いつか見た理想郷へ(改訂版)   作:道道中道

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信頼と賭け値

 日向ヒナタは他人の感情に敏感だった。それは、白眼、と呼ばれる血継限界の瞳を持つからではなく、彼女自身の気質に起因している。有り体に言ってしまえば、小心者、臆病、という表現がなされるかもしれないけれど、空を自由に飛ぶ鳥が風の流れを鮮明に把握しているのと同じように、全てにおいて消極的に捉えている訳ではない。

 

 時には、他者の感情を感じ取って、自分から適切な距離を取り。

 

 相手を不快にさせない為の距離と、自分が痛くない距離を、バランス良く。

 

「そのウスラトンカチ、こんな時間まで何してたんだ? あと四日後には、最終試験だろうが」

 

 夜の下の街灯。配線が古くなっているのか、途切れ途切れに光を瞬かせる。その光と闇が交互に舞台を移動させる明滅の中に立つサスケを見て、すぐにヒナタは、彼の心情を察した。

 

 怒っている。

 

 それも、今までアカデミーなどで見てきた、互いの距離を測るような、そんな見守っててもある程度の安心を沸かせるようなものではなく。相手の胸倉を掴んでくる、遠慮のない怒りだ。

 

 フウと並んでいたヒナタは咄嗟に三歩程、歩幅を小さく、後ろに下がる。本当なら、その二倍は距離を取りたいのだが、視界の端に眠っているナルトの背中が見えてしまい、微かな勇気のせいで、中途半端な距離を取ってしまったのである。恐ろしくなり、右手で左腕を抱えるようにしてしまい、俯いた。

 

「あー、サスケくん。今回は、そういうの無しにしてほしいんすけど……」

 

 フウが気を利かせ、ヒナタを隠すように横に一歩ズレた。

 

「見ての通り、ナルトくんも疲れて眠っちゃってるんすよ。その、ほら、修行のせいで―――」

「修行なら、どうして昼間、そいつの影分身が里中を駆け回っていやがったんだ」

 

 確信していると、ヒナタは感じ取った。

 

 ナルトがイロミを捜していたことに。そして、そのことに付いて、怒っている事も。

 

「ナルトが起きたら伝えておけ。アホミの事なら、俺や兄さんに任せろ。他の事は気にするんじゃねえってな」

「い、いやー、そんなことフウに言われても……」

「フウの姉ちゃんに言われねえでも、聞こえてるってばよ。サスケ」

 

 ナルトは寝起きの重い声を言うと、フウの肩から顔を起こした。ヒナタの位置からでは、ナルトの表情は見えない。だが、最悪のタイミングだというのは、理解している。フウも同様なのか「うわちゃー」と小声で呟いた。

 

「フウの姉ちゃん」

「……なんすか?」

「下ろしてくれってばよ」

 

 首をゆるゆると振りながらも、静かに腰を下ろして、ナルトを下ろしてやる。「ありがとな、フウの姉ちゃん」と、地面に立つと、ナルトはお礼を言う。背負われたまま眠っていたのは身体に負担が大きかったのか、身体を一度、大きく伸ばしてから、ナルトは、一歩前に出た。

 

「……よお、サスケ。こんな夜に何してんだよ」

 

 ナルトの声も、サスケほど表面的なものはないけれど、怒っていた。サスケと同様に、胸倉を掴むような怒り。皮肉るような言葉に、サスケは眉を動かすのが見える。

 

「足のケガ治すから病院行くにしては、夜過ぎるだろ。家でゆっくりしてろってばよ」

「うるせえ、ウスラトンカチ。足はもう治ってる。テメエが心配するような事じゃねえ」

「へっ! だったら俺も言わせてもらうけどよ、俺がイロミの姉ちゃんを捜そうが、テメエに関係のねえことだろ」

「調子に乗るんじゃねえぞ。俺が言ってんのは、テメエみてえなバカが捜したところで意味がねえってことだ。おとなしく修行してろ」

「修行なんざしなったって、俺ってば、ヨユーで試験に合格してやるってばよ。それよりも、イロミの姉ちゃんが行方不明だってのに、んな呑気なこと、してられねえよ」

 

 二人の言葉が、ヒナタにははっきりと、針や刃のような形に見えてしまっていた。

 互いに言葉で切り付けていながらも、痛みよりも感情の苛立ちを前面に押し出しつつある。爆発寸前の風船を前にしている心持ちだ。

 

