―――朝。
いつも起床する時間よりも一刻ほど早く、目を覚ました。しかし、昨晩、眠る時間は遅かったものの眠気は全くと言っていいほど尾を引かなかった。意識ははっきりとし、やるべきことは明確に、思考の中心に座している。淀みなく、支度を済ませた。
長いマフラーを首に巻いて、イロミは、テーブルに置いてある写真立てを見た。部屋にあるどの家具よりも高級感溢れる、漆塗りの写真立ての中には、イロミにとって、最も大切なものが収められていた。
シスイ、イタチ、フウコ、そしてイロミの四人が、楽しそうに笑顔を浮かべている光景。
たった一瞬の絵なのに、それを見ただけで、多くの記憶が奔流する。そして、悲しさも。一番爽やかな笑顔を浮かべているシスイを見ると、鼻の奥が湿った。もう、彼には、会うことはできない。まだ、遺体を見ていないが、暗部が遺体を発見している、という情報には間違いがないだろう。忍の死の報告ほど、確度の高いものはない。
シスイは良く、イロミをからかっていた。
アカデミーの頃も、下忍になった頃も、中忍になった頃もだ。
やれ、間抜けだの、面白いことをするなあだの、よく転ぶなあだの。
もちろんそれらは冗談だったのだが、冗談だと分かったのは下忍の頃で、それまでは、彼の言葉はグサグサと小心者のイロミの心に突き刺さったりしていた。当時は、涙目になって、その姿を見たフウコが無表情にシスイを蹴るというのが定番だった。だけど、彼の冗談が分かってからは、よく、笑わされた。イタチもフウコも、彼に一番笑わされただろう。
これから、彼の冗談を聞くことは、もうない。
そして、彼とフウコが会話をしている所を見ることも。
彼とイタチが話しをしているところも。
ああ、そういえば、とイロミは思う。
今自分が起きた時間は、そう、アカデミーの頃の時間だった。あの頃は、目を覚ますのが、たまらなく待ち遠しかった。眠るのさえ勿体無いとすら思えるくらいに、前日の夜はワクワクした。友達とまた会えて、楽しい時間がやってくる。晴れだろうと曇りだろうと、目を覚ませば、輝かしい朝だった。
もう二度と、あの時の時間は、来ないのだろうか。
下唇を一度噛み、イロミは部屋を出た。朝の微かに湿った空気が首筋を撫でる。眼下の道を、おそらくアカデミー生だろう子たちがちらほらと歩いているのが見えた。その流れに逆らう方向へと、イロミは進んでいくと、見慣れた子がいた。
赤毛交じりの黄色い髪をした男の子。額にはアカデミー生に支給されるゴーグルをつけている。うずまきナルトはイロミの顔を見るや素直な笑顔を浮かべて、目の前まで駆けつけてきた。
「イロミの姉ちゃん!」
「おはよう、ナルトくん」
任務へ向ける緊張感とフウコに会うためという緊迫が伝わらないようにと、努めて笑顔を向けた。バレてはいないだろうか、そう思ったが「ニシシ」と笑った彼を見て内心で小さく安心した。
イロミは微笑み、尋ねる。
「今日は珍しく早起きだね。大丈夫? 授業中、また居眠りしちゃうんじゃない?」
「イロミの姉ちゃんじゃねえんだから、んなことはねえってばよ」
「ふふーん、これでも私、授業は眠ったことはないんだよね。授業態度は良かったんだ」
「なのに、一度もドベから抜け出せなかったのか?」
「……まあ、そのことは、別にね、うん……気にすることじゃないと、私は思うんだ」
「都合がいいってばよ」
ナルトとは、フウコが彼に修行を付ける時に友達になったが、その以前から彼のことは知っていた。
化け狐、九尾を封印された子。
誰かに尋ねる必要もなく耳に入ってくるそれらの評価には、うずまきナルトという名前が付随していたからだ。しかし、その時から既に、イロミはナルトに対してマイナスなイメージは持ってはいなかった。
