「優先順位の話をしておく」
部屋に入ってくるなり、サソリは無表情にそう呟いた。これから木ノ葉隠れの里へ向かおうと、準備をしていた時だ。右腕に包帯を巻いてくれた白が「キツくはありませんか?」と尋ね、返事替わりに彼の頭を残った左手で撫でようとしていたのを、再不斬はサソリを睨みつけながら中止させた。
開けたままのドアに体重を預けたサソリが、小さく腕を組む。
「分かってるとは思うが……俺も、お前らも、全てはあの女の為だけにいると考えろ。あの女の不利益になることはするなよ?」
「んなことは、てめえに言われるまでもねえ。自慢じゃねえが、俺たちはこれまで御主人様の頼み事は何一つとして破ったことはねえんだ。安心しろ」
「その割には色んなところで恨みを買ってるようだが?」
「誠意って奴を、どいつもこいつも見せやしねえもんでよ。礼どころか、腕を振り下ろそうとしてくるクズ連中に、正しい頭の位置ってもんを教えてやってるだけだ」
「なるほど。なら、俺もあいつも気を付けねえといけねえな」
再不斬は小さくため息をしながら、右腕を白から離した。腰かけている自身のベッドに左足を立て、左腕で抱えるような姿勢で座り直す。
「何を心配してんだ?」
「木ノ葉の警備を任されている暗部の指揮を、うちはイタチが担当している」
「うちはイタチ……もしかして、フウコさんが、その……」
白の言葉に、サソリは頷いた。
「フウコが壊れた時に、時折叫ぶ男のことだな。……ああ、言ってなかったか?」
「何をだ?」
「うちはイタチは、フウコの兄だ」
短く鋭い呼吸音が、隣の白から、はっきりと耳に届いた。再不斬はそれに気付かないフリをした。サソリは続ける。
「まあ、俺の言いたいことはだ。万が一にも、うちはイタチと遭遇することだけは避けろ。大蛇丸の部下が木ノ葉の外に姿を現すってことは、木ノ葉を警備している暗部や上忍が追跡している可能性があるってことだ。お前たちへの依頼は大蛇丸の確保だが、あくまでお前らがここにいるのはフウコの計画を支える為の手足だという事を忘れるな。フウコの不利益になること、そしてお前らが木ノ葉に捕縛されること、ひいては死ぬこと。これらは何を優先にしても避けろ」
「うちはイタチは、あの女を恨んでやがるのか?」
「さあな」
と、サソリは皮肉るように笑った。
「恨んでようが、そうでなかろうが、うちはイタチにフウコの情報が漏れることは計画の予定にはない。分かるな? 大蛇丸の部下が目の前にいようが、大蛇丸が目の前にいようが、もしお前らが木ノ葉の連中に捕まりそうな状況なら、迷わず逃げろ。うちはイタチと対峙するなんざ論外だ。分かったな?」
「……ああ。あの女の兄と聞いただけで、面倒そうだ」
「実力に関しては俺も詳しくは知らないが、フウコがうちは一族を滅ぼした際に戦い、フウコが勝っている。少なくとも、実力はあいつより下ということだ」
「気休めになりゃあしねえよ」
既に、フウコの実力は承知している。全てではないが、獣のように闇雲に暴れまわるだけでも、自分とは住んでいる世界が違うのだと思い知らされてしまうほどなのだ。
たとえ右腕が残っていて、体調が万全であっても、足元にも及ばないだろう。
彼女の理性が正しく機能している時の全力は、波の国で戦ったカカシを遥かに凌駕しているのだと予感するのに時間は必要なかった。そんなフウコよりも下の実力と言われても、まるで参考にはならない。
「だが、まあ……。うちはイタチは警備の中核の一人だ。イタチ自身が、ハナから大蛇丸の部下を追いかけたりすることはしねえだろう。ましてや大蛇丸の警戒も同時に行わないといけねえんだ。お前らが無暗にバッティングすることはねえだろうが、頭の中には入れておけ」
