その盲目の女の子は歩いていた。
自我を持ち始めてから既に盲目だった女の子にとって、昼と夜は温度と空気の質の違いだけでしか理解できなかった。果たしてどのような色に満ち溢れた世界なのか、分からなかったのである。孤児院の同い年の子たちに訊いても、明確な【色】の説明がなされなかった。女の子にとって、色という概念は構成されていない。
敢えて記述するなら、今は、真夜中―――丑三つ時である。
普通の子供ならおっかなびっくりに歩きながら進む暗闇。しかし女の子にとっては慣れ親しんだ真っ暗闇の世界である。道端の塀に手を触れ、それだけを道標に歩いていた。
「……ぅぅっ、っ、ぅぅ…………っ」
女の子は泣いていた。
目元を覆う程に長い白髪―――けれど、髪の毛の根本は黒い―――の奥から、止めどなく涙が溢れ、鼻からは鼻水が垂れている。
初めて、独りで【外】に出た。
いつもは孤児院の子たちと、あるいは、孤児院の主と一緒だった。この場合の【外】というのは、孤児院周辺よりも遠く、という意味だ。普段は孤児院の主から厳しく周辺よりも遠くに行くなと言われており、たとえ行くとしても、同じ孤児院の子たちと一緒だった。独りで【外】に出たのは、これが初めて。
涙が溢れるのは、恐怖のせいではない。
ただ、孤独だったから。
自分を怖がらせる音は一切なく、自分を痛めつける暴力もない。それは、孤児院を抜け出す時に求めた世界だった。暴言と暴力が理不尽を笠に堂々と闊歩しまわる孤児院が嫌になって、逃げるように求めた【外】。
なのに、いざ、出てみると、何をしていいのか分からなくなってしまった。
誰かがいる気配もない。
不気味な静けさと、冷たい夜風が吹くばかりで、何もない。寂しい。しかし、孤児院に戻ろうとも、思わない。あんな地獄のような所に、戻りたくはなかった。
そしてただ歩いている内に、涙が出てしまったのだ。
独りだから。
ただ、歩いていく。
独りで。
「……うあっ」
左足を出すと、爪先が何か固い物にぶつかり、その反動で転んでしまった。
「……ぅぅぅッ!」
手のひらが熱い、膝も熱かった。ぶつけた爪先は痺れている。
もう訳が分からなくなっていた。
自分がどこにいるのか、自分は何をすればいいか分からず、とうとう女の子は、大きな声を挙げて泣き始めた。
誰か、教えてほしい。
今、自分はどこにいるのか。
何をしたらいいのか。
何をすればいいのか。
けれど、大人の声はしなかった。
ただ夜空に浮かぶ三日月が、見下ろすだけ。
自分の泣き声で世界が変わらないことが、より一層、女の子の涙を後押しした。
その時だった。
「誰?」
声がした。
高級な鈴のように、綺麗な、女の子の声だった。
声の方に顔を向ける。勿論、見えはしない。しかし、孤児院の子たちと一緒に生活する時に「こっちだよ、こっち」と、会話をする時に相手の方を向くようにしていたせいで、自然と身に着けた癖だった。
涙が止まる。
自分と同じくらいの幼さを含んだ声質は、おかしな表現だが、女の子に一筋の光明をもたらした。足音が近づいてきて「どうしたの?」と、今度はすごく近くから聞こえてきた。
「大丈夫?」
問いかけに、少女は鼻をぐずりながら、ゆるゆると首を横に振ることしかできなかった。
「独りなの?」
今度は縦に。
「君も、そうなんだ。私もそうなの。今は独り。これから、私を助けてくれた人の所に行く途中なの」
途中、という言葉の意味は分からなかった。だけど、声の主のおかげで孤独感はなくなりつつある。
女の子はもう一度、今度は大きく鼻を啜って耳を傾けた。
自分と近い年の声質を持つ相手の言葉が、不思議な魅力を持っていたから。
「ねえ、一緒に来ない? こんな所から、抜け出そうよ」
「どこに?」
「夢の世界。あの人は、そう言ってた」
「寝るの?」
「分からない。ねえ、名前、何て言うの? 友達になろ?」
「私は……イロミって、言うの…………」
「ふふ、綺麗な名前だね。私は―――」
うちはフウコ。
よろしくね、イロミちゃん。
☆ ☆ ☆
西の空は、まだ氷の気泡のように白い。東の浅いところにゆったりと顔を出す太陽の光を浴びた薄い雲は、紫の影を地上に向けている。湿度は心地よく、昨日の朝日よりも光は柔らかいように思える。木の葉隠れの里は少しずつ、静かに起き始めていた。