ナルトが年下ということは分かっていたということ、常識をあまり持ち合わせていないフウコという友人を持っているということ、何より、イロミ自身がこれまでアカデミーや下忍時代、そして中忍選抜試験で散々な大恥をかいて他者からの評価をあまり気にしないようにしていたことが、要因だった。
実際に会ってみると、やはり大人たちが囁くような恐ろしさや不気味さは垣間見えず、むしろ素直で明るく、そしてひたむきな子なのだと分かった。……多少、悪戯好きな面はあるが、それは子供らしい部分で、一切の脅威はない。
ナルトには、不思議な影響力がある。
話していると、気が付けば、笑っている自分がいる。彼を見るだけで、微笑ましい気分になってしまう。
頭の中にあった任務成功の使命感は、少しだけ無くなっていた。
「都合が良くても、何でも、とにかく私は中忍なんだよ? ドベだって、そんなのは、関係ないの。中忍になるのは、すごい大変なんだから」
「……イロミの姉ちゃんが言っても、信じられねえってばよ」
目尻を下げて呆然と見上げてくるナルトに、地団太を踏みたくなる衝動に駆られた。
いつもこうである。生意気なサスケもそうだが、どうしてこうも、尊敬されないのか。二人とも、フウコには懐いて敬っているのに。まあ、彼女と自分とでは、忍としての力に雲泥の差があるため仕方はないのだが、それでも自分の方がナルトやサスケよりも年上であり、中忍だというのは間違いない事実だ。
必ずや二人から尊敬の眼差しを受けたい、というのが、密かな野望だったりする。
イロミは固い笑みを浮かべながらも、どうにか落ち着いて言葉を投げかけた。
「とにかく、授業は真面目に受けないと駄目だよ。フウコちゃんからも言われてるでしょ?」
「……なあ、イロミの姉ちゃん。フウコの姉ちゃんは、今、忙しいのか?」
笑顔を潜め、俯き気味になるナルトを見て、イロミはどうするべきか迷った。フウコの身に何が起きているのか、事実を伝えた上で、決して過ちは犯していないという自分の考えを言うべきか、それとも、全く別の嘘を言うべきか。
「……最近、私も会えてないの」
イロミは、嘘を付くことにした。
たとえ、フウコへの容疑が間違いであっても、伝えてはいけないことだ。
「フウコちゃん、最近、難しい任務をしてるみたいなんだ。しょうがないよ。フウコちゃんは、暗部で重要な仕事を任される地位にいるから」
「………そんなの、知ってるけどよ……一言くらい…………、言ってくれてもいいってばよ……」
子供っぽく唇を尖らせて拗ねているように見えるが、地面を見下ろしているナルトの目には、微かな恐怖の色が宿っていた。
彼は、里で村八分のように扱われている。
声をかけても無視され、一緒に遊んでくれる相手もいない。
ずっと孤独に生きてきた。
親が誰なのかも知らないまま。
そんな彼にとって、フウコは家族のような存在なのかもしれない。その彼女と会えるのは、夜中の修行の時だけ。しかも、毎日ではない。
きっと、フウコが修行に来なかったのは、今回が初めてで、それに不安を抱いているのだろう。
イロミは膝に手を付いて、ナルトと同じ目線の高さに立った。
「大丈夫だよ」
と、イロミは笑った。
「フウコちゃんは優しいから。今はただ、忙しい時期だから、来れないだけ。安心して」
「……イロミの姉ちゃん」
「後で私が伝えておくから。何なら、私が今日、夜に修行つけてあげようか?」
「へへ……イロミの姉ちゃんに教えてもらうくらいなら、自分で修行するってばよ」
「なんだとぉ~、この生意気め~」
にしし、と憎たらしい可愛げのある笑顔を浮かべるナルトの頭をくしゃくしゃといじってやった。
日常だ。
些細だけれど、尊い日常。
また、この日常はやってくるのだろうか?
