表と裏:前編
―――春野サクラとイロミ―――
誰にだって内に秘めた感情というものがある。
直接的に身体で表現できる人も全く表現できない人も関係なく、大小様々だが、秘めている。言葉とは、感情の海から一掬いのものしか表現できず、身体は感情を素直に表現するには重すぎるからだ。
また、他者との関わりを持つ際には、感情全てを表現するのは危険が伴う。これは幼い子供でも理解できることで、大人になればより鮮明に理解できる仕組みだ。
得てして、子供の中では、女の子が内に秘める感情が強い。
どうして女の子の方がそういった傾向が強いのか。おそらく、男の子よりも感情が細かく尚且つ多方面に枝葉が分かれているせいだろう。それら全てを一場面や日常に発揮するのは難しい。
春野サクラという女の子も、内に秘めた感情があった。
大抵は、うちはサスケという男の子に向けた好意の感情だ。しかし、彼への好意はここ最近では落ち着くようになっていた。
最初は彼を見かける度に、火を点けた爆弾のように感情は危険水位を行き来していた。危険水位というのは、つまり、つい身体で表現してしまうのではないかという値である。もし感情が水位をオーバーしてしまい、それがサスケに見られようものなら、彼女は精神的に死んでしまうのではないだろうかと危惧してしまうほど、彼女の内に秘めた感情は荒々しい。
しかしここ最近では、危険水位に近づくことはほとんど無かった。彼と短く会話をしただけで、夜中の布団の中で嬉しさのあまり寝付けない、なんてことは今ではもう無く、心の奥底でじんわりと広がるような身体に浸透する嬉しさを感じるだけだった。
波の国での任務が原因だろうと、サクラは自分を分析する。そう、彼女は頭が良い。
突発的に発生した危険任務。桃地再不斬と白を相手にした、命懸けの任務を経験したせいか、感情を荒立てることのエネルギーの非効率的な作業が億劫になった面があるのかもしれない。あるいは、死地を共にしたおかげで、彼との心的距離が近くなったのかもしれない。
どちらにしてもサクラは、自分が少しだけ大人になったのではないかと思っていた。
つまり、理想とする女性像に近づいたのではないか、と。
知的で、落ち着きのある、お淑やかな女性。
それに近づいたように思うのだ。
大人な女性に。
―――しゃーんなろーッ! イタチさん、キタァアーッ!
……もちろん、サクラはまだ年齢的には成人ですらない。心が大人に近づいたと言っても、それはあくまで一側面的であって、全てではなかった。サクラが内に秘めた感情は、かつてサスケと同じ第七班として配属が決まった時と似たような方向性で、そして久々の危険水位ギリギリの高揚だった。
「よ、お二人さん。こんにちは」
町中を歩いていた第七班は、イタチとイロミの前で立ち止まると、一番後ろに立つカカシがのんびりと、そう呟いた。
「おはようございます、カカシさん」
と、イタチは爽やかな笑顔を浮かべた。それだけで、サクラは心臓の鼓動のテンポを一つ上げた。買い物袋を一つ腕に抱えた姿は非常に家庭的な雰囲気を醸し出し、爽やかな笑顔はサクラの目には大人らしいカッコよさと清潔さに満ち溢れているように見えてしまった。後ろに立つ、まるで柳の木の下に立つ亡霊のようなカカシとは、雲泥の差である。
サクラはスピーディに、けれど自然な動作で自分の髪の毛を整える。毎日毎日、丁寧にコンディションを整えているちょっと自慢な桜色の髪の毛。午前の演習が終わったばかりで、もしかしたら変な癖がついているかもしれないと焦ったのだ。
顔が赤くなっているのが、首の熱さを感じて自覚できてしまう。しかし、どうにも興奮が抑えきれない。
イタチがサスケの兄だということは、アカデミーの頃から知っていたことだった。
彼は暗部の部隊長に務めているようで、見かけることはほとんどない。だからなのかもしれないが、こうしてばったりと会うというのは、サクラの中では奇跡に等しい現実である。故に、むしろ興奮するなという方が難しい話しで、極端なことを言えば、ここで興奮しないのは勿体無いということさえ思っていたりした。
「どうもです、カカシさん」
さりげなく額当ての位置を直していると、イタチの横に立っていたイロミが頭を下げた。両手に抱えた四つもの買い物袋のせいなのか、頭を下げる角度は小さかった。
「買い物帰りか?」
と、カカシは呟くと、イロミは頷いた。
「はい。これから帰ろうとしてたところです。それで途中、イタチくんと会って、少しだけ、荷物を持ってもらってるんです」
「……おたく、それ全部一人で食べるの?」
「まさか。いくら私でも、これを全部腐らせないで食べ切るなんて出来ませんよ。まあ、色々と事情があるんです」
えへへ、と曖昧な笑みを浮かべる彼女に、サクラは小さな疑問を抱いた。誰だろうか?
まず目に入ったのは、特徴的な髪の色だった。その次は首に巻いている長いマフラー。身長はカカシやイタチよりも低いが、自分よりも高い。最初は男の人? と、凹凸の少ない彼女の姿を見て思ったが、女性らしい声や肩にかかるくらい長い髪の毛を見て、女性なのだと確信する。
二人は友達なのだろうか? と邪推する。イタチが当たり前のように彼女の買い物袋を持っているところからすると、そのように思えるが、あまりいい気分ではなかった。夜空に浮かぶ満月を霞ませるような薄い雲のような、ちょっとした鬱陶しさが生まれる。サスケの隣に、ライバルである山中いのが立っているのを目撃した時の感情とよく似ていた。
「おはよう、サクラ。ナルト」
しかし、そんな嫌な気分も、イタチの笑顔と声で一瞬にして霧散する。
顔を上げ、イタチの顔を控えめに見る。鼓動がまた大きくなるが、自然な優しい笑みを浮かべるイタチに、サクラは精一杯の女の子らしい笑顔を浮かべた。
「おはようございます! イタチさん」
明るくハキハキとした挨拶に応えるようにイタチが小さく頷くのを見て、サクラの秘めた感情は大きくなる。
―――キャーッ! イタチさんが笑ってくれてるッ!
記述しておくけれど……サクラが好意を寄せているのは、サスケである。しかし、やはりというか、好意は別にしても、綺麗なものだったり力強い物にはどうしても目移りしてしまうように、そういった外側の部分の感情というのは、意外とフットワークが軽かったりするのである。
「ほらナルト! あんたもイタチさんに挨拶しなさい!」
爆発間際の感情を発散させようと隣のナルトに言うが、彼は唇を尖らせて全く関係のない方向を見ていた。
「こら、挨拶しなさい!」
「い、痛いってばよサクラちゃんッ!?」
無理やりナルトの頭を掴み、挨拶させようとする。
―――もうっ! ナルトったら。サスケくんのお兄さんだからってヘソを曲げるなんてッ!