うちはの町も同様に、各家で着々と住民は活動し始めた。ある家は親よりも子供が先に起きてはしゃいだり、ある家では妻が朝食をさっさと作ったり、ある家では祖父がいち早く起きて健康の為のささやかな散歩に興じたり等々。
イタチの家も、その中から漏れることはなかった。
真っ先に起床したのは、母であるミコトだった。慣れた動きでやるべきことをこなしていく。縁側の雨戸を開け、居間の窓を開け、家の中の空気を換気する。朝食を作りながら、頭の中で昼食と夕食の献立を考える。それが一番のネックだ。ここ最近、フウコの食欲が増してきた。食べる量は、なんと大人の自分よりも多い。肥満体系が女性にとってマイナスに働くとは考えていないが、忍としては問題があるだろう。カロリーが低い献立を考えなければいけない。
でんでんでんでん。
そんなことを考えていると、廊下の奥から軽快な音が、居間を通り抜けて台所に届いた。ちょうど、おたまに入れた味噌を箸で崩しながら鍋に溶かしている時である。くすりと、ミコトは笑った。
ここ最近、というよりも、およそ一年前くらいから開始された、この家での儀式のようなものである。いや、儀式と言うとネガティブなイメージがある。かといって、習慣と呼べるほど爽やかなのか、少なくとも何も知らない他人が、早朝の一軒家から玩具のでんでん太鼓の音を聞いたらそうは思わないかもしれない。事情を知っているミコトだからこそ、微笑みを浮かべたのだ。
この音が聞こえてきた、というのは、自分の可愛い息子と娘が起きたということ。まだ六歳なのに、もう二人は自分で早起きする習慣をつけている。手間のかからない子だが、少しだけ手間をかけさせてほしいと思ったりする。
でんでんでんでん、どたどたどたどた。
でんでん太鼓の音に相まって、二人が廊下を駆ける足音も届いてきた。毎朝、二人は起きると、真っ先に寝ているサスケの所へいき、挨拶をする。でんでん太鼓を鳴らしているのは、どうやら、それをしておけばフウコが近づいてもサスケが泣かないらしい。確かに、サスケが生まれてすぐの頃は、フウコが近づいただけで泣いていた。
きっと、無表情だからだろう。フウコは変わった子で、あまり感情を表情に出さない。
何度も「お姉ちゃんらしく笑ってみなさい。そうすれば、サスケも怖がらないから」と言ったのだが、ついぞ達成されることはなかった。まあ、一応は、泣かれずに済んだのだからいいだろうと、今は考えている。
フウコのでんでん太鼓は、次々にバージョンがアップしていった。今では【音の鳴る豪華なうちわ】のような見た目になってしまっている。彼女が言うには、賑やかな見た目にしたらどんどん笑ってくれる、とのこと。果たしてあのでんでん太鼓が最終的にどのような形態に成り遂げるのか、地味な将来の楽しみだった。
味噌が溶け終わり、小鉢に少しだけ味噌汁を分けて味を確認する。
「うん」
薄味でちょうどいい。釜を確認すると、ご飯も炊けているようだった。
あとは魚を焼けば―――。
「うぎゃぁぁぁああああああッ!」
ミコトの頭の中に、ヒビが入る。母親としての本能が作ったヒビだった。
サスケの大きな泣き声に続いて、フウコとイタチの慌てた声が遅れて台所に届いた。
「サ、サスケくん、ほら、でんでん太鼓だよ。泣かないで」
「フウコっ、とりあえずサスケから見えない所にいろ。そうしないと泣き止まない。あと、でんでん太鼓も鳴らすな」
「嫌だ。サスケくんは、これが好きなの」
「我儘言うなっ。大体、お前がサスケの頬を弄り回すから」
「イタチだって、頭を撫ですぎたから、サスケくんを泣かせた」
「とにかく、早く泣き止ませないと母さんが―――」
「おはよう、二人とも」
きっと、今の自分は爽やかな笑顔を浮かべていることだろうとミコトは確信していた。意識してそうしているのだから、当然だ。
自分でも驚くほど素晴らしい滑舌で挨拶をすると、二人は壊れた人形のような動きでこちらを向く。イタチはしまったという表情で、フウコはどうしようという無表情で。フウコの手から、豪奢な装飾を施されたでんでん太鼓が虚しく畳の上に落ちる。
「挨拶は? 折角の朝なんだから」
「お、おはよう……母さん」
「おはよう、ございます……ミコトさん」
「はい、おはよう。じゃあ、まずは―――」
ミコトは渾身の力を込めた。
右手に。
「朝からサスケを泣かさないの!」
ゴン、ゴンッ!