あの写真の頃には、戻れない。
シスイが、死んでしまったから。
きっとフウコは、それを悲しんでる。
いつか体験したあの黄金に煌めく日常は、決して帰ってくることはない。
もしかしたら、全てがバラバラになって、静かに終わるかもしれない。
それでもだけど、諦めたくはなかった。
不謹慎かもしれない、傲慢かもしれない。
だけど、また、笑っていたい。
今のように。
彼女と……友達として。
「あんまり悪戯ばっかりしてると、フウコちゃんに嫌われるからね。ほどほどにするよーに。じゃあね」
「分かってるってばよ。イロミの姉ちゃんも、しっかり伝えてくれよな!」
「もちろん!」
手を振りながら遠ざかるナルトに、イロミは手を振り返した。彼の後ろ姿が見えなくなってから、足を進める。たった今までの日常的な楽しさを感じていた意識を、任務への集中力へと変換させる。短い間だったが、それでも、フウコが拘留されてから続いた茨のような辛さからとの高低差のおかげで、久しぶりの充実した時間だったように思える。
密度の濃い楽しさは、密度の高い集中力を生み出した。
イロミは里を出て、駆ける。
滝隠れの里へ。
☆ ☆ ☆
太陽の日差しに、オレンジと白の光がちょうど半分ほどの割合になった―――夕刻。
あと少しもすれば、アカデミーが今日の終業を告げ、買い物帰りや仕事終わりの人々が里の通りを行き交い賑やかになる頃だろう。前兆なのか、烏が鳴き始めている。
しかし、その横に長い直方体の部屋には、外の賑やかさは一切に届いてはいなかった。片方の壁には窓が付けられているが、分厚いカーテンに遮られ、室内を照らしているのは天井の蛍光灯だけ。防音設備が整えられているせいで、外の音が届くことはなく、重苦しい沈黙だけが漂うばかり。
部屋には、八名の人間が、四対四で細長いテーブルを挟んで座っていた。片方は、うちは一族の代表、もう片方が火影上層部である。イタチが座っているのは、もちろん、うちは一族の側なのだが、会談が始まってしばらく、一度として発言はしてない。そもそも、上忍とはいえ年齢的には若いイタチが、この場で発言できることがないということは、おそらく場にいる全ての者は理解していた。イタチ自身も、何かを言えることはないだろうと考慮していた。
既に、フウコを受け渡すという結果が決められた会談。それでも、会談が始まって半刻は互いに互いの思惑を知らないかのような振る舞いと言葉を、今回のシスイが殺された【事件】の情報交換と共に、表面的に交わしていた。こういった、廊下の隅の微かな埃を取り払うような作業が必要な場面がある、ということは、一応はイタチは理解している。互いに、真剣なのだと認識できなければ感情を制御できない大人が大多数なのだ。
おそらく、自分がここにいるのも、そういった真剣な空気を共有する為だろう。同じ人数、あるいは火影側よりも多い人数にしたいだけだ、とイタチは予想していたのである。
「何故、フウコの引き渡しが明日の夜なのか、理由をお聞かせ願いたい」
どうして暗部が警務部隊の職務侵犯を行ってまで、フウコの身柄の拘束を実行したのか、その事情説明を火影であるヒルゼンが説明をした後、彼女を警務部隊へと引き渡すこと、そして彼女から引き出した情報や暗部が独自に収集した情報も同じく引き渡すこと、これらに合意した後、フガクが尋ねた。
引き渡しは明日の夜、という火影側の判断に、幾分かのきな臭さを感じたのだろう。視線をやや細くするフガクに、ヒルゼンの隣に距離を置いて席に座っていたダンゾウが、会談が始まってから保っていた沈黙を静かに破った。
「……幾つかあるが、大きく分けて二つ、理由がある。一つは、うちはシスイの死因、事件当日のうちはフウコの行動と証言、その他の情報の整理が追い付いていない」
「情報提供には感謝する。だが、それらをフウコと共にこちらに提供するという必要性があるとは、俺には思えない」
