いつか見た理想郷へ(改訂版)   作:道道中道

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音、音

「どうしたの? サスケくん。虫でもいた? ほら、泣かないで。でんでん太鼓だよ」

 

 まだ、幼い頃。

 

 まともに言葉を話すこともできないくらいに幼く、記憶も曖昧なものしか保存できないくらいに意識が確固としていなかった頃の―――夢。正確な時期も時間も、朝だったのかも夜だったのかも思い出すことができないほど、原初的な記憶の中。

 

 泣きじゃくるサスケは、辺り一面真っ白な場所に立っている。場所すらも、思い出すことができない。ただ分かるのは、俯くサスケを見上げようと、しゃがみ込んで顔を覗きこむ少女が姉のフウコであること、そして彼女の右手に握られている無駄に装飾の凝ったでんでん太鼓がコミカルな音を鳴らしていることだけだった。

 

「大丈夫だよ? 私がいるから。どんな怖いことも、辛いことも、私が守ってみせるから。だから、泣かないで? サスケくん、でんでん太鼓、好きだよね? ほら。使ってみる?」

 

 どうして自分が泣いてるのか、それすらも思い出すことができない。だけど、あまり重大なことはなかったと思う。転んで膝小僧を擦りむいたとか、あるいは頭をぶつけたとか、そんなことだったような気がする。

 

 フウコの声はとても平坦で、綺麗ではあったが、まるで見当違いな言葉に、夢の中の自分は彼女から顔を逸らし、目元の涙を拭った。

 

 夢の中のサスケはまだ、フウコのことを正しく姉だと認識していない。

 

 同じ家に住んでいる。同じ食卓でご飯を食べる。しかし全く笑わず、不思議な雰囲気を漂わせていたせいで家族とは思えなかった。つまり、意志の疎通が彼女とだけ上手くいかなかったということである。

 

 早く、兄さんに会いたい。お父さんでも、お母さんでもいい。泣きながら、周りを見渡す。

 すると、急に身体が浮いた。

 

「……え?」

 

 夢の中のサスケが顔を降ろす。フウコが、背中でサスケを持ち上げたのだ。

 

 母であるミコトにもしてもらったことのある、おんぶ。しかしフウコの身長では、あまりにも地面が近く、背中はミコトよりも骨の感触が感じ取れた。乗り心地は、悪かった。

 

「はい、サスケくん。でんでん太鼓、持って」

 

 右手に持ったデンデン太鼓を、半ば無理矢理にサスケに握らせると、彼女はしっかりと両腕でサスケの太ももを下から支えた。

 

「鳴らした方が、いいと、うん、思うから。イタチは……あっちにいそう」

 

 何を根拠にしたのか、真っ白な世界を、フウコは静かに歩き出す。

 

 デン、デン、デン。

 

 フウコが歩く度に、微かな揺れを感じ取ったでんでん太鼓が、サスケの意志に反して細々と音を立てた。皮肉なことにその音は、フウコの歩くテンポと相まって、心地良かった。気が付けば涙は止まって、左手は彼女の肩を掴んでいた。

 

「大丈夫。イタチの所まで、フガクさんとミコトさんの所まで、しっかり送るから。それまで、泣かないで。サスケくんは、笑ってて」

 

 フウコを姉さんと呼ぶようになったのは、いつ頃からだか、分からないけど。

 おそらく、この記憶が、彼女のことをほんの少しだけ理解できた原点なのだと思う。それから徐々に―――まるで蟻が迷いながら地面を歩くような速度で―――彼女を理解するようになっていった。気が付けば、彼女の偉大な功績と忍としてのスキルを耳にするたびに、尊敬の念を抱くようになっていた。

 

 いつかは自分も、姉さんのような忍になりたい。もちろん、イタチのようにも、フガクのようにも。

 

 でんでん太鼓が鳴っている。いつの間にかサスケは、握っていたデンデン太鼓を鳴らしていた。おっかなびっくりに、ゆっくりと。白い世界にデンデン太鼓が鳴り響く。

 

 涙は止まっていた。

 乗り心地も、悪くはなかった。

 

 これが、サスケが今朝見た―――夢だった。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 アカデミーが午前中に終わるのは珍しいことじゃない。というよりも、二週間に一度の間隔で、そういう日が来るようになっている。どうしてそんな日が設けられているのか分からなかったが、退屈で簡単な授業じゃなく、午後の空いた時間に好きな修行をする事ができるというのは魅力的で、サスケは気にしなかった。むしろ、午前授業だけの日がもっと増えればいいとさえ、思っていた。

 

 午前授業の帰り道。サスケは歩幅を小さくし、ゆっくりと岐路を、一人で辿っていた。これまでの三分の一ほどの速度で、家に帰りたいという感情はこれまでの十分の一にも満たないほどに小さかった。つまるところ、帰りたくはなかった。

 

 理由は、家に帰っても楽しいことがないということ。全くない、という訳ではない。やはり家は自分が育ったところで、玄関をくぐるだけで落ち着けるし、尊敬する兄、イタチの顔を見るだけで心が温まる。逆を言えばそれだけで、他のことは好きじゃなかった。