気軽にナルトのことを呼んでいた辺り、どうやら二人は顔見知りのようだ。きっとサスケの兄だから、気に食わないとか思っているのだろうとサクラは当たりを付けた。
サスケとナルトはアカデミーの頃から仲が悪かった。いや、一方的にナルトが彼に突っかかっているように見える。サスケはサスケでやり返しているような節があるが、それでも、原因は基本的にナルトである。
同じチームになったとしても、その関係は変わらず、任務がある度にその光景を見ていたサクラが、ナルトはイタチのことも毛嫌いしているという想像をしてしまうのはごく自然なことだった。
「いい、サクラ。無理にそうさせなくても」
え? と、サクラはナルトの頭を胸くらいの位置まで下げさせた時に腕を止めて、イタチを見上げる。彼は変わらず、優しく笑ったままだ。
「俺は気にしない」
落ち着き払ったイタチの態度に、再びサクラは心拍数を高めたが、ナルトが逃げるように腕から離れて「ふん!」と鼻を鳴らすのを見て、小さく苛立つ。
―――せっかくイタチさんが優しくしてくれてるのに……。
「午前の演習は終わったんですか?」
と、イタチがカカシに尋ねた。
「そ。それでこれから、偶にはチームで昼食でも食べようかってことにしたんだ。おたくらは?」
「俺達も昼食を一緒に食べないかって考えていたところです」
「どうだ? 俺達と一緒に。イロミも、サクラとは初めてだろ?」
イロミはサクラを小さく見下ろした。
「初めまして。私、イロミっていうの。よろしくね、サクラちゃん」
「あ、はい。どうも」
口元だけ見える口が透明な笑顔を作っていた。好感の持てる声で、彼女への警戒心は少しだけ減った。イロミはその笑顔のまま、カカシに顔を向ける。
「お昼は皆で、ですか?」
「今のところは。場所は未定だけどね。こいつら、俺が奢るって言ったら急に乗り気になっちゃって、ぶらぶらと食事処を探してたところ」
「え、カカシさんが奢るんですか?」
「どういうこと?」
「なんか、その……信じられないというか」
「俺ってそんなに信用できない?」
「信用されるキャラだと思ってたんですか?」
確かに、カカシが信用されるような人物ではない。見た目がそもそも胡散臭い上に、基本的に待ち合わせには遅れてきては明らかに不自然な言い訳を並べ立てる。実力は同じチームの上忍として全幅の信頼を置けるものの、普段の彼を信頼するというのは難しい。
だけど、とサクラは思う。
見た目が胡散臭く、言動が不自然でも、カカシは上忍だ。しかも、他里に【写輪眼のカカシ】と異名が広がるほどの実力者。
そんな彼に平然と悪口(単なる事実なのだが)を言える彼女は、どういう人物なのだろうか。
「……まあ、とにかく。昼食はどうだ?」
「俺は是非」
「私も。あ、でも、お金は出しませんよ?」
「出しなさいよそこは。イロミ、特別上忍でしょうよ」
「下忍の皆に奢るのに、後輩の私には奢らないんですか? なんだか、矛盾してませんか?」
「そういう悪い冗談は好きじゃないよ」
「ふん、俺はパスだ」
突然、サスケが別の方向に歩き出した。
サクラは慌てて彼を呼び止める。
「サ、サスケくん?! いきなりそんな」
「俺はそいつと一緒にメシを食う気はない」
そいつ、というのをサスケは一瞥の視線だけでイロミなのだと示した。
「あはは……。すみません、カカシさん。やっぱり私は、素直に帰ります。こんな大量の買い物を持ったまま食事処に行くのも、気が引けますし。ね? サスケくん、私は帰るから、皆とご飯食べた方がいいよ?」
「黙れバカミ。お前の指図は受けない。とにかく俺は一人でメシを食う」
「そう言うな、サスケ」
と、イタチ。サクラがサスケから彼に視線を向けると、ちょうど、黒いコートに覆われた肩から一羽の小鳥が飛び去っていた。サスケは足を止め、イタチを見る。
「お前はイロミちゃんと一緒に家に帰るんだ」
「……どうしてだよ」
「任務が入った。これから火影様の所へ行かなくてはいけなくなったんだ。俺の代わりに、イロミちゃんの荷物を持ってやれ」
「バカミなら持てるだろ」
「そう言うな。ついでに、家で昼御飯でも作ってもらえ。日頃からご飯を作ってもらっているんだ。それぐらいはしろ」
「……分かったよ」
踵を返し、サスケはイタチから買い物袋を貰うとさっさと一人で帰路を歩き始めてしまった。
「カカシさん、俺もお昼はご一緒できないようです。また別の機会に埋め合わせさせていただきます」
「俺としては、奢る料金が減って万々歳なんだけどね」
「じゃあ私も、サスケくんと一緒にイタチくんの家でご飯を食べることにします」
「あ、そ」
いい加減で平坦に頷くカカシを他所に、サクラの思考は信じられないほどの衝撃を受けていた。
イタチとサスケの会話。そして、イタチとイロミの会話。
日頃からご飯を作ってもらっている。
イタチくんの家でご飯を食べる。
非常に……非常に聞き捨てならない会話だ。サクラの中にあるセンサーが―――当然のことだけれど、物質的な意味ではなく、彼女の経験が作り上げた、所謂【女の勘】である―――イロミを危険人物だと判定した。どういった危険性があるのかは不明だが、とにかくサクラは、危険だと思いながらイロミを見上げた。
ちょうどその時、タイミング良くイロミが「あ、そうだ!」と声を上げた。
「カカシさん。そういえば、前に頼まれたもの、買っておきました。えーっと、えーっと……」
「持つよ」
イロミがジャケットの内ポケットに忍ばせた物を取り出そうと身体をくねらせているのを、イタチは彼女から二つの買い物袋を受け持ってサポートする。「ごめんね」と右手が空いた彼女が笑顔で応える。
とうとう、サクラのセンサーは警報を鳴らす。色は真っ赤だ。
しかし、その警戒心は、ある意味で全く別のベクトルへと突き進んでしまうことになるのである。
イロミが
「はい、カカシさん。この本で、間違いないんですよね? 探すのに苦労しましたよ!」
「え?」
堂々と差し出された本のタイトルを見て、サクラは息を呑んだ。イタチもナルトも、瞼を大きく広げるという表現方法で驚きを隠さなかった。
空気が一瞬だけ、凍り付く。
【イチャイチャファンタジー ~解放された果てに~】
「カカシさん、少しお話があるのですが」
本のタイトルを見るや否や、イタチは目に映らないほどの瞬足でカカシの前に立つと、買い物袋を抱えていない方の右手で彼の襟元を乱暴に掴んでいた。声の質はまるで刀のように固く、そして鋭く。サクラとナルトは怒気に満ち溢れたイタチを見上げていた。
「おたく、これから任務があるんじゃないの?」
しかし、とうのカカシ本人はどこ吹く風と言った感じに、とてつもないほどの明後日の方向を見ながら呑気に呟く。
「今、俺の前で犯罪が起きたんです。治安維持も、暗部の仕事です」
「犯罪なんて起きてないだろ? イロミにちょっと本を買ってきて貰おうと、この前、頼んだだけ。この本だって、別に普通の本だよ。趣向が大人向きってだけでさ」
「お願いですから、悪い冗談は止めてください。貴方の倫理観はどうなってるんだ」
「カカシ先生……それは流石に、ないってばよ…………」
「最っ低……」
サクラの中で、カカシの株価が大暴落していた。と同時に、いくら上忍の頼みであっても平然と買ってくる彼女もどうなのかと、イロミへの評価も下落した。しかし不思議なことに、センサーからの警報は消え失せ、色も綺麗な緑色になっていた。
イロミが呑気に呟く。
「イタチくん、気にしすぎだよ。私だって、まあ、最初は驚いたけどさ、結局は本なんだし。それに私も、こういうのは気にしてないよ?」
「イロミちゃんは黙っててくれ」
「いやいや、イタチくんの方が危ないことしようとしてるから」
「こういうのは、小さい所から潰していかないと、いつかは大きな犯罪になるんだ」
「冤罪も犯罪だよ。イタチくん、落ち着いて」
「とにかくカカシさん。今後一切、俺の友達に変なことを頼まないでください。イロミちゃんも、カカシさんからの頼み事でも、すぐに断るんだ」
