いつか見た理想郷へ(改訂版)   作:道道中道

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過去からの足音

 

 短い年月が流れた。復興に動き始めた里にとっては長い時間かもしれないが、イタチにとっては短く、そして充実した時間だったことは間違いない。知らない知識を獲得すること、フウコと共に術を実現していくことは、この上ない有意義さを感じた。

 

 イタチと、そしてフウコは、六歳になっていた。誕生日はイタチが先で、フウコが後。今年からアカデミーに入学することが決まっているものの、既に二人の知識と術のスキルはその枠を超えてしまっている。にも関わらず二人は、特にイタチは努力を休ませることはしなかった。

 

 暇さえあれば書物を読み、知識を蓄えた。家にある本は一通り目を通してしまっているため、最近では、里が管理している図書館に足を運んでいる。里の治安も安定しているおかげで、親同伴でなくとも、何も問題はなかった。

 

 その日もイタチは、図書館に赴いていた。

 

「いらっしゃい、イタチくん」

 

 出入り口を通ると、すぐ脇にある受付カウンターの女性が笑顔で迎えてくれた。何度も顔を出していたおかげで、カウンターの女性とはもう顔見知りになっていた。

 

 イタチが「おはようございます」と礼儀正しく頭を下げると、女性の笑顔が彼の後ろを見た。

 

「あら、今日はフウコちゃんも一緒なのね」

「おはようございます」

 

 後ろにいるフウコは無表情に挨拶をするが、女性の笑顔は変わらなかった。イタチほどではないにしろ、フウコもまた、図書館を利用していた。女性はフウコの事を理解していたのか、無表情で抑揚のない声の挨拶に対しても「おはよう」と何ともなしに返して「それで?」と続けた。

 

「今日はどんな本を探すの?」

「新しい本はありますか?」

 

 女性は天井を見上げながら人差し指を顎にあてた。

 

「忍術書は、新しいのはないかな。歴史書や児童書なら入ってるけど」

「そうですか。ありがとうございます」

「私も、なるべく手に入るように、館長にお願いしてみるから。今日は勘弁してね」

 

 安易な期待をしていたわけではなかったが、やはり、入っていないということには、少なからず残念だと思ってしまう。

 

 忍術の実験は毎日のように行われている。しかし、一朝一夕で開発や解明などが成功したら世話が無い。学ぶとしたら新しいものからという考えがあるものの、まだ子供な自分では、多くは望めないとイタチは心の中で呟いた。

 

 イタチとフウコは女性に小さく頭を下げてから、図書館の奥へと進んでいく。手前の本棚は子供用が多く、二人は見向きもしなかった。

 

 午前中ということもあり、人は多くない。まして、この時間帯にいる人は毎回同じだ。その人たちも、イタチとフウコのことを知っているのだろう。午前中から幼い二人を見ても、奇異な視線を送ることはしなかった。

 

 ある程度奥まで進むと、二人は無言で別々の本棚へと向かった。お互いに読む本が一緒になることはあまりない。

 

 イタチが足を運んだのは、忍術について書かれた書物の本棚だった。まだ読んでいない本を探し、今の自分に必要なものを手に取って、すぐにまた視線を巡らせて気になった本を手に取る。あっという間にイタチの片手には本のブロック塀が築かれた。しかしそれでも、随分と落ち着いた方だ。

 

 一時期、イタチは呼吸をするかのように本を読み耽っていた。

 

 知りたかった知識は、血継限界について。

 

 フウコと初めて忍術勝負をしてからというもの、イタチは一度として、再戦を申し込んだことは無かった。写輪眼の力を知ってから、未だ開眼できていない自分が勝負を申し込んでも、全く意味がないだろうと判断したためだ。

 

 しかし、フウコと再び忍術勝負をしたいという気持ちは小さな身体の中で強く燻ってはいる。どうにか写輪眼を開眼できないかと、イタチは奔走したものの―――良い結果は得られなかった。

 

 そもそも、血継限界という、一族の根幹に繋がる情報を書物に残すわけがない。調べて分かったことは、血継限界は、性質変化の異なる二つのチャクラを同時に扱うことによって可能にしているという概論だけだった。

 

 書物で駄目ならと、フガクとミコトに尋ねてみたこともある。

 

 けれど、

 

「まだお前には早い」

「それよりも、フウコと遊んできなさい」

 

 と返されるだけだった。

 当のフウコに訊いても、

 

「気づいたら、使えるようになってた」

 

 とだけ。人から聞くことはあまりにも期待できないと、イタチはすぐに判断した。―――ちなみに、シスイに訊くことをしなかったのは、どうせ訊いても、冗談で返されるだろうと思ったからだ。

 

 仕方なく、心に燻るフウコへの再戦という思いを抑えて、今はやはり、術を得ることに集中することにした。その過程で、フウコと一緒に修行をすることも多々あった。

 

 得た知識を実現する為に、修行中、互いに考察する。

 

 こうした方がいいんじゃないか?