「……あの、サソリさん。訊きたいことがあるんですが……」
そこで再不斬は、白を見る。男にしては長く、そして不思議と艶のある黒髪は、今は後頭部の上部で小さく一つに丸めている。彼が浅く床に視線を向けているせいで、雪のように白いうなじが、部屋の明かりで照らされる。白の表情は、角度的に見えないが、緩やかに上下する肩からかは、どこか、子供っぽい不安を持っているように見えた。
「どうして、フウコさんは……自分の一族を滅ぼしたんですか?」
波の国での事を少しだけ、思い出す。
うちは一族。そのワードに関連して想像される事柄に、抜け忍とそうでない者の間には、大した差はないだろう。写輪眼という血継限界を持ち、誰もが余すことなく忍の才に溢れる、選ばれた一族。その一族の名が、一転して、滅亡の代名詞に挿げ替えられたのは、歴史に新しい。もはや、骨董品にも等しい鈍い輝かしさを放つ名を背負った少年の顔が、脳裏に浮かぶ。
うちはサスケ。
同い年では敵はいないと思っていた白を、最終的には圧倒したあの少年。白は、彼の事を想っているのだろう。いや、もしかしたら、彼と共にいた者たち全員を。
どうして白が、サスケの事を想像しているのか。それは、フウコ自身が壊れた時―――つまりは、正常ではない時―――に、血生臭い絶叫の中に、サスケの名が含まれていたことがあったからだ。
サスケくん、怖がらないで―――と。
私は君の為に頑張ったの―――と。
辛かったけど、頑張ったの―――と。
ねえ、どうして、怖がるの?―――と。
お姉ちゃん、だよ……?―――。
でんでん太鼓が必要?―――。
どうして、私だけが―――。
憎い―――。
憎い憎い―――。
私から何もかもを奪った全部が―――。
世界が―――。
木ノ葉が―――。
皆が―――。
つまりフウコは、うちは一族を滅ぼしながらも、兄と弟を、少なくとも生き残らせたということだ。うちは一族がどれほど生存しているのかは判然としないが、滅亡していると言われているのだから、もはや一族という集団を維持できない人数なのだろう。再不斬本人は、フウコがどういったつもりで一族を滅ぼしたのか、まるで興味は無い。
だけれど白は、気になってしまうのだろう。
一族を滅ぼすという禁忌に手を染めた、その思想と感情を。
知りたいと思っているのかもしれない。
積極的な好奇心ではなく、怖いもの見たさに近い好奇心。
彼が人生で初めて殺めた、父を理解したいのではないかと、再不斬は思った。
「言う訳ねえだろ」
サソリの苛立たし気な声は、その一言だけで、すぐに彼は右腕で自分の顎を持つような姿勢を取った。
「……だが、まあ、気になるのも仕方ねえか」
と、一人呟き、こちらを見る。
「もし、今回の依頼を無事に成功させたら、お前らには本格的にフウコの計画に加担してもらう。計画の内容も、その時に教えてやろう。フウコが木ノ葉で何をして、これから何をしようとしてるのかをな。だから、ヘマだけはすんじゃねえぞ」
踵を返し、部屋を出て行こうとするサソリだったが、後ろ手にドアを閉めようとした時に、彼は微かに顔を傾けてこちらを見た。
「言い忘れていたが、怪しい連中だからって無暗にアジトに引っ張ってくるんじゃねえぞ? 俺もフウコも、【暁】の仕事以外じゃあ誰とも関わらねえタチだからな。無関係な奴と無駄な接触は避けてるんだ。人選はしろ。そうだな……例えば、木ノ葉の忍の奴だとかは、余程の事がねえ限りは、見逃せ」
☆ ☆ ☆
空気が変わった。
鬱陶しい羽虫を追い払うような拡散的な力加減が、明確な意志の元に一点に集約された力をはっきりと背中に感じる。