「大袈裟だよ。私だってそういう知識は、医療忍術で知ってるし、身体の仕組みなんて飽きるくらい書物で見たんだよ? それにさ、人のって意外と普通だよ? 馬とか犬とかもっとエグイからね。初めて見た時なんか、一週間は肉類食べれなかったくらい。魚なんて、大抵はオスが海に―――」
「イロミちゃん……本当に、黙っててくれ」
どんどんとイロミへの株価は暴落していく。
最終的にイロミへの評価は。
―――変な人。
その一言に尽きた。
☆ ☆ ☆
「ごめんね、サクラちゃん。重い荷物、持ってもらっちゃって」
「気にしないでください。これからイロミさんに御馳走してもらうんですから、これぐらい当然です」
「あはは。じゃあ今日は、腕によりを掛けて作るよ。私、こう見えても料理は得意な方なんだ。あ、サクラちゃんも一品だけ作ってみる? 私、食事処以外で他の人の料理を食べたことないんだ」
「すみません、私、あまり料理はまだ上手く作れないので……」
サクラ、イロミ、そしてサスケの三人は並んで歩いていた。真ん中をイロミが歩き、左手にサクラが、右手にサスケが。ちょうど三人は山の字のような形を作っていた。
あの後、カカシ達と別れて、サクラはサスケの家で昼食を済ませることにした。イロミの荷物を運ぶのを手伝いたいという名目の元、合法的にサスケの家に入れるのではないか、という私欲に塗れた理由が決断させたのだ。
結果、特にサスケから大きな拒絶もなく、イロミに関しては「やっぱり、皆で食べた方が楽しいよね!」と歓迎されることとなり、難なくサスケの家に行くことが許された。
「むしろ、出来れば教えてほしいくらいです」
「じゃあレシピは教えるね」
サクラは社交的な笑顔を浮かべるが、内心では、
―――サスケくんの……、い、家に行けるッ!? お、落ち着くのよ私…………。
と、気を抜いてしまうと鼻血が出てしまうのではないかというほどの興奮を持っていた。
「あ、サスケくん。家に牛肉ってまだある?」
「知るか」
三人になってからは初めて、サスケが言葉を発した。彼はイロミの横を歩いているというのに、一度として彼女に視線を向けることはなく、今も視線は全く別の所を見ている。声も低く、ナルトに向ける声よりもさらに乱暴だった。
それでもイロミは目くじらを立てることはなかった。
「自分の家の台所事情なのにー」
「お前の方が知ってるだろ」
「毎日私がご飯作ってる訳じゃないんだから。イタチくんだって作るんだし、全部把握するなんて無理だよ。……もう、仕方ないなぁ」
サスケの家に着いた。家は小さな平屋だった。立地は普通の住宅街の真ん中で、昼頃のせいか賑やかだった。平屋は小さくても、賑やかさに押しつぶされないようなみすぼらしさも貧相さもなく、むしろ溶け込むような清潔さがあった。
けれど、サクラにとっては高価な家よりも遥かに光り輝く豪邸に見えていた。
「おじゃましまーす」
サスケが家の鍵を開けて入ると、イロミは平然と後に続く。ここで自分も自然に振る舞ってあっさりと入らなければ、不審な考えを持っているんじゃないかと思われる……という妄想をサクラは考えていた。「おじゃまします」と全身全霊の平静を装い、入る。
室内には廊下はなく、すぐ目の前が居間だった。やや横に広い直方体の居間には隔たりのない台所が玄関脇にある。居間にはドアが三つあり、一つは浴室に繋がっているようで霞ガラスが当て嵌められている。残り二つは分からないまま、サスケは台所横に立つ冷蔵庫の前に買い物袋を置くと、居間の中央にある折り畳み式のテーブルに積んである書物の前に座ってそれに手を伸ばした。
イロミもさっさと買い物袋を同じ場所に置くと、冷蔵庫を開けた。
「あ! やっぱり牛肉が無い! ……サスケくん!」
「うるさい黙れ」
「鶏肉も豚肉もないし……。もう…………。ま、一応は買ってきたから問題ないけど……」
「何でもいい、さっさと作れアホミ」
「あれ?! 前に買った紅ショウガも無い! サスケくんッ!」
「兄さんがこの前カレーに使ってたんだ。文句なら兄さんに言え」
二人の会話を他所に、サクラはおっかなびっくりに室内を歩く。買い物袋をどこに置けばいいのか、どこに座っていいのかなどと、変なところに頭をグルグルと回していた。
イロミは冷蔵庫を閉めると、書物を読むサスケの横に立ち両手を腰に当てた。
「いくらイタチくんの料理が上手じゃないからって、カレーに紅ショウガを使うわけないでしょ?!」
「兄さんはカレーには紅ショウガだって言ったんだよ」
「下手な嘘言ってないで買ってきてよ! ほら、お駄賃渡すから。ついでにアイスも買ってきてね、無くなってるから」
「……なんで俺が行くんだ」
「ここがサスケくんの家だから。イタチくんは任務でいないからッ!」
「お前が行け」
とりあえずサクラは買い物袋を冷蔵庫前に置いて、台所前に棒立ちする。視線は天井。そこが一番健全だった。天井なら、自分の心拍数が暴発することはない筈。しかし、イロミとサスケの会話が耳に届かないほど、サクラの興奮は思考の殆どを埋め尽くしていた。残った思考も、今とは全く関係のないことばかり。
―――今日、夜は眠れないかも……。
―――あ! もし、いのに会ったら自慢しよ!
―――だけど、自慢するには今日のことはきっちりと覚えてないといけないわ!
「サクラちゃん?」
―――でも、今日のことを覚えてられるかな。
―――あまりじっくり部屋を見てるとサスケくんに怒られるかもしれないし。
―――ああもう! アカデミーの頃は教科書の内容はすぐに覚えれたのにッ! しっかりしなさいサクラッ! 今! ここが! 一番覚えるべきことよッ!?
「おーい、サクラちゃん。どうしたの?」
「へ?」
そこでサクラは現実に戻った。
すぐ目の前にはこちらを覗き込むイロミの顔があった。
サクラは慌てて両手を振った。
「あ、ああイロミさん! どうしたんですか?」
「それはこっちの台詞だよ。ずーっと天井見上げて。あ、もしかしてお腹空きすぎてぼーっとしゃってた? ごめんね、待たせちゃって」
「別に、そういう訳じゃ……。あれ?」
イロミから逃げるように視線を右往左往させていると、サスケがいないことに気が付いた。
「あの……サスケくんは…………」
「サスケくんなら、お買い物に行ったよ。紅ショウガを買いに」
「あ、そうなんですか」
「そうなんだよ。もう、サスケくんは我儘なんだから。ちょっと条件を出さないと動いてくれないんだから。……私の方が年上なのに…………」
「え? サスケくんと何か約束をしたんですか?」
「ちょっとね。午後の任務が終わったら、忍術勝負をすることになったんだ。まあ、気にしないで、いつものことだから」
どうやら考え事をしている間に、イロミとサスケの会話は終わってしまっていたようだ。よくよく見れば、彼女が背負っていた巨大な巻物も、部屋の隅に置かれている。
少し悲しいような。だけど、彼がいないということへのプレッシャーから解放されて、嬉しいような。とにかくこれで、馬鹿みたいに心拍数が上がることはなくなる。
「それじゃあご飯作ろ? 早く作らないと、またサスケくん機嫌悪くなっちゃうから」
イロミは
「今日は牛丼とサラダを作ろうかな。あまり手間もかからないし」
「私は何をすればいいですか?」
「じゃあ、ご飯を炊いてもらおうかな。サクラちゃんはいっぱい食べるの?」
「……いいえ」
「そう? じゃあ、四合でいいかな。サスケくんはお代わりするから。お米はそこにあるから」
米は冷蔵庫脇のボックスに入っていて、サクラは四合を米とぎ器に入れる。米の炊き方くらいは十分に知っているし、実際に炊いたことも当たり前のようにあった。まな板の前で袋に入ったキュウリを取り出しているイロミの横で、米とぎ器に水を入れ、指でとぐ。
指と指の間に水と米がすり抜けていく度に楽しくなっていく。
自分が今、大好きな彼に料理を作っているのだと自覚してしまうと、自然と笑みが零れてしまう。
「イロミさんって、普段からサスケくんやイタチさんに料理を作ってるんですか?」
