いつか見た理想郷へ(改訂版)   作:道道中道

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 今回は、とびっきり話しが進みません(いつものことですが)。ご了承ください。


止まる水は、箱を満たす

「なあ、ジイちゃん。漢字を勉強したいんだけど、何かいい本とかないか?」

 

 家に帰ってくるなり、真っ先に祖父の寝室に向かったシスイは、廊下と部屋を隔てる襖を勢いよく開けると、開口一番にそう言った。

 

 八畳ほどのコンパクトな寝室。部屋の真ん中に敷かれた布団から上体だけを起こして新聞を読んでいたカガミは、幼いシスイに顔を向けた。

 

「………………はあ」

 

 ため息をつくカガミ。鼻に乗せた分厚い老眼鏡を外し、几帳面に端を揃えて畳んだ新聞と一緒に布団の横に置くと、彼は皺の深い表情を渋くさせた。

 

「シスイ、ここに来なさい」

 

 布団の真正面を指差しながら部屋に響くカガミの低い声が、シスイの小さな興奮を重く沈めさせた。襖を静かに閉めてから、シスイは布団の正面にチョコンと正座する。

 

 短い沈黙を経てカガミは、まだ幼いシスイを厳しく見下ろしながら呟いた。

 

「今までどこに行っていた」

「ちょっと、外に行ってた」

 

 素直に応えるが、カガミの視線は強くなる。

 

「一人でか?」

「父さんと母さんに、外に行ってくるって言ったよ。俺は、怒られるようなことはしてない」

「言ったはずだ。まだ、外は危険だと。そんなことも分からないのか」

「でも、俺はこうして帰ったんだから、別に、いいじゃんかよ」

「運が良かっただけだ。いいか? シスイ。運が良かったというのは、忍としては恥ずかしいことなんだ。立派な忍になりたいのなら、動く前に、まずは考えるんだ」

「………………父さんと母さんは、外で遊んでいいって、言ったのに」

「返事は?」

「……分かったよ。ジイちゃん」

 

 シスイはつまらなそうに唇を尖らせた。ジイちゃんはいつも気にし過ぎなんだよ、とシスイは心の中で悪態をつくが、それを言葉にする気はまるで無かった。彼の言葉はいつだって正しいのだと、知っているからだ。

 カガミが鼻から息をはくと、渋い表情を一転させて、穏やかな笑顔になる。

 

「それで、何だ、漢字を勉強したいのか? お前にしては、珍しいじゃないか」

 

 好々爺、という言葉がぴったり当て嵌まりそうな声に、唇を尖らせていたシスイの表情は嬉々としたものに変わる。彼のその雰囲気と、尊敬すら感じてしまうような知性が、大好きだった。

 

「アカデミーに入ってからでも遅くはないんじゃないのか?」

「今すぐがいいんだ」

 

 シスイは正座を解いて、立ち膝の姿勢で布団の上を通りカガミの目の前までいくと、彼の乾いた右手が、頭を撫でてくれる。

 

「なあ、いいだろ? ジイちゃんなら、俺でも分かる本とか、持ってるだろ?」

「いつもは遊んでばかりで、まともに勉強もしないくせに」

「俺だって勉強してるんだ。でも、いっつもジイちゃんは、俺が遊んでる時に来る。俺は悪くない」

「お前がうるさくするからだ。遊ぶ時でも、周りに気を配らなければいけないぞ」

「次はそうするからさ」

「調子のいいやつめ。……どれ、少し、どいてくれないか」

 

 どうやら本を探してくれるようだ。そう思ったシスイは素早くカガミの布団から離れる。

 

 よっこらしょ、と言いながら立ち上がったカガミは、部屋の壁に並ぶ背の高い本棚の前に立った。シスイもすぐに、彼の横に立ち、本棚を見上げる。びっしりと並ぶ本たちの背表紙の文字はどれも漢字ばかりで、シスイには一つとして理解できるものはなかったが、隣に立つカガミの真似をして本棚を見上げ続ける。

 

「どんな本がいいんだ。漢字を勉強したい、といっても、勉強本はないぞ?」

「じゃあ、俺でも読めそうな本がいい。読めない漢字があったら、ジイちゃんに聞くからさ。それで、勉強する」

「分からない漢字を全部、聞きに来るんじゃないぞ。話しの流れで、漢字を読んでみるんだ。合っているかどうかは、俺が見てやろう。―――老眼鏡をとってくれるか」

 

 シスイは素早く、老眼鏡をカガミに手渡した。彼は老眼鏡を鼻の上に乗せると、本棚の左上端の本を手に取った。パラパラとページを捲ると、その本を元の場所に戻し、隣の本を手に取り、またパラパラと捲った。

 

「何してんだ? ジイちゃん」

「何って、本を確認してるんだ。お前でも読めそうな本を選ばなければならないからな、読まないと分からんだろう」

「え、読んでんの?!」

「一応な。だが、本はゆっくり読んだ方が、面白いんだ。お前も、いい加減に読むんじゃないぞ?」

 

 言いながらも、もう三冊目に突入しているカガミを見て、すげー、と思った。

 

 どこからどう見ても、ただ流し読みしているようにしか見えない。漫画や絵本というのなら、分からなくもないけれど、彼が見ているのは小説だ。「お前も、これぐらいは簡単にできるようになる」と、彼は呟くが、自分よりも背の高い彼の姿は山のように雄大で、そんな馬鹿な、と思ってしまうほどである。

 

 物心ついた頃から、立派な忍になれと、彼から言われてきた。その過程で、本当に時折聞ける、嘘か誠か分からない偉大な武勇伝は、幼い彼に【立派な忍】という目標を抱かせるには十分だった。

 

 シスイはカガミの真似をするように、本棚の一番下の段から一冊の本を取り出し、同じようにパラパラと捲る。

 

 左から右にページは捲られていくが、最初の一文字すら捉えることが困難だった。改めて、すげー、と思いながらシスイは本を元の位置に戻すと、ちょうどカガミが小さく頷いた。

 

「―――そうだな、これが、お前にはぴったりだろう」

 