嵐のような圧力を放つ暴走したフウコに対して、イタチの圧力は冷気のように身体の外側と内側を痛くするものだ。どちらも、質量という意味では同列なため、フウコの方が上というサソリの評価は間違いではないと確認できるが、今は関係ない。
「うちはイタチ、君が里の為に大蛇丸様と繋がりのあるボクを捉えたいというのは分かるけど、どうだろう? 妹のうちはフウコを追いかけたいと思っているなら、今ほどの機会はないと思うけどね」
―――余計な事をペラペラと喋りやがって………。
再不斬は左手で掴み、中腰のままに固まっている白を見下ろす。すると、白は「問題ありません」とでも言うように、はっきりとした視線で見返してきた。起こしていた脳震盪は治まっているようだが、状況を判断して、動けない演技を装っている。
いつもながら、年不相応の行動力に驚かされる。
しかし実力が伴っているかと言えば、そうではない。薬師カブトにも、うちはイタチにも、明らかに白の実力は見劣っているだろう。白の白い顎の一部に出来た、薬師カブトからの肘鉄の痕はまるで、白の身体の弱さを表しているようだった。
「再不斬。君からも、何か言ったらどうだい?」
尋問した時の雰囲気から豹変して、丁寧さを滲ませながらも、どこかこちらを見下す傲慢さを滲ませたカブトに、再不斬はゆっくりと振り返った。
影分身体のイタチの顔と、オリジナルの背中。そして、眼鏡の位置を直すカブトが見える。
「……てめえが何を言ってるのか、分からねえなあ」
再不斬は自然を装う。
「手前の一族を潰すようなイカレた奴と、同盟だ? 悪いが俺は、んな奴と手を組むほど切羽詰まってねえよ」
「なら、どうして大蛇丸様を捜しているんだい? 君たちと大蛇丸様の間に、接点なんてあるわけがないのに」
「俺の依頼主様が、大蛇丸に恨みを持っていてな。伝説の三忍を相手するのは面倒だが、貰える小遣いが小遣いだ。だからこうして木ノ葉まで足運んでんだよ」
「へえ。それはそれは、大変だねぇ」
再不斬、カブト、イタチの間に、さざ波のような沈黙が下りた。
「桃地再不斬……お前に訊くことがある」
イタチは背を向けたまま、尋ねてくる。
期待するように。あるいは、信じるように。
冷たいプレッシャーは一瞬だけ鳴りを潜め、どこか温かみのあるものに変わった。
「フウコは、元気にしているか?」
『うちはイタチは、あの女を恨んでやがるのか?』
『さあな』
あの時のサソリの表情を、ふと思い出す。
本当は、知っていたのではないだろうか。
イタチが、フウコを恨んでいないことを。むしろ心配し、追いかけていることを。
知っていても不思議ではない。どういう訳か、サソリは大蛇丸が木ノ葉隠れの里にいるという情報を手に入れていた。木ノ葉に彼と繋がりを持つ者がいてもおかしくはない。彼の言う【伝手】が、イタチの情報を仕入れて送っていると考えた方が現実的だ。
一瞬だけ、再不斬はイタチに真実を語ろうと考えてしまう。イタチがフウコに好意的な姿勢を持っているのならば、真実を話し、彼を味方に付け、カブトを捕えることの方が効率的ではないか。
だが、サソリからの指示は、逃げに徹しろ。そして指示以前に、目の前の【木ノ葉の神童】と戦って勝てる見込みはどこにもない。
ならば微かな打算も、今は邪魔でしかない。
逃げ切る。
白が時空間忍術の印を結ぶ刹那の時間を、見出す。
「さっきから言ってんだろうが。んなこと知らねえよ」
「そうか」
イタチは小さく肩を下げた。
再不斬と白は視線を交わす。
「お前たち三人を拘束する」
★ ★ ★
熱い。
熱い。
熱い。
汗が止まらない。
腕が、肩が、横隔膜が、顎が、震える。
窓は開いたままで、涼しい風が時折首をなぞるけれど、体温の上昇は抑制されないままに、乾いた後から汗が噴き出てくる。