意外とあっさりとサクラは一番の疑問を口にした。イロミのフレンドリーさのせいかもしれない。もしかしたら、カカシ曰く【趣向が大人向きの本】を平然と買ってくる彼女に遠慮はいらないんじゃないかという感情があるかもしれない。
イロミは「うん」と頷いた。
「まあ、いつもって訳じゃないけどね。……サクラちゃんは、うちは一族のことって知ってる?」
「あ……」
そこでサクラは、自分の発言があまりにも無思慮なものだと気づいた。普段の彼女なら、必ず会話をする時は、ある程度の計算の上をするというのに。
自責の念に任せて、サクラは重苦しく頷いた。
うちは一族が滅ぼされた事件。一番最初に耳にしたのは、アカデミーの頃だった。当時は、ただの噂話のように軽い感じでアカデミー中に広まっていた。
今では、単なる噂ではなく、事実として知っている。詳細は知らないけれど、実行犯は【うちはフウコ】という、同じうちは一族の者らしい。
『野望はある。一族の復興と、ある女を―――殺すことだ』
アカデミーを卒業して、第七班として自己紹介をしたとき、彼はそう宣言していた。その時はまだ、うちはフウコとサスケの関連性を結びつけることは出来なかった。何せ、事件当時のうちはフウコは暗部のナンバーツーで【音無し風】という異名を持つほどの天才。まだ下忍のサスケが、彼女を殺そうとしているというのは、想像が出来なかったのだ。
『おい、サスケ』
そこで不意に、次の場面も思い出されてしまった。
低く、怒気が孕んだ声。この時、サクラは初めてナルトに驚いた。アカデミーの頃、ナルトは何度もサスケに突っかかっていたが、この時の彼の表情は、今まで見てきた中で最も怒りに満ちたものだったからだ。
『お前……誰のこと言ってんだよ』
『黙れウスラトンカチ。お前には関係ねえ』
「サスケくんとイタチくんには、両親がいないから、私が代わりに作ってるの」
と、イロミは呟いた。
『お前、うざいよ』
サスケの言葉を思い出し、サクラは小さく下唇を噛む。彼の家に入れたことに浮かれていたせいで、踏み込んできてはいけないところに踏み込んでしまったのではないかと思うと、背中が熱くなって、汗が噴き出そうになった。
「イタチくんは暗部で忙しいし、サスケくんはほったらかしてるとご飯なんてテキトーにしちゃうからね。まあ、毎日って訳じゃないんだけど。イタチくんが早く帰ってくる時はイタチくんが作ってるし。でも買い物は基本的には、私がしてるかな」
「そ、その……」
「ん? どうしたの?」
いつの間にかサクラは、米をとぐ手を止めていた。声が微かに震えるが、一度、固唾を呑み込んだ。
「すみません。込み入ったことを、訊いてしまって」
「ああ、気にしないで」
と、イロミはあっさりと笑ってみせる。
「私はうちは一族じゃないから。勿論、二人にはこういった話題は駄目だけどね。ああでも、イタチくんには、むしろそうやって暗い感じだと、変に気を使わせちゃうから」
「……イタチさんとは、その、仲が良いんですね」
「うん、友達。アカデミーの頃からね。同期なんだ。あはは、昔からイタチくんには色々、お世話になっちゃってさ。イタチくん、天才だから。……もう、ほらほら、気にしないで。サスケくんが帰ってきた時にそんな顔だと、サスケくんもぶすってしちゃうから」
しかし、すぐに気分を戻すことは出来なかった。あっさりと明るく振る舞ってしまうと、自分が嫌いになりそうだったからだ。
「気にし過ぎ。そんなに遠慮してると、逆にサスケくんやイタチくんを哀れんでるようになっちゃうから。二人も、そうされるのは、嫌だと思うしね。私も無遠慮にうちは一族のこと言ったのも悪いんだし。ほら、笑顔笑顔。大好きなサスケくんに向ける感じで」
「えッ?!」
「あ、やっぱりそうだったんだ」
「いや、その、違うんです!」
「え、違うの?」
「違―――くはないんですけど……」
イロミは、あははと笑った。
「じゃあ早くご飯作ろうね。サスケくんが怒ると大変だし」
「……はい」
少しだけ気分は戻った。イロミが気を使ってくれたのだろうということ、この話題はもう終わりということを、サクラは読み取った。そして、もう無思慮な発言はしないようにと心掛けると、不思議と、家に入った時のような不必要なエネルギーは消費しなくなった。まだまだ子供だ、とサクラは小さく自虐する。
「さてと、まずはキュウリを切らないとねー」
そう言ってイロミは包丁を手に取った。
―――あれ?
包丁を手に取った瞬間を見たサクラは、違和感を覚えた。
包丁を持った時の彼女の手の動きが、不自然だった。指で握ったというよりか、指に吸い付いたかのように、包丁を握ったように見えたのだ。しかし、握った包丁でキュウリを切る手の動作には違和感はなく、毎日作っているというのは嘘ではないようで、手慣れた感じに千切りへとしていった。
―――気のせい……かしら…………。
米とぎ器から水を捨て、新しく水を入れる。
「ねえ、サクラちゃん」
と、イロミは呟いた。
「第七班って、どう? 順調に活動できてる?」
―――うずまきナルトは思い出す―――
ナルトはカカシと一緒に昼食を済ませていた。この場合の一緒に、というのは、同席した以上の意味はなく、つまりナルト一人が食べただけである。一楽のラーメン屋台で大好きなトンコツラーメンをチャーシュー増しの大盛りで食べることができたのは非常に嬉しいことだったが、常日頃からマスクで覆われた顔を見ることができなかったのは悔しかったりする。
「上忍にもなればな、メシなんて三日も食わなくてもいいようになるんだよ」
というのは、勿論カカシ談。彼の実力を波の国での任務で目の当たりしたせいか妙な説得力はあったものの、だからと言って昼休みの時くらいは素直に食べていいのではないかとは思った。結局は、マスクを外したくない理由なのだろう。
会計はカカシが払ってくれた。満腹感に現を抜かしながら屋台を離れる。
「ぷは~。美味かったってばよ! ごちそうさま! カカシ先生」
「そう言ってくれると、奢った甲斐があったってものだな」
膨れた腹を擦りながら無邪気な笑顔を、財布を上忍に支給されるジャケットの内ポケットに入れるカカシに向けた。
「なあなあカカシ先生! 最近、またショボイ任務ばっかでつまんねってばよ。そろそろさ、もっとこう、やりがいがあるっていうかさ、カッコいいってのはねえの? 午後は任務をやるんだろ? カカシ先生から、火影のじいちゃんにお願いしてくれよ」
「俺個人が言ったところで意味はないよ。そういうルールだ。里としても、まだ下忍であるお前やサスケ、サクラに危険な任務を任せて死なせる訳にはいかないの」
「でもさでもさ! 最近俺ってば、なんていうか、調子がいいんだってばよ! もう下忍よりも実力はあるんじゃねえかってくらいに!」
「お前はまだまだ下忍だよ。ま、実力がついてるのは認めるが。だが、任務は諦めろ。ショボイ任務でも、大切な任務だからな」
「ノーセンキューだってばよ!」
ナルトは大袈裟に両手でバツ印を作った。
「なあなあ頼むよカカシ先生。俺ってば、もっともっとスゲー任務やって、どんどん実力付けてえんだよ」
「んー……」
カカシは覗かせている右目で笑顔を作りながら左手でマスク越しに顎を撫でた。
「ま、任務云々は、やっぱり我慢しろ」
「えー……」
「その代わりと言っちゃなんだが、修行を付けてやろう」
「え、マジ?!」
落ちかけていた気分が一気に急上昇した。カカシから個人的に修行を付けてもらうというのは初めてだったからだ。
これまではチームワークを中心とした演習ばかりだった。今日の午前中の演習もそれで、けれどナルトにとってはあまり楽しい時間ではなかった。
強くなりたい。
誰よりも強くなって、火影になる。
それが、ナルトの夢だったからだ。チームワークが大切だということは、今では、はっきりと理解することができているが、それでも……個人的な実力を求めていた。
火影になる。
だが、本当の夢は全くの別の所にあった。
本当の夢は―――しかしナルトは、その夢を口にしたことは一度もなかった。口にすることができるほど、許される夢ではなかったからだ。
