いつか見た理想郷へ(改訂版)   作:道道中道

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奇遇にも揃う三人

「おっちゃん! このアイスちょーだい!」

 

 七月に入った。七の月の七日。ちょうど、中忍選抜試験が木ノ葉隠れの里で開催される日である。同盟国から多くの下忍の子たちが、今年こそはという意気込みで集結し、普段の平和な空気に包まれている木ノ葉隠れの里が殺伐とした空気になっている頃だろう。時間的にも、間もなく第一の試験が始まる頃だろう。しかし、小さな駄菓子屋の主人にも、声を掛けてきた幼い女の子にも、殺伐とした空気は全く感じさせない。

 

 そこは、木ノ葉隠れの里から遠く離れた、火の国の端の町―――の、その端の田んぼ道だった。殺伐とした空気はない。聞こえるのは、風が田んぼの緑を揺らす音と、時折聞こえてくる虫の鳴き声くらいだ。

 

「お嬢ちゃん一人かい? お金は持って来てる?」

 

 老齢の男主人が柔らかい笑みを浮かべて、レジの向こう側から女の子を見下ろす。

 

 女の子は十二歳ほどの年齢だった。駄菓子屋が立っているのは、田んぼ道の脇。少し先には、民家が幾つか立っている小規模の集落がある。男主人にとって集落の者たちと顔見知りだったが、女の子は初めて見る顔だ。別の集落から来たのだろうか?

 

「うん! はい! これで足りるでしょ?」

 

 女の子が伸ばしてきた小さな手の中には、もう片方の手に収まっているソーダ味のアイスとピッタリの値段だった。男主人がお金を受け取ると同時に、女の子は手早くアイスの袋を開けた。

 

 女の子の髪は、薄い黄色だった。活発さをアピールするかのように髪を一本のポニーテールに纏めている。額には、刺青なのか絵の具で描いたものなのか、ひし形のマークがある。着ている服は袖のない白い服で、けれどサイズがまるっきり合っていないように思える。失礼かもしれないが、もっと成長してから着るべきサイズである。服の上から巻いている帯で無理やりサイズを合わせているようだった。

 

「ねえ、おっちゃん」

 

 女の子がアイスを噛みながら呟いた。

 

「なんだい?」

「このアイスって、当たり付きだよね?」

「そうだよ。でも、当たってもここでしか交換できないからね。他の所だと、多分、難しいんじゃないかな」

「どうして?」

「だって、そのアイスが他の店にあるか分からないじゃないか。すぐそこのベンチで食べてから、もし当たった時に持ってくるんだ」

 

 男主人は顔を上げて、店の入り口を見た。スライド式で両開きの出入り口からは、燦々とした光が入り込み、向こう側に田んぼ、さらにその向こうには山があった。そこで、思い出す。そうだ。たしか、ついさっき、店の前を二人の男女が通り過ぎた。

 

 黒い長髪の男性とショートの女性だ。男性は黒いロングコートを羽織っていた。女性は黒い浴衣のような服を着ていて、子豚を抱えていた。大きな真珠を下げた子豚である。

 

「すぐ近くの小さい空き地のベンチに座ってるんじゃないかい? お兄ちゃんとお姉ちゃんが」

「う、うん……。そう。お兄ちゃんとお姉ちゃんなの。ねえおっちゃん! もし当たったら、一本じゃなくて、二本ちょうだい!」

「はっはっは! ここ最近、めっきりアイスを当ててくれる子がいなくなってしまってね。いいよ、当ててくれたら特別に二本奢ってあげるよ」

 

 女の子は嬉しそうに笑いながら、アイスを口に加えて出て行った。男主人は店奥に入る。畳の敷かれた狭いリビングだった。テレビを付けて、横になる。頭の隅に、女の子が当たり棒を持ってくるかもしれないということを考えながら。

 

 ところで、女の子―――綱手は、男主人とは打って変わって、自分の手にしているアイスの棒が当たり棒だとは、ビタ一文として信じてはいなかった。当たらないという確信、と言ってもいいだろう。まあ、当たったところで、嬉しくはないのだが、万が一、何かしらの間違いが起きて当たった場合、一本買って一本おまけというのは馬鹿馬鹿しい。一つ賭けたなら二つ戻ってくるというのが、賭け事の鉄則であり、そういった理由で男主人に、当たったら二つくれと言っただけであった。

 

 アイスを齧りながら、綱手は近くの空き地に向かった。空き地というよりかは、ただ雑草が生えておらず、くたびれたベンチが対面に二つ並んでいるだけの場所だ。きっと、田んぼを管理していた人たちが自前で用意したのだろう。ベンチの間には、木の丸太が、テーブル代わりに置かれている。

 

「おかえりなさいませ、綱手様」

 

 ベンチの片側に座っていた女性―――シズネは、安心しきったような笑みを浮かべ、緑色の半纏を綱手の肩に掛けた。すると、それに合わせて綱手の身体は、瞬く間に成長していく。正確には、彼女自身が施していた術で身体の姿形を変えているのだ。変化が止まったのは、ちょうど二十代辺りだろうか。若々しい肌と豊満な胸となった彼女の姿は、着ていた衣服にピッタリと収まっており、半纏に袖を通すと様になっている。

 

 大きくなった口でガリガリと粗暴にアイスを齧ると、アイスの棒の頭部分が小さくはみ出した。

 