一人になってから、急に。
身体が熱くなった。
頭痛はしない。寒気もしない。風邪ではないだろう。でもだからこそ、この身体の異常は全く予期できないもので、まるで身体の外側から突然として病原菌が襲ってきたかのような錯覚を思わせる。
身体はコントロールを失い、残ったのは直感的な感情だけ。
お腹が空いた。
とても、とても。
喉も乾いた。
何か、傍にないだろうか。
口の中の唾液は、壊れたように止め処なく溢れ出てくる。身体の熱のせいで飲み込むのさえ億劫で、口端からダラダラと零れてしまう。涎が零れる度に、心臓の鼓動は興奮したように高鳴ってくる。
瞬く間に身体の体力は奪われ、意識は朦朧となってきた。
苦しい。
でも、どうしてだろう。
この苦しさに身を委ねることに、困難は無かった。
むしろ委ねれば委ねるほど、心地良くなっていくような気がする。
海面でもがくよりも、一度大きく息を吸い込んでから、海中に身を委ねるように。
風が吹くと、室内の空気が逆巻いた。
流れた空気の端が鼻先に触れて、呼吸と共に鼻孔を擽る。
いい、匂いがした。
とても良い匂いだ。
豊かな香り。
多くの
ひた、ひた、ひた。
魅了された香りを追いかけて、熱い身体は幽霊のように歩き始めた。
ドアを開ける。
匂いはそのまま、階下に向かっていたが、開けたドアの両脇には、また別の二つの香りが。
この二つも、中々どうして、上質だ。室内で嗅いだそれよりかは遥かに劣っているが、今の空腹を少しでも紛らわせるには、ちょうど良い。廊下を吹き抜ける風も、心地良かった。
二つの香りを追いかける。濃さからして、すぐ近く。唾液が多くなって、身体の火照りも強くなっていく。ああでも、最初の香りを堪能したい。ぼんやりとした意識は、何となしにそう思う。
『我慢しなさい』
どこからともなく、そんな声が。
父親のような声質でありながら、母親でもあるような言葉遣い。
うん、と小さく応える。
『まずは、楽な方から食べなさい。好き嫌いをするのは良くないわ。それに、食べ方も学ばないとね』
うん。
『沢山食べれば、喜んでくれるわよ』
誰が?
『貴方の友達が』
友達。
その言葉で連想される一つの人影。
朦朧とする意識は、ぼんやりとしか、その面影を思い出せない。
だけど、心が温まる、面影だった。
『沢山食べれば、身体は大きくなる。貴方は、沢山食べれば、沢山、才能が手に入る』
才能?
『ほしいでしょ?』
うん。
『友達に会いたいでしょ?』
うん。
『嘘をつかれたくないでしょ?』
うん。
『なら、食べなさい』
うん。
「猿飛イロミさん、止まってください」
二人の暗部が、異変に気付き、姿を現した。
強い香りが、鼻孔を刺激する。
空腹、乾き、汗、唾液、興奮。
どれもこれもが、強烈になる。
「我々が、分かりますか? 隊長であるイタチの部下です。分かるなら足を止めて、何でも構いません、リアクションをしてください」
二人とも男だと、理解する。
イロミは零れそうな唾液を舌なめずりした。紫色に変色した唇は、彼女自身の唾液で十分に光沢を帯びてしまう。いや、既に彼女の身体全身が、紫色に変色していた。
二人の暗部に緊張が走る。
姿形は猿飛イロミだが、色の変色と妖艶さを持つ舌なめずりに、中身は別人なのではないかという恐ろしさと、狭い廊下を圧迫するチャクラの奔流が、緊急事態なのだと理解したのだ。
「お腹……空いたの」
「もう一度だけ、尋ねます。足を止めてください。隊長も、それを望んでいます」
「隊長?」
「うちはイタチです。貴方の友人の」
「うちは……イタチ?」
思い出せない。
ぼんやりだ。
とにかく、お腹が空いて、喉が渇いて。
直感的な感情が。
直線的な本能が。
抑えられなくて。