 姉がいない。

 おそらく、好きじゃないことは全部、それを中心にしている。

 

 父、フガクは、フウコのことを家族から切り離した。

 血が繋がっていないという理由だけで。

 恋人のシスイを殺したと疑われた……という理由だけで。

 

 会話もしたくなかった。一昨日昨日と、碌に話していないけれど、寂しいとは微塵も感じない。馬鹿みたいな反抗だということは、サスケ自身も理解してる。意味のないことだと。ただ家の空気を悪くしているだけだと。それでも、会話することを考えると、風船に穴を作るように意志が萎んでしまうのだ。

 

 父に話しかけることは、姉への裏切りだ。

 家族から切り離した張本人と会話をしてしまったら、それを認めてしまうことになると、サスケは思った。

 

 歩く速度が遅くとも、歩いている限りは、帰路を辿っている限りは、家に近づいてしまう。うちはの町の門を潜った所で、サスケは不運なことに、ミコトと出会った。彼女の両手には、パンパンに膨らんだ買い物袋が二つ、吊るされていた。

 

 ミコトは、サスケの姿を捉えると、明るく笑いかけた。

 

「あら、おかえりなさい、サスケ」

「……ただいま」

「……そうね、今日は、午前授業の日だったわね」

 

 ひび割れたガラスのような空気に二人は包まれながら、静かに並んで歩いた。

 

「まだ、御昼ご飯の用意、出来ていないの。家に帰ってから、少しだけ我慢できる?」

「……うん」

 

 サスケは気のない返事をする。

 

「今日、アカデミーはどうだったの?」

「……いつも通り」

「修行はするの? 最近、日が短くなってきたから、あまり遅くならないようにするのよ」

「……うん」

「イタチは御昼に帰ってくるって言ってたけど、午後もまた仕事みたいなの。一人で修行が嫌なら、そうね、私が教える?」

 

 朝食の時、既にイタチは任務に出掛けた後で、一日の予定は聞いていないが、今日は修行をするつもりは微塵もなかった。昨日、修行しようとしたら、あまりするなと彼から言われたからだ。

 

 ―――母さんは、どう思ってるんだろう……。

 

 ミコトとも、あまり会話をしていない。フウコが家族から切り離されたことは、ミコトも当然知っているはず。そのことを、フガクに抗議した様子はないところを見ると、つまり彼女もフウコのことには納得している、ということだ。

 

『大丈夫よ、フウコ。怖いことなんて、何もないわ』

 

 夜中にフウコが帰ってきた時の、びしょ濡れの彼女を躊躇なく優しく抱くミコトは、たしかに、母親の姿だった。一日中、家から姿を消し、そして不自然な姿でやってきたにもかかわらず、真っ先にフウコの身を案じていた。

 その彼女が本当にあっさりと、フウコを切り捨てることができるのだろうか。

 

 けれどサスケは尋ねることは出来ないまま、二人は家に到着した。

 

「おかえり、母上、サスケ」

 

 居間にはイタチが新聞を広げて座っていた。彼は新聞を畳むと「持つよ」とミコトが持っていた買い物袋を持とうとするが、ミコトは顔を横に振る。

 

「大丈夫よ、今日はたくさん買い物をしたから。洗剤とか、まあ、色々ね。仕舞う場所、分からないでしょ? 今から御昼ご飯作るから、イタチはゆっくりしてなさい。午後も任務でしょ? あ、まだ時間大丈夫かしら?」

「時間なら問題ないよ。二刻は家にいるから。手伝ってほしいことがあるなら、手伝えるけど」

 

 ミコトは一瞬だけ―――その表情を、冷蔵庫を開けてオレンジジュースを手に取っていたサスケは見ることはできなかったが―――悲しい表情を浮かべてから、力無く笑った。

 

「ゆっくりしてなさい。今日は御昼も、御夕飯も、腕によりをかけて作るから」

 

 オレンジジュースをコップに一杯分、注ぐ。冷えた液体が喉を通るが、気分はスッキリとしない。オレンジジュースを冷蔵庫に戻して、イタチに目配せもしないまま、自室に戻った。鞄を乱暴に入り口横に投げて、飛び込むようにベットに乗った。うつ伏せで顔を枕に押し込むと、視界は真っ暗。大きく息を吐いた。

 

 ―――……姉さん…………。

 

 真っ暗な視界に、姉の姿をはっきりと思い出すことができる。

 

 ご飯を食べる姿、下着姿で平然と廊下を歩く姿、頭を撫でてくる姿。

 無表情で、赤い瞳。聞き取りやすい声質。

 上質な氷のように透き通った記憶だ。

 

 だがすぐに、氷は解けて、ドロドロの記憶が入ってくる。

 

『シスイが、行方不明……ですか…………。私は、何も知りません』

 

 三人のうちはの者たちが家に訪れ、シスイが行方知らずとなっているということを知らされた姉の姿。男たちは、これは異常なことで、同じ暗部、そして恋人関係であるフウコが知らないかと思っていたようだ。

 

 昨日何していたのか、などを尋ねてから、男たちは言った。

 

『今、うちはが大事な時期なのは知っているだろう。もしお前が何かしようとしているなら……分かっているだろうな』

『……ああ、そういうことですか』

 