 本棚の二段目中央まで進んだところで、ようやく、本を手渡された。紺色の表紙。タイトルは読めなかったが、カガミが教えてくれた。「小説だ」とカガミは付け足す。

 

「フリガナの付いてある漢字が多いからな、お前でも読めるだろう」

 

 既にシスイは本を開いていた。目次を読み、本編の一行目に視線を進める。いきなり漢字が出てきたが、カガミの言うように、フリガナが付けられてるおかげで読むことができたが、残念なことに言葉の意味が分からなかった。初めて見る漢字と言葉を頭の中に入れながら、次の行を読んで、おそらくこういう意味なのだろうなと、前の行に振り返る。

 

 非常にゆっくりと本を読むシスイを見て、カガミは自分の顎を撫でた。

 

「それにしても、本当にどうしたんだ? 漢字を勉強したいなんて」

「さっきさ」

 

 と、シスイは本に視線を落としながら呟いた。

 

「イタチも外にいたって、言っただろ? 会った時にさ、あいつ、女の子と一緒にいたんだ。同じくらいの年の」

「ああ、イタチくんは良い顔をしているからな。あの子は女の子に好かれそうだ。なんだ、いい恰好したいだけなのか?」

「違うって。でも、まあ、綺麗なやつだったけど」

「じゃあ、何なんだ?」

「そいつさ、漢字読めたんだよ」

 

 本を読みながら、思い出す。

 黒い髪と、赤い瞳。

 抑揚のない、けれど高級な鈴の音色のような声。

 そして、動かない表情。

 

 事細かに、彼女の容姿や声を思い出すことができるのは、シスイにとって、彼女との短い出会いは、衝撃的なものだったからだ。

 自分よりも、イタチよりも、頭の良い、同い年くらいの子。いや、漢字が読めただけで、本当に頭が良いのかどうかは分からないけれど、普段、カガミから言われている【立派な忍】というものを、彼女の落ち着き過ぎた雰囲気から感じ取ったのだ。

 

 端的に言えば、大人っぽかった。

 戦争、という言葉を落ち着きなく呟く、頭の悪そうな大人よりも、よっぽど。

 

 そして何より、そんな彼女から相手にされなかったことが、実は悔しかったのだ。どんなに話しかけても、一言二言の返事だけ。貴方みたいな子供には興味がないと、遠回しに言われているような気がした。別れ際に「今度は遊ぼうぜ」と言ったのは、精一杯の強がりである。

 

 漢字を勉強しようと思ったのは、今度会う時は、もっと普通に会話をして、イタチみたいに対等な友人関係になりたいという、子供っぽい理由だった。

 

 けれどシスイは、それらの感情や思惑を大いに省いて「だから、俺も漢字を読めるようになりたいんだ」とカガミに言うと、彼は感心したように口を小さくした。

 

「お前くらいの年で、もう漢字を読める子がいるのか。聡明な子だな」

「そうめい? どういう意味だ?」

「頭が良いという意味だ。その子とは、友達になったのか?」

「多分、なったんじゃないかな。あの子がどう思ってるか分からないけど」

「名前は何て言うんだ」

「うちはフウコ」

 

 何ともなしに、彼女の名前を言った。ようやく一ページ目の半分を読み終わった所で、ふと、カガミが急に黙ったことに気が付く。

 視線を本から外し、彼を見上げる。カガミは大きく瞼を開き、驚いた表情を浮かべていた。

 

「どうしたんだよ、ジイちゃん」

 

 しかし、呼びかけても、彼はすぐに反応を示さなかった。

 腰でも痛めたのだろうか? などと首を傾げると、彼は左手で口元を撫でた。

 

「その子は、どんな子だった?」

「え? 髪の毛は黒くて、目が赤くて」

「見た目じゃない。性格のことを訊いているんだ。明るい子か? 落ち着いた子か?」

 

 おかしい、とシスイは冷静に判断した。イタチと友達になった時、彼はただただ「友達を大切にしなさい」と言うだけで、特にイタチの事について詮索してこなかったのに。それに、うちはフウコという名前を聞いた時の彼の反応。

 明らかに彼は、うちはフウコという女の子に興味を示している。

 

 知ってるのか? と思ったが、彼女が家に来たことはないし、歳だって大きく離れている。とにかく、彼の問いに、素直に応えることにした。

 

「あまり喋らないやつだった。うん、落ち着いた子だったよ。全然、笑わないんだ」

「……そうか」

 

 大きな息を吐くのと同時に出された言葉は重いような気がした。出した分の息を取り返すように大きく鼻から取り込むと、再び彼は、そうか、と言葉を漏らす。その彼の表情は、懐かしむような、だけど、どこか悲しそうなものだった。

 

 カガミが、頭を撫でてくる。

 

「シスイ。その子と、友達になりなさい。そして、いっぱい、遊ぶんだ。いいな?」

「……俺、漢字の勉強しないといけないんだけど」

「ああ、そうだな。勉強も、大事だな」

 

 手が離れる。カガミは「少し外に出る。それまで、分からない漢字は紙に書いておくように」と言ってから、ゆったりとした足取りで部屋を出て行った。

 

 静かになる部屋に取り残されたシスイ。彼の頭の中には、もう殆ど、漢字のことなんてどうでもよくなっていた。

 

 頭の中にあるのは、赤い瞳をした女の子のこと。

 

 この日からである。シスイが、フウコに強い興味を持つようになったのは。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

「うぁああああああんッ! あああああああぁぁぁああああッ!」

「イロミちゃん、泣いてばかりじゃ駄目だ。フウコが下忍になるんだから、喜んであげないと」

「やぁあだぁぁあああああッ! うぁああああああああッ!」

 

 アカデミーの中間試験が終わり、成績発表がされた、一週間後の昼休み後の五限目。既に授業はスタートしているが、シスイ、イタチ、フウコ、イロミは、誰もいないアカデミーの校門前にいた。

 

 卒業式が行われたのである。

 

 いや、生徒として参加したのがフウコ一人であったため、式と言えるのか定かではないが、彼女の片手には、確かに卒業証書を入れる黒い筒が握られている。筒には紅白の細いリボンが結ばれており、アカデミー卒業が確定した彼女を無言に祝っているものの、イロミの赤ん坊のような泣き声が快晴の空の元に響き渡っているせいで、その威厳は無くなってしまっていた。