どういう訳か、
やはり、思い出せない。
「だぁれぇえ? それぇえ?」
次の瞬間、二人の暗部は背に備えていた刀に手を掛けた。
やはりイタチの部下として、実に相応しい速度と、常に相手のアクションに警戒を保った抜刀だった。
それでも。
本能に身を委ね、
イロミは。
イロミの速度は。
その二人を、置き去りにした。
イロミはさも当たり前のように。
大好きな甘露に飛びつく子供のように。
一人の男に抱き着いた。
刀を引き抜こうとした腕を右手で握りへし折りながら、左手で男の頭を強引に傾けさせ。
手頃な角度に露出した首に、口を押し付け、歯を立てた。
血の噴水が、廊下に生まれる。
首に噛みついたイロミは、顎の力と背筋だけで、男の首を引き千切ったのだ。
気紛れか、偶然か。生き残った片方の男は、硬直する。いくら暗部と言えど、異常な光景がそこに生まれていたからだ。
全く関与できなかった速度で移動したイロミは、もはや死体となった男に覆いかぶさり、死肉を貪っていた。すぐ横には、刀を抜いた者がいるというのに、意に関せず、獣のように両手足で死体を固定し、口元を男の首元を食べ、血を啜っている。
首元の肉が無くなったら、腕を衣服ごと引き千切る。カニの身を取り出すように衣服をずらして、出てきた肉を口元に運ぶ。舌で垂れる血を掬い、肉を堪能するように細々と。
美味しいと、イロミは思ったかもしれない。かもしれない、というのはつまり、その感情がイロミの本心なのかどうか分からないからだ。
彼女自身にも。
捕食する動作だけが、死肉を堪能しているということを表しているに過ぎない。
「キャハハ。おぃしぃいいいいい」
壊れたように、嗤う。
口元を赤黒く染めて。
そして、残った、生きた肉に、イロミは顔を向ける。目元を覆う白い毛先も、包帯も、真っ赤に染めて。
男はすぐに逃げる事を決心した。自分一人では到底、手に負えないという冷静な判断がそうさせたが―――遅かった。イロミが食事を堪能している間に、逃げるべきだったのだ。
イロミの背中が、大きく隆起する。病院服を突き破って出てきたのは、巨大な蛇だった。蛇は男を悠々と、その咢で食らいつき、そのまま丸呑みにする。
男の身体は蛇の胴体を隆起しながら進んでいった。何かを叫び、もがく。手に持つ刀で何度と内側から胴体を切ろうとも、切り傷は瞬く間に閉じていき、やがて、男はイロミの胴体に到着する。
明らかに、男の体躯はイロミよりも大きかった。だが、イロミの胴体に到着した瞬間、手品でも起きたかのように、すっぽりと男の身体による隆起は無くなったのだ。
次の瞬間。
果物を潰したように、イロミの身体の節々から、大量の血が噴出した。
「キャハハ、ハ? こっちはぁ、美味しくないかもぉ? うぇ」
最後は、口から男の衣服を吐き出し、背中から生やした蛇で一人目の男の死体を丸呑みし、再び衣服を吐き出した。
美味しかった。
だけど、まだ、お腹が空く。
早く、食べたい。
ずっとずっと、部屋から続く、良い匂いの食べ物を。
「あ、でもぉ……。こっちでも、良い匂ぃい」
階段の下から、二つの匂いが湧き上がってきたのに、イロミは気付いた。
一つは、硬そうだけど、肉汁がいっぱいありそうな匂いだ。たとえるなら、そう、昆虫みたいなイメージ。とても硬くて、食べるのは大変そうだけれど、硬い物の中には大抵、美味しいものがある。カニやエビ、パイナップルだったり、貝類だったり。昆虫も、そうなのだろう。
もう一つは、部屋から続く匂いと、とても似た匂いだった。まだ十分に熟成されていない子羊のような匂いの上に、どこか薬品の香りも混じっている。だがそれでも、十分に食べるに値する代物だ。
ああ、お腹が空いてきた。
喉も乾いてばかり。