 その時、後ろからサスケは眺めていた。

 白い寝間着に身を包んでいる姉の後ろ姿は、幽霊のように、力を持っていなかった。

 

『遠回しに言うので、分かりづらかったですけど……私がシスイに、何かをしたって……言いたいんですね?』

『お前の実力は誰もが認めているが……、力が信頼を引き寄せるとは思うなよ』

 

 殺すぞ。

 

 最初、その言葉が誰から発せられたものなのか判断できなかった。男たちの表情が固まるのを見て、その発言が姉のものだと初めて分かった。

 

 無表情だけど、声は平坦だけど、姉はずっと怖い言葉を発する事なんてなかった。出てくるのは優しい言葉だったり、変な言葉だったり。どれも、大好きな言葉たちだった。

 なのに、殺すという言葉は、寒気と恐ろしさだけを如実に伝えてきたのだ。

 

 次の瞬間、姉の姿は影となり、男たちを吹き飛ばした。

 

 ―――……どうして、あの時……怒ったんだろう…………。

 

 シスイは生きている……はずだ。暗部が死んだと言っていたが、サスケはシスイの優秀さを知っている。兄であるイタチと共にアカデミーを一年で卒業し、そして姉と同じ暗部に所属している、自分にとって、もう一人の兄のような人だ。彼が死ぬなんて、ありえない。

 何せ、フウコが殺していないからだ、ということと、兄であるイタチが否定しているという根拠。けれど思考の奥底では、嫌な足音が聞こえてはいる。

 

 本当は彼は、死んでいるのではないかと。

 

 まず、フウコが怒ったこと。シスイが行方不明で、その原因が姉にあるのではないか、という疑惑をかけられたのに怒るのは分かる。だが姉の性格を考えれば、疑惑をかけられただけで、暴力を振るうほど短絡的ではない。

 

 どうして、あそこまで怒ったのか……。

 

 そして何より……シスイが生きていた、ということが耳に入らない。

 

 行方不明ではなかった、あるいは死んでいなかった。どちらにしても、それが分かれば、誰かが伝えに来るはず。フガクは警務部隊のトップなのだ、必ず、誰かしらは家に来る。だが、フウコが拘束されてからは一度も来ていない。

 

『―――サスケくん』

『サスケくん……お願い』

『もう、シスイのことは、言わないで』

 

 そして、あの時の、言葉。

 言葉は、何を意味しているのか。

 

 それ以上考えてしまうのは、怖くて、閉じた瞼に力を入れた。

 

 その時に、部屋のドアがノックされた。

 

「サスケ、入るぞ」

 

 ドアが開き、イタチが顔を出した。

 

「……兄さん」

「母上が心配してたぞ。元気がないって。アカデミーで、何かあったか?」

 

 後ろ手にドアを閉め、壁に寄りかかり腕を組むイタチに、サスケは顔だけを横に向けた。優しい顔でイタチはこちらを見ている。

 

「……何もなかった」

「なら、どうしたんだ?」

「兄さん……俺、やっぱり修行したい」

 

 力無く、サスケは呟いた。

 イタチは何も言わず、ただじっと、サスケを見つめる。

 

「姉さんの力になれるなんて、思ってないけど……、だけど…………何もしてないと……、怖いんだ……」

 

 自分はまだ幼くて、実力はない。アカデミーで、いくら良い成績を叩き出しても、忍としてはまだまだなのは、理解していた。兄と姉が出して来た偉大な足跡を知っているからだ。たとえ努力をしても、すぐには決して追い付かない。

 

 しかし、何もしないと、不安が胸を蝕むのだ。

 

 朝、目を覚ましてから、ずっと。

 

 夢を見たからだ。

 

 姉のフウコにおんぶされ、デンデン太鼓の音が木霊する、懐かしい夢を見たから、不安が生まれた。このまま、夢の中のように幼いだけのままではいけないんじゃないかと、掻きたてられる。

 

 もはや修行をしたいという感情の重心は、実力を付けるためじゃなく、自らの安心の為だけになっていた。

 

 イタチは壁から背を離すと、サスケの横に腰を降ろした。ベットが優しく揺れる。

 

「今夜、フウコに会いに行くか?」

 

 目だけでイタチを見上げていたサスケはその言葉に大きく瞼を開き、すぐさま身体を起こした。

 

「姉さんに会え―――」

「声を抑えろ」

「……姉さんに、会えるの?」

 

 イタチは頷いた。

 

「今日の夜、フウコは警務部隊に身柄を移動される。昨日行われた会談で決まったことだ。このことはまだ、うちはでも知る者は少ない。そもそも、里でさえ、今回のことを知っている者は限られている。これが、どういう事か分かるか?」

 

 姉に会えるかもしれない、というイタチの言葉に嬉しさと興奮で、その問いへの回答をすぐさま出すことは出来ず、イタチは言った。

 嬉しそうに、喜ばしそうに。

 

「フウコを連れていった暗部は、フウコが犯人だと証明することができなかったということだ。もし容疑が確定していたのなら、里内に公表される。ましてや、わざわざ警務部隊に引き渡す必要もない。おそらく、近い内に容疑は解かれて、家に帰ってくるだろう」