 

「もう泣くなってイロミ。お前が泣いたって、フウコの卒業が取り消される訳じゃないんだぞ。仕方ないんだから、諦めろよ」

「やだ! やだッ! やだぁああああッ!」

「……はあ」

 

 ここに来てから、ずっとこうである。グーにした両手で両目を擦りながら、彼女はしゃがみ込み、泣き喚いている。

 

 フウコの卒業を知ったのは、昼休みのこと。

 

 午前の授業が始まる前に、教室にやってきた教師が「フウコ、教員室に来なさい」と呼び出してから、彼女は午前中、教室に戻ってくることがなかった。昼休みに入って、ようやく帰って来たかと思うと、彼女の手には黒い筒が握られていた。イロミが真っ先に「それ、なに?」と呑気に尋ねると、彼女は、どこか悲しそうに「卒業証書」と応えたのだ。

 

「は? お前、もう卒業するのか?」

 

 尋ねると、彼女は静かに頷いた。

 

「午前中はずっと、卒業試験をやってたの。それで、満点を出したから、卒業だって」

「なんだよそれ。だったら、俺やイタチだって、卒業試験受けてもいいんじゃないか? なあ? 不公平だよな?」

 

 隣のイタチに話しかける。

 

「フウコはこれまで満点しか出さなかったからな、当たり前だ」

「俺だってお前だって、満点くらい出したことあるだろ」

「全てじゃない。至らない部分が少しでもあるなら、俺達にはまだ、色々なことを教えなければならない、ということだろう」

「え? フウコちゃん、卒業って、え? じゃ、じゃあさ、もう、フウコちゃん、アカデミーに……来ない…………の?」

「うん。来週から、チームに配属になるから」

「………そんなぁ」

 

 それから、イロミはずっと俯いたままだった。四人で、いつもの場所で昼ご飯を過ごそうとしたが、イロミが自分の席に座ったまま動かなかったため、仕方なく、彼女の周りの席に座って昼休みを過ごした。

 昼休みの終わりのチャイムが鳴った時に、イタチがフウコに尋ねた。

 

「フウコ、午後はどうなるんだ?」

「私は、もう、家に帰っていいみたい」

「父さんと母さんは、このことを?」

「知らないと思うけど、卒業証書を見せれば、納得してくれると思う。後から、アカデミーから正式に通達が送られるから、大丈夫だと思うけど。……イロリちゃん、ご飯、食べないの?」

「……食べたくない」

「食べないと、午後の授業、集中できないよ?」

「そうだぞイロミ。午後の授業の最初は、あのブンシの授業だからな。腹の虫でも鳴らしてみろ。またあいつ、教室で煙草吸うぞ。俺、あいつの煙草の匂い、嫌いなんだよなあ。何て言うか、ブンシになりそうで嫌だ」

「好きな子なんて、誰もいないだろ」

「そう? 私は、好きだけど。……イロリちゃん、大丈夫? 保健室に行く?」

「……やだ」

「フウコ、一人で帰れるか?」

「時々イタチは、私を凄く馬鹿にする」

「お、そうだ」

「どうした? シスイ」

「俺達三人で、フウコの門出を祝ってやろうぜ。それに、授業もサボれて、一石二鳥だ」

 

 そういった流れで、授業が始まる前に校舎から抜け出し、校門へとやってきたのだが、到着した途端に、イロミは泣き出してしまったのだ。

 

 彼女の主張は、フウコに卒業してほしくない、というものだった。その主張は、分からなくないでもない。しかしそれは、彼女に一度として勝つことができなかったからで、友達だから、という意味合いはあまりなかった。アカデミーでの小テストや実技の授業、そして今回行われた中間試験では、やはり彼女はオール満点を出して、単独トップを維持した。今日で彼女は卒業するが、終ぞ、満点以外の点数を取らないままだった。

 

「ほら、イロミ。もう泣き止めよ。お前が泣いても、フウコの卒業が取り消される訳じゃないんだし」

 

 これまで、イロミがこうして泣く場面は多々あった。大半は、彼女の内向的な性格と壊滅的な成績の悪さに託けて、調子に乗ったクラスメイトからのイジメを受けて、というパターンだ。このパターンは、当事者のクラスメイトに仕返しをすることで容易に解決できる。しかし今回のような、仕返しをする相手がいない時は、決まって事態の収拾に手間がかかる。これまで二度ほど、この面倒なパターンがあった。一つは、ブンシの授業に提出する宿題を忘れてしまったことをイロミが思い出した時。もう一つは、買い物用の財布を無くしてしまった時。どちらも、彼女を泣き止ますのには、時間と手間がかかった。

 

 今回は、つまり、後者のパターン。

 しかも、泣き方や状況は、歴代最悪である。

 

「なあ、フウコからも何か言ってやれ。このままだとイロミ、明日から泣きっぱなしになるぞ?」

 

 両手を頭の後ろで組む姿勢を取りながら、フウコを見る。太陽からの白い光を浴びて光沢する黒髪が横風に揺らされるのを、黒い筒を持っていない方の手で抑えながらイロミを見下ろしている彼女は、どこか、辛そうだった。辛そうといっても、無表情なのだが、彼女と友達になってから今に至るまでの間、彼女の乏し過ぎる表情の変化を見分けれるようになった。

 

「イロリちゃん、泣かないで」

 

 平坦な声。でも、声には小さな湿り気があるように感じる。フウコはしゃがみ込み、イロミの頭を優しく撫でるが、イロミが右手を振り回してそれを弾いた。「やだやだぁああッ!」と、イロミは言う。

 

「もっど、ふうごぢゃんど、あぞびだいッ!」

「うん、そうだね。私も、イロリちゃんと、いっぱい遊びたい。下忍になっても、例えば、私に会いに来てくれれば、予定が空いてたらだけど、遊べるから」

「やだぁッ! 毎日、あぞぶだい……ッ! そつぎょう、しないでッ!」

「私も、出来るだけ、予定は空けれるようにするから。空いてる日は、イロリちゃんにちゃんと伝えるから」

「ぅうぅぅ………。ふうごぢゃんなんで……だいっきらいッ!」

 