「ったく、ガキの姿だと身体が疲れてしょうがない」

 

 ドサリと、綱手はシズネの横に腰かける。右手でアイスを摘まみながら、左腕を背もたれに置く。美しい容姿だが、なんだか雰囲気が荒んでいる。端的に言えば、おっさん臭かった。

 

 賭け事が好きという彼女の趣向もあるかもしれないが、やはり、年季が入っているからだろうと―――対面に座っているイタチは静かに思った。

 

 綱手の実年齢は、五十代である。つまり、女の子から二十代の女性に姿を変えたけれど、それすらも本当の姿ではないのだ。暗部の部下から聞いた情報通り、基本的に姿を変えているようだ。あまり理解できる価値観ではなかったが、友好的な笑みは決して崩さないまま尋ねる。

 

「本当に、アイス一つで良かったのですか? 喉が渇いているのならば、まだお金は出しますが……。シズネさんは良いですか?」

「気にしないでください。私は平気です。トントンもまだ大丈夫みたいですし」

 

 シズネの足元のトントンという、首に真珠のネックレスを掛けた豚が「ブヒッ!」と明るく返事をした。シズネも、そしてアイスを食べている綱手も、大きな疲労の色は見せていなかった。

 

 およそ、一週間。碌に眠らずに、逃げる追いかけるを続けたというのに。やはり三忍とその付き人と言った所である。

 

「綱手様は大丈夫ですか?」

 

 微かな眠気をこらえながら、イタチは尋ねる。

 

「いらん! さっさと要件を話せ!」

 

 眠気は無いようだが、幾分か苛立ちは抱いているようだ。乱暴にまた大きく、アイスを齧った。大きく飲み込むと、綱手は小さく舌打ちをする。

 

「お前らのせいでこっちは喉が渇いているんだ! くだらない話しなら、ただじゃ済まさないぞ!」

「……やはり、飲み物を買ってきましょうか?」

 

 イタチの提案は、しかし綱手は鼻で大きく息を吐いて捨てられた。どんなこだわりがあるのかは分からないが、ようやく話しを聞いてくれる段階になったのだ。不必要に気を遣い嫌気を刺され、また一週間も追いかける羽目になるのは御免だ。

 

 イタチは小さく息を吐いてから、言う。

 

「―――単刀直入に言います。一度、木の葉隠れの里に戻っていただきたい」

 

 シズネが気まずそうに、無言に笑みを浮かべる。その傍らで、綱手は侮蔑するようにニヒルに笑った。

 

「大方、そんなことだろうとは、思ってたがな。あのジジイが死んだのか? 言っておくが、私はあの里に戻るつもりはない。何か手伝えというのなら、他を当たりな」

「火影様は健在です。確かに、少し、手を貸していただくことになるかもしれませんが、木ノ葉隠れの里の運営などに携わるものではありません。あまり、お手数をかけることはないでしょう」

「ジジィが生きてるっていうことなら、尚の事、戻るつもりはない」

 

 取りつく島もないと言った感じである。ただ単純に怒りながら拒絶していると言った、子供染みた抵抗ならまだ御しやすいが、手に持ったアイスで虫を掃うように揺らす彼女の姿は、達観した拒絶だった。こういった手合いを動かすには、少し強引さが必要である。

 

「いいえ、綱手様には里に戻ってもらいます」

「戻らん」

「どうしても、戻ってはもらえませんか?」

「しつこいガキだな。どれほど頭を下げようが、戻るつもりはない。さっさと帰れ」

「そうですか―――」

 

 イタチはゆっくりと顔を下げた。額当ての上から垂れる前髪が、イタチの両眼を綱手から見えなくさせる。顔上げた。

 

「では、力尽く、ということで」

 

 写輪眼を見せると同時に、イタチは冷酷な視線と無表情で綱手を睨み付けた。初めて綱手と、そしてシズネから笑みが消える。イタチから放たれる鋭い圧迫感と、研ぎ澄まされたチャクラに、付き人のシズネの表情は険しくなるものの、綱手は真剣みを帯びた視線を送ってきた。

 

「お前……うちはの生き残りだったのか」

 

 イタチは小さく頷く。

 

「なるほど。じゃあ、お前が、あのうちはイタチだったのか。道理で、これまで私らを追いかけてきた暗部の連中とは違う訳だ」

「イタチって、木ノ葉の神童って呼ばれている……。まさか、こんなに若い子だったなんて」

「俺の話しは結構です」

 

 と、イタチはシズネを一瞥し、綱手を睨む。

 

「綱手様。あまり手荒なことはしたくない。ここは火の国の国境付近。事を荒げると、後々、厄介なことになりかねません」

「……まるで、私に勝てるような言い草だな」

「ええ。俺は、アンタより強い」

 

 敢えてイタチは、綱手を下に見るような言葉遣いをした。安い挑発である。綱手も、それは分かっているはず。しかし、彼女は分かった上で、眉間に皺を寄せ、語気を強めた。

 

「私の半分も生きてない餓鬼が。言葉はよく選びな。神童だか何だか言われて調子に乗っているようだが、あまり私を怒らせるんじゃないよ」

「どれだけ生きたかというのは関係ない。勿論、年配の方には常に尊敬の念を抱いています。長く生きるということの難しさは、身を以て体験していますので。忍として長寿というのは、偉大なことだと思います。だが―――アンタは違う」

 

