いつか見た理想郷へ(改訂版)   作:道道中道

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嗤う嘘

 玄関が開いた音で、うちはサスケは目を覚ました。

 

 普段なら絶対に起きないであろう小さな音。サスケはぼんやりとした意識のまま、瞼を擦り、むくりと身体を起こした。

 

「……姉さん?」

 

 真っ先に思い浮かんだのは、敬愛する姉、フウコの姿だった。

 

 まだ、日を跨いで一刻しか経っていない、深夜。

 室内の輪郭しか見えない暗闇の向こうから、フウコの声が聞こえてきたわけではないのに、彼女を連想したのは、昨日一日、彼女の姿を一度も見かけなかったからだろう。

 

【用事が入ったので、出掛けます。いつ帰るかは分かりませんが、安心してください】

 

 そのメモを見つけたのは、昨日の朝だった。

 

 その日のアカデミーは午前中で終わる。

 もし、姉の午後が暇で埋め尽くされているのなら修行を付けてもらおうと思い、姉の部屋へ向かった。ここ最近、兄であるイタチに修行を付けてもらっても、いつもいい所で修行を終わらされてしまう。優しくも悪戯っぽく笑いながら「許せ、サスケ」と右手の人差し指と中指で額を小突くのだ。

 

 しかし、フウコならそんなことはしない。未だ、黒羽々斬ノ剣を使わせてもらえないが、それ以外は素直に教えてくれる。強引に頼み込めば、何とかなることを、経験で知っていた。

 

 朝食を食べ終え、アカデミーに行く支度をしてから彼女の部屋に行った。どうせまだ寝てるだろうけど、無理矢理にでも起こして、予定を聞き出してやる、そんな意気込みで入ったのだが、どういう訳か姉の姿はなかったのだ。

 

 どうしたんだろう、そう思っていると、壁際の背の低い本棚の上に一枚のメモ用紙を発見した。

 

 綺麗で均等が保たれた字体は、よく見た姉の文字だった。サスケはメモを握ったまま、居間にいく。そこではイタチが新聞を広げてくつろいでいた。

 

『兄さん、姉さんって今日、任務があるの?』

 

 イタチは新聞から顔を出して小さく笑う。

 

『暗部の任務があるかどうか分からない。フウコに聞けばいいだろう』

『姉さん、もう家を出たみたいなんだ。これがあってさ』

 

 近づいてメモ用紙を渡した。受け取った彼はメモの内容を見て、浮かべていた笑みを静かに消し、真剣な面持ちで眺めつづけた。

 

『……これが、フウコの部屋にあったのか?』

『うん。用事って、何だろう』

『………………』

『兄さん?』

『ああ、悪い。フウコのことは、あとで俺が父上と母上に伝えておく』

 

 その時の、急に作ったような笑顔は、一日中サスケにもやもやとした不安を与えるには十分で、フウコが夜になっても帰ってこなかったことに、いよいよ怖さを感じ始めてしまった。

 

 姉に、何かあったのではないか。そんな想像が頭を過ぎる。

 

 暗部は火影直属の部隊であることは知っている。同時に、行う任務は何よりも困難で危険が伴うことも。その任務で、姉は大怪我をしたのではないか、と思ったのだ。そんなことはない、あるはずがない、と必死に不安と恐怖を振り払った。ミコトに「もう寝なさい」と言われ、部屋に戻ったが、しばらくは眠れなかった。

 

 些細な物音で目を覚ましてしまったのは、きっと、その不安と恐怖があったからだった。

 

 サスケは恐る恐る部屋を出た。

 

「フウコ……!」

 

 途端に、廊下にミコトの声が強く響き届いた。

 身体が強張る。

 ミコトの声には、悲しみで満たされていた。

 

 サスケは足早に、けれど足音を消して、声のした玄関の方へ。

 玄関の灯りは点いていた。ミコトの背中が見え、また、身体が強張る。先ほどよりも、強張りは強かった。

 

 ミコトの前。灯りに照らされて佇むフウコの姿が、悲惨だったからだ。

 

 大雨の中を歩いてきたかのようなびしょ濡れの姿。黒い髪の毛は重く滴を垂らし、前髪は彼女の額に貼りついている。黒の衣服からも、右手に握られている抜身の黒羽々斬ノ剣からも、滴は垂れていた。