 どういう場面で使う方がいいのか?

 

 イタチもフウコも、書物の知識通りに印を結ぶと、質はともかく、発現は可能だった。そのせいか、どうやれば質を高めることができるのかというのが焦点になりやすかった。焦点になりやすいと言っても、イタチだけ。フウコがやってみせる術は常に、クオリティは高かったのだ。

 

 修行の最後は決まって、二人で向かい合って学んだ術をぶつけ合う。どちらが、より術を習得できたのか競うのだが、毎回、フウコに負けてしまう。

 

 フウコが家族の一員となってから、彼女の事を色々と知ることができたが、特筆するべき点は彼女が天才であるということ。

 

 忍術と知識の吸収力も、思考も、ほとんどが自分とは段違いに高レベルということを実感した。なら、次の再戦までには、溝を開けられてしまうどころか埋めなくてはならないと判断したのだ。

 

 それらは、イタチが目撃した戦争の傷痕から、平和な世を支えていきたいという、年不相応な強い志の元に構築された偉大な判断だった。

 

 強くならなくてはいけない。

 平和な里を守るために。

 家族を守るために。

 

 大量の書物と言語辞典を両手で抱えながら、イタチは長テーブルに腰を落ち着かせ、一番上の物を淀みなく手に取ると同時に、隣にフウコが座った。隣同士で読むということも、この図書館においては恒例となっていた。

 

 隣から書物を静かに置くフウコの気配を感じ取りながら、手に取った本の表紙を捲った。意識することなく読み進めていこうとした矢先、ふと、視界の端に異変を覚えた。

 

 顔を上げて、その異変を目の当たりにする。

 

 フウコの目の前。そこには、イタチの何倍もの書物の山が出来上がっていた。

 

「なに?」

 

 イタチの視線に気づいたのか、フウコは本の表紙に目線を落としながら小さく尋ねてくる。さも自分の横にそびえ立つ山―――というよりも、もはや大樹である―――が、イタチの表情を固まらせている要因であるわけがないとでも言いたげに。

 

「……そんなに読むのか?」

 

 午前中だけでその分量を読めるのか? という風に本当は尋ねたかったが、そこはぐっとこらえた。フウコという妹は時に、常識からは考えられない行動を取ることがあるからだ。

 

 イタチは書物の大樹に視線を上げていく。ゆうに、五十冊はあるだろう。それも一冊一冊は決して薄くはない。いくら天才である彼女であっても、読み切ることは出来ないだろう。

 

 けれどフウコは、また当然のように「うん」と頷いた。

 

「ちょっと……調べたいことがあって」

「一冊借りていいか?」

「受付のあの人に訊いてみたら?」

 

 フウコの勘違いした返答が終わるや否や、イタチは大樹の頂上から一冊手に取って、表紙を見た。

 表紙には、こう書かれている。

 

『赤ん坊のあやし方 ―――赤ん坊は人の顔を知っている―――』

 

 ああ、とイタチはすぐに事情を察した。硬直した表情は和らぎ、くすりと、つい笑ってしまった。

 

「どうしたの?」

「いや……。そんなに、気にしてたのか」

「何が?」

「そういえば、フウコはずっとサスケに泣かれっぱなしだったな」

 

 

 

 ★ ★ ★

 

 

 

 うちはサスケの誕生に立ち会った日のことは、今でも鮮明に覚えている。

 

 それは、弟が生まれたという嬉しさを伴いながらも、反面で、衝撃的な場面でもあったからだ。

 

「ミコトさんッ!?」

 

 異変が起きたのは、昼食を済ませて一刻ほど経ってからだった。

 

 台所から届く、食器の割れる音。そして、緊張を過分に含んだフウコの声。

 

 自分の部屋で読書をしていたイタチは、予想していなかった音と声に、一瞬で焦りを覚えた。すぐさま台所に行くと、そこには慌てた様子のフウコと腹部を抑えて倒れているミコトの姿があった。

 

「イタチ、ミコトさんがっ」

 

 倒れているミコトの脇には割れた食器があり、その下には幾つかの水滴が床に落ちている。

 

 しかし、倒れて乱れた前髪の隙間から見せるミコトの油汗はそれよりも多い。

 

 イタチには事態が呑み込めなかった。知識を蓄えたイタチだが、今、腹部を抑え乱れた息遣いをするミコトの異変が、どこから来ているのか分からない。

 