 

 火を付けた花火のように、喜びが込み上げてくる。さっきまで枕に押し付けていた顔から、明るい笑みが零れてしまう。

 木の葉の暗部が、姉への理不尽な容疑を解いた。そしてその事実を、尊敬できる兄の口から語られる。これほど信頼できるものはないだろう。もはやサスケの頭の中には、姉への些細な疑いは一切に霧散していた。

 

「いつ? いつ、姉さんに会えるの!」

「落ち着け。母上に聞こえる」

 

 二度目の注意。慌ててサスケは口を抑えるが、それが大変だった。必死に抑えながら、尋ねた。

 

「夜って、何時くらい?」

「正確な時間は、俺も知らされていない。だが、深夜だろう。皆が寝静まった頃だ。フウコのことがあまり知られていない以上、秘密裏に移動させないといけないからな」

「じゃあ、それくらいになったら……」

「言っておくが、フウコに会いに行くのは、本当は禁止されていることだ」

 

 イタチはサスケの言葉を遮って、真剣な表情を浮かべる。

 

「警務部隊の拠点に侵入して、フウコがいる牢に行く。本来、許可を得ていない者が無断で容疑者に会うことは、掟として固く禁じられている。たとえ、フウコの容疑が無いということが確実であっても、名目上は、未だ容疑者だ。分かるな?」

「……普通に、会えないの?」

「無理だ。警務部隊が正式にフウコが無実だと発表するまでは」

 

 そこでサスケは、フガクのことを思い出す。フウコを家族と思うなと言った、彼のこと。

 

 解放されて家に帰ってきても、姉は―――。

 

「安心しろ。父上は俺が必ず説得する」

 

 まるで、本当にサスケの心の中が分かっているかのような、絶妙なタイミングと力強い言葉だった。

 とりあえず、今はフウコが帰ってきてからのことは考えるなと言っているのだ。

 

「どうする? 掟を破ってまで、フウコに会いに行くか?」

 

 サスケは迷わず頷いた。

 

「そうか」

 

 真剣な表情を崩し、イタチは再び笑みを浮かべた。

 

「皆が寝静まった頃に呼びに来る。早めに寝て、起きれるようにしておけ」

「ねえ、兄さん」

「なんだ?」

「修行、やっぱりしたい!」

 

 満面の笑みでサスケは言い放つ。それは不安を打ち消したくて修行をしたいという訳ではなく、姉に会えるという喜びを抱えたまま家で地味な勉強をするのに耐えられないという前向きな感情からである。

 イタチも、サスケの笑みで真意を理解したのか、やれやれと言った感じで鼻から息を吐いた。

 

「俺は午後にも仕事がある。修行は一人でしろ。あまり遅くならないようにな」

「分かった!」

「それとだ、サスケ。母上と……父上の前では、もう少し明るく振舞え」

 

 さっきまで嬉しそうに笑っていたのに、途端にサスケは唇を尖らせた。文字通り萎んだのだ、気分が。二人と仲良くすることは、今少しだけ考えても姉への裏切りだと思う。たとえ表面だけでも、だ。

 

 しかしそんなことは口にしない。口にすると、二人の前では普段通りに振舞っている兄が姉を裏切っているということになってしまうから。

 

「まだ父上のことが許せないか?」

「……だって…………姉さんを家族じゃないっていうから。それに……血が繋がってないだなんて……。ねえ、兄さん。姉さんって、その……本当に…………」

「……ああ。フウコは、俺たちとの血の繋がりは無い。あいつは養子だ」

 

 その事実に―――しかしサスケは、そこまで大きなショックは受けなかった。彼がまだ幼いということもあるが、姉の記憶があまりにも綺麗で温かくて、たとえ血が繋がっていなくても関係なかったから。

 

「姉さんはいつ、家族になったの?」

 

 単純な好奇心で呟いた。

 

「第三次忍界大戦が終わってすぐ、父上に養子として連れてこられた。俺がまだ、アカデミーに入学していない頃だ。フウコは戦争孤児だったんだ」

 

 歴史の授業で、第三次忍界大戦のことは学んでいた。

 

 これまでの戦争よりも遥かに多くの死傷者を出した、凄惨な大戦。それによって多くの戦争孤児が生まれ、孤児院には子たちが溢れかえる程で、木の葉隠れの里は養子縁組の制度を積極的に採用したということも。

 

 サスケの感想としては、そうなんだ、と言った程度のもの。やはり血の繋がりが無いという要因は、姉への思いを否定するほどの大きな力を持ってはいなかった。

 

 その時、部屋の外から「ご飯出来たわよー!」という声が届く。イタチは一度、閉まっているドアに視線を向けてから呟いた。

 

「お前が父上と母上と仲が悪くなったって聞いたら、フウコが悲しむぞ」

 

 落ち込む姉の表情を想像する。

 やはり無表情だけれど、見ただけで悲しんでいるんだなって分かってしまった。

 嫌だな、とサスケは思った。

 

 そこでイタチは立ち上がり、部屋のドアを開けた。

 