 白い二の腕、白い太腿には、幾つもの痣と細かい切り傷が、はっきりと見て取れた。口端の左側も紫に変色していて、血が水滴に滲んでいた。

 

 初めてみる、姉の傷ついた姿。そして、姉の表情は、憔悴と悲しさが同居した、暗いものだった。

 

「……ただいま、帰りました」

 

 消え入りそうな、弱々しく、震えた声。

 よく見れば、フウコの肩は小さく、震えている。

 

 姉が家に帰ってきたことへの安堵は小さく生まれながらも、苦しさが胸を圧迫した。ミコトが彼女を優しく抱く。

 

「大丈夫よ、フウコ。怖いことなんて、何もないわ」

「ミコトさん……服が、濡れます…………」

「いいのよ、怖がらなくて。おかえりなさい。すぐに、お風呂の用意をするわね」

 

 ミコトが振り返ると、ようやく彼女はサスケが起きていたのに気が付いた。一瞬、驚き困ったような表情を浮かべたが、ミコトは構わず「フウコの着替えとタオルを持ってきなさい」と強い口調で言う。そのまま、彼女は風呂場へと行ってしまった。

 

「ただいま……サスケくん…………」

「お、おかえり……姉さん」

「ごめんね……、起こしちゃって…………」

「気にしなくていいよ。とにかくさ、着替えとタオル持ってくるから、早く上がりなって」

「……廊下、濡れるから…………」

「いいからっ、ほら!」

 

 フウコの左手を握った。

 氷のように、手は冷たかった。

 見上げる彼女の視線は既に自分を見ていない。

 

 いつだって、目の前に立てば、大好きな姉は目を合わせてくれたのに。

 今はもう、どうでもいいかのように、視線は誰もいない廊下の奥を見つめている。

 

「フウコ! 今までどこにいたッ!」

 

 イタチとフガクが入ってくる。フウコの姿を見て声を荒げたのはフガクだった。眉間に皺を寄せて、厳しい表情を浮かべていた。その後ろに立つイタチも同様に、表情が硬かった。

 

「……ただいま、帰りました」

 

 首だけを後ろに傾ける最小限の姿勢で、フウコはフガクを見た。

 

 二人は即座に彼女の異変に気が付いたのだろう。一瞬、表情を固めた。それでも、フガクは不機嫌を治めきれないようで、乱暴にサスケを見下ろした。

 

「何時だと思っているんだ! お前はもう寝ろッ!」

「ご、ごめん……父さん…………」

「フウコ、あとで俺の部屋に来い」

 

 フウコの返事を待つことなく、フガクは廊下の奥へと消えていった。バタン、と力任せに戸を閉める音が聞こえてきた。

 

 何か、大切なものに白いヒビが入ったような気がした。

 

「フウコ、何があった」

 

 イタチが尋ねる。

 

「何も―――」

 

 どういう訳か、フウコがこちらを見下ろす。

 赤い瞳。

 怖いと、思った。

 初めて、彼女のことを。

 

 中身が詰まっていない、伽藍堂のようで。

 外身だけが、動く、人形みたいで。

 

 怖い。

 

何も、なかった(、、、、、、、)

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 翌日。

 

 サスケは、昼頃に目を覚ました。

 アカデミーの休校日だということもあるけれど、昨日の夜のことが布団の中に入ってからも頭の中から薄れてくれることがなかったせいで、寝付くのがかなり遅れたからだ。

 

 粘着質な眠気が身体を重くしている。特に、頭が重い。目を覚ましてから、しばらくサスケは天井を見つめてばかりだった。

 散漫とした思考。天井に思い描くのは昨日の姉の様子で、すぐに、これまで自分が見てきた姉の姿に移り変わった。どちらも無表情なのに、前者は冷たく、後者は温かい印象が中心にあった。

 

 ―――姉さん、何があったんだろう。

 

 物心ついた頃から、彼女は笑わなかった。だけどそれを、不気味だとか、そういった風に捉えたことはなかった。むしろ大人っぽくてカッコイイと思っていた。

 

 優しくて、カッコイイ、それが物心ついた頃から今に至るまで、隙間なく積み重ねられた彼女へのイメージだった。

 

 昨日の姉の姿は、そのイメージから大きく逸脱している。

 まるで別人のようだとすら、思えてしまうほどに。

 