 フウコと一緒にイタチは床に膝をついて声をかけた。

 

「母さん!?」

「……イ、イタチ…………」

 

 フウコはコップに水を汲み始めた。慌てているようだ。無表情ながらも、緊迫した空気が感じ取れる。イタチはミコトの言葉に必死に耳を傾けた。

 

「お父さんに……ぅうっ! 伝えて……。サスケが…………ッ!」

「ミコトさん、水、飲めますか?」

 

 水をたっぷりと入れたコップをミコトに差し出すが、彼女は力なく―――むしろ力が入りすぎているせいで―――震えながら首を振るだけだった。

 

「私は、何をしたら、良いですか?」

 

 フウコも、何が起きているのか分からないのか、それとも知っているからこそなのか、普段は平坦な声は張り詰めていた。

 

「大……丈夫よ、フウコ…………、心配しないで……」

 

 ミコトの声は、柔らかかった。

 

「……………怖がらなくて、いいのよ?」

「私は……怖がってなんか…………」

「ふふ………大丈夫…………。安心して……、お姉ちゃんに、なるだけだから……」

「お姉ちゃんに……。私が……?」

 

 困惑するかのように、瞳が震えるフウコ。「そうよ」と、ミコトは、言った。

 

「そろそろ、お母さんって、呼んでほしいわ……」

「……でも、私は…………」

「大丈夫。怖いことは、何も……ないわ……」

 

 ミコトの濡れた手がフウコの小さな頭を撫で、苦しい筈なのに、力強い笑顔を浮かべた。イタチには、ミコトが言っていることが分からなかった。ただ、頭を撫でられて視線を落とすフウコを眺めることしか、できない。

 

 フウコの顔が、上がる。

 

 無表情は変わらない。動揺だけが消えていた。まだ、イタチの頭の中は混乱しているというのに。

 

「イタチ、フガクさんがどこにいるか知ってる?」

「え……」

 

 即座に応えることができなかったが、フウコの双眸が強く自分を見つめた。

 思考が、張り詰める。

 

「警務部隊の所に、いるはずだ」

「分かった。イタチはミコトさんの側にいてあげて。私は―――」

 

 そこで一度、フウコは言葉を止めて、

 

「―――私の方が速いから、呼んでくる」

 

 返事を待つ間もなく、彼女は家を飛び出していった。

 

 ―――どうすればいい。

 

 フウコの強い視線に充てられて、少しだけ冷静さを取り戻した。今の自分に何ができるのかを考える。

 

 それでも、微かに震える思考と、何が起きているのかを把握し切れていない状況に答えが見いだせず、焦りが蠢き、無意識にイタチの両拳に力を入れさせてしまう。

 

 ―――母さんが……、

 

「ふふ……これからは……しっかり、しないとね…………イタチ」

 

 震える拳に、ミコトは手を優しく添えた。

 

 熱いくらいの温度を持った母の手は、それでも、イタチの焦りを幾分か、落ち着かせた。

 

「お兄ちゃん、なんだから…………」

 

 フウコも、

 これから生まれてくる子も、

 色んなことから守ってあげれるくらいにならないと駄目よ。

 

 辛そうなのに、苦しそうなのに、ミコトはそれでも、笑顔を浮かべ続けた。

 

 そうだ、自分は。

 強くなると決めたんじゃないか。

 戦争の痕を見て、決意したんだ。

 

 平和を守るために。

 家族を守るために。

 

「……母さん、俺は何をした方がいい?」

 

 焦りは、もう無くなっていた。いや、まだ心の中では焦りは忍び歩いているが、それを無理矢理抑え込んだ。焦りに立ち向かい胸を張るように心に力を入れた。

 手の震えが、無くなる。

 

「そう……ね………、お湯を、沸かせる? あとは―――」

 

 ミコトの指示を受けながら、イタチは家を駆けまわる。

 大量にお湯を沸かした。

 清潔なタオルをかき集めた。

 布団を敷き、布団の上半分だけに多くの掛け布団を積み上げた。

 

「ミコトッ!?」

 

 フガクの声が玄関から大きく入ってきた。

 

 ドタドタドタ。

 

 複数の足音が廊下を叩く。ミコトの汗を拭っていたイタチの前に、汗だくのフガクと白い服に身を包んだ大人が数人、現れた。

 

 フガクは一目散にミコトに駆け寄った。

 

「大丈夫か?」

「……ふふ、慌て過ぎよ…………。イタチや、フウコが………頑張ってくれたのに……」

 

 白い大人たちの一人が「すぐに処置に入ります」とミコトの前に屈んだ。

 