 イロミのその言葉に、三人は驚いた。

 

 イロミがフウコに対して、ここまで強い言葉を言ったのは、初めてだったからだ。慌てて、シスイはフウコを見る。彼女の瞼が、微かに開いているのが分かった。ショックを受けている、それが分かる。

 

 きっと、イロミは混乱している。悲しいという感情と正しくぶつける言葉が見つからなかったから、簡単な言葉を選んだだけに過ぎない。イタチを見ると、彼は両手を広げて小さく上下させていた。フウコに任せよう、という判断らしく、イタチもイロミが本心で言っていないことを理解しているようだった。

 

 再び、フウコを見る。

 瞼の位置は元に戻り、無表情だった。

 

「……イロリちゃん?」

「うぁあああああッ! やだよぉ……、いがないでよぉ、ふうごぢゃん……。そつぎょう、じなでぇ…………」

「イロリちゃん。私を見て」

 

 しかし、イロミは、頭を大きく振るだけだった。

 フウコが、イロミの頭に手を置いた。イロミは疲れたのか、今度は、手を振り払おうとはしなかった。

 

「もう二度と、会えなくなるわけじゃないから、泣かないで」

 

 イロミの頭を撫でながら語りかける彼女の声は、これまで聞いてきた中で、どんなものよりも柔らかい優しさに溢れていた。

 

 改めて、思う。

 

 フウコは変わった。

 それは、良い意味で。

 初めて会った時は、彼女を大人だと評価した。もちろん、それは、間違いではないのだけれど、フウコがイタチの妹になってからしばらくして、その評価は核心ではないと分かった。

 

 フウコは、大人だけれど、子供を知らない、大人。それが、今のシスイの、彼女への評価だ。

 忍としての知識や技術、才能は比類ない。けれど、誰もが持っているような常識や感情の機微を読み取る、そういった、当たり前なことを知らない。

 不安定さが、目についたのだ。

 裂傷には強いが、圧力には弱い。

 そんな印象だった。

 だけど、イロミという友達を得てから、その子供が芽生えた。

 本当に僅かだが、表情が豊かになったように思える。

 

「……やだぁ」

 

 イロミが、頭を振って、フウコの手を掃った。

 

「困ったことがあったら、言ってくれれば、すぐに駆けつけるから。修行だって、付けることもできるよ?」

「わだじは……まいにぢ…………あぞびだい……。ふうごぢゃんが、そづぎょうじぢゃっだら……まいにぢ……、あぞべない…………」

「……そうだね。――-じゃあ、イロリちゃんが頑張って、私の所まで、来て。同じくらいになれば、きっと、また遊べるから」

 

 かといって。

 

 フウコに劣化は見られなかった。アカデミーでの成績が落ちることもなく、これまで彼女に挑んだ忍術勝負でも一度として勝つことは出来なかったのは、紛れもない事実だ。

 

 ようやく、イロミが顔を挙げた。白い前髪の毛先から覗かせる鼻先は真っ赤で、口は大いにへの字の形を作っていたが、両手を地面に付けて、フウコをしっかり見据えた。大きく、彼女は鼻を啜る。

 

「ぼんどう……?」

「イロリちゃんなら、すぐに、私に追い付けるよ。頑張れる?」

「……がんばる」

 

 フウコが立ち上がる。

 

「イタチとシスイ、イロリちゃんをお願い」

「ああ、任せろ」

「こいつがイジメられた時は、お前も来いよ?」

「うん。イロリちゃん、もう、泣かないでね?」

「……ながないッ!」

 

 背を向け、フウコは音も無く遠ざかっていく。

 どんどん、どんどんと。

 あっという間に、彼女の小さな背中は、どこからか風に飛ばされてきた木の葉に隠れるくらいに、遠く、小さくなる。

 

 羨ましいと、思えるくらいに。

 凄いなと、尊敬してしまうほどに。

 いつか彼女の隣に立てるようになりたいと、願った。

 

 カガミがどうして彼女の名前を聞いた時に表情を変えたのか、それへの関心は消え失せていた。あるのはただ、フウコという女の子への直接的な関心だけだった。

 

「……午後の授業、どうする?」

 

 フウコの姿が見えなくなると、イタチが非常に現実的なことを呟いた。

 

 まだ時間的に、授業は折り返し地点ですらない。今更教室に戻っても、ブンシに殴られるのが目に見えている。

 

「サボりだ、サボり。それしか無い。お前ら二人が戻っても、俺は逃げるぞ」

「どうする? イロミちゃん」

 

 立ち上がっていたイロミは、両手の人差し指の先端を合わせながら呟いた。

 

「……私は、授業に、出たい。フウコちゃんに…………近づきたいから……」

「二対一だな、シスイ」

「俺は逃げるぞ」

「誰から逃げるんだ、シスイ。あたしに教えてくれよ」

 

 煙草の匂いとドスの利いた声に、シスイだけではなく、イタチとイロミをも震え上がらせた。いつの間に立っていたのか、灰色のコートをなびかせる巨大な影が、三人の後ろから伸びていた。

 三人は、同時に振り返り、見上げる。

 

「おい、クソガキども。なあ、問題児ども。午後の第一授業の教室って、どこだか知ってるか? ぁあ?」

 

 嫌味たっぷり、怒り増し増しの口端には、先端の火を昂らせられてる短い煙草が。不機嫌マックスな表情を隠そうともしないブンシは、乱暴に煙草を地面に落とすと、右足で踏みつぶした。まるで煙草が、自分たちの未来を暗示しているようである。

 

 シスイの顔色は、見る見る真っ青になっていく。隣では、イタチがイロミを守るように静かに立ち位置を調整していた。

 

「泣く準備は出来てるか? 今日のあたしの膂力は、クソうるせえマイト・ガイを超えてるぞ」

「ちょ! ブンシ先生! もうイロミのやつ泣いてるんですッ! 今日は、ちょっとマジ、勘弁してください」

「あぁあ?!」

 