「居間に行こう。―――サスケ、普段通りにな」

「……ねえ、兄さん。一つ、訊きたいんだけど」

「なんだ?」

「姉さんが無実なのは、分かったけど……、シスイさんは、やっぱり、生きてるんだよね?」

 

 一拍の間。

 イタチは小さく頷き、無言のまま、部屋を出て行った。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

「クナイ、手裏剣も持ったし、怪我をした時の包帯も……」

 

 昼食を食べ終わってから。

 サスケは自室で修行の準備をしていた。ベットの脇に座り込みながら、目の前に置いた皮の厚い鞄の中に詰めた物を確認するが、声のトーンはあまり高くはなかった。いつもなら、修行の準備をする時間は、修行をするよりも楽しい時間だと思ったりしてワクワクするのだが、今はどこか陰りを帯びている。

 

 その理由は―――。

 

「サスケ、準備はできたのか?」

 

 部屋のドアが開けられ、顔を出したフガクが無骨な表情のまま尋ねてきた。サスケは固い笑顔を浮かべて、小さく頷く。

 

「もう少しだけ……」

「そうか。いや、焦ることはない。時間はまだまだある」

 

 本心なのか些細な気遣いなのか、分からない。

 

「俺は玄関で待っている」

「う、うん……。分かったよ……、父さん」

 

 ドアが閉まると、緊張した空気は嫌に残留する。フガクの足が廊下を叩く音が遠ざかり、完全に聞こえなくなってから、肩に入った力をため息と共に抜いた。

 

 これからやる修行は―――フガクが付けてくれることになってしまった。

 

 フガクが家に帰ってきたのは、ちょうどイタチとミコトと自分の三人で昼食を始めようとした時だった。

 

 きりの良い所で一つの仕事が一段落着いたため、昼休みを取って家に帰ってきたということらしい。

 

イタチに言われた通り、普段通りに過ごそう。そう思った矢先、急遽始まった四人での昼食に、サスケの勇気は完全に挫かれてしまった。昼食が始まってもサスケはずっと黙りっぱなしだった。

 

 サスケは鞄の中の物を再度確認しながら、心の中でぼやいた。

 

 ―――どうして兄さん、あんなこと言ったんだろう……。

 

 嫌な沈黙が昼食を囲む中、イタチは突然、フガクに言い出した。

 

『父上、昼休みはどれくらいある?』

 

 味噌汁の入った碗を手に持ったフガクは、落ち着いて応えた。

 

『そうだな……。今日の仕事はもう殆ど残ってはいないからな、その気になれば夕方まで昼休みは取れるだろう。どうした、何かあるのか?』

『実は、サスケに修行を付けてほしいって頼まれているんだ』

 

 その時のサスケは、兄の突拍子もない発言に驚き、思わずイタチを見上げてしまった。イタチは小さくサスケに目配せをし、けれど笑みを浮かべたまま続けた。

 

『だけど、俺はこれからすぐ仕事があって修行を付けれない。もし父上に余裕があるなら、代わりに付けてあげてほしいんだ。まだアカデミー生のサスケには、一人で修行するよりも教えてもらった方が上達は早いと思う』

 

 フガクの視線を感じ取り、恐る恐る彼を見た。

 驚いたこともなく、不思議そうなこともなく、普段と何も変わらない無骨な眼差しを送る父。サスケは何も言葉を発することができず顔を下に向けると、フガクは手に持った碗を口に運び、一口、味噌汁を呑んだ。

 

『いいだろう。久しぶりに、俺が修行を付けよう。それでいいな? サスケ』

 

 そこまで強くない言葉だったが、サスケはゆっくりとした最小限の動作で頷いた。普段通りにしろ、というイタチの言葉が頭の中に強く残っていたこと、そして何より状況的に頷くしか選択肢が無かったからだ。つまり、イタチが何も言いださなければ、事もなかったのである。

 

 しかし、今更愚痴った所で変わるわけでもなし、ましてや自分からフガクに断りに行くほどの勇気も無かった。鞄の中の確認を続けていると、クナイの本数が手裏剣に比べて少なかったことに気付いた。

 きっとこの前の修行の時に回収し忘れたのだろう。一応、自室を確認するが見つからなかった。

 

 修行に大きな支障はないが、何となく居心地が悪い。

 どうしようかと少し悩んだサスケは部屋を出て、クナイを借りようと姉の部屋に行くことにした。

 

 既に、イタチは仕事に出掛けてしまっている。イタチの部屋から借りてもよかったのだが、今夜姉に会えるという期待が、彼女の部屋を選択する遠因となった。

 

 姉の部屋に入ると、懐かしい気分になった。

 

 無味無臭で、物がほとんど置かれていない簡素な部屋。最後にこの部屋に入ったのは、姉が連れていかれる三日ほど前で、つまりは一週間も経っていないくらいだが、酷く懐かしく思えてしまった。きっと、部屋の主がいない、という現実がそうさせるのだろう。いつだって、この部屋に来る目的は姉だったのだから。

 

 そこでふと、視界の端―――背の低い本棚の上に置かれた、豪華なうちわを見つけた。いや、うちわはではなく、でんでん太鼓だということはサスケは分かるのだが、しかし何度見ても、一瞬はうちわだと勘違いしてしまう。それくらい、でんでん太鼓を装飾する品々はチープでありながらも大量だった。