 人の感情は、怒りでも喜びでも、あまり得意な方ではない。自分の感情もそうだ。自分の感情が爆発してしまうと、どうしてか、涙が出てしまう。既に涙目になりつつあるヒナタは、フウを見上げた。

 

「あ、あの…………」

「そうっすねえ。流石に、こんな夜中に喧嘩するのは―――」

 

 フウがちらりと、明後日の方向を見上げる。何かの確認を取るかのような所作で、視線を追うけれど、ただの夜空が広がっているだけで、何もいない。

 

 そう思っていると、横から。

 

「サスケ……家にいないと思っていたが、こんな所にいたのか…………」

 

 その声は、夜のように心地の良いものだった。皆が、イタチを見る。「イ、イタチさん!?」と、フウが素っ頓狂な声を挙げる。

 

 うちはイタチ。

 

 名前は聞いた事があった。

 木ノ葉の神童と呼ばれる忍。

 そして、サスケの兄。

 

 暗闇のせいで繊細な部分までははっきりと分からないけれど、大まかな顔立ちはサスケと似ている。

 

 彼は、一人一人に顔を向けた。

 

 目線が重なる。

 

 たったの一瞬だったけれど、分かった。

 

 すごく、疲れている。

 

 今すぐに倒れてもおかしくないくらいに、心がぼんやりとしている。

 

「兄さん……」

「帰るぞ、サスケ。シズネさんから聞いている。足は完治しているようだが、リハビリが必要だと。夜中に歩くと、足元が危ない」

「……………」

 

 不貞腐れて顔を逸らすサスケにイタチは近づいた。

 とてもゆっくりとした足取り。点滅する街灯の灯りに晒される彼の顔には、うっすらとクマが出来始めているのが見えた。

 

「イロミちゃんを捜していたのか?」

「……悪いのかよ」

「彼女の捜索は、俺や暗部の方々が行っている。子供のお前が捜したところで、大した助力にもならない。里には、大蛇丸が潜んでいるかもしれないんだ。下手な無茶はするな。―――ナルト、君も同じだ」

 

 と、イタチはこちらに顔を向けた。

 途端に、寒気が。

 イタチからではなく、ナルトから。

 

 感情が変わった。

 

 サスケに向けていたそれよりも、もっと……。

 赤い感情。

 右手が握られた。

 フウだ。

 彼女は強引に手を握ってきて「しっかり、フウの後ろにいるっすよ」と、口元だけを動かし伝えて来た。視線は鋭く、緊張感を持っていた。

 

「君の影分身体が里中を駆け回っているという報告が来ている。君も、イロミちゃんを捜していたのか?」

「―――ああ、そうだってばよ……。どっかの誰かさんが、どっかの天才が、役に立たねえから……!」

「おいナルトッ! てめえ、兄さんの事を―――」

 

 サスケの言葉を、イタチは右手を挙げて制止させる。

 

「イロミちゃんの捜索に手間取ってしまっている事には、言い訳をするつもりはない。だが、信用してほしい。必ず、彼女は見つけ出す」

「信用なんか……できる訳ねえだろ……」

 

 声が、震えている。

 いや、もしかしたら、空気が、震えているのかもしれない。

 

 あの時のように。

 

 第二の試験の時に感じた、あのチャクラの波動のように。

 イタチは、漏れ出すナルトの赤いチャクラを前にしても、無警戒に立ち尽くしたままだった。

 

「ナルト。君は最終試験を控えている身だ。それに専念してほしい。イロミちゃんは、君の成長を楽しみにしていた。彼女の想いを裏切らないでほしい」

「うるせえ……。知った風なこと、言うんじゃねえってばよ……」

「俺と彼女は友達だ。イロミちゃんは、会う度いつも、君の事を―――」

 

 

 

「だったら……だったらどうしてッ! フウコの姉ちゃんを止めれなかったんだってばよッ!」

 

 

 

 フウコ。その名前で連想される人物の姿を、思い浮かべた。

 うちは一族を滅ぼした人物。

 面識は無くとも、その名を知らない者はいないだろう。

 どうして、ナルトがその人物の名を叫んだのか。その疑問が浮上した直後。

 赤いチャクラが、爆発した。

 周囲の空気はチャクラに押し出され、突風を生み出す。フウの後ろにいても、肺が震えてしまうほどの衝撃に、瞼を閉じてしまった。

 

 ―――ナ、ナルトくん…………。

 

 初めて触れる、ナルトの、本当の怒りの感情。

 

 ずっと明るくて、諦めない、カッコいいヒーローのような姿が脳裏を霞める。だが、その記憶があっても、身体が、本能が、恐怖してしまう。それ程までに大きな力。

 