 神経を集中させる。目に見えて、綱手の怒りがどんどんと理性を突き破ろうとしているのが分かったからだ。いくら写輪眼と言えど、この近距離で三忍を相手に無事で済む保証はない。綱手の隣に座るシズネは、さりげなくトントンを腕に抱えていたのは、きっと、ただ事ではない事態になると、付き人としての長年の経験が警鐘を鳴らしているのだろう。

 

 それでもイタチは続ける。

 

 この世に、怒ることが出来る人間はいない。

 誰も彼も彼女も、人は皆、怒らされているのだ。

 何も無く、心の底から怒ることが出来る人間はいない。怒らされているのだ。

 つまりは、綱手はこちらの土俵に上がろうとしてきている。

 達観的な拒絶のような、ヒラリヒラリと言った感じに言葉を交わすのではない。

 真正面から言葉を跳ね返そうとしている。

 交渉という、場面である。

 

 これは、おそらくイタチほどの実力が無ければ、この場面に持っていくことはできないだろう。実力があるからこそ、相手に発破をかけることが出来る。実力のない誘いは、相手が素直に誘いに乗った後は、手詰まりになってしまうからだ。

 

「アンタは木ノ葉から逃げた」

 

 その言葉一つで、綱手の凄みが増した。写輪眼は確かに、背もたれに乗っけている腕の筋肉の動きを捉えている。背もたれの裏に隠れている手は、拳を作っていることが分かった。

 

「多くの人々が命を費やし、作り上げた平和を前に、アンタは逃げたんだ。自分の納得のいかないものだったから、逃げて、一人で生きていけるんだと格好を付けている、ただの子供だ。かつて三忍と言われたアンタでも、尊敬はできない。頭の悪い子供を相手に媚びへつらうほど、俺は馬鹿じゃない」

「貴様―――ッ!」

「やめなシズネッ!」

 

 トントンを抱えていた右腕。袖を捲り、その下から出てきた、幾つかの小さな筒状のものから伸びる紐を引っ張ろうとしたシズネを、綱手は声だけで制止させる。

 

 イタチは驚くことも、緊張に身体をこわばらせることもしなかった。意外と鋭く怒る人だと思っただけだ。写輪眼で容易に予測できていたこともあるが、ここでそんなみっともないアクションを見せては、交渉の場が崩れかねない。

 

 こちらが上で、そちらが下。

 今必要な構成は、それである。そうしなければ、相手を動かせない。

 

「まだ聞いてない部分がある。私は、木ノ葉に戻って何をさせられるんだい?」

「うずまきナルトくんをご存知ですか?」

「……うずまき?」

 

 綱手が眉を微かに傾けた。うずまきという姓に思い当るものがあるのだろう。イタチは助け船を出すことにした。

 

「四代目火影・波風ミナト様の子です。うずまきというのは、ミナト様の妻にあたる、うずまきクシナ様の姓です」

「ああ……九尾のガキか」

 

 イタチは頷く。

 

「実は、ナルトくんに施された屍鬼封尽が弱まっている可能性が出てきました。暗部には、九尾のチャクラを抑える術を持った人がいますが、不安な部分があります。そこで、綱手様には―――」

 

 そこで一度、イタチは言葉を止めた。一秒くらいだろう。しかし、綱手はそれで何かを察したようだ。左手で首飾りの石を隠すように握った。

 

「……俺も、無理にそれを取り上げるようなことはしたくありません。ですので、綱手様自身が木ノ葉に戻っていただけることが、最良の手段だと思っています。それに、たとえナルトくんの屍鬼封尽が解けてしまっても、綱手様のお力を貸していただけるなら、その石の力を借りることも無く抑え込むことも簡単だと思っています。俺の写輪眼もあるので、九尾を抑えるのは、難しくありません」

 

 イタチは一度、そこで小さく息を吐いた。

 

「ナルトくんは今、中忍選抜試験に出場しています」

 

 正確には、出場している可能性がある、というだけである。カカシが推薦したからと言って、必ず出場しなければならないということではないのだ。

 

「もし、その試験が終わるまでにナルトくんに異常が見られなければ、そのまま里を出て行って構いません。いずれ、ナルトくんには、九尾のチャクラをコントロールする術を身に付けてもらうつもりだと、火影様は考えています。今回の試験が終わるまでで構いません。他に、貴方に望むことはありません」

「……本当に、それだけなんだな?」

「はい。したくないこと、たとえば、火影様に会いたくないということでしたら、無理にしていただくことはありません。ただ、里にいるだけで構いません。問題が発生しない限りは」

 

 まあ、と呟き、イタチはそこで、笑みを浮かべた。

 写輪眼も解き、完全な無防備を晒す。

 もちろん、ある種の計算の上での演出だったが、呟いた言葉は、紛れもない本心だった。

 

「今の木ノ葉隠れの里を、見てほしいんです。ようやく到達した、平和な里を。改めて、評価してほしいんです」

 

 綱手がどう思って、里を出て行ったのか分からない。

 だけど、もう一度だけ評価してほしいとは思っていた。

 自分が幼い頃に過ごした、あの時間に、たとえば他人でも、絶望してほしくない。

 綱手は一度だけ、考えるように視線を伏せた。葛藤が生まれているのか、下唇を噛んだ。彼女の額に小さく汗が浮き始める。緊張がこちらまで伝染し、イタチは心の中で固唾を飲む。