カカシに個人修行を付けてもらえるということに、足取り軽く演習場へと向かった。ちょうど昼時だったせいか、演習場には誰もいなかった。ナルトとカカシは対峙するように、六メートルほど距離を取って立っていた。
「よし。んじゃ、始めるか」
「オスッ!」
どんな修行を付けてくれるのかという期待と興奮が存分に混ぜられた明るい声。心の中では、きっと凄い忍術を教えてくれるに違いないという根拠のない確信に包まれていたが、カカシの一言に、そんな願望はあっさりと否定された。
「とりあえず、螺旋丸をやってみてくれ」
「……へ?」
拍子抜けしたかのような声を出し、ナルトは眉尻を下げた。
「どうして?」
「ん? 修行。お前の忍術を成長させようと思ってな」
「螺旋丸ならもう使えるんだけど……」
アカデミーの頃からずっと、一人で修行し続けてきた術だ。今ではもう、影分身の術に次いで得意な術の一つで、しかし勿論、完璧ではない。まだまだ未熟で修行が必要だけれど、折角の修行をカカシから付けてもらえるのだから、また別の術を教えてほしいという思いと、この術だけは自力でマスターしたいという思いがあったからだ。
数少ない機会だと思っていたのに、蓋を開けてみれば復習を兼ねたものだったことに、あっという間にナルトのテンションは下がっていった。それでも、修行を付けてくれるというこの機会を無駄にしたくないために、ナルトは声を上げた。
「あのさーあのさー! 俺ってばもっと別の術を教えてほしいんだよ! こう、バーッて、カッコよくてすんげー術をさー!」
「何言ってんの。螺旋丸だって、カッコよくてすんげー術だよ」
「そんなこと、俺が良く知ってるってばよ! そーじゃなくて……」
「落ち着けナルト。確かにお前は螺旋丸を使えてる」
「じゃあなんで―――」
「それはな、まだお前の螺旋丸は完璧じゃないからだ。ま、じゃあ、ちょっと見てろ」
そう言うと、カカシは右手を前に掲げ、五本の指を器に見立てるかのように小さく曲げた。
「え?」
カカシの右手の形は見覚えのあるものだった。
何度も何度も自分が実践し、そして、かつて見た彼女の右手の形と酷似している。
そしてカカシの右手の中空に、球形のチャクラの塊が形成された。
発現された螺旋丸に、ナルトは瞼を見開いた。
「カカシ先生も螺旋丸使えたのかよ?!」
まあな、とカカシは頷いてみせると、螺旋丸を発現させている右手を僅かにナルトへと近づけた。
「見てみろ。お前が使っている螺旋丸よりも大きさは三回り小さいだろ」
言われてみれば、カカシの指摘する通り、自身が発現させている螺旋丸よりもコンパクトだった。
そして、自分の目指している過去の思い出と瓜二つ。
ナルトの蒼い瞳は、懐かしむように、憧れるようにカカシの螺旋丸を見つめ続けていたが、カカシがあっさりと螺旋丸を解くと「あ」という声が漏れてしまった。頭に思い浮かび始めていた大切な人の姿が、霧の向こうに行ってしまったかのように消えてしまう。
「いいか? ナルト。螺旋丸は本来、一撃必殺の上位忍術だ。今のお前に説明しても難しいだろうが、ある種、完成された忍術とも言うべき術なんだ」
「完成された……忍術」
「だが、お前はこの術を使いこなせていない。それに、発現させるのに時間をかけ過ぎだ。実戦で使うには、まだまだってこと」
確かに、これまで一度も実戦で螺旋丸を相手に当てたことはなかった。実戦という形式が元々、全体数として少ないのだけれど、質という面ではレベルが高いものしかない。
下忍昇格を認めるためのカカシとの模擬戦。
任務の為に波の国へと赴く道中での桃地再不斬との戦闘。
波の国での白との戦い。
どれも自分よりも格上の相手で、特に再不斬と白とは命懸けの戦いだった。
しかし、どの戦闘でも、螺旋丸を当てることは出来なかった。発現させることは出来ても、使用できているかというと全く別の次元である。
「ナルト、まずはやってみろ。俺も、じっくりお前の術を見たことは無かったからな。なるべく小さく、集めたチャクラを押し縮めるようにしてみろ。当然、チャクラ量はそのままで」
「………………」
ナルトはおもむろに右手を構えた。掌を上に、指は器を模るように少し曲げて。チャクラを掌の中心、中空のやや上に集中させ、乱回転。
掌の上に、螺旋丸は発現する。しかし、大きさは、カカシのよりも大きいもの。カカシのがゴムボールほどの大きさだとするならば、ナルトのはバスケットボールほどの大きさで、密度も緩やかだった。
そのまま、チャクラをさらに集中させる。
つい先ほどカカシが見せてくれたものをイメージしながら。
『いい? ナルトくん。よく、見てて』
フラッシュバックする。
いつの間にか、理想とするチャクラの形は、彼女から初めて見せてもらった時のものを、心は目指していた。
何年も前のことで、今までは細かい部分は忘れかけていたけれど、カカシのおかげで今だけは思い出すことができた。
―――フウコの姉ちゃんが、見せてくれたように……ッ!
チャクラが小さくなり始め、みるみるうちに密度が濃く、鮮明になっていく。大きさは、サッカーボールほどにしか縮まっていなかったが、手応えのようなものは感じ取った。
暴発しそうな感覚が、掌の経絡系に、重い負担となって伝わってくる。歯を食いしばり、耐える。が……。
「うわぁッ!?」
チャクラは暴発し、その爆風と衝撃でナルトは後ろに大きく尻餅をついてしまった。近くにいた小鳥は爆風に驚き飛んでいき、舞い上がった砂埃は仰向けに倒れたナルトの鼻先を痒くさせた。
久々の失敗だと、ナルトは青空を眺めながら思った。
だけど、悔しさとかはなかった。思い出すことができたからだ。
大切な人から教えてもらった、大切な術を鮮明に思い出せた。そうだ、螺旋丸はもっと小さかった。小さくて、綺麗で、宝石のようだったんだ。いつの間にか、あの時の記憶を大きく残してしまっていた。
仕方のないことかもしれない。まだアカデミー生でしかなく、今よりも幼かったのだから。子供の記憶というのは、いつか振り返ってみれば、壮大だったものは意外と当たり前だったり小さかったりするものだ。
ナルトは下半身を大きく折り曲げると、戻す反動で飛び上がるように立った。
「なあなあカカシ先生! どうやったら小さくできんだ?!」
修行を始めた時の低いテンションはすっかりと無くなり、意気揚々とカカシを見上げた。カカシは音のないため息をマスクの向こう側から吐いた。
「都合がいいな」
「いいじゃんかよ! それはそれ、これはこれだって!」
「あ、そ。……じゃ、とりあえず」
「うんうん!」
ナルトは大袈裟に頷きながら、カカシの言葉を待った。完璧に螺旋丸を使いこなせた彼なら、しっかりとしたことを教えてくれるのではないだろうか。そういう期待があった。
だが―――。
「チャクラコントロールの基礎からだ」
その言葉に、大きく落胆することとなる。
☆ ☆ ☆
午後の任務が終わる頃には西の空はオレンジ色になっていた。けれど、西の空の一部に低い分厚い雲が途切れ途切れに浮かんでいるせいで、まだ浮かんでいる太陽そのものは見えず、雲に作られる青紫色の影とオレンジ色の光がカーテンのように広がっていた。どこか幻想的な空模様に陽気なカラスが二羽ほど、濁った鳴き声を出しながら飛んでいる。
その鳴き声にかき消されてしまうほどの小さく、けれどどっと疲れたかのような重いため息を、ナルトは自宅のアパート前で吐き出した。
「今日は……メッチャ疲れたってばよ…………」
夕食時に近いからか、辺りには誰もいない。ナルトの独り言は誰の耳に入ることもなく、アパートの脇に設けられた階段を上がった足音にあっさりと邪魔される。鍵を取り出して、自室のドアを開ける。身体を滑り込ませてドアを閉めると、オレンジ色の光は遮られ、ぬるま湯のような暗闇に包み込まれた。
ダラダラとフラフラと短い廊下を進み、寝室兼リビングの狭い部屋の八分の一ほどを占めるベッドに身体を簡単に預け、うつ伏せになる。
「……カカシ先生ってば…………、螺旋丸のこと、全然教えてくれないし………………任務は無駄に疲れるもんだったし……」