 けれど、その力は、すぐに姿を消した。瞼の外から伝わってくる力が無くなって、代わりに、温かい力が伝わってくる。

 

「大丈夫っすか? ヒナタちゃん」

 

 フウの声に導かれて、瞼を開ける。

 彼女は顔だけを傾けて、こちらに笑いかけてくれていた。

 身体を覆う、青い鎧のようなチャクラを纏って。

 

「あんまり、怖がらないで(、、、、、、)ほしいっす」

 

 と、どこか悲しそうに、呟いた。儚げな笑みの向こうに立つナルトの背中からは、白眼を使わずとも見えてしまう、真っ赤なチャクラが蠢いていた。

 

 最終試験の前試験。

 

 ロック・リーとの勝負で彼が見せた、チャクラだ。

 

 しかし、その時よりも、チャクラは禍々しく、獰猛。

 

「信じろってッ!? フウコの姉ちゃんの時も、今回のイロミの姉ちゃんの時も、アンタは何も出来てねえじゃねえかよッ! 分かってんのか!? イロミの姉ちゃんは…………掟を破っちまったんだぞッ!」

 

 ナルトには、イロミが暗部の人を何人も殺してしまっている事を伝えていた。血相を変えたナルトの圧力に、つい、伝えてしまったのだ。

 同じ里の者を殺してしまうのは、掟を破ったということ。

 しかも、何人も。

 個人的な恨み云々という釈明が意味を持たない人数である。

 

「……アンタ、イロミの姉ちゃんを見つけて…………どうするつもりなんだよ……」

 

 イタチは冷静に応えた。

 

「彼女の異変は、大蛇丸によるものだ。それは、火影様も、他の方々も理解を示してくれている。処罰が厳しいものになる事は無いだろう。俺が彼女を捜しているのは、純粋に、彼女を助けたいからだ。里の治安や、暗部としての責務は、ほとんど関係ない」

「…………信じられねえよ」

 

 赤いチャクラが、濃くなる。

 

「フウコの姉ちゃんだって……、そうだ。……優しかったッ! 一族を滅ぼすなんて、んなこと、ぜってえするはずがねえ人だったッ! なのに、フウコの姉ちゃんを、この里の大人の連中は、犯罪者だって言いやがるッ! どいつもこいつも、好き勝手に言いやがってッ! こっちの(、、、、)……相手の事も知らねえでッ! だから―――」

 

 だから。

 

 その先の言葉を、ナルトは、拳を震わせるだけで続けなかった。言葉が出ない、という風ではなく、言葉を押し殺しているように、ヒナタの眼には映った。代わりにナルトは、気に食わなそうに地面を強く蹴ってから、勝手に歩き始めてしまう。

 

「あ、ナルトくん……待って…………」

 

 ヒナタはおっかなびっくりと、ナルトを追いかけ始めた。普段の引っ込み思案は、すっかりと、姿を隠し、強い怒りの感情を抱えたままの彼が、心配だった。イタチも、フウも、サスケも、彼に声をかける事はしなかった。冷たい、という風には、思わない。三人の感情からは、戸惑いが、はっきりと見て取れたからだ。

 

 そのまま、ヒナタは、二十メートルほどの距離を開けたまま、ナルトの後ろを付いていった。赤いチャクラは、ナルトからは消えている。だが、等間隔に置かれている街灯の明かりに、一定のテンポで照らされる背中に、掛ける言葉が見つからなかった。

 

 ゆっくりとしているはずの時間が過ぎていくのを、焦ってしまう。

 

 自分は、ずっと、彼に励まされたのに。彼の姿に勇気を貰っていたのに。

 

 だけれど、気の利いた言葉を思い付く間もなく、ナルトはピタリと足を止めた。

 

「……わりぃな、ヒナタ」

「え?」

「毎日、俺の我儘に付き合ってくれてよ」

 

 振り返った彼の表情は、いつものような、陽気で明るい、笑顔だった。

 無理をしているような、笑顔。

 

「お前も、最終試験があんのにな」

「き、気にしないで……。イロミさんを捜してたのは、私も自分でしてたことだし……」

「だけどよ……俺のせいで、ここ最近、修行出来てねえだろ?」

「う、ううん……。家に帰ってから、修行、してるから…………」

 

 嘘だった。

 日向の家で修行をしたことは、一度もなかった。

 最終決戦の相手が、義兄であるネジと父が知っているのにもかかわらず、彼はヒナタに何かをいう事も、特別に修行を付けることも無く。いつものように、妹のハナビに修行を付けるだけだから。