 

「……俺って、こんなので喜んでたのか…………」

 

 つい呟いてしまう彼だが、顔は恥ずかしそうに笑っていた。

 

 このでんでん太鼓が自分にとってどういう存在だったのかは知っている。まだ生まれたばかりで、全くと言っていいほど記憶の無い赤ん坊の時の自分は、姉の姿を見るや大泣きしたのだという。寝ていても、姉の気配を感じるなら大泣きし、フウコは困っていたと、いつかイタチは言っていた。

 

 たしかに、姉に対してあまり良い印象を抱いてはいなかった感覚はある。今朝見た夢くらいの年の感覚だが、どういった感情だったのかは、今となっては正確に思い出せない。

 

 でんでん太鼓は、そんな自分に少しでも近づくために姉が使った玩具だ。どうやら赤ん坊だった自分は、でんでん太鼓を鳴らせば泣き止んだという。

 それに気を良くしたのか、姉はでんでん太鼓を装飾していったらしく、今となってはでんでん太鼓の姿形は元の一割ほどしか残っていなかった。果たして、でんでん太鼓の装飾はどれほどの成果を達成してみせたのか、それは自分の記憶にはあまりなく、イタチやフウコからも教えられてはいなかった。

 

 しかし、でんでん太鼓を手に取ってみると、気分が良くなる。それはつまり、自分の知らない記憶の底にはでんでん太鼓があるということなのかもしれない。

 

 サスケは軽くでんでん太鼓を振った。

 

 でんでんでん。

 

 コミカルな音。このでんでん太鼓を、あの無表情な姉が鳴らしていたのかと思うと面白くて、サスケは小さく噴き出した。

 

「……ん?」

 

 でんでん太鼓を元の位置に戻してクナイを探そうとした時―――どうして手に取った時に気付かなかったのかと思えるくらいはっきりと―――でんでん太鼓が置かれていた位置の真後ろに、写真立てが置かれているのを見つけた。

 

 なんだろうか? と考えたが、すぐに合点がいった。

 フウコ、イタチ、シスイ、そしてあの生意気なイロミ、彼ら彼女ら四人が集合した写真。それが入った写真立てである。写真立ては表を下にして寝かされていた。

 

 ―――どうしてこんな所にあるんだ……?

 

 疑問に思う。

 

 写真立ては、でんでん太鼓の隣に立てられていたはずだ。部屋に物を置かない性格の姉が飾るくらいだから、余程、大切なのだろうと分かってしまうほどに強調して置かれていた。なのに、どうして、まるで隠すようにでんでん太鼓の後ろに隠したのだろうか。

 

 サスケはでんでん太鼓を写真立ての横に置いて、代わりに写真立てを手に取った。

 

 息を呑み込んだ。

 

 写真立てに収められていた写真が、異常な形に、傷付けられていたからだった。

 

「……なんだよ…………、これ……………」

 

 ハッキリと覚えている。写真立ての中の写真には、シスイ、イタチ、フウコ、イロミの四人が写り、四者四様な表情を浮かべながらも、完璧な図形のような美しさがあったことを。

 

 だが、手に取り見下ろす写真立ての中の写真は―――四人(、、)の顔の部分が無くなっていた。

 

 きっと何か、細い先端で破ったのだろう。写真を守るガラスは白くひび割れ、その下の写真は無残に擦り破られている。

 

 どうして、写真がこんな状態になっているのか。そんな思考に囚われる。

 考えてはいけない。

 だがどうしても、考えてしまう。

 この部屋が、誰の部屋なのか。

 この写真立てを、わざわざこんなことをするのは、誰なのか。

 姉の姿、言葉、価値観、思想。

 写真立てを持つ手が、気が付けば、震えていた。

 

 頭の中に、姉の姿が明々と、浮かんでしまった。

 

 浮かべてはいけないはずなのに。

 彼女がこんなくだらないことをするはずがないのに。

 

「サスケ? ここにいるの?」

 

 突然、部屋のドアが開かれ、ミコトの声が入ってきた。咄嗟にサスケは写真立てを、自分の後ろに隠し、慌てて笑顔を作った。

 

「ど、どうしたの? 母さん……」

 

 こんな時だけ、あっさりと、普段通りを装うことができてしまう。

 ミコトはドアから顔覗かせると、笑顔を浮かべた。

 

「貴方の準備が遅いから、様子を見に来たのよ。今日は珍しく、用意に時間がかかってるわね」

「う、うん……。クナイが少し足りなくて……、ねえさ―――。から、……借りようって……」

 

 姉さんという言葉は、反射的に濁した。しかし、フウコを家族と思ってはいけないという状況では、濁したところで遅すぎる。

 今、手には写真立てを持っている。もしこれが見つかったら、母はどう思うだろうか? サスケの頬に、汗が浮き出ようとする。

 

 しかし、ミコトは怒る様子も不審に思う様子もなく、むしろ逆に、困惑した表情を浮かべた。

 

「……サスケ」

 

 と、呟いた。

 弱々しい、小さな声だ。

 