「そちらがそれでいいというのであるならば従うが……よいのか?」
会談が始まってからは、基本的にヒルゼンが対応していた。穏和で駆け引きのない誠実な対応をしていた彼とは打って変わって、ダンゾウの強気で腹を探るような言葉に、フガクを含めたうちは一族側は小さく息を呑んだ。それには、イタチも含まれている。
ダンゾウは、暗に、その情報提供に何らかの不備があったとしても、ボールはそちらにあることになるぞ、と言っているのだ。わざわざ、うちは一族を刺激するような言葉を選ぶ必要がないだろうと、イタチは思った。
ダンゾウは息を吐きながら、言葉を続けた。
「もう一つは、フウコに施した術を解くのに、一日ほどの時間を要するということだ。そなた等も知っての通り、フウコは類稀なる才能を持っている。今回の事件の容疑者として拘束した際、万が一に備え、幾重もの拘束術、封印術を使用した。それらを解くのに、時間がかかる。これが、最も大きな理由だ」
もちろん、そのような封印術は施されていないことは、知っている。フウコと会った時、微々たるチャクラの気配も感じ取れなかったからだ。どちらかというと、前者の理由の方が、真実なのだろう。
うちは一族が不満を持たないよう、暴発しないよう、偽の情報を纏めた書類。それらを綿密に、作っている。
うちは一族側は、ダンゾウの言葉に反論することなく、フガクが「分かった」と頷き、続けた。
「だが、そちらの要件を呑む以上、約束を違えた時は、それ相応の責任を取ってもらいたい。ただでさえ、我ら警務部隊への申し出もなくフウコを拘束したのだ。これ以上、横暴を続けるのであれば、悪いが、うちは一族は木の葉を信用することはできない。里の治安を最も維持してきたのが誰か、よく理解してもらいたいところだ」
「本当に、申し訳ないことをした」
そう応えたのは、ヒルゼンだった。
「今回の事態が特例とはいえ、うちは一族を軽視するようなことをしてしまったことは、申し訳なく思っておる。全て、ワシの責任じゃ」
「今後は必ず、我ら警務部隊へ申し出るよう、お願いしたい」
「……これからも、変わらず、里の治安の為に協力してほしい」
「ええ、全くです。こちらとしても、同じように思っています」
頭を下げるヒルゼンに、俯瞰するような皮肉をぶつけたフガクは乱暴に立ち上がった。どうやら、もう話すことはないようだ。他の二人の男も立ち上がり、いち早く部屋を出たフガクを追いかけるように部屋を出て行く。イタチも立ち上がり、ヒルゼンとダンゾウを一瞥してから部屋を出た。
建物を出ると、空の半分はオレンジ色に染まっていた。西へと泳ぐ、薄い鱗雲。それらを見上げながら、イタチは、前を歩くフガクらにばれないように細く息を漏らした。
とりあえず、会談は何も問題なく終わった。うちは一族側が無闇な要求をすることなく、火影側が不必要にうちは一族側を逆撫ですることもなく、無難な平行線だった。フウコが引き渡されるまで、うちは一族は無理をしない。もちろん、油断は出来ないが、今、軽く肩の荷を降ろすくらいは許されても良いだろう。
「イタチ」
フガクに声をかけられ、視線を下げる。
「そろそろ、アカデミーが終わる頃だ。サスケを迎えに行ってくれ。俺たちは先に町に戻って、仕事をする」
仕事をする。
その言葉が何を意味しているのか、頷きながら、イタチは理解する。会合をする訳ではないが、中心的なメンバーたちで話し合いをするということなのだろう。わざわざ遠回しに言う必要はないと思うけれど、会談の最初の時と同じで、表面的な演出である。
懐かしい、アカデミーの通学路を進んだ。
イタチは一年でアカデミーを、シスイと共に卒業した。フウコがアカデミーを卒業して半年経ってからである。その時には既に、フウコは中忍昇格の内定が決まっていた。けれど、イロミが未だアカデミーに残っていたこともあり、任務や演習がない日はフウコはイロミと一緒にアカデミーに行くことが度々あった。ちょうど、イタチの予定も空いていた時は、フウコと一緒にアカデミーに行っていた。時には、シスイも一緒に。故に通学路を歩いた時間は、アカデミーで過ごした時間よりも意外と、長かったのだ。