でんでん太鼓の後に、何かがぶつかるような音がした、と家の前を偶々散歩していた老人は後に語った。
何かがぶつかるような音、というのが、二人に拳骨が落ちた音なのだと分かることは、もちろん、なかった。
☆ ☆ ☆
イタチとフウコがアカデミーに入学したのは、つい三週間前のことだった。
入学した当初は慌ただしかった。それは、クラスの自己紹介だったり、アカデミーでの過ごし方だったりなどの、つまり恒例行事のようなことではなく、人間関係的なもののことである。
イタチもフウコも、そして同年に入学したシスイも、入学式の時、背中にうちはの家紋が刺繍された黒いTシャツを着ていた。うちはの子が入学する、という情報は出席していた大人から子供へと瞬く間に広まっていった。
そして、アカデミー生活が始まるとすぐに、三人の周りには多くの同級生たちが集まった。それが、慌ただしさの原因だった。
―――今日はどこで昼食を食べようかな。
しかし、その慌ただしさも、三週間という時間が風化させていった。フウコの周りは、特に著しい。
授業が終わり、昼休み。
午前中の授業で疲れた生徒たちは、各昼食を済ませる為に、しかし活発に動き始めた。友人に声をかけ、どこで昼食を済ませるのかを話し合う、というのが大半だ。九割九分九厘ほどだろう。残りの一厘は、およそ、というよりもほぼ、フウコが占めている。
彼女は、自分の横を通り過ぎていく生徒たちを全く意識しないで、スムーズな動作でノートと教科書を机の中にしまいながら、同時にピンク色のハンカチに包まれた弁当箱を取り出した。
ちらりと、イタチの席を見下ろす。教室の机は階段式になっていて、フウコは後ろの方で、イタチは前の方だった。視線を向けると、案の定、彼の周りには多くの生徒が集まっていた。「飯食いにいこうぜ、イタチ」「一緒に食べよ? イタチくん!」「中庭がいいよ!」などの明るい声が耳に届く。
この三週間で、イタチとフウコの人間関係ははっきりと分かれた。
イタチは整った容姿と社交的な雰囲気は、瞬く間に友人を多く作っていった。特に、女の子の比率が高いのは気のせいではないだろう。
対してフウコは、昼休みに入っても誰からも声をかけられることはなかった。入学当初は、色んな子に話しかけられたが、一週間もすれば人数は半分になり、二週間もすればその半分になり、三週間もすれば誰も話しかけなくなった。彼女の無表情さと、抑揚の少ない言葉は、普通の子供にとっては石像かなにかと思ってしまうのだろう。今では敬遠するような視線がちらほらと向けられるだけである。
―――イタチも、大変そうだな。
フウコ自身は、今の自分の現状を全く悲観はしていなかった。
仕方のないこと。
むしろ、静かでいい。
卑屈になっているわけでもなかった。こうなることは予想できていたし、別段、和気藹々としたアカデミー生活を望んではいない。
そもそも、求めているものは多くない。
ただ、努力する場として。
力を付ける為の場として。
フウコにとって、アカデミーは情報提供をしてもらう為だけの場所だった。けれどそれも、失われつつある。授業が退屈だったからだ。
そして昼食は、自分の空腹を解消する為だけの時間である。ただ、騒がしい教室の中で食べるよりも、他の静かな場所で食べた方が、ミコトが折角作ってくれた昼食を堪能できるだろうし、どこで食べようかと考えたのだ。
昨日までは中庭だったけれど、そこはもう他の子たちが姿を見せ始めている。
どこで食べようか……。
「よ、フウコ。一緒に昼ご飯食べないか?」
肩を叩かれ、後ろから聞きなれた男の子の声。
顔を傾けると自分の黒い毛先が頬に触れる。見上げた先には、シスイが立っていた。いつも通りの、爽やかな笑顔を呑気に浮かべている。
「別にいいよ」
彼の後ろには、何人かの男の子が立っていて、おそらくは友人なのだろう彼らはぎこちない笑顔を浮かべている。ようやくの昼休みなのに、と思っているのだろう。明らかに自分が歓迎されていないことだけは理解できた。
「私は一人で食べるから」
首を横に振ると、目に見えて、シスイの友人らは安堵の笑みを浮かべる。