二つの声が聞こえてくると、唾液は再び溢れてきた。
「だ、だから言ってるじゃないっすかあ! フウは、その、知り合いの親戚のおばあさんにお見舞いをですねえ……」
「お前、滝隠れの里の忍だろうが。知り合いの親戚が木ノ葉にいるわけねえだろ」
「サスケくんには関係ないじゃないっすかッ! もう、ほら、しっし、っすよ! どっか行ってほしいっす!」
「どうせアホミがいんだろ?」
「え、え? な、なあに言っちゃってんすかあ! イロミちゃんがいる訳ないじゃないっすかッ! どうしてイロミちゃんが、中忍選抜試験中に入院なんてするんすか! おかしいじゃないっすか!」
「お前、アホミと兄さん以外に知り合いいねえだろ」
「ぐっ!? い、いやあ! い、いるっすよー! そりゃあ、いっぱい、いるっす。フウには、いっぱい。カカシさんだったり、紅さんだったり、ガイさんだったり! ……あ、ガイさんはちょっと、今のはノーカウントで」
「アホミの奴に訊いておきたいことがあるだけだ」
「だから、何度も何度も何度も、言ってるっすけど、この先にイロミちゃんは―――」
美味しそう。
『駄目よ』
え?
『あの二つは、また今度にしなさい』
どうして?
『一番美味しそうなものを食べましょう。食べ方は、さっきの奴で分かったでしょ? ほら、あっちよ。あっちに行きなさい』
頭の中に浮かび上がる、白い蛇が、尾で暗闇の向こうを指す。確かにその方向に、一番美味しそうな匂いはなかった。
『こっちが近道なのよ。すぐに美味しい匂いが分かるから。でも、いい? 途中で色んな匂いを嗅ぐかもしれないけど、我慢するのよ』
でも……。
『仕方のない子ね。じゃあ、食べていいと言った奴だけ、食べなさい。それ以外は我慢するのよ?』
うん。
『クク。良い子ね、イロミ』
イロミは血みどろに重くなった衣服のまま、白い蛇の指さす方向―――廊下の突き当たりの非常階段の窓を突き破った。
美味しい香りの数々が、身体中を包み込む。
病院の最上階から飛び降りると、多くの香りの中から、部屋で嗅いだ香りが鼻に入る。やはり、何よりも強烈で濃厚な、香りだ。
周りからは、悲鳴が生まれ始める。
身体中を紫色に変色させながらも、血だらけの少女が、突如として空から降ってきたのだから当然だ。
『ここら辺のは無視しなさい』
イロミは声に従順に、匂いの先を追いかけて跳躍する。
屋根を飛び、道を駆け抜け、塀を伝い走る。
その途中、里の中を警備していた暗部の者たちがイロミに接近した。明らかに異常な姿の彼女を抑え込もうとした。
けれど。
『こいつらは食べなさい。好きなだけ』
背中から、肩から、腹から。
何本もの蛇に、暗部たちは飲み込まれていった。
その度にイロミのチャクラは多くなり、移動する速度も上がっていく。
才能を食べていくかのように。
努力を貪っていくかのように。
彼女の機能は、上がっていく。
同時に、里は。
木ノ葉隠れの意志は。
彼女を危険人物であると、認識するようになっていく。
多くの暗部を食らい。
多くの人々に、その狂気の姿を目撃されたイロミは。
その日を境に、追われる身となった。
そして、木ノ葉は。
大蛇丸という憂いと、猿飛イロミという危険人物を内包しながら―――仮初の平和を主張し続け。
何事もなかったかのように、中忍選抜試験の続行を維持し続けて。
最終試験開始、五日前を迎えることになる。
次話の投稿ですが、諸事情があり、4月11日の投稿になる可能性が大きいです。
詳しくは、活動報告の【次話、及びさらに次話について】を参照していただけたらと思います。
※ 追記です
次話の投稿は、申し訳ありませんが、4月15日に行わさせていただきます。誠に、申し訳ありません。