 

「あ、あのさ……ナルトくんも、修行、出来てないでしょ? だ、だったら、イロミさんを捜すの、替わりばんこに、やら……ない? そうすれば、お互いに修行も―――」

「大丈夫だってばよ。さっきもサスケの野郎に言ったけど、俺ってば、すんげー天才だから、修行なんかしなくたって、ヨユーで中忍になって、そんで、あっという間に火影になる男なんだからよっ!」

 

 それはまるで、中忍選抜試験に出なくても構わないと、言っているように聞こえた。

 

 もし、最終試験までにイロミを見つけ出せなかったから、そのまま、試験に出場しないつもりなのではないか。

 

 言葉は……出なかった。

 

「ありがとな、ヒナタ」

 

 ナルトは呟く。

 

「イロミの姉ちゃんを心配してくれてよ。それに、サクラちゃんから聞いたけど、第二の試験でも、助けてくれたみたいだな……ありがとな」

 

 第二の試験。

 

 あの時のこと。

 

 キバとシノの三人で、草隠れの里の忍が、我愛羅によって一方的に殺戮されていくのを茂みの中で見ていた後の事である。突如襲ってきたチャクラの波動に、一度は収めた殺意を再び溢れださせた我愛羅を、キバの指示で白眼で追ったのだ。あんな化物ともう一度、出会う事なんて真っ平御免だと、彼は言った。

 

 そして、目撃した光景が、気を失ったナルトと、疲弊したサスケとサクラだった。

 

 その時の自分は、完全に、正しい判断を失っていた。

 

 大切な人が、恐ろしい危険に晒されている。

 咄嗟に走り出してしまったヒナタを、キバとシノは追いかけた。

 

 その場に着いた時には―――山中いのが、我愛羅に心転身の術を放った直後だっただけで、自分たちが到着した後にやってきた、ロック・リーと、その彼を追いかけてきたネジとテンテン。焦ったように姿を現した奈良シカマルと秋道チョウジ。

 

 偶然にも、その場に集まった九人だったが、自分がしたことは本当にごく僅かな事だった。ナルトを助けた、と評価するには、値しない。

 

 ナルトは「じゃあな」と言って、横のアパートの階段を上がって行ってしまった。

 

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

「水遁・流細川(るさいせん)ッ!」

 

 白は頬を膨らませ、肺の中の息を一気に吐き出すようにして、術を放った。口から吐き出される水は細く、鞭のように蠢きながらフウコの足元を狙った。当たれた足首の骨に大きなダメージを与えるほどの威力はあるだろうと、遠目から眺めていた再不斬は思った。性質変化の修行の成果と、彼自身の才能によって、精錬された術は、眼を見張るものがある。

 

 しかし、対峙するフウコは悠々と、手に持った刀にチャクラを纏わせ叩き落とす。

 

 いや、正確には、刀の鞘だ。

 

 彼女の身の丈よりも長い―――およそ、二メートルはあるだろう―――刀は漆黒の鞘に納められている。柄と鞘の境目には鎖が巻かれており、南京錠で固定されている。サソリが「あいつに刀を持たせると、いざって時に面倒になるんだよ」と語っていたが、おそらく、刀は彼の許可なしに抜くことが出来ないのだろう。

 

 鞘に纏わせたチャクラの性質は、雷。

 

 水の鞭は霧散し、辺りに薄い水溜りを幾つも作る。

 

 白はフウコの真後ろに移動していた。足にチャクラを集中させた移動法。音も殆どなく、移動速度だけなら十分に中堅レベルだ。

 

 右手に握る千本で狙うフウコの首元を狙うが、彼女は右手の刀で防ぐ。

 白の得意な対峙だ。案の定、すぐさま空いた左手だけで印を結び始めた。

 

「秘術・千殺―――」

「遅い」

 

 フウコが左足で白の腹部を蹴り抜く。容赦ない威力は、白を十メートルほど転がせるには十分だった。口端から涎を垂らし、腹部を抑えながら起き上がろうとする白に、フウコは言う。

 

「遠回しなことするね。わざわざ私と噛み合ってから印を結ぶ意味が無い。折角、片手だけで術を発動できるんだから、移動中に印を結ぶようにしたら? あと、印を結ぶ速度も遅いし、力が無いのに、近づいてくるのも、無駄」

「す……すみません…………」

「どうして、謝るの? 君の修行に付き合ってるだけなのに」

 

 でも、とフウコは息を吐いた。

 

「やっぱり止めよう。私と君じゃ、力の差があり過ぎる。意味が無い」

 