 シスイの苦し紛れの言葉に、指を漢らしく鳴らしていたブンシは目だけでイロミを見下ろす。

 

 二秒ほど、二人の視線は交差する。

 

「おいイロミ。てめえ、泣いてんのか?」

「わ、私は……」

 

 イタチの肩から頭を出したイロミは、一度、大きく息を吸い、そして言い放った。

 

「……泣いてませんッ! 私はもう、泣きません!」

「馬鹿、お前―――!」

「おぅーし、いい度胸だイロミ。お前の時々出すよく分からんその根性だけは、私は好きだぞ。だけどな、お前らはあたしの授業をサボった、これは変わらない……クソガキども、歯、食いしばれッ!」

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 そして―――年月は経ち。

 

 シスイは、暗部へと入隊を果たした。同年に上忍になったイタチと同じく、異例の若さ、という枕詞は付いているものの、フウコという少女と比較した場合、その評価は正しくない。

 

 自分が暗部に入隊する頃には、彼女は既に副忍という地位にいた。分不相応、などとは思わない。自分がアカデミーを卒業してからも、彼女と忍術勝負をしたが、勝つことがやはりできず、むしろ、彼我の実力は見る見るうちに開いていた。

 

「どうして、暗部に来たの?」

 

 暗部に入隊した、その日。

 

 共に、仕事を終えた帰り道に、彼女は言ってきた。

 夜道を照らす月明りに照らされた彼女の表情は無表情だったが、不機嫌なのだということは分かっていた。本当に、些細な表情の機微、声の抑揚の変化を理解できるくらいには、彼女のことを理解できている。

 

「予定と違う」

 

 フウコが呟く、予定。

 それは、三人で立てた、計画のことを示している。

 自分とイタチ、そしてフウコの三人で考えた計画。

 まだ自分とイタチは中忍で、イロミはまだアカデミー生で、けれどフウコは暗部に入隊していた頃。

 

 うちは一族のクーデターを、両親から聞かされた。

 

 あまりにもくだらない、幼稚な思想。【立派な忍】とは、ほど遠い愚かしさに、瞬間的な呆れと怒りが沸き起こったが、それをどうにか抑え込み、翌日、フウコに尋ねたのだ。「お前は、うちはのことを知っているのか?」と。彼女は、首肯した。その日の夕方―――イタチとフウコ、そしてシスイの三人は、クーデターを阻止する為の計画を構築し始めたのだ。

 

 その計画では、シスイは、イタチと同様に上忍に就任するはずだった。そうした方が、行動に自由の幅が生まれる。また彼女は「まだ、暗部から協力を仰げるか分からない」と語ったからだ。

 

 それでも、シスイは暗部に入隊することに決めた。これは、イタチにも言っていないことで、後日伝えようと思っていた。

 

「いいじゃねえか、気にすんなよ。それに、親父には暗部に入れって言われてんだ」

「誤魔化さないで」

 

 フウコの声に、微かな怒りが含まれていた。

 

「シスイなら、説得することはできたはず。暗部には、私がいたんだから」

「まあ、しようと思えば、出来たかもな。でも、もう入隊しちまったからな、今更、除隊申請しても色々、怪しまれるだろ?」

「なら、私が除隊を申請する。今の私なら、それくらいの権力はある」

 

 彼女の声と共に、長くなり軽いウェーブが掛かっている黒髪が微かに揺れる。無表情な彼女からは、焦りが感じ取れた。今すぐ引き返し、申請を出そうとしようとするフウコの腕を掴むと、シスイは自然と真剣な表情を作っていた。

 

 メリとハリを付けること。

 

 それは、カガミから教えられた【立派な忍】として必要なことの一つだった。

 

「……ハト派には、もう抵抗力がないのは、分かっているな?」

 

 ハト派。

 

 カガミを筆頭とした、木ノ葉隠れの上層部との平和的解決を唱える、少数派。しかし実質、ハト派はカガミ一人と言っても過言ではなかった。彼のこれまでの木ノ葉隠れの里への貢献と実績は、大多数のタカ派と拮抗するほどの影響力がある。

 

 人は意外にも、筋を通す。

 

 自分の行いが善であろうと悪であろうと、少なからず譲れないポリシー(あるいは、人間性)を持っている。いくら強硬的なタカ派でも、カガミを無碍にしなかったのは、そのせいだろう。

 

 だがそれも、カガミが病院生活を送るようになってからは、タカ派は強硬な発言、時には小さな暴力を振るうようになってしまったのだ。

 

 今ではもう、ハト派の中で、タカ派に意見できる者はいなくなってしまっている。

 

「親父もおふくろも、クーデターの賛成派だ。もし親父のいうことを聞かなかったら、俺はジイちゃん側だと思われる。それこそ、自由に動けなくなるんだ」

 

 自分がカガミを慕っていることは、多くのうちはの者が知っていることである。そんな自分が、少しでも不審な行動を取ってしまったならば、カガミの意志を継いでると考えられても不思議ではない。疑念を抱かれ、行動を抑制されるのだけは避けたかった、という考えは、事実としてある。

 

 フウコは小さく視線を下に向けた。言っていることは分かるけれど、納得はできない、というような表情だ。

 

「……それにな、フウコ」

 

 彼女の視線が上がる。

 固い赤い瞳を安心させてやろうと、シスイは笑う。

 

「ジイちゃんからさ、お前のお守りをしろって言われてるんだ」

「……カガミさんが?」

「お前を心配してる。俺も、お前が心配だしな」

 

 暗部の入隊が正式に決まった日。

 病室のベットで横になるカガミに、頼まれた。フウコを支えてやってほしい、と。

 

 フウコは諦めたように、そう、と呟いて、先に歩き始める。どうやら、暗部の入隊を認めてもらえたようだ。それでも、彼女の肩からは不服さが少なからず溢れていて、それがどこか子供っぽく思えて、小さく笑ってしまった。

 

「なあ、フウコ」

 

 彼女の横について歩幅を合わせながら尋ねた。

 

「これから、ジイちゃんのとこに行くんだけどさ、お前も来ないか?」

「今から?」

「ここ最近、ジイちゃんに会ってないだろ? どうだ? 俺の入隊祝いに」

「……今日は、遠慮する」

「…………そうか」

 