 身体を起こして、部屋を出た。憎たらしいことに、胃が空腹なのだと音を立てて訴えてきたからだ。廊下には昼食の香りが薄く漂っていて、より空腹感が強くなる。居間に近づくにつれて、おそらくミコトが扱っているであろうフライパンが何かを炒めている音が聞こえてくるが、他に音は聞こえなかった。

 

「あら、おはよう、サスケ」

 

 居間に入ってきたのを感じ取ったのか、ミコトはフライパンを軽く振りながら顔を向ける。昨日は何事も無かったかのような、いつもの笑顔。居間にはミコトの姿しかなく、サスケは小さく視線を泳がせてから「おはよう、母さん」と呟いた。

 

「……姉さんは? 今日は、任務?」

「お休み。ただ、疲れてるみたいだから、修行は無理だと思うわよ?」

「どこにいるの?」

「縁側でゆっくりしてると思うわ。あと少しで御昼が出来上がるから、フウコに伝えておいて」

 

 洗面所で顔を洗って歯を磨いてから、縁側に行く。昼の高い透明な日差しを一身に浴びている姉の姿は、すぐに見つかった。白い浴衣の寝巻に身を包んでいる。黒い髪は、普段は後頭部の上の部分を紐で纏めていたけれど、今は下ろしていた。

 

「……おはよう、サスケくん」

 

 右肩を柱に預け、疲れ切ったように裸足を外に投げ出している姉は、横から来たサスケに視線だけを向けた。

 弱々しい声だった。

 いつもなら、透き通るような平坦な声なのに。

 

「今、起きたの?」

「姉さん、大丈夫?」

「え?」

「疲れてるみたいだから……。風邪でも、引いたのかなって」

「ごめんね、気にしないで。修行、付けてほしい?」

 

 逡巡して、首を横に振る。疲れ切った姿の姉に修行を付けてもらいたいとは、まったく思えなかったからだ。

 

 姉の隣に腰掛けると、彼女は空を見上げた。左の口端に貼られた白いガーゼが、痛々しい。

 

「サスケくん、今日、アカデミーは?」

「日曜日だから、休みだよ」

「そう」

「……いい、天気だね」

「そう?」

「だって、晴れてるじゃん」

「そうだね。でも、晴れてるからって、いい天気っていう訳じゃ、ないと思う」

「じゃあ姉さんは、どうして空を見上げてるんだよ」

「昔、イタチも訊いてきた。空に何があるのかって。空には、空しかないのに」

 

 そこで、フウコは言葉を止めた。気まずさはない。姉と会話すると、何も話さないことの方が比率的には多いからだ。むしろ、姉の影響なのか、無駄に話しかけてくる同い年の子が煩わしく感じてしまう時があるくらいだ。

 

 昨日は何をしていたのか、と尋ねようと思ったけれど、今はしない方がいいような気がした。疲れている原因は、間違いなく、昨日の【用事】のせいに違いないからだ。その話題を出してはいけないことくらいは分かる。

 

 二人の間に陽気な風が入り込む。

 

 もうすぐ、昼ご飯が出来上がる頃だろう。良い匂いが届いてくるが、姉はまだ空を見上げている。いつもなら、すぐさま動くというのに。

 

 やっぱり疲れているんだ。そう思った。

 と、同時に、どうすれば元気になってくれるのだろうか、とも。

 

「……そういえばさ、姉さん」

「なに?」

「いつになったら、父さんと母さんに、シスイさんと付き合ってるって言うんだ?」

 

 何となしに訊いた。少しでも、元気になってもらいたいと思ったからで、悪くない話題だと自負していた。

 

 空を見上げていた姉の瞼が大きく開くのが見えた。きっと、この話題は間違いではないのだろうと、確信に変わる。サスケは声の調整を上げて続けた。子供らしい演出だった。

 

「早く言わないとさ、ほら、隠し事してた訳だし。あんまり長く隠してると、母さん、すごく怒ると思うし」

「―――サスケくん」

「それに父さんも母さんも、多分、気付いてると思うんだ。だからさ、もう―――」

「サスケくん……お願い」

 

 姉の赤い瞳。

 その双眸が、見下ろしてくる。

 頬が温かい。

 彼女の右手が、優しく撫でる。

 しかし、見上げる彼女の表情からは、何も読み取れなかった。

 さっきまでの疲れた様子も、かといって、怒っている様子もない。

 