 淡々と事実を呟くフウコに、再不斬は内心で同意した。修行というのは、常に、限界の少し上を目指して行うものだ。それが、勝負形式である事もあるが、その場合は、実力差があまりない事が望ましい。雲泥の差ほどの距離があれば、修行を受ける身の人間は、限界を出し切る前に勝負が終わってしまう。フウコの言う通り、意味が無い。

 

 それに加え、見ていて、あまり面白い光景ではなかった。

 今日は(、、、)、修行を初めてまだ五分ほど。

 しかし、白の衣服は、何度も床を転がされたせいで、すっかり傷んでしまっている。真っ白な床には、白が何度も吐かされた血と唾で何か所も汚れていた。

 

 清廉潔白な、真っ白い部屋だった。高さは三十メートルはあるだろう。横には二十メートル四方の広さがある。壁も床も天井も、それ自体が光っているかのように、白色だけを強調している。

 

 まるで穢れを隠すかのようで、気分が悪かった。

 

「もうそろそろで、晩御飯の時間だから……終わりにしよ?」

「ま、待ってくださいッ! もう少しだけお願いします!」

「修行なら、再不斬に付けてもらえばいいと思う。うん、それか、サソリにでも頼んで。私は、昔から、人に教えるのが得意じゃないの」

 

 ようやく立ち上がろうとする白を片目に触れる事も無く、フウコは歩き始める。再不斬が壁に寄りかかり座っている、すぐ横の出入り口。ドアも純白。上の階に通じる階段が、その奥にはある。

 

 上に戻ろうとするフウコをもう一度呼び止めようと、白は小さな口を開こうとするが、悔しそうに閉口するしかなかった。フウコは、ドアの横の再不斬を一瞥することも無く、真っ直ぐドアに近づく。

 

 すると、ドアは独りでに内側に開いた。サソリが入ってきたのである。

 

「なんだ、もう修行は終わりか?」

 

 言いながら、彼は視線を這わせた。白を見て、床の惨状を見て、フウコを見て、最後に、横に座る再不斬を見下ろす。

 

「……なんだよ」

 

 こちらを見下ろしてくるサソリを睨む。彼は無表情に鼻で笑った。

 

「文句ならフウコに言え」

「どういう意味だ」

 

 さあな、とサソリは呟き、フウコを見た。

 

「ご飯、できたの?」

「まだだ」

「お腹が空いた」

「砂みてえな生米で良いってんなら、すぐだぞ? それでいいのか?」

「じゃあそれ以外なら―――」

「修行は終わりなのか?」

「……うん」

「本当か? あのガキは、まだ修行を続けたいようだが?」

 

 無意識の内に、舌打ちをしてしまっていた。余計な事を、と口の中で言葉を漏らしていたかもしれない。しかし、逆に白の瞳が微かに喜びを滲ませているのが見えてしまい、左手を強く握る事しかできない。

 

「私じゃあ、彼の修行にならない。サソリがしてあげて」

「俺みたいな奴を修行相手にしたところで、意味がねえだろ」

「再不斬は?」

「片腕ねえ奴が相手して、実戦で役立つのか? ……とにかく、我儘を言うな。あのガキの世話はお前にしか出来ねえ。付けるなり、何でもいい、とにかく修行の相手をしろ。俺たちは、まだまだ戦力不足だ。力を育てるのに、面倒くさがるな」

 

 無表情。何を考えているのか、おおよその見当も付かない時間が数秒流れて、フウコは三ミリ程度の頷きをした。

 

「気分はどうだ?」

「今日は調子がいい。多分、フウコちゃんが疲れてるんだと思う。きっと寝てる」

 

 サソリは【暁】のコートの袖から、緑色の饅頭と、小さなカプセルを取り出すと、フウコに放り投げた。キャッチした彼女は、それを見下ろす。

 

「腹が減ったなら、この丸薬を食え。少しは空腹も紛れるだろう。カプセルの方は、いざという時にすぐに飲め。いいな?」

「この丸薬、美味しいの?」

「我慢しろ」

「……分かった」

「俺は再不斬に用があってここに来た。次来るのは、飯が出来た頃だ。それまで修行を付けてやれ。おい再不斬、付いてこい」

 

 白をフウコと二人だけにするという事に危険を感じないわけではなかったが、「安心しろ。今のあいつなら大丈夫だ」と、サソリの言葉に従い、部屋を出る。

 階段は、低い天井からぶら下がっている裸電球のおかげで、どうにか足を躓かせずに済む程度の明るさしかない。あの白い部屋とは異なって、こちらはあまりにも雑な作りだった。口元から首にかけて巻いてある布越しでさえ、埃臭さが届いてくる。