 そして彼女は、大きく息を吐いた。

 

「いいだろう。里に……戻ってやる」

 

 その返答にイタチは大きく肩の力を抜いた。綱手の隣に座っているシズネも、嬉しそうに目を輝かせており、トントンも「ブヒッ!」と高い声で鳴いた。

 

「ありがとうございます」

「ただし! 条件がある」

 

 険悪な雰囲気が一変し、綱手は不敵に笑いながらアイスを持った手で器用に人差し指を突き立てた。

 

「なんでしょうか?」

「私たちがこれまで踏み倒してきた借金だが、木ノ葉に全額払ってもらおう」

 

 アヒィッ! と、シズネが素っ頓狂な声を出した。イタチの穏和な笑顔も固まってしまった。冷汗がこめかみを伝う。綱手がこれまで金貸し屋から逃げてきた経歴を考慮する限り、膨大な金額だと分かってしまった。

 

「……正確には、いくら程でしょうか?」

「シズネ」

「……あ、あの、綱手様? 流石にその条件は、横暴過ぎなのでは…………」

「なんだい? 私に文句を言うってのかい?」

「は、はいぃ! 今すぐ!」

 

 シズネはトントンを地面に置くと、懐から分厚い帳簿を取り出し、恐る恐る渡してきた。イタチは手に取り、一番上の紙を見る。一番上の紙の下部に、赤字でこれまでの借金を総合した数字が書かれていた。

 その額、およそ八千五百万両。

 頭が痛くなる数字だった。

 

「シズネさん。これは、桁は間違ってはいないのですね?」

「……はい。恐ろしいことに、何度も検算したのですが、間違いはありません」

 

 頭痛が強くなる。数字を見て頭が痛くなったのは、人生で初めてかもしれない。

 

「……分かりました。火影様に掛け合いましょう」

「言っておくが、びた一文とて値切りは許さんぞ!」

 

 むしろ譲歩することが出来るほど殊勝な心掛けがあるのならば、そもそもこれほどの借金をすることはしないはずだと、イタチは口の中で呟く。まあ、仕方ない。里が滅びるかもしれない未来への備えとして考えると、良心的な値段ではある。

 

 帳簿を預からせてもらうとシズネに断りを入れてから、コートの中に収めた。心なしか、コートの重さが十倍ほどになったような気がしないでもない。

 

 満足したように綱手は立ち上がる。小さくなったアイスの棒をトントンの口に投げ入れると、善は急げと言わんばかりに道を歩いて行ってしまった。

 

「どうも……、なんだか、凄いことになってしまい、すみません」

 

 トントンを腕に抱えると、シズネは曖昧な表情で頭を下げてきた。

 

「気にしないで下さい。綱手様が里に戻っていただけることを考えると、些細なものです」

「私としては……たとえ少しの間だけでも、綱手様が木の葉隠れの里に戻ってくれることは、良いことだと思っています」

 

 ちらりと綱手の背中を小さくなった背中を見た。半纏の後ろ側に刺繍されている赤い丸の中の【賭】という文字が、何とか見えるくらいだ。その文字をはっきりと目に捉えるように、シズネは柔らかく瞼を細める。

 

「今回の事で、少しでも……綱手様の御心が昔に戻ってくれたら…………」

 

 その呟きはあまりにも小さく、何かを呟いたのだとしか分からなかった。

 

 シズネはイタチに向き直り、頭を下げた。

 

「少々事情が特殊ですが、綱手様を木ノ葉に呼んでいただき、ありがとうございます」

「気にしないでください。シズネさんも、木ノ葉を新たに評価してください」

「はい。久々に、ゆっくりさせていただきます。あ、トントン、駄目ですよ。棒も噛むと、お腹を壊しますからね」

 

 抱えたトントンの口からはみ出しているアイスの棒を取った。アイスの味が好みだったのか、棒にはトントンの唾液がべったりと貼りついていて、シズネは口をへの字にした。しかし、棒に書かれていた文字に、すぐに口が開く。

 

「あれ? これ当たり棒ですよ! 珍しい。綱手様が当たりを引くなんて。……こういうのを、普段の賭博でやってほしいんですけどねえ」

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 その日の夕暮れは、綺麗な光を木ノ葉隠れの里に降らせていた。金箔にも劣らない光は、おそらく、薄い雲を通したせいだろう。町並みは当然ながら、小鳥や、些細な電柱さえ美しく、どこか感慨深いものを感じさせる。そのせいか、それら綺麗な風景を堪能しようかとするかのように、人通りが多い。

 

 大抵、そういった、人が多く行き交う時には、路地裏の影に置かれるゴミ袋のような些細な犯罪が行われるものである。夕方、というのも、そういった条件になるのかもしれない。

 

 木ノ葉隠れの里の中心から少し離れたところに、温泉宿がある。木ノ葉ではそれなりにお手軽な値段で泊まることができ、尚且つ日帰り入浴もできるということから、仕事帰りに寄って行く者が多いという。露天風呂もあり、設備は整えられていて、そしてその温泉宿は今日、女性優待日であった。つまりは、女湯の値段が安くなる日なのだった。

 

 企業努力は素直に女性客を集めることに成功し、男湯の露天風呂とを仕切る竹で作られた高い塀の近くには、多くの女性が湯を楽しんでいた。

 

「エヘヘヘヘ。お~お~、絶景かな絶景かな」

 