通学路には大きな変化は、あの頃に比べてあまりなかった。並ぶ店先、家の位置。記憶と目に映る光景の大部分は重なる。それに伴って、懐かしさの奥から手を伸ばし、肩を掴んでくる、重く辛い感情。イタチは冷静にそれらを振り払いながら進む。アカデミーが見えてきた。
ちょうど、今日の修行を迎えたのだろう。アカデミーの校門から子供たちが駆け足で通り過ぎて行く。きっと、友達と遊びに行くのだろう。そう思うと、小さく笑みが零れてしまった。校門の柱に背を預けてサスケを待つことにした。
すると、一人の男の子が校門から駆け足で出てきた。赤毛交じりの黄色いの短い髪の毛。男の子がうずまきナルトだということは、イタチは瞬時に理解した。
九尾を封印された人柱力。しかしそれ以上に、フウコに修行を付けてもらっている子という印象の方が強い。フウコが修行を付けている、というのは彼女自身から教えられたことだった。
他の大人たちのように軽蔑の視線を送ることはなく、ただ、彼を直に見るのが初めてだったため、小さな彼の背中を追いかけた。声をかけようか、とも思った時、彼はこちらを振り返り、視線が重なる。
「…………?」
ナルトは、じっと優しく見るイタチの様子に首を傾げたものの、すぐに走り遠ざかってしまった。
「え、兄さん?!」
校門から出てきたサスケが、イタチの姿を見るなり声を挙げた。視線をそちらに向けると、サスケと、そして後ろには二人の女の子が立っていた。ピンク色の髪をした子と、薄い黄色の髪を短いポニーテールで纏めた子だった。
「どうして兄さんがいるんだよ」
明らかに不機嫌な声になり始めたサスケに、イタチは笑顔で見下ろした。
「ちょうど仕事が終わった所だ。近くまで来たから、迎えに来たんだ。君たちは、サスケの友達かな?」
「あ、はい! 私、山中いのって言います! ほらサクラ! あんたも挨拶する!」
「えっと……、春野サクラと、言います。よろしくお願いします」
「ああ、よろしく。俺はうちはイタチだ。弟のサスケが、いつも世話になってる」
ただ挨拶をしただけなのに、どういう訳か二人は頬を微かに赤らめた。もしかしたら、かつてのイロミのように、人見知りなのかもしれない。この頃の年頃の子は、男女問わず、年上の相手には距離を取りたがるもので、距離を取ろうとする時のリアクションは人それぞれだ。
サスケの友達である二人になるべく恐怖心を与えないよう、分かりやすく柔らかく笑みを強めた。すると、イタチの黒い瞳から逃れるように、いのが震えながら声を出した。
「ね、ねえサスケくん。今日出た宿題、一緒にやらない? 私、分からないことがあって……。教えてほしいなーって、思ってるんだけど…………」
「……俺、今日は修行するつもりだ。悪いが、また今度な」
家の時とは打って変わって、ぶっきらぼうに応えたサスケは早歩きに歩いていってしまった。「あ……サスケくん」と、サクラは消えそうな声を出すが、サスケの歩く速度は変わらなかった。
―――アカデミーでは、あんな感じなのか。
家と外での、サスケの二面性。人見知り、という訳ではないだろう。むしろ、他人を気にしないと言った感じである。変なところで、姉のフウコに似てしまったようだ。
「すまない。サスケは、家ではもう少し明るいんだ。悪気はないと思う。あまり、気にしないでくれないか?」
「え? いえいえいえ! 分かってます!」
いのは声を裏返しながら両手を大きく振った。
「サスケくんって、テストや授業で凄いから、その、修行に熱心なことは……知ってましたから」
「これからも、サスケの友達のままでいてくれ」