「あまり、無理しちゃ駄目よ」

「……え?」

「……クナイだったら、別の所にしまってあるわ。持ってくるから、貴方は玄関で待ってなさい」

 

 最後に笑顔でミコトは姿を消した。

 

 どうしてあんな顔をしたんだろうと、サスケは思った。

 母は、実は、フウコのことをに関しては、心配しているのか。この家で否定的なのは、フガクだけなのか。

 分からない。だけど今、より、気になってるのは……手に残っている写真立てだった。

 

 もう一度、見る。

 やはり写真は、無残な傷が残っている。

 まるで、四人の関係を、憎むかのように、恨むかのように。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 フガクとの修行は、主として、火遁の術に重きを置いたものだった。

 

 うちは一族の家紋。それは、火を操ることを示している。火を―――つまり火遁を自在に操ることができて、初めてうちは一族として誇りを持つことが許されるのだ。

 

 だからだろう。

 

 うちはの町から離れた演習場へ、フガクと共に無言で向かってはいたが、演習場に着くなりすぐに「火遁の術を見せてくれ」と言われた。

 未だアカデミー生のサスケに使いこなせる火遁は、一つだけ。

 火遁・豪火球の術。それだけである。サスケは小さな声でその事実を伝えると「それでもいい、見せてくれ」と言われた。

 

 かつて、フガクにせがんで教えてもらった火遁の術。他の火遁も教えてほしかったが、フガクはそれを許さず、かといって兄や姉に頼んでも、教えてもらえなかった。だから、ただひたすらにその術を磨いたのは、サスケの小さな誇りではある。しかし、兄や姉は、遥か彼方程の多くの忍術を使いこなすのだから、誇りと言っても、他人に見せびらかせる程のものではない、と思っていた。

 

 言われた通り、術を披露する。

 

 フガクに教えてもらった時よりも、何十倍にも大きな炎の球を作り出す。

 まだまだチャクラの操作が未熟なのか、たったの一回だけで口周りが強く火傷してしまったが、それでも今までで一番の大きさだったかもしれないと、サスケは内心で思っていた。

 

 後ろで見守っていたフガクを見上げる。

 彼は表情を変えずにただこちらを見下ろしていたが、小さく、たしかに頷いて、一言。

 

「……さすが、俺の子だ」

 

 その言葉に、サスケは喜びを感じ取り…………そしてすぐに……、姉への裏切りの気持ちがやってきた。一瞬だけ浮かべた笑顔は、膨らんだ風船が萎むように小さくなっていき、最後は俯き、下唇を噛む。

 

 さらに遅れて―――姉の部屋で見た写真が脳裏を過った。ぐちゃぐちゃになりつつある感情の波に、本当にこのまま修行をしていいのかさえ、思い始めた。

 

「他に、火遁の術は使えるのか?」

「え? ……ううん。これだけ」

「そうか。なら、他に簡単な術を教えてやろう。お前なら、すぐに覚えることができる」

 

 それからは、あっという間に時間は過ぎていった。

 フガクから教えてもらった火遁の術は、三つほど。しかし、どれもチャクラの扱いが難しく、豪火球の術のようにチャクラを溜めて吐き出す、そんなシンプルなものではなかった。

 教えてもらった術は、形だけは模倣することは出来たものの、質も量も、フガクの足元にも及ばない稚拙なものだった。

 

 三刻が過ぎ、チャクラの消費のせいで重くなった体を地面に投げ出していると、フガクは呟いた。

 

「今日はここまでにしよう」

「……俺、まだ、できるよ…………?」

「無理はするな。お前はアカデミー生だ、急いで学ぶ必要もない」

 

 昨日、兄に似たようなことを言われた。

 まだアカデミー生なのだから、慌てる必要はないと。

 けれど慌てなければ、急がなければ、兄や姉に追い付く事なんて到底できっこない。そう思うが、それを言葉にして抗議できるほどの体力は残っていなかった。

 

「俺にも仕事がある。続きは、また別の日だな」

「……父さん」

「なんだ?」

「………………」

 

 まだ蒼い空を眺めながら、サスケは躊躇いながら、そして尋ねた。

 

「……姉さんが、例えば、無実だって分かったら、どうするの? やっぱり、家族って、認めないの?」

 

 少しの沈黙。

 あの夜のように、怒られるだろうか?

 だけど、そんな恐れは無かった。疲れたからなのか、修行して気分がハイになったのか、クリアな思考で尋ねることができた。

 

 フガクは踵を返し、歩き出す。

 

 怒らせてしまっただろうか、そう思った時、彼は小さく呟いた。

 

「まだフウコの無実は完全に晴れていない。くだらんことを訊くな」

 

 固く、冷たい言葉。

 だけれど、サスケはその言葉が聞けて、少しだけ、気が楽になった。

 

 フウコの無実が完全に晴れていない。逆を言えば、晴れたら、分からない、ということかもしれない。そんな、希望的な想像を巡らせた。

 

 確実ではない。だけど、それでも、可能性があるんじゃないかと、サスケは思った。

 

「今日はミコトが、晩御飯は豪勢にすると言っていた。遅くならないうちに、帰りなさい」

「……うん、分かった」

 