シスイはイタチと同じように人気があった。ただ、シスイはどちらかというと男の子の人気の方が比率が大きい。人格の違いなのだろうな、とフウコは判断していた。
「今日くらい、いいだろ?」
すると彼らの表情がまた強張った。まるでシスイの言葉が、彼らの表情のスイッチのようだ。
「じゃあ明日でもいいってことでしょ?」
「もしかしたら、明日には俺は死んでるかもしれない」
「シスイとお昼休みを過ごしたら、私は死ぬかもしれないね」
現に、シスイの友人たちは自分が来ることが嫌そうだった。あまりの嫌さに殺しに来る可能性も、あるかもしれない。明日シスイが死ぬよりも可能性はあるだろう。
シスイは頑なに誘ってきた。「一人で食べるよりみんなで食べた方がいい」「唐揚げあげるからさ」と。また、友人たちを説得していた。「フウコはこういう性格だけど、悪い奴じゃない」「大丈夫だって」。
フウコは断り続けた。
自分が彼らの輪に入っても、良いことはない。自分にはメリットはないし、シスイは自分が入ったことで折角仲良くなった友人から敬遠されるかもしれない。
どうしようか、と思っていると、ふと、イタチから言われたことを思い出した。
『お前があまり喋らないのは仕方がないことで、あまり友達を必要にしないのは、しょうがない。だから俺も、無理にお前に友達を作れとも言わないし、友達を紹介したりしない』
ありがとうイタチ、とその時のフウコは応えた。
『だけど、シスイはそうじゃない。あいつはお節介焼きだ。もしあいつのお節介が嫌な時は、こう言え』
「シスイ」
「ん?」
「気持ち悪い」
☆ ☆ ☆
―――悪いこと、しちゃったかな。
静かな場所を求めて校舎の周りをブラブラと一人で歩きながら、教室を出た時のシスイの姿を思い出す。
まるでクナイで額を打ち抜かれたかのように膝から崩れ落ち、全力で四つん這いになって絶望する彼の姿は、夢に出てきてしまいそうな程の迫力があった。
彼の友人たちはそんな彼を見ても、フウコに何一つ言わなかった。自業自得だと、無言で満場一致したのだろう。
―――明日は、一緒に食べよう。
そうすれば彼の機嫌は良くなるだろうし、今日のことも謝ればいいだろう。イタチも誘ってみよう、と考えたりもする。
校舎裏にちょうどいい場所があった。正門と反対側で、校庭の端の端。そこに、キノコのような形をした木が一本、暇そうに立っていた。木の足元には太い根っこが地面から露出しているが、存分に広がっている枝葉が作り出す影に隠れているせいであまり目立っていない。
辺りからは人の声がほとんど届いてこない。耳にはっきりと届くのは、風で揺れる枝葉の音と地面に生える群青の雑草が擦れる音だけ。ここにしよう、とフウコは一人で頷いた。
木の根元に腰を降ろして、両手に持っていた弁当を脹脛に置いた。ピンク色のハンカチを解くと、赤色の弁当とピンク色の子供用の箸が入っていた。
蓋を開ける。
直方体の弁当の半分は白いご飯だった。美味しそうだ、と思った瞬間、ご飯の中央で無駄に主張してくる存在に、蓋を持ち上げた右手が軽く硬直する。
「……梅干し」
思わず呟いてから、ゆっくりと蓋を自分の横に置く。
梅干しはあまり好きではなかった。酸味しかない物を食べ物というミコトが信じられない。
「身体にいいのよ?」
と言うが、なら昆布でもいいのではないかと思う。しかし、残すわけにはいかないので、小さな覚悟を決める。
おかずはというと、野菜ばかり。肉類は無かった。女の子は野菜を取った方がいい、というのもミコトの言葉だった。どちらかというと、こちらの言葉の方に力が入っていたように思う。
箸を手に取って「いただきます」と呟く。
まずはご飯から―――当然、梅干しの浸食がされていない真っ白い部分だが―――口に含んだ。
塩がかかってないおかげで、咀嚼する度に米の甘みが舌の上を転がる。飲み込むと、胃が膨らんで、食欲がより明確になった。
あっという間に弁当は空になってしまった。
食欲に任せて、一心不乱に、食べた。
「ごちそうさま」
しっかりと言ってから、弁当をハンカチに包み直す。
ふう、と小さく息を吐くけれど、実は、あまり満腹感はない。腹三分目、といったところだった。
風が吹く。
食べるという行動によってエネルギーが燃焼されて、身体に熱が生まれる。風は心地よく、同時に、眠気が来た。中途半端な満腹感は、眠気の大好物だ。