小さく頭を下げて、イタチはサスケを追いかけた。すぐに追いつき、サスケを見下ろすと、明らかに不機嫌そうに俯いて、ムスッと唇を尖らせていた。頭の中で、サスケが不機嫌な理由を幾つか列挙し、これ以上ヘソを曲げられないような言葉を選んだ。
「これから、修行するのか?」
「……そのつもり」
「修行も大事だが、友達と仲良くするのも大切だ。宿題くらい、一緒にやってあげればよかったんじゃないか?」
「アカデミーの宿題なんて、簡単だよ。授業だって難しくないし、この前の試験で全部百点取ったし」
「そこまで焦ってする必要はない。お前はゆっくり、着実に、力を身に付けるんだ」
これまでフウコとイタチは、サスケに本格的な修行を付けたことはない。少なくとも【クーデターに加わって戦力になってもらおう】と、フガクやミコト、その他のうちはの大人たちに思われないように、調整してきた。今となっては、サスケがクーデターに参加するということは、昨日の夜にフガクが述べた、クーデターの事実を達成後に伝える、という言葉から考えて、ほとんどありえない。
ゆっくりと着実に。
その言葉は、半ば願望ようなものだった。
自分やフウコは、望んで力を付けて、早々にアカデミーを卒業した。里の平和を守れるような忍になりたいと、心の底から願っての、卒業である。後悔はないが、これから完全な平和が訪れる里で過ごすサスケには、その平和を少しでも長く満喫してほしかった。
「……俺、強くなりたいんだ」
低く細々と、サスケは呟いた。
「姉さんが帰ってきても、安心できるように、強くなりたい。アカデミーの授業受けてたんじゃ、遅いから……」
「……フウコを心配してるのか?」
「だって姉さん……家に帰ってきても、きっと、父さんと喧嘩になる。……もしかしたら姉さん、何も言わないで、家から出て行くかも。俺、そんなの……嫌だ」
フウコが警務部隊に引き渡されるのは、明日の夜。しかし、すぐに家に帰ってくるという訳ではない。うちは一族がフウコに疑いを持っているのは事実だ。しばらくは、警務部隊の本部に拘束されることになるだろう。
たとえ、別天神でクーデターの思想を塗り替えても、フウコがシスイを殺した、という容疑そのものは、無くならない可能性が高い。フガクは、クーデターを考えないうちは一族を前にしても、フウコを家族と呼ばないつもりなのだろうか。
「お前がフウコを心配する必要はない。それは、俺の役目だ」
イタチは小さく笑った。
もし、フウコが家族から引き離されそうになった時、きっと迷わず自分は、彼女の側に付くだろう。里を守り、うちは一族を守った彼女に、そんな仕打ちを受けさせてはいけない。
兄として―――そう、兄として初めて、今度こそは、妹を守らなければいけない。シスイよりも自分よりも遥か先に、一人で、里を守るために戦ってきた彼女を。
「大丈夫だ。俺が必ず、父上と母上を説得する。だからお前は、自分のことだけを考えていればいい。フウコもきっと、そう願ってる」
「……でも、俺…………やっぱり」
フウコを心配するサスケの気持ちは、痛いほど分かる。
それでもやはり、フウコは巻き込みたくないと思うだろうし、イタチ自身も、家族の喧嘩には巻き込みたくはないと思った。
イタチは息を漏らしてわざとらしく笑ってみせ、話題を逸らそうと思った。
「お前も変わったな。もっと小さい頃は、フウコが近づいただけで泣いていたのに」
「そ、それは! ……姉さんが、笑わないから…………」
「父上や母上、俺にはすぐ懐いたのにな。流石に覚えてないだろうが、お前が言葉をようやく話せるようになって、フウコを初めて見た時の言葉は【あの人、だれ?】だったんだぞ。そのせいでフウコが、どれだけお前に懐いてもらおうと努力したか」
「そんな昔の事、覚えてないって!」
「だけどな……サスケ。フウコはそれくらい、お前のことを大事な弟だと、心の底から思ってる。唯一無二の弟だとな。お前がフウコを心配する以上に、フウコはお前を大切に思っているんだ。気に病むことはない」