 そしてフガクの背中は見えなくなり、見上げる空は薄い雲がゆったりと西へと流れていった。

 

 まだ、父と母への不信感は、完全に払拭することは出来ていない。

 だけで、でも、姉が暗部に連れていかれてから、ヒビが入った家族が少しずつ、戻ってきたような気がした。

 

「………………」

 

 だが、頭にこびりつく、違和感。

 姉の部屋で見つけた写真立ての姿。

 それだけが、どうしても、嫌な予感を招き入れてしまう。

 

 サスケは上体を起こした。修行を続けようと、口の中で呟く。まるで逃避するように、サスケは修行を続けた。

 

 

 

 そして、時間は過ぎ―――気が付けば、月が浮かぶ、夜。

 

 

 

 サスケはうちはの町を走っていた。鞄を肩にかけ、慌てて家に向かっている。

 

 その足取りは重くも軽くもない、中性的。

 ミコトが用意しているであろう豪勢な晩御飯も、フガクのことも、あまり気にはしていない。ただ、遅くなってしまい、心配をかけてしまっているのではないか、という微かな思いだけだった。

 

 うちはの町を走る。町は、静かだった。

 

 ―――今日って、何かあったかな……?

 

 ふと、そう思う。夜のうちはの町は、他の町に比べて静かなところではあるが、今はこれまでにないほどに、静かだった。

 

 そもそも。

 

 町に入ってから、人に会っていない。

 まるで丑三つ時かのような錯覚に支配されてしまうほど静かで、空気が重かった。

 

 キョロキョロと辺りに視線を振りまきながらもサスケは走る速度は変えなかった。

 きっと偶々だ、そんな安直な結論を導き出した。

 

 角を曲がり、直線の道を走る。すぐ向こうの角を曲がれば、家に着く。

 家……そう、家だ。

 自分が帰る場所、兄が帰る場所、両親が待っている場所、そして、姉が帰ってくる場所。

 

 今夜、大切な姉に会える。

 本当は、まだ容疑がかかっている姉に無許可で会ってはいけないのは知っているけれど―――そして姉への微かな不信感は残ってはいるものの―――それでも、期待に胸が膨らんでしまう。サスケの心の奥底には、やはり、フウコへの愛情があった。

 

 角を曲がると、すぐそこは、家の玄関だった。

 

「……え?」

 

 家の、玄関の前に、誰かが立っていた。

 うちはの町に入って、初めて見かけた、人の影。

 淡い月明かりのせいで、輪郭しかはっきりと見て取れない。けれど、サスケが息を止めて、足を止めたのは、その輪郭に、あまりにも見覚えがあったから。

 

 黒く長い、微かなウェーブの掛かった髪の後ろ姿。

 細くしなやかな肢体。

 右手には、漆黒の刀。

 

「……ねえ、さん…………?」

 

 自分に言い聞かせ確かめるかのように、あるいは、彼女に尋ねるかのように、言葉を漏らした。

 

 人影は、サスケの声に気が付き、振り返る。

 

 真っ赤な瞳が、こちらを向いた。

 

「……サスケくん?」

 

 高級な鈴のように綺麗で、平坦な声質が、サスケの鼓膜を心地よく震わせた。

 

 ―――間違いない、姉さんだ!

 

 拘留されているはずの姉がどうしてここにいるのか、そんな疑問は、込み上げてくる喜びを前に、思考には留まることを許しはしなかった。むしろ、姉はやっぱり無実だったのだという飛躍した考えすら浮かび上がりそうな程だった。

 

 サスケは彼女に駆け寄る。さっきよりも早い足取りで。

 

「姉さん、出てこれたんだね!」

「うん、出てこれたよ」

「早く家に入ろうよッ! ほら!」

 

 彼女の左手を握り―――そして、彼女の手が濡れていることに、そこで、初めて気が付いた。

 

「えっ?」

 

 汗だとか、水だとか、そんな感触ではなかった。

 熱を持っていて、粘っこい、液体。

 近くまで来て初めて鼻腔を痛めつける、鉄臭さと生臭さ。

 

 サスケは手を離して、自分の手を見た。

 

 赤い。

 

 自分の手に付着したそれが何なのか、すぐに、理解する。

 息が荒くなり始める。心臓の鼓動が強くなり、まるで、でんでん太鼓の音のように身体の中で鳴り響き、脳に警告する。

 写真立ての中に収められた写真には、誰の顔も残されてはいなかった。

 見上げる。

 姉の顔は、あの写真のように、潰されていた。

 

 真っ赤な血で。

 

 姉は―――フウコは嗤った。

 

「ねえ、サスケくん」

 

 頬を撫でてくる。

 赤い血が、サスケの頬についた。

 

「大丈夫だよ、怖がらないで。泣かないで」

 

 今朝、見た夢の姉は、そんなことを言った。

 だけど、目の前の姉は、夢の中の彼女じゃない。

 邪悪で、無邪気で、伽藍堂な、何かだ。

 何かで―――自分の知る、家族の姉ではなかった。

 

「安心して。痛くないように、殺してあげるから」

 




 次話も十日以内に投稿したいと思います。

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