「……イタチが……うぅッ! 準備を、してくれました………」

 

 イタチは静かに頷いて、布団を敷いている部屋を指さした。白い服に身を包んだ大人たちは、持ってきていたタンカにミコトを乗せるとすぐさま台所から出ていってしまった。

 

「よくやったイタチ。お前はフウコと一緒に、居間で待ってなさい。何も心配することはない、安心しろ」

 

 早口に述べてフガクも後を追う。台所は静寂が訪れた。

 

 心臓の音が脳天を乱暴に叩く。手には、ミコトの汗を拭うのに使ったタオルがあることに気が付いた。

 ああ、とイタチは心の中で理解する。

 

 焦りが無くなったのだと。

 

 どっと汗が額から滲み出はじめ、膝から崩れ落ちた。大きく鼻から空気を吸い込んで、口で吐き切ると、頭の隅で思い出す。そうだ、フウコ。彼女はフガクを呼びに行ったが、台所までやってきたのは彼だけだった。

 

 廊下の向こうから、悲鳴のようなミコトの声が届くと再び緊張が走ったが、今回はすぐに落ち着いた。フガクが、頼りになる大人たちが、家にいてくれるおかげだろう。

 

 おそらくフウコは、もうすぐ来るはず。フガクの様子を思い出すと、全力疾走で家に向かったのは間違いないのだから、まだ子供であるフウコが遅れてくるのは当然のことだ。

 

 タオルをテーブルに置いて台所を出てから、イタチは玄関に向かった。居間で待っていろと言われたけれど、あれは、邪魔をしないようにという意味だと思う。なら、玄関にいても良いだろう。

 

 ミコトがよく散歩の時に履くサンダルを借りて玄関から出ると、フウコがいた。

 

 自分の予想に反して、早く家に到着していた彼女に驚きはしたものの、それ以上に、彼女の姿に目を奪われてしまった。

 

 玄関脇の壁に背中を預け、膝を抱えて座るフウコの姿は、淡々としながらも確固たる冷静さを持った普段のそれとはかけ離れていた。

 

「……ミコトさんは?」

 

 フウコの声は、ほんの少しだけ、震えていた。なのに、抑揚に変わりはない。隣に腰掛ける。

 

「心配ない。医療忍者の方々が来てくれた」

「そう、良かった……」

「中に入らないのか? できることはないかもしれないけど」

「医療忍者の人たちだから、手を貸してもらうことがあっても、私やイタチじゃなくて、他の人を呼ぶと思う」

「それでも、ここにいるよりはマシだ」

「……私は、いいよ」

 

 横を見る。

 

 いつも暇な時は空を見上げているフウコだが、今だけは、地面に顔を向けている。髪の毛が垂れて表情は覗けない。いいよ、と言った声がほんの微かに低いということ以外の情報は手に入らなかった。どことなく暗い雰囲気のような気がする、くらいしか予想できない。

 

 どうしてだろうか。空を見上げて考えると、ふと、ミコトの言葉が蘇る。

 

『大……丈夫よ、フウコ…………、心配しないで……。……………怖がらなくて、いいのよ?』

 

 フウコはあの時、怖がっていたのだろうか。思い出そうとしても、少し前まで焦りが頭を支配していたせいで、鮮明には思い出せない。家を出る時に見せた強く真っ直ぐな視線だけが克明に想起されるばかりで、全く怖がっていたようには思えなかった。

 

 ―――でもきっと、母さんには、そう見えたんだ。

 

 大人は自分たちよりも知識も経験もある。

 子供の表情の変化くらい、ましてや、家族の表情を見極めるくらいは、できるのだろう。

 

「……ねえ、イタチ」

「なんだ?」

「ううん……やっぱり、何でもない」

「怖いのか?」

「そういう訳じゃないと、思う。でも……なんだか、私はここにいちゃいけない気がするの」

「馬鹿なこというな」

 

 フウコは顔だけを傾ける。髪の毛の隙間から、彼女の赤い瞳がイタチを見つめた。

 

「イタチは優しいんだね……でも、隠し事は、しないでほしい。嫌なら、嫌って言って……。そうした方が、私は気楽だから」

 

 音もなく立ち上がる彼女の背中は足早に家の中へと入っていった。

 

 イタチも中に入り、二人は居間で、無言の時間を過ごした。いつものクリーンな静寂ではなく、どこか……そう、例えるならば、常に正確に動いていた振り子時計がコンマ三秒ほどのズレを刻み始めたような、現実と日常に差が生じた静寂だった。

 

 遠くから大人たちの声が今も尚、慌ただしく家の中を駆け巡っている。

 