欠伸を噛みしめながら、枝葉の隙間から空を見上げる。
澄んだ青と白い雲が見えた。馬鹿みたいな清々しさ。けれど、里も同じくらい、晴れた空気に包まれている。
第三次世界大戦。
そして、九尾の暴走。
二つの悪夢を乗り越えて、ようやく、本当に、平和が訪れた。
空模様は温かく、綺麗だ。
戦争が終わったばかりの乾き切った切なさはなく、九尾が暴走した夜のような残酷さも無い。
干したばかりの布団のような、柔らかさがあるように思えた。
この空がまた、いつ変貌するか、分からない。平和が壊れるのは、一瞬だ。
そんな未来への不安はありながらも、それでもフウコは、たった今の空模様に胸を安堵させる。
無表情のフウコに、微かだけ、笑みが。
「……あ、笑った…………」
「え?」
声がした。
上からという、予想外の方向からの声に、フウコの笑みは硬直して、視線を泳がせようとする。
しかし、全貌を捉える前に、事態は起きた。
「わ、わ……うわっ!」
枝葉の隙間から通る太陽の光を遮る影が、はっきりと動いた。
影は雛鳥のように身体をばたつかせ、落ちてきた。
自分の眼の前に。
ガチン、という音が、木の下に響き渡った。
★ ★ ★
「名前は、うちはフウコです。よろしくお願いします」
高級な鈴が奏でる音のような彼女の声は、ただの自己紹介だけでも、教室の空気を深海みたいに静かにさせるには十分だった。波紋が広がるように、彼女を中心に、空気が透き通っていくのを、イロミは、確かに感じ取っていた。
入学式を終えてから、アカデミーの掲示板に貼られたクラス分けの表に従って集まった、生徒たちと教師。
これからこの顔ぶれでアカデミー生活を送るから、という名目で、一人一人、自己紹介をしていた。
言うことは、自分の名前と、好きなことや将来の夢とか。誰かが自己紹介をするたび、賑やかな拍手やそわそわとした小さな声が生まれる。そして、その音が広まるたびに、自分の自己紹介の時のことを考えて、緊張をより一層強くする生徒もいれば、さて何を言おうかと強気に頭を悩ませる生徒もいる。
イロミはどちらかというと、その前者だった。
緊張を強くしながら、何を言うべきか悩んだ。好きなことなんて無いし、将来の夢も、特にない。よく他の子は、それらを言えるのだと、驚いていた。
おまけにイロミは、自分に自信が無かった。
白い髪の毛は、しかし根本が黒い。目元を隠す程長い前髪。健康的でも魅力的でもない、虚弱な細い身体。家―――元・孤児院である。今はその機能を果たしていない―――にあった、緑色のジャケットと黒いTシャツ、白い半ズボンは、自分でも地味と思えてしまうものだった。孤児院に残っていた私服の中で、一番埃を被っていなかったのが、それらだった。あとは、両手にはアカデミーが支給するグローブを嵌めている。イロミにとって、そのグローブが一番、まともに見えた。
入学式が終わって教室に入る時も、イロミはぼんやりと、周りから視線を感じた。おどおどと前髪の奥から辺りを見回すと、どうやら、視線は自分の髪の毛辺りに集中しているような気がした。
―――きっと、珍しい色なんだ……。
前髪を右手の人差し指と親指で挟みながら触る。老人のような、白さをしている。自己紹介が、億劫になった。
「じゃあ、次の子」
教壇の前に立つ教師が次の子の自己紹介を促すが、生徒たちの騒がしさが少しだけ小さくなっただけで無くなりはしなかった。教師は仕方がないなあ、と言った表情で苦笑いを浮かべるばかり。
次の子は、女の子だった。
肩まで伸びた黒い髪の毛は滑らかで、教室の明かりを綺麗に反射している。整った顔立ちと真っ赤な瞳。うちは一族の家紋が刺繍された黒いTシャツを着ている。
教室がざわついた。男の子は女の子の顔を見て声をあげて、女の子はうちは一族であるということに驚いている。
―――綺麗な子……。
素直に、そう思った。
「うちはフウコです。よろしくお願いします」
そして女の子の自己紹介に、息を呑んだ。
あまりにも簡素で、しかし、聞き惚れてしまう声。生徒と教師は呆気にとられているようだが、イロミは違う。
フウコという名前、そして、声。
聞き覚えがあった。