 顔岩近くで、一人の男性が長い望遠鏡を構えていた。丘というほど広く平坦なわけでもなく、山というにはスケールの小さい、つまりは、顔岩の一部の出っ張ったところである。男性はその大柄な体形を少しでも隠そうと、下駄を吐いた足の膝を限界まで曲げていた。ボリュームのある白髪は夕暮れの光でカモフラージュされ、赤いちゃんちゃんこや大きな巻物、【油】と書かれた特徴的な額当ても、眼下を歩く人にとっては、意識しないと見えにくいものになっている。

 

「久々に、よい取材ができそうじゃ。おー!」

 

 男性は望遠鏡を持った手に、声を上げると共に力が入り、やや前傾姿勢になる。取材、という対象がはっきりと見えたようだが、しかし、彼の持っている望遠鏡の角度は、明らかに下方向に傾いていた。

 

 空でも鳥でも山でもなく、男性の取材というのは、有り体に言ってしまえば、単なる覗きだった。覗き先は―――女湯である。

 

 まあ、もしかしたら―――広い世の中のどこかには、そういった特殊な取材というものがあるかもしれないけれど―――少なくとも男性が恍惚とした表情を見る限りは、合法的なものではないだろう。罪悪感を全く抱いていないその様子は、幼い頃から覗き行為を行ってきたのだという経験を隠すことなく表していた。

 

「やはり夕日というのは映えるのぅ。こりゃ夜も楽しみじゃわい」

 

 辺りに誰もいないことを確信してか、もはや取材という大義名分を暗に捨ててしまっている。しかし、どうせ周りには誰もいやしない。言い訳というのは、誰かがいて初めて行うものだ。

 

「おい、夜の何が楽しみなんだ?」

 

 だからこそ、後ろから突如として声を掛けられた時、男性―――自来也の心臓は麻痺を起こしてしまうのではないかというほど、躍動した。

 

 いや、声を掛けられた程度なら問題はない。そんな少年のようなピュアな心は持っていない。問題なのは、その声には多大なトラウマがあったからだ。かつて、彼女の入浴を覗き見しようとした時に聞いた、般若よりも悍ましいそれと同じである。あの時は、本当に生死を彷徨ったものだ。

 

 恍惚な笑みは真っ青になり、ダラダラと汗が溢れ出てくる。

 

 自来也は、ゆっくり顔を振り向かせた。正に、仁王のような出で立ちの綱手が、額に幾つもの青筋を浮かばせていた。

 

「久しぶりだな、自来也」

「お、おー! 久しぶりじゃのう綱手!」

 

 慌てて立ち上がり、自来也は下手くそな笑みを浮かべて、声を高くした。

 

「元気にしておったか? わしはもう、お前がどこかで野垂れ死んでいるのではないかと、毎夜毎夜枕を涙で濡らしておった! 今から酒でも飲みに行こうじゃないか! ささ! こんな所で語らうのも―――」

「お前、その望遠鏡で何を見てた?」

「まあまあそう怒るでない。取材じゃ。鳥の観察が最近の趣味でな。本も出しておるのじゃぞ? いや、とにかくその話しは―――」

「貸せッ!」

 

 綱手は乱暴に望遠鏡を取り上げると、ついさっきまで自来也が見ていた方向と全く同じところを覗き込んだ。

 

「……ほお? 随分と大きな鳥を見てたんだな」

 

 綱手の声が重く、冷たくなる。

 マズい、と自来也は直感する。これは、あの時と同じ、容赦のないパターンだと。

 今度は二百メートルだろうか? それとも、三百メートル? いや、命の保証が、まずはあるかどうか。

 

「な、なに言っておるのか、わしにはさっぱり分からんのう……。望遠鏡というのは、上を向くもので、わしが見ておったのは、空の方じゃ」

「こんな夕方に見れる鳥なんざ、烏しかいないだろ」

「烏の観察が、わしのブームじゃ……」

「おい自来也。あの子、お前に手を振ってるぞ」

「貸せッ!」

 

 横から望遠鏡を掻っ攫い、綱手が見ていた方向を見る。

 

 そこには健康的な老齢の女性が立っていた。

 

「ババァじゃないか! はッ?!」

 

 言ってから、自来也は失言を自覚する。同時に、綱手から胸倉を掴まれた。

 

「五十のジジィになっても見下げ果てた性根は変わってないみたいだなお前はッ!」

「ま、待て綱手! これには高尚な目的があってだな……!」

「黙れッ! 私の目が黒い内はタダで女の裸が見れると思うなッ!」

 

 空いてる手が拳を作る。冷や汗がダダ漏れし、悲鳴が出そうになる。同時に、懐かしさも感じた。胸倉を掴まれ、殴られそうになる。まだ下忍だった頃の光景が過った。この場にいない、大蛇丸のムカつく笑みも、思い出される。

 

「綱手様、落ち着いてください」

 

 走馬灯のような思い出と綱手の怪力を停止させたのは、後ろに立っていたイタチだった。

 ふん、と綱手はゴミでも捨てるかのように自来也を離す。

 

「おいイタチ、暗部ならこの犯罪者を殺せッ! 私が許すッ! 八つ裂きにしろッ!」

「そうしたいのは山々ですが…………。自来也様で間違いないのですか?」

「ああ。こいつが私と同じ三忍の自来也だ」

 