 

 アジトには、そういう面があった。

 

 清廉で整理された部分と、そうではない部分。

 階段を上がりきる。上に押し上げるタイプの、いわゆる天窓式のドアをサソリは開ける。その奥は、フウコの部屋だ。天井の蛍光灯は、階段の暗さに慣れ始めていた瞳には、微かな痛みを覚えさせる。

 

 彼女の部屋は、清廉で整理された部類に入る。

 

 壁際に置かれた大量の鎖と、その鎖を繋ぎ止める為の幾本の杭。いつ使われているのか分からない、丁寧に整えられた薄いベッド。その横には、本が背表紙を同じ方向に向けて積まれていた。使用主と似て、簡素な部屋模様だが、それ以外は異常としか思えなかった。

 壁も、床も、天井も。

 テグスで裂いたパンの断面のように真っ平で、どころか、鏡のように蛍光灯の光を反射している。何か、人形を展示する為の部屋のように思えなくもない。アジトの製作はサソリが行ったらしい。この部屋の造りは、彼の考えが反映されている、という事なのだろう。けれども、その意図は測りかねている。

 

 分からない。

 

 前を歩く男の本心が。

 フウコと同じで。

 あるいは、フウコ以上に。

 

 ―――こいつは、何考えてやがるんだ?

 

 フウコとサソリが口ずさむ【計画】。その全容を、未だ知らないが、分からないのはそうではなく、彼自身の思想―――フウコへの思想である。

 

 明らかに、自分や白を見る時の眼と、フウコを見る時の視線が異なっている。かといって、ではフウコに対して特別な感情を抱いているようにも思えない。平気で薬を打ち込み、予期せぬ薬の副作用で胃から内容物を大量に吐き散らかす彼女を前に「今回は失敗か」と、呟くだけの姿は、単に実験動物に対するそれのように見える。と思いきや、日々彼はフウコの食事を用意したり、彼女が夜な夜な発狂する際には誰よりも先に彼女の対応をする。

 

「どういう風の吹き回しなんだ?」

 

 リビングに到着し、椅子に腰かけたサソリは小さく呟く。再不斬も対面に座り、テーブルに足を乗せながら「何の事だ?」と聞き返す。

 

「あのガキの事だ。木ノ葉から戻って来た時から、やけに献身的だと思ってな。フウコ相手に修行を付けてくれと言うのも、なかなかどうして」

 

 木ノ葉から戻ってきてから。つまり、薬師カブト、うちはイタチと対峙した時のこと。サソリからの依頼を達成することが出来ず、むざむざと手ぶらでアジトに帰還した時の、白の表情を覚えている。言葉も、思い出すことが出来た。

 

『すみません……再不斬さん…………。何の、お役にも立てず…………』

 

 初めて見る表情と声だった。

 

 俯き、暗い表情を浮かべたまま、吐き出される細い声。普段から礼節を重んじながらも、流水のような柔らかさを持つ彼からは、およそ、想像のできない姿だった。

 

 アジトに戻ってからも、彼の姿が改善される事はなかった。

 

 そして、翌日の事である。

 

 突如として彼が、フウコに対して「ボクに、修行を付けてください」と言い始めたのは。

 

「……さあな。俺の知った事じゃねえよ」

「どんな理由があるにせよ、使い物になってくれるってんなら歓迎だ。ただでさえ俺たちは劣勢なんだ。本当なら、猫だろうが犬だろうが、手数が欲しいくらいだからな。再不斬、上手くあのガキをコントロールしてくれよ? 見ての通り、フウコは人に物を教えるような奴じゃない。不貞腐れて修行を投げ出させないようにな」

 

 白の性格を考えれば、投げ出すという事は考え難い。そこだけに関して心配は―――フウコが相手、という別の心配はあるが―――無いと言っていいだろう。

 

 問題なのは……白が実力を付けた後の事だった。

 

「そう睨むな。分かっている」

「何をだ?」

「計画の事を知りたいんだろ?」

「どうせ、まだ教えられねえとか、言うんだろ?」

「いや、教えることにした」

 

 急速に大きくなった心臓の鼓動を隠すように、再不斬はサソリを睨み付けた。

 