「……分かった」
「修行はいいのか?」
「今日は、うん、いい。宿題があるから」
「そうか」
二人はそのまま一緒に家に帰ったが、ただいまとは言わなかった。特に会話を合わせた訳ではないけれど、フウコが帰ってくるまでは、そう言わないようにしたのだ。
☆ ☆ ☆
あっという間に、夜を迎え、そしてその日の会合は終わった。
サスケと共に家に帰ってからは、やはり無機質で会話の少ない時間が続き、サスケが寝静まった夜の会合ではフウコが明日の夜に引き渡されるということを伝えただけで、後は中身のない堂々巡りのような議論が繰り広げられた。
あまりにも。
あまりにも、密度の薄い時間のせいで、
そう。
いつどのタイミングで空模様が変わったのか、
それすら、分からないほど。
イタチは一度、フガクと一緒に家に戻ったが、自室で眠るフリをして、すぐに家を抜け出した。昨日、フウコからうちは一族の状況をまた、教えてほしいと頼まれている。実のところ、うちは一族は、報告するほどの変化は生まれていないが、変化は特に生まれていないという情報を伝えるだけでも、フウコは安心してくれるだろう。
町を抜け出し、とりあえずは火影の執務室に向かったが、その手前、建物の前で暗部の者が数人、里が寝静まった深夜に佇む亡霊のように立っていた。
「うちはイタチだな」
極端に平坦な声。ダンゾウの私兵である【根】の者たちだと即座に分かった。ああ、とイタチが頷く。
「ダンゾウ様より、お前をうちはフウコの元へ案内するよう指示を受けている。ついてこい」
暗部の者たちの案内に、素直に従った。いくら自作自演の副忍の地位凍結を行ったとはいえ、こんな場面でもそれをする必要があるのか、とは思ったが、そんなことを今議論した所で意味など全くない。
昨日とは全く別のルートを辿ったが、辿り着いたのは、昨日と全く同じ、牢獄が連なった通路。
仄暗く、不気味な通路。
空が見えない、暗黒。
進んでいくと、やはり一番奥には、鉄製の重い扉が鎮座している。その両脇には、また別の二人の暗部―――おそらく彼らも【根】だろう―――が立っていた。
しかし、ダンゾウの姿は見当たらなかった。
「ダンゾウさんはいないのか?」
イタチの言葉に、暗部の者は誰も反応せず、真っ暗な通路を吹き抜けていく。鉄製扉が、重い音を立てながら、開かれ始める。通路よりも濃く静かな暗闇の中に、本当にぼんやりと、フウコの姿が見えた。目を覆うマスクと拘束衣。イタチは中に入ると、暗部の一人が明かりを点け、出て行く。室内には、フウコとイタチだけになった。
「イタチ?」
綺麗な彼女の声が耳に届く。
いつも通りの、クリアで平坦な声に、イタチは静かに胸を撫で下ろし「ああ」と応えた。
「よかった……来てくれて。うちは一族は、どう?」
「今の所は、問題ない。会談は、明日の夜、お前の身柄をうちは一族に引き渡すことで合意した。うちはの会合も、何事もなく終わった。移植の方はどうだ?」
「……大丈夫、成功したから。術も、発現できる。あとは、使うタイミングだけ」
そうか、とイタチは返した。
うちは一族のクーデターを止める計画は、修正された。
まだスタート地点に戻ったに過ぎないけれど、それでもイタチは大きく鼻から息を吐き、笑みを浮かべる。
「昨日渡した弁当は、しっかり食べたか?」
「……うん。美味しかった。だけど、少し、物足りなかった。お腹一杯には、ならなかったから。でもやっぱり、うん、美味しかった。お弁当箱は扉の脇に置いてあるはず」
振り返ると、たしかに扉の脇に、弁当箱は丁寧に置かれていた。
「すまない、今日も何か、食べ物を持ってくればよかったな」
「ううん、大丈夫だよ。……イタチは、優しいね。昔から、変わってない」
「当たり前だ。俺は、お前の兄さんだからな。……あまり、お前を守れてやれていないが…………」