 それでも、シスイは柔らかな笑顔を絶やしはしなかった。

 

 途中で別れて、シスイはカガミのいる病院へと向かった。職員専用の入り口から入る。緑色に発行する非常口マークが照らす廊下を進んでいき、夜勤の医療忍者の人がいる待機センターで軽く挨拶をしてから、カガミの部屋へと向かった。

 

 ドアを静かに開ける。廊下と個室には光度にほとんど差はなく、蝉の抜け殻のような自分の影が室内に浮かぶだけで、それもドアを閉めてしまえば消えてしまった。

 

「……なんだ、シスイか」

 

 ベットの横に立つと、横になっていたカガミは徐に顔だけをこちらに向けて、そう呟いた。

 

 陰りのある、微かに力の無い声に、シスイは震えようとする喉を抑えながら、腰に手を当てて笑って見せた。

 

「孫が来てやったっていうのに、その言い草はないだろ? もっと喜んでくれよ」

「ふん。土産の一つも持ってこないくせに」

「だってジイちゃん、この間持ってきた団子の詰め合わせ、食べてくれなかっただろ」

「病人に甘露を持ってきてどうするんだ、この馬鹿者。持ってくるなら果物だろう」

 

 ごめんごめん、と苦笑しながら、シスイはベットの横に椅子を持ってきて腰掛ける。カガミが上体を起こすと、彼の右腕に繋がっている点滴のチューブが暗闇の中で微かに揺れるのが見えた。右腕がまともに動かなくなってしまった彼に、果物を持ってきても、皮を剥く人がいなければ、意味がない。

 

「っていうか、ジイちゃん、起きてたのか」

 

 今更ながらに尋ねると、カガミはやれやれと首を振った。

 

「誰かが来る気がしたからな」

「勘?」

「忍なら、これくらいの勘を働かせないとな」

 

 そんな馬鹿な、と思うが、ジイちゃんならあり得るかも、とすぐに考える。いつだって彼は、自分の遥か上に立つ指標だ。病で伏しても、それは、変わらない。

 

 時折、シスイはこうしてカガミの見舞いをする。大抵は、何かしらの相談があったり、何かしらの変化が周りで起きた時だ。割合として、3:7ほど。けれど、回数としてはまだ、百も超えていないだろう。

 

 もはやタカ派がうちは一族を統制しているせいで、無闇に昼間からの見舞いをすることは出来なくなってしまった。今ではもう、ハト派の者も、彼に会いに来ることはなく、まともな見舞いをするのは、自分とフウコだけ。かといってフウコも、ほとんど、見舞いに来ることはない。フウコはカガミから「見舞いに来るよりも、里を頼む」と言われていたからだ。

 

 当然、自分も言われているのだけれど、その言うことだけは守れなかった。これまで散々、まあ色々と、幼かった頃は何も考えず反抗していた時期はあったが、今回だけは真剣に考えた行動の結果である。

 

 いつしかカガミも、不承不承といった感じで許してくれているのだから、おそらく、間違ってはいないのだろう。

 

「それで、今日はどうしたんだ?」

 

 と、カガミは尋ねてくる。

 幼い頃に見た、あの好々爺な、優しい笑顔だ。

 遅れてカガミは、ああ、と納得したように息を吐く。

 

「そういえば、今日、暗部に入隊したんだったな。なんだ、ご褒美に小遣いをくれとか言いに来たのか?」

「まさか。……実はさ、ちょっと訊きたいことがあってさ」

「なんだ?」

「ジイちゃんは、どうして、バアちゃんと結婚したんだ?」

「愛していたからだ」

 

 カガミは即答した。

 彼よりも早く、この世を旅立った祖母のこと。

 真剣な表情で、二人は視線を交わす。

 

「どこを?」

「全てだ。あいつと、あいつが愛したもの、全てだ」

「好きっていうのと、どう違うんだ?」

「簡単なことだ。難しいことじゃない。分からないのか?」

「なんだか、感情的には、分かるけど、それを、どう伝えたらいいのか、分からないんだ」

「フウコちゃんか?」

 

 頷くのに、三秒ほどの時間が必要だった。

 彼女がいない所で、彼女への好意を肯定する、という卑しさを乗り越えるための勇気が必要だったからだ。

 

 いつからだろう。

 

 気が付けば、彼女は自分の思考の中心にいた。ただいるだけではなく、思い出すのは必ず、彼女が最も綺麗に見えた時の描写だった。その描写を見る度に、思考は遥か未来のことを、自分の意に反して予想し始めるのだ。

 

 イタチと、イロミと、サスケと、里の多くの人々。

 

 その目の前に立つ自分と、隣にはフウコが立っていて、手を繋いでいる。どうして、そんな場面を予想してしまうのか混乱してしまうが、嬉しく思ってしまうのは事実だった。彼女のことが好きなのだ、と結論を出すのには、そう時間はかからなかった。

 

 ただ、好き、という表現は、彼女だけには当てはまらない。親友であるイタチも好きだし、イロミのことも好きだ。サスケも好きである。しかし、フウコへの好き、というのは、感情的には彼らへのそれとは異なっていた。

 

 その感情の差異が、愛という表現なのかもしれないと思ったのだが、確信が持てなかった。

 

「愛というのはな、シスイ。未来を見据えた言葉だ」

 

 カガミは祝福するように笑った。

 

「好きというのは、現在から過去までのことしか含めていない。だから、些細なことで、その感情が欠けてしまう。脆弱で、即物的な感情だ。しかしだ、愛というのは、現在だけではなく、遥か未来全てを、祝福することなんだ。まだ確かじゃない、何が起こるか分からない遠い未来までを」

 

 お前にはそれほどの覚悟があるのか。

 そう、遠回しに言われているような気がした。

 

「……フウコちゃんには、伝えたのか? 伝えようとしているのか?」

「まだだけど」

「あの子には曖昧な表現はするんじゃないぞ。俺の孫なら、伝わるまで、しっかり言葉を尽くせ」

「分かったよ、ジイちゃん」

「シスイ」

「なんだよ、ジイちゃん」

「お前は、俺の愛する孫だ」

 