「……どういう風の吹きまわしだ。薬師カブトを逃がした挙句、うちはイタチに俺らとフウコの繋がりもバレたってのにか?」

「お前らの報告を訊く限りじゃあ、失敗は事故みてえなものだろ? 薬師カブトの件は、別にお前らを責めるつもりはねえ。うちはイタチに関しても、問題は無い。お前とあのガキが、フウコと繋がりを持っている事を知られたぐれえじゃあ、何の意味もないだろうしな。しかも、嬉しいことにうちはイタチは、フウコを信じているみたいじゃねえか。一族を滅ぼされて、自分も半殺しにされた挙句に、どう転んだらそんな考えが出来んのか分からねえが、こっちとしては利用価値が増したに過ぎねえ。―――どっちかと言うと、猿飛イロミの件が一番厄介なんだがな……。お前に計画の事を話す必要が生まれたのも、そいつがマヌケにも大蛇丸の呪印を受けている事が原因だ」

 

 猿飛イロミ。

 

 見える肌の全てが紫色に浸蝕され、もはや機能していない程に破けた衣服と髪は血で真っ赤に染まった、別世界からやってきたかのような少女。

 

 白と再不斬は、彼女の異常さに。

 

 カブトとイタチは、彼女の登場そのものに。

 

 混乱していた。

 

『キャハハハハッ! イタチくん、会いたかったッ! 見てよ、私ようやく、才能を見つけたのッ!』

 

 口元から血とも唾液とも判然としない液体をダラダラと垂らしながら、狂ったように笑う彼女は、およそ同じ人間だとは思えないほどの人体と力を見せつけ、大いに暴れた。

 

 イタチが苦戦してしまうほどに。

 

 カブトがあっさりとその場から逃げる事が出来てしまうほどに。

 

 再不斬と白は、命の危機を察し、アジトに戻ってしまうほどに。

 

「おそらく、大蛇丸は木ノ葉に戦争を仕掛けようとしている」

 

 と、サソリは言う。

 

「戦争勃発自体は、止められそうにねえ。その事に関しては捨てている。いずれ、フウコの耳にも入るだろう。そこまでなら、まだ、猶予は許された。戦争は止められねえが、木ノ葉が滅びる事はありえないからな」

 

 さもそれが決定事項のような口ぶりだったが、静かに再不斬は耳を傾けた。

 

「木ノ葉が存在し続ける限りは、フウコの暴走は、口八丁手八丁、そして薬を大量に使えば誤魔化す事が出来る。だが―――戦争が起きて、尚且つ大蛇丸の道具として猿飛イロミが使われていると知ったら、誤魔化しが出来ないだろう」

 

 そもそも、誤魔化す段階にすらいかないと続けた。

 

「頭のネジが完全に吹き飛ぶ。今までの暴走は、頭の中じゃあ【計画がある】という理性があったおかげで、全力じゃあなかった。ガキの駄々と程度は変わらねえが、その度を振り切る事になるだろう。もしネジが吹っ飛んであいつを抑制しようとすれば、あっさりと俺たちは皆殺しだ」

「んで? どうするつもりだ」

「もしフウコがぶっ壊れた場合、俺はあいつを止めるつもりはない。そのまま好きなように、大蛇丸だろうが何だろうが、あいつの気が済むまで暴れさせ、ある程度落ち着いたら、また薬漬けにして、言う事を聞かせる」

「容赦がねえな、お前」

「遠慮なんざ必要ねえんだよ。話を戻すぞ」

 

 計画の話だ。

 

「フウコが暴れれば、その動きは間違いなく暁に感付かれる。特に、リーダーの奴はハナからフウコを信用していねえみたいだ。フウコに異常があれば、すぐにでも潰しにかかるだろう」

 

 信用できない人間を、どういった理由で、手元に置いているのか。そんな疑問を口にする前に「お前に計画の事を話すってのは、そういう事だ」と、サソリは言う。

 

 そして、再不斬は。

 

 聞かされた。

 サソリの―――いや、フウコが描いた計画、その全貌を。

 聞かなければ良かったと、再不斬は後に後悔した。

 計画の内容が無謀だったからではない。

 確かに聞いてみれば、成功する公算はある。

 計画の果てが、暗闇しか無かった。

 分の悪い賭けどころの話ではない。

 勝っても得るものの無い、賭けでしかないのだ。

 

 ―――……白…………。

 

 計画の話が終わり、再不斬は静かに彼を思った。

 

「―――以上が計画の内容だが、何か意見はあるか?」

「………………」

「無いってんなら、今後のお前たちの動きについて説明する。まずは、幾つか探して貰うものがある。一つは―――」

 