 イタチは、じっと、地面に尻餅をついている自来也を見下ろした。以前、三忍の資料を見た時に載っていた顔写真と一致したが、何というか、信じられない部分があった。無類の女好きとは知っていたが、平然と犯罪を犯している場面を目撃してしまったため、信じがたかったのだ。里の狂気、とかつては呼ばれていたようだが、もしかしたら実力を比喩した表現ではないのかもしれない。

 

 綱手と共に、つい先ほど、里に到着したばかりだった。途中、里の経費という名目の元、豪遊三昧なことがあったが、何とか一日を費やしただけで戻ってくることができたのは、幸いと考えていいだろう。

 

 里に到着するや否や、綱手が突如として走り出したかと思うと、つまりは、自来也を発見したということだった。もしかしたら、自来也の覗きポイントの一つを、綱手は把握しているのかもしれない。

 

 イタチは小さく息を吐いて、頭の中を切り替える。

 

「自来也様、どうして木ノ葉に?」

 

 綱手からの脅威から逃れられたことに自来也は緊張感を無くし、つまらなそうにイタチを見上げた。

 

「なんじゃ? お前は」

「俺はうちはイタチと言います。暗部の者です」

「……ほぉ。あのうちはの末裔か」

「火影様が貴方様の行方をずっと捜していました。ここで犯罪を犯している暇があるのでしたら、一度、火影様の元に―――」

「どいつもこいつも、見る目がないのぉ。ワシは取材をしておったのじゃ。それに今更、ジジィの所に顔を出すつもりなんざぁねえよ。ピチピチの若い女なら、考えてもやらんではないがのぉ」

 

 綱手から何かが破裂するような音が聞こえたかもしれない。ブンシが授業中にキレた時と同じような音だったので、イタチは敢えて綱手を見ないようにしたが、自来也が足を胡坐の形にして綱手を見上げた。

 

「それよりも、本当に久しぶりじゃのぉ、綱手よ。なぜ、お前も里に戻ってきたんだ?」

「私はこのガキに呼ばれただけだ。事情は言えんが、借金を肩代わりしてもらうことになったんでな。用が済んだら、さっさと里から出ていくよ」

「自来也様は、いつ頃から木ノ葉に?」

 

 尋ねた時にちょうど、シズネが追いついてきた。トントンを両腕で抱えているせいか、三人の中で一番遅かったのだ。シズネが後ろで「こちらは?」と綱手に尋ねている。「ただのクズだよ」としか応えなかった。

 

「ワシは今日来たところだ。特に理由があって来たわけではない。ただの、取材じゃ」

 

 どこか達観したように、里を見下ろす自来也。彼がどうして里を離れたのか、その理由は、三忍の中で一番不鮮明だった。だが、好都合だと、イタチは思った。

 

 自来也はかつて、四代目火影である波風ミナトの師であった。その息子であるナルトの事態を知らせれば、積極的ではないかもしれないが、ある程度の協力を得られるのではないか。既に中忍選抜試験開始から、一日が経過している。試験内容は分からないが、二次試験か三次試験辺りだろう。言い方は悪いが、既にナルトとサスケのいる班が脱落していた方が気は楽なのだが、確かめてみないことには分からない。

 

 もし、自来也が綱手と同じように万が一の時に力を貸してくれるように、イタチは事情を話そうと―――した、その時だった。

 

「イタチさんッ!」

 

 その声は、上空から降り立った。

 

 イタチは、いや他の三人も声の方向を見上げる。一瞬だけ西日が視界を覆うが、彼女の影はすぐに捉えることができた。腰から二本の羽を生やし空を飛ぶフウが、そこにいた。

 

 綱手、シズネ、自来也は、彼女の姿に驚きを隠せなかったようだが、イタチは違った。フウが元滝隠れの里の忍で、七尾の人柱力だということを知っている。腰から生やしている羽は、その七尾のチャクラを利用したもの。

 

 イロミを経由して、彼女とは知り合った。普段から明るく、快活な少女な彼女だが……今だけは、違った。大きな瞳からは涙が零れていた。深い悲しみと、強い怒りが入り混じったように、唇が震えている。

 

 初めて見る、フウの表情に、胸騒ぎが。

 

「今まで……今までどこにいたんすかッ!」

 

 遠くで烏が鳴いていた。

 

 ひぐらしの鳴き声が、冷たく胸に届く。

 

 降り立ったフウは、乱暴に胸倉を掴むと、爆発した感情に従って言葉を散らす。

 

 夕日はさらに傾き、血のように紅い光が里を覆う。

 

 フウは言った。

 

 

 

 イロミが、危篤状態なのだと。

 

 

 

 ★ ★ ★

 

 

 

 中忍選抜試験開催当日。

 

 イロミは両手に多くの書類を抱えて、道を歩いていた。中忍選抜試験に参加する子たちが使用した宿泊施設などの領収書や、その他施設からの要望を纏めた書類で、中忍選抜試験を運営する部署に持っていこうとしている最中だったのだ。

 

 ―――結局イタチくん、始まるまでに戻ってこなかったなあ。

 

 もうそろそろで、一次試験が終わる頃だろう。試験内容は、末端のイロミには知らされていない。思い浮かぶのは、ナルトとサスケである。二人は無事に通過できたのだろうか。昨日の夕ご飯を作った時に、二人とそれぞれの家で会ったが、気合十分だというのははっきりと分かった。ただ、気合だけでどうにかなるわけではない。あくまで試験であって、試験官が見えるのは適正なのだ。そういったストイックな部分に気合というアドバンテージは受け付けられない。