「そんなこと、ないよ。イタチがいたから、私は、色んな事を知ることができたの。色んな事が、大切なことなんだって、分かった。私の一番最初に大切だと思ったのは、家族っていう繋がり。イタチは……それを教えてくれた」
「フウコ?」
「……ねえ、イタチ。お願いがあるの。マスク、外してくれる? イタチの顔が見たい」
どうしてだろう。
何故だろうか。
寒気を感じてしまった。
フウコの声は変わらず、クリアなのに、明かりに照らされる彼女の輪郭がぼやけているように見えてしまう。
そう感じながらも、イタチは、フウコの目を覆うマスクを外すことにした。彼女は、自分の妹だからだ。フウコの後ろに立ち、マスクを固定する硬い針金と何本もの紐を解いていく。
「……やっぱり、イタチは優しいね」
水の中を静かに溶けていく氷のような声が耳に届いた。
そして、
『ずっと空って、続いてると思う?』
頭の中で想起される、小さい頃の彼女の言葉。
まずは、針金を全て外した。そして、紐も。マスクをゆっくりと、彼女の頭から外していく。黒く、軽くウェーブの掛かった長い髪を、フウコは軽く頭を振ってならした。
「ねえ、イタチ」
「なんだ?」
フウコは、顔をイタチに向けた。
いや、眼を向けたのだ。
万華鏡写輪眼へと変化させた、その左眼の瞳を。
「今まで、ありがとう」
イタチは床に倒れた。
同時に、部屋の重い扉は乱暴に開かれる音がした。
意識ははっきりしている。
なのに、身体に力が入らなかった。
まるで何かに身体を乗っ取られたかのように、動いてくれない。
幾つもの影が、部屋の固い床の上を蠢き始めている。
「副忍様、よろしいのですか?」
影の一つが、そう言った。
「問題ない。すぐに、終わらせる」
フウコの冷淡な声に、イタチの思考は完全な軸を失い、焦りが身体中を支配した。
焦りのせいか、視界が様々な所で点滅し始める。
最悪の未来が、アバウトに、けれど瞬く間に、予想される。
呼吸は不規則に乱れ始めて、体の至る所から不自然な汗が拭き始める。
フウコ。
フウコ、これは―――。
思考がスムーズに循環しない。声を出そうにも、身体がいうことを聞かない。
「ダンゾウ様は?」
その声を傍らに、イタチの視界は、開け放たれた扉の向こう側からやってくるダンゾウの姿を捉えていた。
「俺はここにいる」
「準備は出来てますか?」
「ああ、順調だ」
直感が叫ぶ。
ダメだ。
ダメだ、フウコ!
予感だ。これは、終わりの予感。
高い所から真下を見下ろすような、絶望的な予感。
どうして。
声は届かない。それでも彼女は、イタチの心の声をしっかりと受け止めていた。
「もう、苦しまなくていいよ。あとは、私に任せて。次に起きた時は、気持ちのいい朝が待ってるから。全部忘れた、平和な朝が」
朝。
そう、朝が来てしまう。
明けてはならない朝だ。
空が入れ替わってしまう。
これまで積み上げてきたものが、入れ替わって、嘘になってしまう。
「イタチは、優しいから。だから、巻き込みたくない。私の方が冷たくて、優しくないから」
そんなはずがない。
フウコは優しい、自慢の妹だ。
自分の、誇りだ。
やめろ、ダンゾウ。
やめろ!
その眼で、俺を見るな。
俺を。
その眼で!
「今まで、家族でいてくれて、ありがとう」
愛してくれて、ありがとう。
兄さん。
さようなら。
笑顔が、見えた。
優しい、妹の、笑顔が。
「天岩戸」
動かせないはずの瞼が無理矢理に開かれ、そして、瞬きを許さないように固定された。
フウコの左眼の万華鏡写輪眼が、血涙を流している。
さっきまで浮かべていた彼女の笑顔は、血涙と共に、たしかに、悲しみに歪んでいた。
そして、ダンゾウの赤い眼が、自分を。
やめろッ!
やめろォッ!
「別天神」
うちはイタチ。
お前はこれまでのクーデターに関する記憶を、思い出すことは、もう、できない。
朝が、きた。
次話も十日以内に投稿したいと思います。