 居間の窓から入ってきていた日差しが、透明からオレンジ色に変わった。ふと空を見上げれば、西の空はピンク色に。産声が鳴り響いたのは、そんな時だった。

 

 イタチは真っ先にフウコの手を掴んで居間を出る。そうしないと、彼女が居間から出ようとせず、むしろ、どこか遠くへ行ってしまいそうな気がしたからだ。

 

 布団を敷いた部屋―――そこは、フガクとミコトの寝室である―――の前に立つと、より一層、赤ん坊の声が届いた。

 

 緊張とは違うことは確かなのに、どういう訳か、心臓の鼓動が大きく速くなる。

 

「父さんッ! 入っていい?」

「ああ! いいぞ、イタチ!」

 

 襖の向こう側から、赤ん坊の声に負けないフガクの声。普段から想像もできない、生き生きとした彼の声だったが、イタチはそんなことを気にするほどの余裕はなかった。襖を開ける。

 

「見ろ、イタチ、フウコ! 俺たちの子だぞ! お前たちの弟だっ!」

「ふふふ……あまり騒がないで、貴方。サスケが泣いちゃうわ」

「二人とも、サスケに顔を見せてやってくれ!」

 

 ミコトの制止の言葉も虚しく高揚したフガクに促されるままに部屋に入ろうとする。

 その前に、一度、フウコを見た。

 赤ん坊の―――サスケの―――鳴き声が弾む部屋に似つかわしくない、微かに俯いた表情をしている。

 

「ほら、フウコ」

「……うん」

「俺たちは、家族だろ?」

「本当に?」

「少なくとも、サスケはお前のこと、姉さんって呼ぶようになると思うぞ」

 

 フウコの瞼が一ミリほど開いた。

 

「大丈夫だ。父さんも、母さんも、俺も、家族だ」

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

『お姉ちゃんだよ、サスケくん。これから、よろしくね』

 

 あの時の、フウコの笑顔を今でも思い出すことができるのは、それほどまでに力強い光を放っていたからだろう。

 

 ぎこちなく、吊り上がった口端は引きつっていた。おっかなびっくりに、瞼は震えていた。なのに、フガクの腕から継がれたサスケを抱く両腕はしっかりと固定されていて、藁で紡がれたような不安定な笑顔は抱いている間は崩れなかった。

 

 サスケが生まれてから、彼女とイタチ、それにフガクとミコトの心的な距離は……変わっていない。

 

 ただ、彼女は暇があると、サスケに顔を見せにいった。

 

 どのような思いがあってそうしているのか分からない。もしかしたら好奇心かもしれない。彼女ならあり得る。けれどその中に、小さな優しさがあるように、イタチは感じていた。イタチも彼女と一緒に、サスケの世話をしているからよく分かる。

 

 不格好で不慣れな優しさが、横からくすぐったく感じ取れる。

 

 ……しかし、である。

 

 残念なことに、彼女の些細な優しさは届かず、サスケは泣き喚くという愉快な選択肢で答えていた。

 

 笑っている時でも、食事の後の眠い時間でも、フウコの姿を捉えようものなら、力一杯に泣き叫ぶ。フウコが下手くそに笑おうが、顔を隠して近づこうが、ところ構わず。

 

 サスケが生まれて一年ほど経過した今になってようやく、どうすれば泣かれないでするのかということを調べ始める彼女が、いつもの彼女らしくない鈍重なものだったため、笑ってしまった。

 

「今更、調べてるのか」

 

 つい言葉にしてしまうと、彼女は鋭い視線を書物から外した。

 

「ミコトさんやイタチから教えてもらったことをしても、上手くいかなかった」

「いや、お前は全然できてない。酷いものだ」

「どこが?」

「笑えてないだろう」

「笑ってる」

「本気で言ってるのか?」

 

 一度だけ、尋ねられたことがあった。

 

 どうすれば泣かないでもらえるか。

 正直なところ、明確な原因は分からない。赤ん坊ではないし、赤ん坊だった頃の記憶もない。完全なイメージだけ。

 

 まあ、思い当たる節は一つしかない。

 

 無表情で、声の抑揚が平坦。

 

 それを指摘したところ、彼女は実践してみせたのだが、結果は変わらなかった。逆に、悪くならなかっただけでも御の字かもしれない。彼女の笑顔は、初めてサスケに見せた時の笑顔よりも酷く、そして不気味なものだった。

 

「もっと普通に笑えばいいんだ。何も難しいことじゃないだろう」

 

 言うと、フウコはため息をついた。

 