 頑張れ。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 それでも、すぐにフウコに告白することは出来なかった。

 

 まだ、うちは一族のクーデターを阻止していないから、という言い訳を心の中で呟きながら、いつも通りに過ごした。フウコの人格のおかげなのか、彼女と会話をしても、不必要に緊張することはなかった。

 

 気が付けば、年月は風のように過ぎていき、空の色は何度も色を変え。

 

 別れが、訪れて。

 

 万華鏡写輪眼を開眼してしまい。

 皮肉にも、クーデターを阻止する方法が確立できて。

 時間が少し、流れた。

 

 フウコと一緒に、一回目の、墓参りに行った時、彼女は静かに泣いた。

 

『ああ…………もう……本当に、会えないんだ……』

 

 墓の前で、透明な涙を流す彼女は、今までで最も、不安定だった。

 

 現実とイメージの境界を、擦り合わせることが出来ていない。無理に擦り合わせようとして、その摩耗で生まれた感情が、涙として出ているように見えた。あるいは、彼女の感情が融けて、外に流れていくようにも。

 

 いつしか、彼女は、バラバラになってしまうのではないだろうか。

 

 氷の内側だけが液体になって、その後、些細な圧によって外側が砕けるようになってしまうのではないか。

 

 彼女は、自分やイタチよりも早く中忍になり、そして、うちは一族のクーデターを知らされていた。

 

 うちはの中で、たった一人で、悩んでいたはずだ。

 

 たった一人で、何が出来るのだろう。自分とイタチが加わっても、別天神を開眼するまで、確実な方法を導き出せなかったのに、彼女一人で、実現できる計画なんて……。ましてや、彼女は、特出し過ぎる実力のせいで、うちは一族に期待される反面、黒い感情をぶつけられてきた。

 

 彼女は密かに、限界を迎えつつあったのかもしれない。

 

 たった一人で、いつ暴発するとも分からない爆弾の内側に閉じ込められたような恐怖を、自分とイタチが加わるまでの間、ずっと感じていたのだ。

 

 実のところ、自分も、おそらくイタチも、心の奥底では、彼女に依存していた。

 彼女の力を、期待していた。

 それは、実質今でも尚、彼女一人で戦っているようなものだったのだと、思い知らされた。

 

 翌日、シスイは彼女に告白した。

 

 彼女を支えれるように。

 告白したからと言って、何かが変わるとは限らないけれど。

 どちらかと言うと、告白をして、自分に責任を負わせたかったのかもしれない。

 フウコを支えなければいけないという責任を、自分に科したのだ。

 

 まだ、愛するという言葉に当て嵌まる感情を、明確化出来ていない。

 それでも、やはり、彼女のことを愛しているのだろう。彼女はきっと、自分よりも、愛することを知らないかもしれない。

 もし全てが終わってからでも構わない。

 いつか本当に、彼女が、少なくとも自分と同じくらいに、その言葉に感情を当て嵌めることが出来た時に、本当の答えを聞かせてくれれば。

 それまでは、彼女を守ろう。

 紛うことなく、彼女を―――。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 シスイは、少女の右手を思い切りこちら側に引っ張り、体勢を崩させた。意表を突かれた彼女はあっさりと重心を崩し、腹部ががら空きになる。無防備になったそこに、シスイは、一切の躊躇いの無い膝蹴りをぶち込んだ。

 

 腹部上方をめり込ませ、その奥にある横隔膜は、身体を瞬間的に浮かされてしまうほどの衝撃を受けて痙攣を始める。

 

 呼吸困難に陥った少女は、力無く地面に膝を付き、あっさりと後頭部をシスイに見下ろさせてしまう。それでもシスイは、写輪眼で冷酷な視線を向けながらも、手錠の如く彼女の右手を離そうとはしなかった。

 

「ど……どうじ、で……ぇ……」

「俺が何年、フウコと一緒にいると思っているんだ。どんなにあいつの声真似をしても、あいつの声はお前の百倍は綺麗だ」

 

 目の前の偽者が語った用事という子供騙しな言い訳。そして、余程フウコのことを知っていなければ判別ができない程度の耳障りな声。

 勿論、それだけではない。

 昨日の仮面の男とフウコとのやり取り、昨日のことを報告した時のダンゾウの様子……それらを加味した上で、シスイは、目の前の少女がフウコの偽者なのだと仮説を立てただけ。

 

 そして、現状の様子を判断する限り、仮説は支持された。

 

 同時にシスイは思考を先に進める。

 目の前の女が偽者なのだとしたら、本物はどこに行ったのか。嫌な予感と込み上げてくる怒りを冷静さで鎮火させながら、口から涎を吐き続けている少女に尋ねる。

 

「フウコはどこだ」

「……なぁ、にぃ…………ごれぇ………、いぎが…………」

 

 少女は、まるで初めて鳩尾による呼吸困難を経験しているかのように、自由な左腕で胸を叩いていた。

 

 不自然さを感じる。

 少女の言動が、あまりにも子供っぽかった。

 おまけに、写輪眼で見ても、変化の術を使っているようなチャクラの流れも見て取れない。

 

 声や言動、それは自分の知るフウコとはかけ離れているが、逆にそれ以外は、これまで見てきた彼女の身体だった。

 

「………あぁあ……、ぞっか………、これ……みぞおぢ、かぁ…………」

「応えろ。フウコはどこだ?」

「……ふふふ、フウコは私だよ? 私が、本当の、うちはフウコなの。フウコさんはねえ、八雲フウコって、言うんだよ? 知らなかったで―――」

 

 シスイは再び腹部を蹴り上げる。今度は、鳩尾よりも低い位置。先ほどよりも、少女の身体は浮き、急激に胃の形が変形し、その衝撃で口から大量の胃液を吐き出した。

 

 大きく両肩を上下させる少女を冷酷に見下ろしながら、シスイは言う。

 

「フウコの名字が何であろうと関係ない。さっさと応えろ」

「……口の中、酸っぱい…………」

「応えろ」

「……ごめんなさい」

 

 急に弱々しい声。

 だが、シスイは薄気味悪さを感じ取る。

 

「ごめんなさい、お父さん」

 

 少女は涙を流す。

 

「お父さんが治してくれた身体、傷付けちゃった」

 

 涙声から、徐々に怒りを孕み始めた。

 

「絶対、こいつぶっ殺してやるから、会う時に怒らないで。私、頑張るから」

 

 見ててね、お父さん。

 私、頑張るから。

 こいつを―――ぶっ殺して、やるから!