 何も、無いようだった。

 

 続いてる。

 

 伽藍とした空洞。

 

 昨日の姉はまだ、続いている。

 

「もう、シスイのことは、言わないで」

「―――え?」

 

 その時だった。

 玄関の戸が乱暴に開けられる音がしたのは。

 

「フウコはいるか! 出て来いッ! 話しがあるッ!」

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

「……うーん、今日は、しっかり鍵は閉まってるんだよねえ。昨日は開いてたのに」

 

 昼間に目を覚ましたイロミは、寝間着姿のまま、窓のカギを目の前に首を傾げていた。まだ髪の毛には所々に寝癖が残っていて、顔も洗っていないというのに、起きてからに十分近く、窓のカギを前に胡坐をかいて腕を組み、うーんうーんと悩み続けている。やっぱり昨日は自分の勘違いなのではないか、と考えてしまう。

 

「お金も盗まれてないし、食べ物も減ってないし……うーん」

 

 彼女が窓のカギにこだわる原因は、昨日の朝まで遡る。

 

 普段、眠る前には必ず家の戸締りだけはキチンとするようにイロミはしていた。ただでさえボロいアパートで住民は自分だけという、たとえばドロボーにとっては、理想的な環境だと理解しているからだった。

 

 風呂に上がりストレッチをしてから髪の毛を乾かす。翌日の予定を確認してから、食器を洗い、戸締りを確認する。この戸締りはいつも風呂場から行って、最後に居間の窓を閉める、という流れだ。必ず、毎日行う。出掛ける時に玄関のカギを閉めるくらいに、もはや癖になってしまっているほどだ。

 

 だから、目を覚ました時に、家のどこかのカギが開いている、ということはありえない。もしそうなら、自分以外の誰かが侵入したということである。

 

『ぶふぅーッ!』

 

 昨日の朝、歯を磨いていたイロミは、開けた記憶のない窓のカギが開いているのを見て、盛大に歯磨き粉を吹きだした。

 

『え、え……? ちょ、っと、まってッ!』

 

 歯ブラシを片手に、窓の半面程を覆った歯磨き粉の泡を無視して、ドタバタと棚や箪笥、冷蔵庫を漁った。間違いなく、ドロボーが部屋に入ったんだ、そう思ったが、半刻ほど部屋を漁ってみると、金銭や食料、その他の所有物が無くなってはいなかった。

 

 どういうことだろうか? と、イロミは悩んだ。

 

 寝る前に、窓のカギは閉めた……はず。正直、鮮明に覚えてはいない。癖になりすぎて、無意識下の作業になってしまっている。しかし、そんな自分がカギを閉め忘れる、なんてことはないだろう。やはり、自分は閉めて、誰かが開けたのだろうか。

 

 じゃあ、何故、金銭などが盗られていないのだろう。まさか、カギを開けたところで良心の呵責に苛まれた、というわけじゃないだろうに。

 

 自分がカギを閉めて誰かが開けたのか、単純に自分はカギを閉め忘れたのか。

 

 そんなことを昨日は一日、考えていた。買い物をしても、面白い忍具がないか探しに回っても、ちょっとした書類の処理をしても、頭の隅ではずっと考えていたのだ。

 

 結局のところは結論を出すことができず、とりあえずしっかり施錠をしようということで床についたのだが、今日こそは泥棒が入ってきて有り金をかっさらうだけではなく命の危機にも直面するのではないだろうかと不安に思ってしまい、寝る時間がいつもより遅くなってしまった。

 

 そして―――昼間に起きたイロミは、今に至っている。

 

 カギはしっかりと窓を固定したままという、当たり前の光景を目の当たりにしていた。

 

「……まあ、いっかな」

 

 何事も無かったわけだから、深く気にする必要もないだろう、と結論付けた。もちろん、大切な金銭の隠し場所には一工夫する必要はあるが、今すぐというほどでもない。まだ昼間。こんな時間に、盗みに入るほど、木ノ葉隠れの里の治安は悪くない。

 

 イロミは立ち上がり、歯を磨いて顔を洗った。寝癖を落ち着かせて普段着に着替えると、台所で昼食を手軽に作り、あっという間に食べ終える。流し台に食器を置き、水に漬けた。

 

 今日は一日、フリーな日だ。と言っても、中忍という身分である以上、完全に約束されているわけではない。急遽、任務が飛び込んでくる可能性もある。しかしそれは稀なケース。つまり今日は、固定的な予定が無い、ということだ。