 

 ナルトには頑張れ、と伝えた。彼は「任せろってばよッ! 中忍になったら、一楽奢ってくれよな!」と約束させられてしまった。まあ、高級料亭よりかはマシだろう。とりあえず、激励を伝えることはできた。

 

 しかし、サスケに関しては、何も伝えることはできなかった。「さっさと帰れ。俺は寝る」と言われただけ。激励も何もできなかった。きっと、イタチからの言葉が欲しかったのだろうと、イロミは考える。それはそうだ。イタチのような偉大な兄からの激励は、どんな言葉よりも嬉しいはず。だからまあ、イタチが戻ってこなかったことに対して、サスケは可哀想だと、微かに思ったのである。

 

 ―――まあ、あの二人なら、あっさり通過してるかもね。サクラちゃんもいるから、二人にいい具合にストッパーを掛けてそう。ん?

 

 両手に抱えた書類が、ピタリと足を止めたせいで、慣性で微かに揺れた。イロミは、少し離れた先の方に立つ男性を見て、バレないように口をへの字にした。

 

 かつて自分は人見知りだったが、これほど苦手だと思った人物は初めてかもしれない。

 

「これはどうも、イロミさん。奇遇ですね」

「あはは……、どうも」

 

 奇遇という言葉がこれほど胡散臭く聞こえたのも、人生で初めてかもしれない。

 

 立っていたのは、音隠れの里の上忍の男性だった。そう、受付の時に出会った、彼である。あの後も、大量の参加者が受付にやってきたのだが、彼ほど爪痕を残してきた人物はいなかった。彼は貼りついた薄気味悪い笑みを浮かべたまま、近づいてくる。

 

「持ちますか?」

 

 会話が意味不明だった。

 何だ、持ちますかとは。

 そこまで自分は虚弱に思われているのだろうか。

 

「……あの、まだ試験中なんじゃないですか?」

「というと?」

「中忍選抜試験ですよ。教え子の子たちです」

「ああ。もう始まってしまいましたし、やることがないんですよ。これからどうですか? お昼でも」

 

 確かに、中忍選抜試験の主役は下忍の子たちだが、何というか、教え子が頑張っているのだから自分もその緊張感を共有しよう、という考えはないのだろうか。やっぱり、苦手だ、とイロミは思う。笑みを浮かべる瞳の奥が、とても冷たいように感じた。

 

 フウは今はいない。別の仕事をしている。いやしかし、彼女がいたら、むしろ厄介なことになったのではと思ったりする。

 

「私、これから書類を届けないといけないので。その……試験が終わってからなら……」

 

 一応は、そう断りを入れておく。社交辞令という言葉は、非常に便利な交わし方である。

 

 効果はてきめんのようで、男性は「そうですか……」と呟いた。しかし、表情は全く以て残念そうではない。

 イロミは小さく頭を下げてから、男性の横を通り抜けた。

 さっさと書類を渡して、外に出ない雑務処理でもしよう。頭の中でそう考えていた。昼ご飯は我慢してもいいかもしれない。あの男性と一対一で食べるくらいなら、空腹だって我慢できる。

 

 

 

「大きくなったわねえ、イロミ」

 

 

 

 頭の中を突然と重く支配したのは……恐怖だった。

 

 後ろから首の裏を触られ、肩を掴まれる。

 肩を掴む手の力は決して強くなかったが、振り向くことができなかった。

 振り向いてしまえば、自分が死ぬのではないかという妄想に、一瞬で身体中を支配されたからだった。

 

「昔はあんなに、ゴミみたいなものだったのに、ここまで成長してくれるなんて、予想していなかったわ」

 

 男性の声は、全然違っていた。

 男性のような、女性のような―――いや、そもそも、人間のそれなのかも判別できないような声質。ねっとりと、マフラーの下の首の裏側を指が這いずり回る気持ち悪さと寒気は、蛇を彷彿とさせるものだった。

 

 下顎ががガタガタと震え始める。抱えている書類がカサカサと音を立てる。

 

 イロミが向いている方向から、一人の男が歩いてきている。しかし男は、イロミの異常に気が付かない。ただ、男性と少女が何やらひそひそ話をしているのではないかと、どこか不思議そうに横目で眺めるだけで、さっさと歩いて行ってしまった。

 

「……何を、考えているんですか…………?」

 

 どうにか、その言葉だけを吐き出せた。これ以上何かを呟いてしまったら、口から胃の内容物が出てしまうのではないかというほどの、圧迫感がある。

 

「中忍選抜試験のこと? あんなのに興味は無いわよ。私が下忍だった頃は、試験なんか無く、いきなり戦場だったんだもの。生き残ったら、勝手に地位が上がるだけ。でも、傑物を探し出すには、効率的だったわ。実戦に勝る訓練はない。想定と型に嵌った試験をやっても、逆に忍の才を持つ子を埋没させるだけだからねえ」

「―――ッ!」

 

 頬を舐められた。嫌悪感は無く、恐怖が増大しただけだ。さらに男性の息が頬に触れた。獰猛な蛇が、これから噛みつく相手を鮮明に捉えようとしているかのような錯覚がやってくる。

 