結局、螺旋丸そのものの修行を付けてもらえることはなかった。チャクラコントロールがまだまだという理由、そしてカカシ自身が修行して身に着けた術ではないという理由が原因だった。
カカシが修行して身に着けた術ではない、ということを聞いた時は驚いたものの、彼の持っている写輪眼のことを考えると必然だったかもしれない。
とにもかくにも、修行は終始チャクラコントロールの訓練だった。波の国での任務で行ったような急ごしらえのようなものではなく、厳格で厳密なもの。そのせいか、午後の任務の前にほとんどのチャクラを消費してしまったのだ。挙句に、修行の最後には螺旋丸をやってみろと言われ、当然のことながら大量にチャクラを消費してしまったせいか、思うように球形を作ることすらできない始末。
チャクラコントロールは幾分かは上達したように思えるけれど、なんだか、遠回りをするかのような修行だった。
チャクラの消費により疲れ切った身体で行った任務は、前に一度行った【猫探し】。しかも、同一の依頼主で探す猫も一緒だった。猫も知恵を付けたのか、前回のよりもすばしっこく、より獰猛だったため、何度もチャンスはあったが手間取ってしまい無駄に体力を浪費したのだ。
「チクショー……サスケのヤロー…………」
脈絡もなくナルトはそう呟いた。今日の任務のことを思い出した時、まるで滑り込むように浮かんだ彼の顔に、微睡みが尾を潜めた。
『しっかりやれ、ウスラトンカチ』
最初のチャンスでナルトが捕獲するのに失敗した時、サスケは吐き捨てるように言ったのだ。
彼はよく、ナルトをウスラトンカチと評価する。時にはドベと言う時もあるが、ほとんど使われることはない。正直、毎回そう言われるとムカついてしょうがなく、そして今日のその時もムカついた。
しかし……。
「今度こそ……あいつより活躍してやるってばよ」
ベッドに押し付ける顔が少しだけ笑みを作ったのを、ナルトは少しだけ自覚すると、ふと、頭の中に過った。
もしもの世界。
もしも、彼女が―――フウコがいたら、どうなっていたんだろうと。
アカデミーの頃からサスケを一方的にライバル視してきた。
アカデミーを卒業し、第七班として自己紹介をする時に、彼女を殺すと宣言した時は怒りで頭の中がパンクしそうになった。
だけど、もし、フウコがいたら。
今よりも素直に、同じチームの仲間として、純粋なライバルとして関わり会えたのではないかと。
勿論ナルトは、サスケに対して幾分かの憎しみを持っている。
自分はまだ、彼女を信じている。
うちは一族抹殺事件の犯人とされているが、きっとそれは、何かの間違いなのだと。本当の犯人はどこかにいて、もしかしたら、彼女はその犯人と戦っているのかもしれないと。
その思いを、サスケは正面から否定する。
それが許せなかった。多分、また彼女を殺すとサスケが口走るものならば自分はあっさりと怒ることだろう。
それでも。
そんな憎しみを抱いていても。
心のどこかで……彼を自分の繋がりの一つだと認識している。
幼い頃から大人たちの冷たい視線にさらされ、唯一で明確な繋がりだったフウコがどこかへ行ってしまったという喪失感を経験したナルトは、たとえどのような繋がりであっても、それを全て否定することはできなかった。
『ナルト……お前、どうしてッ!?』
『……うる、せぇ…………。身体が勝手に……動いちまったんだよ…………』
ナルトの繋がりへの思いを象徴する出来事は、波の国での任務のこと。
線の影を作る白の攻撃を防ごうと倒れているナルトの前に瞬時に移動したサスケを、ナルトは押しのけた。
そこから先のことを、ナルトは覚えていない。
目を覚ました時には建設途中の大橋は半壊し、ガトーの死体と共に終結した戦闘の跡だけだった。
意識を失ってから、何が起きたのか、それはカカシもサクラもサスケも教えてはくれない。今も特に気にすることはあまりなく、強いて言えば……どこかへと行ってしまった再不斬と白のことくらい。
あの波の国での任務ではっきりと脳裏にこびりついて、忘れようとすることができない情景は……目を覚ました時に安堵の表情を浮かべた、カカシとサクラ、白……そして、本当に僅かだが、笑っていたサスケの表情だった。
嬉しいような、そうでないような。
曖昧で強がりな自身の感情がどんなものなのか、それを判別しようとした時、腹の虫が悲鳴をあげた。
「……腹減った~。メシ、食うか」
ベッドから起き上がり冷蔵庫に近づくと、冷蔵庫のドアに小さな貼り紙があった。
【ナルトくんへ。今日は用事ができちゃったから、一緒にご飯を食べれなくなちゃった。ごめんね。おかずは作っておいたから、食べてね。特にサラダはいっぱい作ったから、残さず食べること! ご飯は炊いておいたから。 イロミより。
追伸:カップラーメン食べ過ぎないように。夜食はほどほどに】
冷蔵庫を開けてみると案の定、どんぶり山盛りのサラダと、鍋ごと入れられた肉じゃがが入っていた。
「……イロミの姉ちゃん、作り過ぎだってばよ。俺、兎じゃねえのに」
口をへの字にしながらも、素直にサラダをテーブルに置く。肉じゃがの入った鍋はコンロで強火に暖めなおした。炊飯器を開けると、二合分の米が炊かれている。肉じゃがが温まる頃には、サラダにドレッシングをたっぷりかけて、ご飯を器に盛り、最後に敷いた新聞紙の上に鍋ごと肉じゃがを移動させた。
「そんじゃ……いただきますッ!」
サスケへの感情。
フウコへの感情。
今はまだ、秘めたものにしよう。
とにかく今は、強くなること。
強くなって、火影になって、
そして、
フウコが帰ってこれるように、里を変えることだ。
―――鬼と道具と、人形と風と―――
ほんの少しのヒビからでも、水は漏れる。もし漏れた下が平坦な床ならば、水は薄く広がるだけ。しかし、もし下り坂ならば、水は止まることなく流れ落ちるだろう。流れを作った水は、容易なことでは止まらない。道中の汚れを全て削り吸い、漆黒に染まりながらも、まるで意志を持つかのように最後まで流れ落ちる。
流れ落ちた先には、きっと汚いものに溢れている。いつだってなんだって、底というのは穢れた、あるいは祟られた死体が転がっているというものだ。
ましてや、死肉を漁りながらも上へ上へともがき叫ぶ鬼がいるのならば、きっとその水は鬼を溺れ殺そうという意志で動いているのだろう。
「……白…………お前だけでも……逃げろ…………」
その日は、雨が降っていた。暗闇に溶け込む豪雨。そう、つまり深夜だ。
頭上に分厚く鎮座する巨大な雨雲からの水滴のせいなのか、それとも切り落とされてしまった右腕から出た血液による不足のせいなのか判然としないが、朦朧とする視界の中、桃地再不斬は呟いた。彼の脇―――正確には、彼の左肩を支え、共に歩いている―――の少年、白に言ったのだ。
「嫌です……。ボクは、貴方を見捨てたりは決してしませんッ!」
本当なら、女性すら嫉妬してしまうほど整えられ雪のように白い肌を持つ彼だが、今は闇と雨に紛れるために顔に泥を塗りたくるカモフラージュを施していた。再不斬も同等に、顔に泥を塗っているが、豪雨の中をさまよっている間に、二人のカモフラージュはほとんど意味を成していなかった。
二人は、霧隠れの里の【追い忍】に追われていた。
抜け忍である二人の遺体を引き渡そうと、予めガトーが霧隠れの里に報告していたのだろう。遺体を引き渡せば、波の国での些細な出資も帳消しにできるだろうと、ガトーは思っていたのだ。はっきりと自分と白の強さを象徴し、不用意な行動をとらせないように脅しをかけていたのだが、まさかここまであっさりと掌を返してくるとは思っていなかった。
いくら騙し、騙される、弱肉強食の世界だからと言って、あそこまで躊躇いもなく驕る愚か者がこの世にいるということには、これまで強者と争ってきた再不斬にとっては思考の外。本当の弱者を知らなかった、再不斬のヒビだった。
追ってきた追い忍は、総勢で三十人。これまでで一番の人数だった。