 

 巻物を背負って家を出る。目指す先は、親友であるフウコのところ。目的はやはり、修行を付けてもらいたいからである。

 

 家のカギをしっかりと施錠し、道を進む。天気は晴れやかで、空には分厚い雲がちらほらと姿を現しているが、雨が降りそうな気配は無かった。絶好の修行日和だ、と思う反面、今日のフウコの予定はどうなっているのだろうか、と不安に思う部分もある。何せ彼女は、暗部のナンバーツー。自分とは違い、重要な地位にいて、仕事の重要度や頻度も異なるため、特に自分が中忍になって下忍よりも幾分か忙しくなってからは、ごくたまにしか修行を付けてもらえなかった。

 

 道を歩きながら、ふと、思い出す。きっかけは分からないけれど、何となく、アカデミーの頃のこと。

 

 既にフウコは下忍になっていて、自分はまだアカデミー生だった頃。

 

『イロリちゃんは、色んなことに手を出した方が、いいと思う』

 

 いち早く自分も下忍になろうと自分なりに頑張って、けれど自分じゃあ何をしても分からない時があって。

 

 だから、情けないことに、彼女に修行をつけてもらうように頼んだ。知らない上忍に話しかけるのは怖かったし、アカデミーの先生に頼むのも怖かった。かといって、イタチやシスイに一対一で修行を付けてもらうっていう状況にも、異性ということもあり、勇気が必要だった。当時の自分は、素直に頼れる人が、彼女しかいなかったのだ。

 

 修行を開始する前に、突然、彼女からの言葉に、当時のイロミはおっかなびっくりに尋ねた。

 

『え……えーっと……、どういうこと?』

『言った通り』

 

 言われた通りと言われても、分からない。

 彼女は静かに息を漏らした。

 

『今のイロリちゃんは、何の才能も見つかってない』

『うっ……』

『……えーっと、悪い意味で言ったんじゃ……ないよ?』

 

 この頃のフウコは、ちょっとずつ気遣いというものを覚え始めていた。イロミの表情を察ししてその言葉を選んだようなのだが、しかし、何も才能が見つかっていないという言葉をどのようにとれば、悪い意味ではなくなるのか。

 親友の容赦のない言葉を前に、両眼が熱くなってきてしまった。

 

『うぅ……じゃあ、どういう意味?』

『今のイロリちゃんには、他の誰かよりも優れた部分がないの』

『……ひどい』

 

 ぼそりと呟いたイロミの声をフウコはわざと無視した。

 

『才能を作ることは、多分、誰にもできないと思う。だけど、才能を見つけるのは、きっと、誰にでもできることだと思う。そして、才能は、大なり小なり、誰にでもあると思うの』

『…………私に、才能って、あるのかな?』

『ある』

 

 不思議だった。

 彼女の言葉には説得力がある。

 無表情と赤い瞳に見つめられて、イロミは力なく頷いた。

 

『だから、色んな事に手を出すの。些細なことでもいい。木の葉の里だけの技術じゃなくて、他の里の技術も。そうすれば、いつか、イロリちゃんの才能が見つかる。まずは見つかるまで、頑張ろ?』

 

 それからというもの、イロミはひたすら忍術書を読んで、多くの知識と技術を取り込むようにした。忍具も、普通のクナイや手裏剣だけじゃなく、一見どういう風に使うのか分からない奇天烈な忍道具でさえも手に取って使ってみた。それらは全て、彼女が背負っている長い巻物の中に、封印術によって収められている。数は優に百を超える。それらを拙いながらも使いこなし、多種多様な手を使って、ようやく中忍になったのだ。

 

 未だ自分の才能というのが何なのか分からない。

 

 それでも、フウコの言ってくれた言葉は嘘じゃなかった。自分は、本当に少しづつだが、成長できている。実感できる。

 

 これからももっと、色んな事を教えてほしい。

 そしていつかは、彼女と同じ位置に立って、色んなことをしたい。遊んでもいいかもしれない、まだまだ修行を付けてもらうのもいいかもしれない。想像はどこまでも彼方まで広がっていく。

 

 足取りは軽いまま、うちはの町に入る。抵抗は無かった。

 

