちは、邪魔をしないんっすね」
フウの言葉は大蛇丸と角都、その二人を完全に無視したものだった。
伝わってくる、フウからの敵対的な空気に、角都は舌打ちをする。
「おい、大蛇丸」
「ええ、少し、面倒になりそうね」
「あとは、貴方たちだけ。それで、フウは、自由に―――!」
フウは意識を底に沈め、自分の中に眠る七尾を縛る封印式の前に立った。
『今だけは、お前の力を信じてやるっす』
七つの羽を持つ、巨大な体躯と、堅甲な昆虫の兜と角を持つ七尾―――重明は、フウと視線が重なった。
これまで一度として、まともな対話が成功したこともなく、互いに憎み合っていた相手。
しかし、フウは賭けた。
自分の自由を。
『好きなだけ暴れるっすよ、七尾! ずっと、遠くまで!』
フウは、封印式を解除した。
次の投稿も十日以内に行います。