「それは別にして―――うちはフウコについて、教えてほしい?」

「え?」

 

 思いもよらない方向からの、彼女の名前。

 今までイタチが調べても鮮明に分からず、自分がずっと追い求めていた人物の名前に、イロミは驚きを隠せなかった。

 

「知りたいのなら、二次試験会場までいらっしゃい。勿論、たった独りで。他の誰にも喋っちゃだめよ? もし喋ったら、彼女のことを教えないから」

「……どうして、フウコちゃんを知っているんですか?」

 

 恐怖を押しのけて、尋ねる。だがやはり、振り返ることはできなかった。

 すると男性―――大蛇丸は、小さく嗤った。

 

「あの子とは少しの間、同盟を組んでいたのよ。ちょっとした縁が合ったものでね」

「フウコちゃんは……、今…………」

「さあ? 生きていることは確かよ。彼女には優秀なパートナーがいるもの」

 

 ちょっとした縁。

 パートナー。

 その情報を、頭に叩き込む。恐怖で集中できていない意識に、必死に。

 

「ああだけど……早く見つけないと、大変なことになるかもしれないわね。あの子、もしかしたら、あともうちょっとで、壊れちゃうかもしれないから。だから、これが最後のチャンスかもしれないわよ? あの子の事を聞き出せるのは」

 

 ―――フウコちゃんが……壊れる…………?

 

「いい? 必ず、一人で来るのよ? 正確な場所は、分かりやすく出してあげるから」

 

 大蛇丸は、言い終わるとポン、というコミカルな音を出して姿を消した。

 

 掴まれた肩も、首筋を撫でられていた感触も消えると、イロミは即座に振り向くが、そこには影も形も残ってはいない。影分身の術なのだと、分かった。

 

 激しい動悸を、ようやく自覚する。身体中から大量の汗が出ていたことも。

 寒気と恐怖の残滓は、まだ背中に貼りついている。気を抜いたらまた後ろから、あの蛇のような感覚が付きまとってくるのではないかと思えてしまうくらいに。

 

 それでもイロミは、素早く大股で歩き始めた。頭の中では、書類を出した後の事だ。

 フウコの事が、分かるかもしれない。勿論、明らかな罠であることは分かっていた。一人で来いなどと言う常套句が使われているのだから。

 

 もしこの時、イタチが里に戻っていたら、彼女の行動に変化があったかもしれない。彼に相談して、大蛇丸への対策を考えることが出来たかもしれない。だが、今、彼はいない。まるでタイミングを計ったかのように、大蛇丸はイロミの前に姿を現した。

 

 ―――二次試験会場……。

 

 場所は分からない。けれど、調べればすぐに分かるだろうと、イロミは考えた。テキトーな誰かに訊いただけでも、分かるかもしれない。試験が始まってしまえば、試験内容というのはあっさりと知ることが出来るはずである。

 

 罠だと分かっていても、イロミは逸る気持ちを抑えることなく、歩くスピードを上げていく。抱えた書類を、左腕だけに乗せ、口で右手のグローブを外す。同時に、口端を噛みちぎり、溢れ出る血を指で拭う。感覚のない指だが、血が確かに付着しているのを確認すると、チャクラで指を固定し、額に付けた。片足立ちにして、浮かせた腿の上に書類を置き、印を結ぶ。

 

「口寄せの術」

 

 唱えると同時に、書類の上に手を添えた。そこから姿を現したのは、イロミの仙術の師である、ダルマだった。

 ダルマは片手に狐うどんの碗を持ち、今まさにうどんを啜ろうとした矢先だったようで、いきなりの口寄せに、のんびりと眉を傾けた。

 

「……イロミよ~、お前はいつも~、間が悪いの~」

「すみません、ダルマ様」

 

 グローブを付け直しながら、イロミは真剣に呟く。彼女の空気を察してか、ダルマはやれやれと言った感じに、彼女の肩に飛び移る。

 

「どうしたんじゃ~今回は~」

「少し……本気で戦わないといけなくなりました。力を貸してください」

「ほ~? お前が最初から口寄せするなんての~。珍しいこともあるもんじゃの~。言っておくが~、お前の仙術は負担が大きい~。最初から使えるほど~、お前は立派じゃないんじゃぞ~? ワシを使った後は~、指一つ動かせなくなるんじゃぞ~?」

「分かってます。だけど、お願いします。今回だけは、最初から全力じゃないといけないんです」

「……いいじゃろう~。次に呼ぶ時までには~、ワシも準備をしておくかの~」

「ありがとうございます」

 

 ダルマは姿を消した。今呼んだのは、その断りを入れておくためだけだった。これから使う、本来なら最後に使うはずの【仕込み】だが、イロミは最初から使うことにした。

 

 そうしなければいけないほどの差を、先ほどの短いやり取りで感じ取ってしまった。

 

 ―――絶対、勝ってみせる……!

 

 そのために、努力をしてきたのだ。

 フウコを追い求める為に。

 

 

 

 しかし、結果として。

 イロミは大蛇丸に、

 凡人は天才に、

 敗北した。

 それも。

 最悪の形で。

 中忍選抜試験・第二の試験初日に、彼女は病院へと運ばれることになった。

 




 次回も十日以内に投稿したいと思います。

 ※ 追記です。次話は、12月15日に投稿したいと思います。詳しくは、中道の活動報告を見ていただければと思います。

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