 木ノ葉隠れの里の中では、うちは一族はエリート、というのが一般的な印象として広まっている。それは間違いではないのだが、その印象には、堅物、あるいは他の一族を見下しているといった、あまり良くないものも付属していたりする。そのせいもあってか、あまりうちはの町に近寄る者はいない。

 

 幼い頃から、フウコ、イタチ、シスイの三人と関わってきたイロミにとっては、エリート以外の印象は特に持ち合わせることはなかった。むしろ、尊敬するばかりだ。フウコに修行を付けてもらったり、中忍選抜試験の前に相談をしようと思ったりと、何度もうちはの町に出入りしている内に他の人たちとも親しくなり、やはり、悪い印象は受けなかった。

 

 道行く人たちに挨拶をされ、挨拶を陽気に返していく内に、もうすぐで親友の家に辿り着く。目の前にある角を曲がれば、目的地だ。

 

 一歩一歩と近づくにつれて、気分は高鳴った。窓のカギのことなんて、もはやどうでもいいくらいに。

 

 ―――今日は、どんな修行、付けてもらおっかな。

 

 イロミは小さく笑顔を浮かべた。

 フウコに修行を付けてもらう光景を想像するだけで、体温が上がっていく。

 角を曲がった。

 

 そして見つける。

 

 親友が、

 

 大切な友達が、

 

 フウコが、

 

 うつ伏せに倒れる三人の男たちの中央に立っているのを。

 

「私は、シスイを愛してる」

 

 その声は、あまりにも、矛盾していた。

 言葉ではなく、声が。

 二つの力が反対方向へと進むような、そんなおかしさを多分に持ち合わせたもの。

 

「嘘じゃない。決して、嘘じゃない。私は、シスイを愛してた」

 

 倒れている男たちは皆、どこかしらから血を流していた。鼻であったり、口であったり、頬であったり。そして、亡霊のように佇むフウコの両手には、微かな血痕が。

 息を呑むと同時に、イロミは状況を理解した。フウコが三人の男たちに暴力を振るったであろうことを理解して、そして、どうしてそんな状況になったのかと混乱した。

 

 視線を上げると、そこには無表情で、けれどあまりにも冷酷な色を含んだ、彼女の横顔があった。

 

 アカデミーの頃に、二度だけ、見た事がある。

 一度目は、育ての親を殺そうとした時。

 もう一度は、あの暗い森の帰り道で。

 

 それら二つの彼女の表情と、同じ部類のものだった。

 

「お前たちのくだらない考えを、私に、わざわざ言わないで。才能だけあって、本当の努力もしないのに、口先だけ。いつもお前たちは、くだらないことばかり言う。あまり、私を怒らせないで」

 

 初めて聞く、彼女の冷たい声。しかし、その声質は、あの暗い森で見た彼女と合っていて、つまり、怖いと、イロミは思ってしまった。

 

 今すぐにでも、彼女を止めないといけない。そう思っても、気が付けば、自分の両足は震えていて、動けなかった。声を出そうと思っても、怖くて、言葉を発せない。

 

「なら……、昨日一日、何をしていたのか言えるはずだッ!」

 

 倒れている三人の中の一人が、声を荒げた。

 両眼を写輪眼へと変化させている彼の声は、怒りと、少しの怯えが含まれている。

 

 どうしてそんな声を、そんな眼を、彼女に向けているのか、分からない。

 

 とにかく、止めないと。

 友達が、大切な友達が、良くない視線に晒されている。

 

 なのに、身体が、喉が、動いてくれない。

 

 いつだって彼女は、自分が辛い時には傍にいてくれたのに。

 

「昨日、私が何をしていたのか、お前らには関係ない」

「なんだとッ! 貴様、それでも、うちはの人間か!」

「黙れ」

 

 さらに重く、鋭く、冷たい、フウコの声。

 横風が、彼女の白い浴衣を揺らして、同じくらいに黒い髪も揺らした。隙間から、彼女の写輪眼が見える。

 

 ほんの、一瞬だけ。

 

 彼女の目が、こちらを向いたような気がした。

 

 けれど風に流される黒い髪が、すぐに彼女の目を、表情を見えなくする。

 

「私は、夢の世界に行くの」

 

 ―――え?