勝手知ったる同郷の忍。追い忍も追い忍で、再不斬と白の遺体が素直に渡されるとは思っていなかったのだ。しかし、これまで行方をくらましていた危険人物の居場所が明確に分かった以上は、確実に仕留めに来た。
三十人中、十人は殺した。五人は白が、残り五人は再不斬が。しかし、そこまで来て、再不斬は右腕を失ってしまった。さらには、右ふくらはぎには幾本ものクナイを刺されてしまい、チャクラの消費と戦闘による疲弊で、もはや一人で歩けない状態。追い忍というエリートたちに加え、数の理。腕を失ってからは、逃げることに徹したのだ。
「俺の……言うことを聞け。お前は、俺の道具だ」
道具。
その言葉を呟いた時、再不斬の心が震えた。
波の国での戦闘。
あの日に戦った者たちは決して、互いを道具とは認識していなかった。
共に戦う仲間。
馬鹿で間抜けな、綺麗ごとの集団だと最初は反吐が出そうなほどだったが……その認識は傾けられた。
九尾の化け狐。
たしか名は―――うずまきナルト。
白の攻撃を受け、仮死状態になった彼はあの時……その姿を現した。
目ではっきりと見えてしまうほどの、高濃度で炎のように赤いチャクラを纏い、全身を血だらけにした姿。チャクラは青天井に増え続け、まるで小さな九尾の姿になった彼を……カカシやサスケ、サクラは最後まで見捨てなかった。
その姿が……頭の中にこびりついて離れない。太陽を見た時にしばらく視界に残像が残るかのように、ずっと。
肩を担いでくれている白は呟いた。
「はい、ボクは再不斬さんの道具です」
「……なら…………」
「道具は、決して一人で逃げたりはしません」
道具。
その言葉を呟く白に、先ほどよりも大きく心を揺さぶられた。
霞む視界。それでも、横見るとたしかに、白は笑っていた。
「安心してください。再不斬さんは、ボクが守ってみせます。絶対に死なせたりしません」
いつだって彼は優しかった。
霧隠れの里を出た時に拾った孤独の少年。様々な仕事をしてきたが、ずっと隣にいたのは彼だけだった。長い時間関わってきたせいか、彼の感情はいつだって読み取れてしまう。
波の国での戦闘に苦心していたことも。
戦闘が終わり、誰も死ななかったことに安堵していたことも。
切り落とされた右腕を止血している時に大きく悲しんでいたことも。
そして今の彼の笑顔が、誰よりも優しかったことも。
音がした。
豪雨の中、大量の足音を聞き分けることができたのは、再不斬だけだった。
足音は一直線にこちらに向かい、そして、必殺の速度で近づいてきていた。
振り向いた瞬間には―――既に、一人の追い忍が刃を振り上げていた。
決して避けることはできない間合いと時間。
再不斬は瞬時に左腕に力を込めて白を突き放そうとした。
明らかに、生き残るのには不要な動作。かつての再不斬なら、迷わず白を盾にして背負っている首切り包丁で反撃していただろう。
いやそもそも―――白を囮にして、自分だけ安全に確実に逃げ切っていたはずだ。白を突き放した場合、避けようとしても身体のどこかは切り離されることは必須。
どうして自分がそんな無駄な動きをしたのか、再不斬は自身を理解するよりも早く白を突き放そうとしたが―――逆に突き放されたのは、自分だった。
再不斬の首の動き、そして腕の動きで、白は状況を理解したのだろう。再不斬を突き放す際に首切り包丁の柄に彼は手をかけていた。
再不斬さん、お借りします。
白の横顔の口が、そう言ったような気がした。
まるで別れを呟くように。
「―――ッ!?」
意識が時間を細かく刻み、捉える。スローモーションに視界の映像を捉える意識だったが、身体は動かない。走馬灯のように見える光景。その光景の果てを、再不斬は瞬時に予測できてしまった。
間に合わない。
白が握った首切り包丁が追い忍の首を刎ねる前に、白の首が刎ねられる。
白も既にチャクラを使い果たしている。いつもの氷柱のような鋭さの速度を出せてはいない。千本も使い果たしている。
首切り包丁を持ったのはおそらく、自分の命と引き換えに追い忍を殺すため。白ならそれぐらい、平然とやるだろう。
道具として、主を守るために。
道具。道具、道具。
彼に科してしまった印を象徴するかのように。
止めろ。
再不斬は叫んだ。
いや、心の中で。身体は、意識が刻んだ時間の中を動いてはくれないから。
止めろ、白ッ!
何度も叫ぶ。
鬼のように。
それでも時間は進んだ。
追い忍の刃が、白の首を―――捉えようとした瞬間。
黒い風が、追い忍の首を攫った。
ここで再不斬は、夢から覚めた。
「再不斬さんッ!?」
目を覚ました再不斬の視界に真っ先に入ったのは、天井からぶら下がる裸の豆電球。オレンジ色の光を放つ豆電球だったが、その光を遮り入ってきたのは、白だった。
「白…………か?」
確かめるように、彼の名を呟いた。目を覚ましたばかりで、意識が現実と夢を区別できていない。
白は男性にしては長い髪の毛を解いていた。雪のように白い肌は、豆電球を後ろにして影を作っても光を放っているように綺麗で、しかしその表情は安堵と悲しみでくしゃくしゃに歪んでいた。
「よかった……っ。再不斬さん…………目を……覚まさないから……ボク…………もしかしたらって……」
「…………ここは、どこだ?」
白が生きていてくれたことに安堵しながらも、逃げるように再不斬は平静を装い、視界を横に動かした。真っ先に目に入ったのは、左腕に繋がれている点滴だった。その向こうには石の壁。
「再不斬さん、どこか、身体に痛い所はありますか? 異常がある所とか……」
「無い」
「本当ですか?」
「無い。しつこいぞ」
そう言うと白は嬉しそうに笑い、目端に溜めてしまっていた涙を指で拭った。
「ここは……どこだ? 霧隠れの里か? 追い忍の連中は、どこ行った?」
「大丈夫です、再不斬さん。追い忍はいません。ここは、彼のアジトです」
「……アジトだと?」
彼、と白は誰かを指したが、思い当る人物は見当たらない。そもそも、抜け忍として活動してからというもの、自身の足取りが付いてしまう不用意な人間関係は作らないようにしていたし、関わった人間は悉く殺してきた。
強いて言うなら、そう、はたけカカシなど。しかし、カカシのアジトというのはおかしな表現で、そもそもカカシやあの連中が関わってくるとは思えない。
再不斬はゆっくりと身体を起こした。
「あ、再不斬さん、無理に起きないでください。死んでしまいます」
特に反応することもなく、そのまま上体を起こした。右腕に違和感を覚えたが、見ると右腕はなくなっている。肩口から先が無い。けれど、落胆することもなかった。ああ腕はなくなったのか、そう思った程度である。
上体を起こすと白は身を引き、再不斬が横になっていたベッドの脇に置いた椅子に腰かけた。
部屋は狭かった。再不斬が使っているベッドと白が使っている椅子。それだけでもうほとんどスペースがない。左腕側の壁は石だったが、上体を起こした真正面と右腕側の壁はガラス張りだった。後ろ側は石壁で、けれどそちらには鉄製の扉がある。
ガラス張りの向こう側には光源がない。部屋の豆電球が微かに向こう側の暗闇を後退させる程度で、それに向こう側の壁は見えなかった。
ふと、ガラス張りの向こうに、何かが大量に置かれている物を発見した。
最初は人の腕や足かと思ったが、よくよく見ると、人間のそれではなかった。
「……
呟き、そう思って見てみると、やはり、そうだった。正確には、傀儡人形の腕や足の部品部分が、床に散らばっている。まるで子供が遊んだかのように、乱雑に投げ捨てられていた。
「今まで何があった」
白は小さく頷いた。
「ボクたちは助けられたんです」
「誰にだ? お前が言った【彼】という奴か? 何者だ」
「助けてくれたのは、別の人です。そう、女の人。ですが、すみません。誰なのか、というのは分からないんです。二人とも、自身の名前を言わないので。ただ、再不斬さんを治療してくれた人は、目を覚ましたら事情を説明すると言ってました」
ちらりと再不斬は視界を這わせる。首切り包丁は見当たらなかった。