「私は、イタチが羨ましい。きっとイタチにとって、笑うってことは、特別ことじゃないんだろうけど、私にはすごく特別なこと。印を結びながら、術を発動するくらい」

「楽しかったり、嬉しかったり感じることはないのか?」

 

 あるよ、と呟き、それを表情にすることが難しいと続けた。どこか寂しそうな、けれど無表情な自分の妹だった。

 

「だからなるべく、調べる。サスケくんに、迷惑をかけたくないから」

 

 それからは、お互いに書物を読み耽った。彼女にはまだ言ってやりたいことが幾つかあったものの、今言っても意味がないと判断した。

 

 時間は簡単に過ぎた。

 

 部屋にかけられている丸時計はあと五分ほどすれば、短針と長針が真上で重なる。ミコトが昼食を作っている。まだ読み終わっていない書物のタイトルをテーブルに備えられている紙の切れ端のようなメモ用紙に書き記してから、書物を返却棚に置いた。

 

 フウコも書物を返却棚に置いたけれど、何処か後ろ髪を引かれているように見える。まだ子供の自分たちでは、親の同伴でなければ借りることができない。

 

 しかしそれでも、書物の知識をすぐさま生かすことにしたのか、図書館を出た後に「帰りに、少し買いたいものがある」と言った。寄ったのは、駄菓子屋だったが、彼女がなけなしのお小遣いで買ったのは、小さな玩具のでんでん太鼓だった。

 

「赤ちゃんは、明るい音が好きみたい」

 

 得た知識が誤りではないかを確かめるようにでんでん太鼓を鳴らしながら歩くが、彼女の視線はどこか不思議そうだった。本当に効果があるのか? とでも言いたげに、矯めつ眇めつ、顔を傾けている。

 

 でんでんでんでん。

 

 フウコの鳴らす音に合わせて、二人は並んで歩いて行くと、でんでん太鼓の音につられたのか、シスイが姿を現した。「よっ」とトレードマークのような笑顔を浮かべながら、片手を挙げた。

 

「図書館の帰りか?」

「ああ。逆にお前は何してるんだ?」

「逃亡中」

「今度は何をしたんだ? お茶碗でも割ったか?」

 

 そんなわけない、とシスイは胸を張って言うが、彼がそうする時はふざけている時だということは知っている。

 

 偶然なのか、隣からでんでん太鼓が、デデデン! と鳴る。まだ性能を確かめているようだ。

 

「昼ごはんに納豆が出たから、逃げてきた」

「いつも思うけど、お前のその行動は何なんだ」

「ジイちゃんがさ、好き嫌いするなって五月蠅いんだ。だから逃げた、すげー逃げた」

「……そうか」

「んで、今は二人に助けてほしいと思ってたりする」

 

 まあそんなことだろうとは、すぐに予想が付いた。逃亡中と言いながら、自分たちを探していたのだろう。

 

 シスイの祖父―――うちはカガミのことは知っている。まだ何度かしか会っていないけれど、優しい老人だったことを記憶している。しかし、シスイの話しに寄ると「あれは鬼だ」とのこと。家族には、特にシスイには、厳しいらしい。自分たちが同伴なら強く怒られはしないだろうと思っているのだろうけれど、一日中、彼の家にいる訳じゃないのだから、意味がないだろう。

 

「自分で何とかしろ」

「あー、やっぱりそう言われるよなあ。まあ、いっか。どうにかなる」

 

 んで、と呟いてシスイはようやく隣のフウコを見た。

 

「さっきから、何やってんだ?」

 

 相変わらずでんでん太鼓の性能を確かめるフウコの奇行に、シスイは尋ねた。フウコはでんでん太鼓に視線を向けたまま言う。

 

「これでサスケくん、笑うと思う?」

「??? サスケって、弟のサスケだろ? 分かんねえけど……まあ、笑うんじゃないか? 赤ん坊なんだし」

「よかった」

 

 我関せずという風に、フウコはさっさと歩いて行ってしまった。

 

「何なんだ? あれ」

「姉としての悩みだよ」

 

 よく分かんねえ、とシスイは呟いた。

 

 ―――まあ、そうだろうな。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 夜になった。

 夕食を終えてから、家にはミコトもフガクもいなかった。二人は、うちはの会合に参加している。イタチとフウコには話し合いと伝えたが、その内容までは言わなかった。ただ、早く寝るように言われている。

 

 静けさが漂う家の縁側で、しかしイタチとフウコはまだ起きていた。

 

 でんでんでんでん。

 

 気温が少しだけ下がった夜の空気の中を、でんでん太鼓の軽快な音が駆け回る。

 