 

 夢の世界。

 聞いたことのある、懐かしい言葉だった。

 

「お前たちみたいに、たった一つしか違わないのに、全部を否定する、そんなくだらないことを言わない、綺麗で、楽しい世界に、私は行くの」

「何を、言って―――」

「分からない? 私の言ってることが。どうして? 同じ言葉を使ってるのに。いい加減にしてよ。言葉が通じないなら、どうすればいいの? 分からない? 分からないなら、邪魔だから」

 

 殺すぞ。

 

 駄目だ、止めないと。

 このままじゃ、彼女は、悪いことをしてしまう。

 遠くへ行ってしまう。

 動け、足。

 何のために、今まで、努力してきたんだ。

 止めないと……止めないとッ!

 

「フウコちゃ―――」

「フウコッ!」

 

 ようやく吐き出す事の出来たか細い声は、全く反対の方向から割り込んできたフガクの声にかき消された。その場にいた全員が、彼に視線を集中させてしまった。フガクはちょうど、フウコを挟んで、イロミの反対の位置に立っていた。普段から厳格な表情を浮かべる彼だが、今だけは、厳格さよりも怒りが上回っているのが、はっきりと分かった。

 

「これは、どういうことだッ!」

「……おかえりなさい、フガクさん」

 

 フウコは輪郭の薄い声を出した。

 

「何でもありません。気にしないでください。それよりも、もうそろそろで御昼ご飯です」

「フウコ……、お前、昨日からどうした。普段のお前なら、無闇に暴力を振るわないはずだ」

「……ずっと、空を見てきました」

 

 空を、見上げた。

 まるで、今から遠い空へと消えていくかのように、両手をぶらりと垂れ下げて、力無く立ち尽くす、彼女。

 

「どうして皆、空を見上げないんですか? 視線を下げて、周りの表情ばかり、どうして見るんですか? 空の方が、何倍も綺麗なのに。私はずっと、綺麗な空を見続けることができる、夢の世界を目指しているんです。それを邪魔する人たちは、容赦しません。できません」

「どういうことだ……ッ」

「色んな事が、私の邪魔をする。つまらなくて、退屈な戒めばかり。楽しくない」

「……もういい。フウコ、これ以上、戯言を言うのなら、お前を牢につなぐぞ」

「ま、待ってくださいッ!」

 

 ようやく、身体を動かすことができた。

 フウコの前に立って、フガクと対峙する。起き上がろうとしている三人の男たちは驚いた表情を浮かべるが、フガクは小さくため息をつく。しかし、怒りは収まっていない。強い怒気が滲み出ている声で、フガクは言った。

 

「イロミちゃん、これは、我々うちはの問題だ。悪いが、口出しはしないでくれ」

「できません! うちはの問題だって言うのなら、これは、私とフウコちゃんの、友達の問題ですッ!」

「君は事態を分かってるのか?」

「分かりません。だけど、少し、落ち着いてください。フウコちゃんを、牢に入れるなんて。……家族を、牢に入れるなんて」

「俺には、大切な役割があるんだ」

 

 異常だ。

 フウコの様子も異常だけれど、フガクの様子も、そしてフガクの横に移動し始める三人の男たちの様子も異常だった。

 

 警鐘が鳴る。

 頭の中で、一つの恐ろしい想像が過った。

 

 本当だろうか?

 

 目の前の、この光景だけが、異常なのだろうか?

 もしかして、うちは一族全体が、何かの、異常なものへと、変貌しているのではないだろうか?

 

 そしてその警鐘は、全く別方向から、おかしな形で肯定されることになった。

 

 後ろに、突如として気配を感じた。同時に、声が耳に届く。

 

「うちはフウコだな」

 

 その声は悍ましいくらいに平坦なものだった。フガクたちが驚愕するのを見てから、イロミは振り返る。そこには、茫然と立ち尽くすフウコ。そこでようやく、彼女の左の口端にガーゼが貼られていることに気が付いた。不自然なガーゼ。

 その後ろに、四人の暗部の忍が立っていた。

 

 遅れて、フウコも振り返った。

 

「……今日は、私は非番のはずだけど?」

「既にお前には、副忍としての権限は一時凍結扱いとなっている」

「どういうこと?」

「我々は、お前を拘束しに来た。―――うちはフウコ、うちはシスイの殺人容疑により、貴様を拘束する」

 

 思い浮かんだのは、四人で撮った、一枚の写真だった。

 

 その写真に、致命的な、痕が。

 