緊張と悩みが消え失せる。「……じゃあ、次の子」と言う教師の言葉に呼応するようにささやかな喧騒を取り戻す教室の空気は、もう頭に入ってこなかった。
気が付けば、自分の番。
「じゃあ、次の子」
「は、はい……」
立ち上がる。髪の毛の色に周りから奇異な視線が送られるが、イロミの視線は、ただただフウコを見つめていた。
覚えていてくれているだろうか、彼女は。
ぼんやりと窓の外の空を見ているフウコに、祈るように、イロミは言う。
「わ、私の……名前は、イロミって………言います」
あの夜―――二年の前の、あの夜に―――互いに、自己紹介をした。もし、フウコが覚えていてくれるなら、顔を向けてくれるはず。
しかし、フウコの顔は、ずっと窓の外を見上げたままだった。
―――ああ、覚えて………ないんだ……。
けれど、落胆はそこまで大きくなかった。
二年も前の、たった一回の夜を、覚えている方が珍しいのだ。
でも……。
―――でも……また、友達になりたいなぁ……。
☆ ☆ ☆
三週間が過ぎる間に、イロミはずっと考えていた。
どうやって、彼女に話しかければいいのか。
元々、引っ込み思案で人見知りなイロミにとって、一度は友達になったものの、もはや赤の他人に近い関係になってしまったフウコに話しかけるには、並々ならぬ勇気が必要だった。
廊下ですれ違うたび、教室で視線が重なるたび、今だ! と思いながらも、話しかけられなかった。
だから、三週間という時間でしたことは、ほとんど無駄だった。唯一の成果は、フウコの家が分かったということくらい。話しかけようか話しかけまいかと、心の中で右往左往している間に、イロミはストーカー紛いにフウコの後を付けてしまっていた。その結果である。家に帰ってから、猛烈に反省した。悪いことだと思ったのだ。
その日も、イロミは、ようやく訪れた昼休みに、フウコに話しかけようと思った。
授業が終わってすぐにノートと教科書をしまい、同時に、自分の昼食を鞄から取り出す。紫色のハンカチに包まれた中身は、おにぎりが二つだけ。それがいつものイロミの昼食だった。
慌ただしくなっていく生徒の波の隙間から、フウコを見た。彼女にとって、昼休みは魅力的ではないのか、相変わらずの無表情でゆったりとノートと教科書をしまっている。弁当を取り出すが、弁当を包むハンカチのピンク色が、彼女の表情とはあまりにもミスマッチに見えた。
―――よ、よし……、い、今なら、大丈夫……。
深呼吸を、一つ。
落ち着けぇ、と自分に言い聞かせる。昨日はあんなに練習したじゃないか。まずは気軽に、ねえねえって言って、その後に、お昼ご飯一緒に食べようって。
頭の中で何度も考えてきた台詞を用意して、立ち上がり―――、
「よ、フウコ。一緒に昼ご飯食べないか?」
即座に座りなおした。
まさか、シスイがフウコに話しかけるとは思わなかった。二人が仲が良いというのは、この三週間で知り得た数少ない知識だが、昼休みに話しかけているのを見たのは、これが初めて。
―――どどど、どうしよう……!
シスイの後ろには男の子が幾人かいる。彼がこのクラスで、どのような立ち位置にいるのかを物語っている。
もしも、
もしもである。
あの輪の中にフウコが入ってしまったら、おそらく、雷が自分の脳天を直撃するほどの衝撃を受けない限り話しかけることは出来なくなるだろう。
話しかけようとしたら、口から内臓という内臓が飛び出るかもしれない。イロミにとって、知らない男の子という存在はただの脅威でしかなかった。
イロミは何かに祈るように、机の下で両手を握り合わせる。お願いお願い、今だけは……。
「シスイ」
「ん?」
「気持ち悪い」
え? とイロミは口の中で声を出した。
祈りが通じてしまったのか、フウコはシスイの誘いを一蹴したが、彼女らしからぬ言葉が出たことに驚いてしまった。
崩れ落ちるシスイの姿を捉える。同時に、彼のその姿が、将来の自分なのではないかという危惧が生まれた。
『あ、あの……フウコちゃん?』
『なに? 気持ち悪い』
『ガーン!』
急激に食欲が減退する。みるみるうちに顔色が青に近づいた。両脚が震えはじめて、心なしか吐き気が……。
―――どうしよう、どうしよう……!