「フウコ、今はサスケが寝ているんだから、意味ないだろう」

「でも、いつもなら私が近づいただけで泣き出すから、こうしてた方がいいかも」

「そうなのか?」

 

 イタチの腕に抱かれているサスケは、たしかに可愛らしい寝顔を浮かべている。本当に、でんでん太鼓の効果があるのかもしれない。

 

 変な感性を持っている弟だが、それでも、抱いている腕から届く重さと温もりについ頬が緩んでしまう。

 

 不思議だった。

 

 まだまともに言葉を交わしていないのに、愛情が溢れ出てくる。もう眠ってしまっているサスケを起こさないようにと考えながらも、腕が勝手に揺り籠の如く動いてしまう。

 

「イタチ、変わって。イタチが太鼓を鳴らして」

 

 でんでん太鼓を鳴らしながら、それを持つ手をフウコは差し出してくる。

 

「駄目だ。きっとサスケが起きる」

「イタチばっかりずるい。私だって、サスケくんのお世話をしたい。これまでずっとできなかったから」

「それはお前が悪い。笑う努力をしなかったのが原因だ」

 

 ちょっとだけ、優越感。

 

 これくらいはいいだろう。自分はお兄ちゃんなのだ。それに、こうした方が、フウコが笑う努力を怠らないで済むだろうという言い訳を心の中で、意味なくする。

 

 サスケの寝顔に向けて、無表情ながらも口を「にー」と横に広げて白い歯を見せる彼女の努力を見て、まあでも少しくらいなら、とすぐに思う。

 

 でんでん、

 でんでんでん、

 でんでんでんでん。

 

 

 その時、遠くの方から音が聞こえた。

 

 

 花火のような、

 水風船が弾け飛ぶような、

 木々がざわめくような、

 どこか悲しい音が。

 

 すると、急にサスケが、泣き始めた。

 

「どうした、サスケ。お兄ちゃんとお姉ちゃんがいるから、安心しろ」

 

 言いながら、イタチは少しだけ感じ取っていた。

 

 里の中央の方。そこが、なんだか、騒がしい。

 

 きっとサスケもそれを感じ取ったのだろう。

 フウコの気配だけで泣いてしまう、鋭い子だ。

 イタチはゆっくりと腕を揺らせる。怖くないぞ、という思いを込めながら。

 

 けれど、一向に泣き止む気配がなかった。ともすれば、いつの間にかでんでん太鼓の音が無くなっていることに気が付く。

 

「フウコ、鳴らしてくれないか。サスケが―――」

 

 しかしでんでん太鼓が彼女の手からなり始めることはなかった。

 そもそも、彼女の手から落ちていたからだ。

 

 彼女は、騒がしい気配がする方を、茫然と、見上げている。

 

 消え入りそうな声で、彼女が呟く。

 

「どうして―――」

 

 九尾が(、、、)

 

 フウコの口元が、そう、動いたような気がした。

 

「イタチ、サスケくんをお願い」

「どうしたんだ、急に」

『お願い。サスケくんを、守ってあげて』

 

 写輪眼の赤い瞳が真っ直ぐ自分の眼を見つめると、波紋のように、彼女の声が頭の中に染み渡った。

 

 抗うことができない程の心地よさが、意識を静かに浸食していく。しかしそれすらも、イタチには、感じ取れなかった。

 

「……ああ、分かった」

 

 背を見せ、走り出した妹の姿に、疑問を抱かなかった。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 走る、

 奔る、

 逸る。

 

 背中から這い寄ってくる寒気から逃げるように、そして胸の中を駆けずり回る不安の正体を確かめる為に、夜を駆ける。

 

 写輪眼は、既に捉えていた。

 

 深い暗黒が広がる夜空を排するほど、煌々と広がる赤いチャクラを。

 

 フウコは、その中央へと。足にチャクラを集中させた移動は、風を切る速さ―――ミコトの陣痛が始まったあの日に、フガクの元へと赴いた時と同じ程の―――だった。

 

 うちはの町を出て、赤いチャクラの元へと、知っている道の中から最短の物を選択し、走り抜ける。

 

 臭いが変わり始めていた。

 焦げた臭い、鉄の臭い、生臭さが混ざった不快な臭いが夜風に乗せられて顔に張り付く。

 

 首の裏側の産毛が逆立つ。耳の裏もざわついてしょうがない。

 

 声がする。

 頭の奥から。

 嫌な声だった。

 ケタケタと嗤う声。

 

 それを無視して、走り続けると、とうとう、目の当たりにする。

 

 崩壊した町並みを。

 