 眼が熱くなり始める。

 顎が震えて、呼吸が細かくなってしまう。

 

「待てッ! 警務部隊には、何の報告も無いぞッ!」

 

 フガクの声が、過分に頭に響いてしまった。

 

「そもそも、何故暗部が動いている。里の中での案件は、我々警務部隊が主導のはずだ」

 

 声のプレッシャーは相当なもので、しかし暗部の男は、箸にもかけずに淡々と返す。

 

「今回は特例だ。暗部の者が同じ暗部の者を殺めるという事例はこれまで確認されていない。ましてや、うちはフウコは副忍という地位にいる。容疑という段階であるとはいえ、不必要な不穏を広める必要は無い」

「あまりにも独断が過ぎる……ッ!」

「もちろん、我々としても、そのことは十二分に理解している。その上での判断だ。火影様からの直々の指示である以上、従ってもらう」

「しかし―――」

「フガクさん、落ち着いてください」

 

 透き通るような声に、一瞬だけ、その場が静まり返った。

 

 イロミは期待する。

 

 この場で、彼女が、そんな、訳の分からない容疑を、いつものように冷静に否定してくれるのを。

 カッコよくて、自分の目標である彼女が、堂々と否定するのを。

 

 だけど、

 

「分かりました。指示に従います」

「ッ! フウコちゃんッ!」

「ですが、少し、着替えさせてください。寝巻のまま事情聴取をされるのは、嫌なので」

「いいだろう。すぐに支度をしろ」

 

 ありがとうございます、と言って、フウコは足早に家の中へと入っていく。イロミは、彼女の後ろを追いかけて、家へと入った。開けっ放しの玄関には、サスケが立っていて、目の前を通り過ぎる彼女を見て「姉さん……?」と不安な声を出したが、彼女はそれを気にも止めないまま、自分の部屋へとさっさと行ってしまう。

 

 後ろから、フガクが暗部の忍たちに言葉をぶつけているのが届く。何を言っているのか、そんなことに、意識を向けれるほどの余裕はなかった。

 

 彼女の部屋。

 

 着替えを始めるフウコ。まるでこれから、買い物でも行くような流暢な動作に小さな苛立ちを覚えながら、イロミは尋ねた。

 

「ねえ、フウコちゃん! 何があったのッ!?」

「何もないよ。安心して。……ごめん、しばらくは修行、付けてあげれないかも」

「シスイくんが、殺されたって、そんなの……どうして、フウコちゃんがっ」

「気にしなくていいよ。修行は、イタチに頼んで」

 

 言葉が定まらない。

 心が震えているせいだ。

 眼が熱くなって、もしかしたら、泣いているのかもしれない。

 それでも、不安の感情は大きくなって、だけど、当事者は何ともないように着替えを終え、着替えている途中で見えた数々の傷痕や痣を見て混乱して。

 

 何かがあったのは明白なのに、彼女は教えてくれない。

 

 それが、何よりも、悔しかった。

 

 友達なのに。

 

 友達の……はずなのにッ!

 

「私の目を見てよッ! フウコちゃんッ!」

 

 ようやく。

 フウコはこちらを見てくれた。

 いつもの無表情で、赤い瞳。

 どうしてそんな表情が出来るのか。

 シスイが殺されたという報告がされたというのに。

 一切の悲しみも苦しみも、伝わってこない。

 どうして。

 自分から見た、フウコとシスイの関係は、不思議な形だったようだけれど、互いに尊重し合った、理想的なものだったのに。

 

イロミちゃん(、、、、、、)

「……フウコ、ちゃん?」

「またね。また、遊ぼうね」

 

 笑顔だった。

 初めてみる、彼女の、子供っぽい笑顔。

 

 いや、初めてではない。

 

 イロミと、彼女は呼んだ。

 あの夜のように。

 初めて出会った、【フウコ】のように。

 そして目の前の笑顔と、未だ鮮明に覚えている声は、頭の中で、時間を超えて合致する。

 

 横を通り過ぎたフウコは、静かに、自室の部屋を閉めた。ドアの向こうから、ミコトの声がする。何を言っているのだろう。耳に届いているはずなのに、意識はそれを処理してはくれなかった。

 

 残されたイロミの頬から、涙が零れ落ちた。

 どうして自分は泣いているのだろう。

 それも分からないまま。

 




 次回の投稿も十日以内に行いたいと思います。

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