その時、暗闇の向こうから扉が開く音がした。重々しい音。再不斬は臨戦態勢に入った。命を救ってくれたのはありがたいが、命を救ってくれた後がありがたいことになるかは別の話し。
忍は騙し騙され、利用する側と利用される側がいるという認識は、今でも揺るがない。ましてや相手は、傀儡人形を扱う者。それは、再不斬が初めて戦うスタイルの相手だった。
「……なんだ、生きていたか」
扉を開けた者は、小さく呟いた。コツコツと石の床を叩く足音をゆっくりと立てながら、声の主は近づいてくる。
「死んだら、俺の
「てめえは誰だ?」
すると声の主は鼻で一笑した。
「俺が誰だろうと、お前らには関係ない。今お前らは、俺の手の中にいる。お前らは演じる側、俺は劇を指揮する側。それだけ分かれば十分だろう」
つまりは、利用する側と利用される側。
これまで何度も、こういった手合いを経験してきた。大抵は依頼を受けた後には殺してきたが、今は圧倒的に分が悪い。目を覚ましていきなり詰まれている状況は、再不斬は初めてだった。
ちらりと、再不斬は横の白を見る。
なぜ彼を見たのか。
その感情をおっかなびっくりに、そして無意識に心の奥に潜ませる。
再不斬は再び、逃げるように声の主の足音がする方を見た。どうやら外側は、大分広い部屋のようだ。
「……何がご希望だ?」
「そう身構えるな、安心しろ。お前たちに危害を加えるつもりはない」
「ほお……。俺たちを今まで雇った
「だろうな。だが、事実だ。たとえお前たちが俺を殺そうと、その部屋から出ようとすれば、部屋中に催眠ガスが広がるだけだ」
「眠っている間に殺してくれるってのか……。随分とお優しいご主人様だな」
「そうだな、俺も同感だ。
あの女。その情報を再不斬は頭に入れたが、すぐに白が「ボクたちを助けてくれた人です」と呟き、情報を更新する。つまり敵は、二人だ。
声の主は足を止めた。しかし、顔は見えない。首から下はようやく見える距離だ。黒いコートを羽織り、赤い雲のマークが施されている。
「その女をここに呼べ、てめえじゃあ話しにならねえ」
「生憎、あいつは寝ている。起こそうと思ってもなかなか起きない。だから俺がここに来たわけだ。言ったはずだ、俺たちはお前たちに危害を加えるつもりはない。というより、あの女がそれを許さないからな。もしお前たちを殺せば、俺が殺される」
「……俺たちは何をしたらいいんだ?」
「俺たちの仲間になれ。そして、あの女の手足になるんだ」
仲間になれ、というのは初めての契約条件だった。声の主は続ける。
「もしお前たちが俺たちの仲間になるなら、ここと、そして他にも幾つかあるアジトに入るための印と術式を教える。それさえ知れば、どこからでもアジトに自由に行き来できる上に、アジトは誰にも見つからない。つまり、安全に暮らせる場所を提供する。一カ月籠っていても生きていける快適なアジトだ」
「……断ったら?」
「お前たちを眠らせ、そこら辺の森にでも捨て置く。それだけだ。後は死ぬなり生きるなり好きにしろ」
「………………」
少なくとも。
敵意は、感じ取れなかった。
治療を施してくれたこと。
追い忍を退け、白を助けてくれたこと。
声の主の平坦な声。
どれからも、こちらに危害を加えようとはしていないように思える。
ただ、思える、というだけで、確実ではない。いつまたどこからかヒビが入り、水が流れ込むか分からないからだ。
「……仲間になって、真っ先に俺たちは何を依頼されるんだ?」
仲間になれ、という契約条件は分かったが、もっと深い、肝心な部分を聞かされていなかった。
声の主は「ああ」と思い出したかのように低く声を出した。
「そうだな。忘れていた」
「契約内容を最後まで見ない内は、信用できねえからな」
「あの女の世話で忙しかったからな。メシの用意に薬の調合に、身体のメンテナンス。もしお前らが仲間になるなら、メシの用意くらいはまずしてもらわないとな」
「冗談は止めろ。さっさと言え」
「お前らには、ある男を探してもらう。
「俺を知っていたのか?」
「そこのガキは知らないがな。じゃなきゃ、お前を仲間にしようとは、流石にあの女も思わないだろう」
すると声の主は一度後ろに下がり、何かを探し始めた。ガチャガチャと工具やら何やらがぶつかる音。しばらくすると声の主はこちらに近づいてきた。豆電球の光が、声の主の顔を照らす。
人形のように無機質で、どこか疲れ切ったかのような表情を浮かべている、少年だった。髪の毛は赤。
声の主―――サソリは、手に取った紙を広げて再不斬と白に見せる。紙には、探してほしいという男の写真が貼られていた。
「大蛇丸という男だ。名前くらいは聞いたことがあるだろう。こいつを探してきてほしい」
「伝説の木の葉の三忍だと? どういうつもりだ」
サソリは紙を下げると、応える。
「この男は、あの女と俺のように同盟関係だったが、ここ最近、連絡が途絶えてな。だが、死ぬような男じゃない。何かを企んでいる。お前らには大蛇丸を探し、俺たちに報告するだけだ。簡単なことだろ?」
登場人物の補足説明
ここでは、今回の話にスポットが当たった登場人物とイロミについての補足説明をさせていただきます。理由と致しましては、波の国編をこの度は省略するという形になったため、原作様と幾分か異なる部分があるためです。
【春野サクラ】
:第七班の一人。技術、実力は原作様と大きく変化は無い。人間関係も特に変化は無い。
サスケに対しての好意も同様で、山中いのとは恋のライバル関係である。しかし、サスケの兄であるイタチに対しては意気投合している模様で、もはやファン仲間に近い。
ナルトに対しては、アカデミーの頃までは【体術だけが取り柄のナルト】と評していたが、下忍昇格で見せた【多重影分身の術】と【螺旋丸(未完成)】を見て評価を改めている。波の国での【ある出来事】はカカシから禁だと指示を受けているものの、ナルトとは第七班の良き友人だと認識している。
【うずまきナルト】
:第七班の一人。アカデミーの頃は座学全般が壊滅的だったものの、フウコから教えられた体術などを身に着け、体術のみは好成績を叩きだしていた。下忍昇格試験では、カカシ相手に多重影分身の術で不意を突き螺旋丸を実戦で初めて使用、しかし変わり身の術で回避され不発。フウコが里を出てから螺旋丸の術を何度も練習したおかげで片手で発現できるものの未完成で、チャクラコントロールそのものは上達していない。
サスケに対しては憎しみを抱きながらも、自身の一つの繋がりとして強く認識している。イタチに対しては【苦手意識】程度のものを持っているが、イロミに対しては親しく、晩御飯や部屋の掃除などをしてもらっており時折修行も付けてもらっている。
サクラ及びカカシへの認識は原作様と大きく変化は無い。
【桃地再不斬】
:霧隠れの里の抜け忍。波の国の道中、及び建設途中の大橋にてカカシらと戦闘する。水牢の術でカカシを抑え込んでいる際に、向かってきたナルトの螺旋丸を足一本で彼の顔を蹴り飛ばすことで回避する。二度目の戦闘では、カカシの雷切を受けそうになった時に【ある出来事】によって戦闘は中断。その後、手下共々を連れてきたガトーを瞬殺しその場を後にする。
【猿飛イロミ】
:特別上忍である。同じ地位にいるが上司である、みたらしアンコに、元滝隠れの里の忍であり友人であるフウ共々こき使われる日々を送っている。ここ最近は、アンコ自身が忙しくなっているせいか、些細な雑務をさっさと終わらせ、近々行われる中忍選抜試験の書類整理をゆったり処理している。両手は機能不全のままであるが、手首からチャクラを指先まで伸ばし吸着などを行っているため、物を掴んだりすることが可能。実力は中忍の中では上位と言われるまでに成長したが、諸々の事情により決して上忍になることはできない現状である。
次話は十日以内に投稿したいと思っております。また、これまで投稿してきたものは続けて誤字脱字などの推敲を続けていきたいと考えております(文章構成や内容に大きな変化は加えるつもりはありません。ですが、少しプロローグの文章の表現は大きく変えるかもしれません。ご了承ください)。