 その中央に、九尾がいる。血のように赤いチャクラと毛並みを纏った、意志を持つ巨大な災厄。木の葉隠れの里を象徴する顔岩と同じくらいの巨躯は、こちらからは背中側からしか見上げれず、蠢く九つの尾のせいで全貌を正確に捉えさせはしなかった。

 

 九尾が腕を振るう。それだけで、風が吹いて、瓦礫となった建物がさらに崩れる。

 

 そして、九尾に挑んだ大人たちが、紙切れのように吹き飛んでいく。

 

 ―――やめて……。

 

 喉が震える。なのに、声が、出ない。

 恐怖じゃない。

 大切だと思っていたものが、あまりにも簡単に消えて行ってしまうことへの、急激な喪失感に、身体が追い付いていなかった。

 

 遅れて、怒りが込みあげてくる。

 

 ―――よくも、

 

 よくも、里の平和を。

 あの人(、、、)が、守ってきた平和を……ッ!

 

「フウコかッ!?」

 

 その時、上から声が。

 

 向くと、そこには、黒い忍服に身を包んだ老齢の男性が立っていた。白く整えられた短い顎髭を携え、深い皺を刻んだその顔には、本来なら包容力のある威厳を漂わせているはずなのだが、今は複雑な硬い表情をしていた。

 

 三代目火影・猿飛ヒルゼンとフウコの視線が重なった。

 

 フウコは彼の前へ移動する。

 

 ヒルゼンの後ろには、それぞれ異なった面を付けた忍びたちが控えていた。彼ら彼女らは、火影直属の部隊である暗部と呼ばれる者たち。フウコの姿を捉えるや否や、面の向こう側からでも、別の緊張が暗部に走る。

 

 何でここに子供が、という緊張である。

 そしてすぐに、また別の緊張が巡った。

 

「なぜここにおるッ! お主の出るところではないッ!」

 

 ヒルゼンの叱責は珍しいものだった。普段は温厚な彼からは珍しく、ましてや声を向けたのが女の子だったこともあって、暗部は困惑の色を密かに浮かべた。

 

 フウコは怒りを頭の中に感じながら、無表情にヒルゼンを見上げる。

 

「嫌です。私は、このような時の為に(、、、、、、、、、)いるんです」

「ならんッ! ここはワシらに任せよッ!」

「……ミナト様は、どうしてここにいないんですか?」

 

 ヒルゼンは顔をしかめた。

 波風ミナト。

 現火影にして、四代目。つまり、ヒルゼンは先代の火影である。彼でさえこの非常事態に赴いているのに、ミナトの姿は見当たらない。

 

 いやそもそも、九尾が出現しているということ。

 

 これが何を示しているのか、分かっていた。

 

「クシナ様に、何かあったんですね」

「……お主は家に戻れ」

 

 しかし、それが明確な答えになってしまっていた。

 

 里を守る、という目的は、火影を守るというものへと変更される。

 それが、フウコにとっての、優先順位だった。つまり、里の平和は、火影があっての平和だということ。

 

「ヒルゼン様、九尾をお願いします。里を―――」

 

 うちはの町を、という言葉を喉の手前で抑え込んだ。それは今の現状では、あまりにも、身勝手だから。

 

 足にチャクラを集中させる。

 

「待て、フウコ!」

 

 けれど、ヒルゼンの声を置き去りにするほどの速度で、フウコは移動していた。

 

 瓦礫と、死体と、火を脇目に駆け抜ける。奥歯を噛みしめると、目の奥が、痛くなる。

 

 ごめんなさい、と心の中で呟いた。どうしてその言葉を思いついたのかは、分からない。顔も名前もどんな日常を送っていたのかも分からない人たちなのに。しかし、里の平和が壊された原因の一部は自分なのだと、責任を感じていた。

 

 遅れて、遠くから、いや頭の奥底から、また、嗤い声。耳障りな、嗤い声。それを無視して、里の外へ。

 

 暗く、不気味なほどの静けさを漂わせる森を一直線に突き進んでいく。

 

 ―――近い。

 

 暗闇の向こう側から、チャクラの気配を感じ取った。先にあるのは、本来、ごく限られた者しか知らない祠。フウコは、チャクラの気配のする方へと進んでいく。

 

 視界が開ける。

 

 そこには、二人の忍が、今まさに衝突する寸前の光景が広がっていた。

 

 一人は、白地で赤い模様に縁どられたコートを着た、黄色い髪の毛が特徴的な男性―――波風ミナト。

 

 そしてもう一人は、ミナトと対称するように黒いコートに身を包み、歪んだ木の年輪のような仮面を付けた男だった。

 

 瞬間、フウコは、確かに見たのだ。

 

 仮面の男の奥に潜む眼が、写輪眼だったのを。


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