「あ!」
震えている間にフウコがさっさと教室を出ていってしまった。どうやら、一人で食べるようだ。
後を追うか追わないか。
だけど、もしここで追わなかったら、もう二度とチャンスが来ないような気がした。きっと明日も、シスイはフウコに話しかけるだろう。もしくは、兄妹であるイタチが話しかけるかもしれない。イタチの立ち位置も、どのようなものか、イロミははっきりと分かっていた。
思い出す。二年前の、夜のこと。
『きっと、また会えるよ! その時は、いっぱい、遊ぼう!』
フウコにとっては、あまりにも日常的なことだったのかもしれない。
だけど自分にとっては、特別なことだった。
初めての【外】の世界で出会った、初めての友達。
きっとこれは、我儘なんだろうと、イロミは生来の引っ込み思案が暴れ出す。友達になりたい、という言葉が、今になって、酷く汚い言葉に思えてしまう。
それでも……、でも……。
イロミは、立ち上がった。手に包みを持って、教室を出て、フウコの後を追った。と言っても、教室を出た時点で、彼女の姿を見失ってしまっていた。悩んでいた時間が、意外にも、長かったようだ。
迷わず、足を中庭へと続く廊下に向けた。
フウコが昼休みをどこで過ごすのか、把握していた。
小走りで廊下を駆け抜ける。途中で、他の生徒の子と肩がぶつかってしまい、嫌な顔をされたが今のイロミには、それらに一々気を落としているほど、余裕はなかった。
焦りと緊張が足を前に進ませる。
「あ、あれ?」
けれど、いざ、中庭に着いてみると、フウコの姿は無かった。いたのは、他の生徒の姿ばかりで、矯めつ眇めつ眺めても、日差しを浴びてきゃっきゃと賑やかなそこには見当たらない。
そもそも、彼女はこんな賑やかな所を好まない。他の所に行ったんだ、とイロミは思って、すぐさま別の場所を探し回った。
なるべく人気のない場所。あと、空が見える所だ。
探す、探す……。
そして彼女を見つけたのは、校舎裏だった。
ちょうど、木の根元に腰を落ち着かせて、一心不乱にご飯を食べている。リスのように頬張っているが、しっかりと咀嚼して、身体にいいリズムで飲み込んでた。
あまりにも熱心に食事をする彼女を見て、イロミは少しだけ考えて、
木に登ることにした。
【予め断っておくが、今のイロミの思考は正常ではない。もはや鬼気迫るものさえ感じ取れてしまうほど必死に弁当の中身を消化していくフウコを前に、果たしてどのように声をかけるべきかと緊張してしまい、かといってこのまま棒立ちでいるのも居心地が悪く、食べ終わるまで身を隠そうと思った末の、トチ狂った選択だった。むしろ、普段のイロミはそんなアクロバットな動きはしない】
木の中央から少し上の部分、つまり、幹が分かれ枝葉になる分岐点のところから、フウコを見下ろした。
―――……どうしよう。
今になって、自分は何をしているのだろうか。深刻な現実を認識した。
これから友達になる為に話しかけようとしているはずなのに。
傍から見たら、友達になるというより、憎き相手に奇襲を仕掛けようとしているようだ。幸いなことに、周りには誰もいないが、それでも冷汗は止まらなかった。
どんなに考えても、この状況から話しかけてはいけないような気がする。話しかけた瞬間、気持ちの悪い変な子、というレッテルが所狭しと貼られることだろう。
頭だけを覗かせて、こっそりとフウコの様子を伺う。隙を見て降りよう、と思ったのだ。
「……ふう」
けれど、下を見た瞬間、フウコの顔が上を向いていた。
心臓が高鳴る。
自分の顔を見られた恥ずかしさと、訳の分からない行動をしている自分を見られてしまった緊張が、半分半分。
しかし、彼女の視線が自分ではなく、その脇の枝葉の隙間を真っ直ぐ見ていることに気が付いた。
笑った。
口の端だけを少しだけ上げた、慎ましい笑み。
フウコがほとんど笑わないからか、それとも笑い方のせいなのか、枝葉からの木漏れ日と相まって、宝石のように見えた。
「……あ、笑った…………」
つい、言葉が零れてしまった。
恥ずかしさも、緊張も、潮のように引いていくほどの綺麗さだったから。
「え?」
あ、と反射的に思う。
今度は、はっきりと視線が重なる。
もう意味がないにも関わらず、イロミは慌てて身を隠そうとした。
手が、滑った。身体を後ろに引こうと幹に添えていた両手に力を込めた時に、滑り、重心が完全に前に傾いてしまう。
「わ、わ……うわっ!」
上半身は完全に中空に投げ出された。
両手をばたつかせる。とにかく、落ちてはいけない。
しかし、もちろん、両手をばたつかせただけで空を飛ぶこともとどまり続けることも、できる訳が無く、イロミは落ちた。
☆ ☆ ☆
互いの額同士が、重力に従ってぶつかった。
「ぅぅううぅううぅぅッ!!!」
「……………ッ!!!!」
そこには、額を抑えて悶絶する二人の女の子がいた。
白い髪の毛をした少女は両手で額を抑え、地面を転がり続けている。片や、黒い髪を携えた少女は額を右手で抑えながらも、頭を垂れているだけ。
二人の間に落ちたおにぎりの入った包みは、間抜けな二人を馬鹿にするように憮然と地面に座っているばかりである。
数分ほど、二人は悶絶し続けた。フウコがようやく、顔を上げたのは、遠くから、校庭で遊ぶ子たちの笑い声が聞こえてくる頃だった。
「……なに?」
流石のフウコも表情を歪めている。朝もミコトから拳骨を貰ったが、それ以上の衝撃だった。涙目になりながらも、自分の上から落ちてきた女の子を見た。女の子はまだ、立ち直ることが出来ないまま、転がり続けている。
―――えっと……、この子は……。
痛みが走る頭で、なんとか思い出す。
たしか、同じクラスの子だったはず。名前は……イロミだったか、イロリだったか、あるいは、全く別かもしれないが、とにかく、同じクラスなのは間違いない。
しかし、それしか知らない。一度だって、話したことはなかったと思う。
もしかしてシスイの友達だろうか? シスイの絶望的な姿を見て、原因である自分へ報復しに来たのだろうか?