 

 シスイは三度、今度は、顔を挙げようとする少女の側頭部を右足で蹴ろうとした。しかし、少女はそれを左腕でガードする。脚力と腕力では、前者が勝つ。左腕のガードは一瞬だけで、右足は左腕ごと少女の頭部を狙う。

 

 だが―――ほんの刹那の差だった。

 

 少女の顔が先に、上がりきる。

 

 予想できない事態が、瞬間的な写真として目の前にあった。

 

 少女は―――フウコではない。

 間違いなく、偽者だ。

 だからこそ、ありえない筈だ。

 

 少女の右眼にあるのは、フウコと全く同じ紋様の万華鏡写輪眼だった。

 

 ―――高天原ッ!?。

 

 そう判断した瞬間、両眼から、猛毒のような奔流が意識を絡めとってくる。写輪眼でその奔流を防衛しようとするが、奔流は雨のように自分を覆っていく。

 

 身体に力が入らない。

 もはや、自分の身体の体勢を把握できなった。

 肉体感覚を、喪失していた。

 

 少女の右手は解放されている。刀を握る動作を、写輪眼はスローに捉えた。

 

 ―――……思い出せ。

 

 普段の自分の感覚を。

 どのようにして、足を動かしていたかを。

 

 シスイは記憶と経験、そして感覚を喪失する寸前の体勢を思い出しながら、冷静に、丁寧に、そして迅速に、暗中の左足を動かした。

 

 視界が下後方へと移動する。

 そのすぐ目の前を、漆黒の刀身の切先が横切った。

 

 しかし、二太刀目がすぐさま、上段から振り降ろされようとする。

 隙だらけで大振りの姿勢だが、今のシスイには十分な脅威だ。

 今度は、左腕。

 地面の土を掴んだであろう左腕を、開きながら振った。

 

「うわっ!」

 

 土は少女の顔を塗り潰し視界を塞いだ瞬間、シスイは、森の中へ。

 気配を消しながら、完全に少女の視界から外れる。

 

 そこで、シスイは片膝をついた。

 

 ―――何とか、眠らずに済んだ……。

 

 もし、写輪眼ではなかったら、瞳を見た瞬間に抗うこともできずに眠っていただろう。それでも、まだ感覚は戻ってきていない。まるで、三日間ほど眠っていないような頭痛と鈍重な意識、ようやく戻り始めてきたものの曖昧過ぎる感覚。左手を見下ろしても、震えて力が入らなかった。

 

「あはは、ほらほらぁ、出てきなよー。近くにいるんでしょう?」

 

 少女の声が聞こえる。

 耳障りで、勝ち誇ったような口調だったが、怒りを生み出す程の精神的な余力は殆どなかった。

 

 ここは、逃げるべきだ、とシスイは判断する。

 

 この状態で戦っても、勝てる可能性は低い。暗部へ赴き、ダンゾウに現状を報告すれば、力を貸してくれるのではないだろうか。

 彼はフウコについて、何らかの事実を知っているはずだと、シスイは当たりを付ける。

 暗部に設けられた【副忍】という地位。まるで予め、フウコの為のように作られたような地位だと、常々思っていた。いくら彼女の才能がずば抜けているとは言え、わざわざそんなことをする必要があるのだろうか? と。

 

 さらに、今日、ダンゾウに昨日の事を説明した時の様子にも違和感が。

 

『フウコの様子はどうだった』

 

 という問い。それらが、ダンゾウとフウコの不可思議な繋がりを予想させる要因となったのだ。

 

 同じ姿で、同じ瞳力を持った、凶悪な偽者について。ダンゾウは、知っているはずだ。

 

 ならば―――。

 

「このまま逃げるなら、うーん、そうだなあ。……そうだ。うふふ、イタチを殺そっかなあ?」

 

 意識が、鋭利になる。

 

「それとも、サスケを殺そうかな? あの子なら、あっさり殺せるし」

 

 イタチ。

 サスケ。

 二人とも、大切な存在だ。

 フウコが大切にしてきた、未来だ。

 

「ほらほら、早く出てきなよー。あ、もしかして、寝ちゃった?」

 

 もし、少女が二人のどちらかを殺してしまえば、うちは一族は自暴自棄になる。

 これまで、何だかんだと言って、フウコに依存してきた彼ら彼女らにとって、同族殺しを行った彼女を前に、絶望する。

 

 木ノ葉隠れの里の側に回ったのだと、判断してしまう。

 

 そうなったらもう、自棄になったうちはは暴走するだろう。

 

 今、ここで、食い止めなければ……。

 

 だが、今の自分で、少女に勝てるのだろうか?

 

 実力の半分も出せない状態で。

 それでも、里を守るためには、ここで、止めるしかない。

 止めれるのか?

 いや、

 でも、

 つまり、

 だから……。

 

『お前は、俺の愛する孫だ。頑張れ』

『……ううん、シスイがいてくれたから』

 

 シスイは、立ち上がる。

 逃げるという、応援を呼ぶという選択肢を、捨てたのだ。

 彼の頭の中にあるのは、たった一つの感情だけだった。

 

 言葉に、感情が、当て嵌まった、瞬間だった。

 

 

 

 そして、夜が明け―――。

 

 暗部は動き出す。

 一つの指示が、伝えられたからだ。

 

『うちはシスイを殺害した容疑により、うちはフウコを勾留せよ』

 




 次回から、ほんの少しだけ時間が進みます。

 改訂前の、イロミ編くらいからスタートし、少しの間、フウコ視点は出てきません。イロミ編とイタチ編ほどに話しが伸びないようにしたいと思います。

 次回も十日以内に投稿したいと思います。

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