だとしたら捨て身過ぎて、後先を考えていなさすぎる。報復としては効果は絶大だが、自分も痛がっているのだから、どうしようもない。
「ぅううぅ……い、いだいぃ~…………」
「……大丈夫?」
情けないを通り越してひ弱な断末魔に近い声を出す女の子を前に、一応は、声をかけてみる。何かしらの事情があった、という可能性だって、否定できない。
うん、と涙声が返ってきた。女の子は悶絶を止めて、額を両手で抑えながら、上半身だけを起き上がらせた。
前髪が目元を隠す程に長いせいで、泣いているのかどうかは分からないが、鼻先が赤くなっている。グズ、と女の子が鼻を啜ったが、口はへの字だった。
「えーと……、どうしたの?」
正直、目の前の女の子と何を話せばいいのか、分からなかった。
怒ればいいのか、心配すればいいのか。
どちらにしても女の子の背景を理解しないと対応が分からない、というのがフウコの判断だった。―――だとしても、知った所で、フウコの行動に変化はないだろうけれど。
女の子はまた、大きく鼻を啜った。
「………………ど、」
「ど?」
「どもだぢに……なり…………だい………」
どもだぢ。
少しだけ考えて、ああ、友達か、とフウコは理解した。しかし、それだけしか理解できなかった。何故、彼女が上から降ってきたのか、説明になっていない。
「……わだじ………っ、ぅぅ……ご、ごべん…………ね……」
女の子は、とうとう、涙を流してしまった。
額を抑えたまま、肩が痙攣し始める。顔が地面に向いて、鼻先から涙が滴となって地面に吸い込まれていく。
何度も、女の子は、ごめんねと、涙声で呟き続けた。
その言葉が、どのような意味を持っているのか、やはり分からない。
フウコはただ、こちらに痛みを与えたことへの謝罪なのだと決めつけた。
「私は、大丈夫。もう、痛くないから」
すっかりフウコの涙目も引いて、いつもの無表情に戻っていた。
痛くないのは、本当である。ただ、女の子には伝わらなかったのか、泣き止まなかった。
似たような、懐かしい感覚があった。すぐに、源泉を見つけ出す。
サスケだった。どんなにこちらの意思を伝えても、伝わらない、どうすればいいのか分からない状況は、彼と他面している時と、同じだった。
―――サスケくんも、私に、謝ってるのかな……。
泣き止まない女の子を見て、ふと、思った。自分は何も不利益を被っていないのに、泣いている。
自分が、イタチや、フガクや、ミコトの本当の家族ではなく、自分が生まれてきたせいで、居場所を奪ってしまうのではないかと、サスケは思っているのではないだろうか。
もしそうなら、サスケは、とても優しい子なのだろう。
目の前で泣いている女の子も、きっと……。
「名前は?」
「……えぇ?」
「名前、何て言うの? 君の」
「…………イロ、ビ」
「イロビちゃんって言うんだ」
女の子は、首をゆるゆると横に振る。肩の痙攣は小さくなり始めている。額を抑えていた両手は胸の前でグーの形で留まっていた。
「じゃあ、イロヒ、ちゃん? 合ってる?」
違う、と女の子は顔を横に振って否定した。
本当なら、女の子の方から言ってもらった方が楽なのだけれど、彼女はそんな状態ではない。フウコは、彼女の涙声を考慮して、名前を言い当てようと考える。
「……イロリちゃん?」
女の子は、今度は何も反応を示さなかった。
当たったのだろうか?
そう考えていると、急に、女の子は、顔をあげた。
やはり目元は見えず、まだ鼻先は赤いままだったが、口元はへの字ではなかった。
「……フウコ、ちゃん……。お願いが、あるの……」
「なに?」
「私と……と、友達に……、なってくれる?」
「いいよ」
返答は早かった。
きっとこの女の子は、友達になりたくて、上から―――もしかしたら、空から―――落ちてきたのかもしれない。なら、友達になってほしい、という頼みを、断る理由は無かった。
折角、天気が良いんだから、泣かないでほしい。
フウコは立ち上がって、膝に着いた小さな砂を払った。女の子が顔を上げてこちらを見ている。
小さな右手を、女の子に差し出した。
「私、うちはフウコ。よろしく」
ふと、思った。
自分は、他人に泣かれることが苦手なのかもしれない。
こうして、二人は友達になった。
※ 追記です
次話の投稿は、今月の末になります。申し訳ございません。