 サソリの言葉は右から左に、水のように頭の中を通り抜けていく。重要な話のようで、一応は記憶に留める事は出来たが、何を思うわけでもなかった。水面に映る月を見下ろす、フクロウのような気分だった。

 

 いつの間にか、顔だけを微かに下に向けていたようだ。視界にはテーブルに乗っけたままの足が見える。サソリの説明が終わり、小さな沈黙があったことに気が付く。どうやら、こちらの様子を察して反応を伺っているようだった。

 

 ふと、再不斬は尋ねた。

 

「あの女は……全てが上手くいったあとは、どうするつもりなんだ?」

 

 サソリは数秒の沈黙の後、応えた。

 

「あいつが契約を正直に履行するなら、あいつの身体は俺が貰い受け、人傀儡にする。簡単にいやあ、死ぬ」

「それを良しとしているのか?」

「誰がだ? 俺か? それともフウコか?」

「お前らだ」

「ああ、良しとしている。最良だ」

 

 今度の返答に、戸惑いは無い。

 

「あいつは人傀儡にすれば、俺の芸術作品の中で最高の物が出来ると確信している。それを、化物みてえなあいつと戦わず、むしろあいつが全てを片付けるのを少しだけサポートするだけで手に入る。これほど最良な事はねえ。フウコも、自分の命よりも、木ノ葉の平和と、その中のあいつの知り合い共が馬鹿みたいに過ごす事を優先している。ただそれだけの為に、フウコは生きている。互いにとって、最良の契約だ」

 

 逆に聞くが、

 

「お前とあのガキの間の契約は、最良じゃねえのか?」

 

 ガラス玉のような瞳は、じっと、品定めをするようだった。

 道具と、使用主。

 白と自分の間に、どんな契約があるのか。

 

『今日からお前の血は、俺のものだ』

 

 彼を拾った時に言ってやった言葉。

 おそらく、それが、契約内容なのだろう。

 白を道具として縛り付けてしまった、今にして思えば、浅はかで傲慢な言葉だと判断できてしまう。

 もはやその契約は、少なくとも自分には、不要なものだ。

 

「白には、計画の事を話していいのか?」

「好きにしろ」

「―――一つ、頼みがある」

「なんだ? 言っておくが、計画の変更は利かねえぞ? それとも、怖気づいたか?」

 

 怖気づく?

 

 さあ、どうだろうか。

 

 再不斬は自身の右腕を見た。途中で切断され、包帯が巻かれている。鏡を見なくとも、鬼人などと呼ばれるような人間の姿ではない。印も結べず、実のところ、首切り包丁を扱うのだって今では一苦労してしまうほど。右腕が無いというのは、身体のバランスを取ることが困難になる事を意味している。

 

 もはやフウコとサソリの庇護が無ければ、あっさりと霧隠れの里の追い忍共に殺される事だろう。あるいは、そこらにいる賞金稼ぎのクズ共にも、命を刈られるかもしれない。仕事を受ける事も難しい。自分にかけられた賞金と、今の自分の実力は不釣り合いだ。依頼主が、これまで以上に裏切ってくるのは目に見えている。

 

 先の無い人生。

 

 そんな事は、もうどうでもいい。

 

 霧隠れの里を、水の国を、乗っ取ろうなどとは、もう思わない。フウコとサソリに拾われてから―――もしかしたら、カカシ達と戦い、九尾の暴走が始まり、白が危険に晒されたあの時から―――自分の人生の価値を、再不斬は捨てたのかもしれない。思い出しても、価値があるようなものは落ちていない。年老いた犬のように、深いため息を再不斬は吐いた。

 

 ―――……疲れたな…………。

 

 寂しさを抱くほど、曖昧な意志で歩いてきたわけではない。フウコとサソリの計画と同じで、百かゼロかを賭けて、里を抜けたのだから。出目が早いうちに、ゼロを示したに過ぎない。仕方ない。忍の世界とは、そういうものだ。

 

 敗者は何も残せない。

 自分は敗れた。

 たった一人で生きていくことすら出来ないほどに、惨敗だ。

 

 だけど。

 

 白は、まだ負けていない。彼はただ、自分の道具として生きていただけ。彼自身の賭け値は残っている。現に、ビンゴブックに白の名は載っていない。白自身があまり表に姿を現さない事もあるが、今の霧隠れの里にとって、かつてのあらゆる事件は恥部として扱われている。白が孤独になった経緯も、その部分に含まれる。ビンゴブックに白の名が載らないのは、里が彼の存在そのものをひた隠しにしているからだ。

 

 白だけは、一人で生きていける。

 

 道具としてではなく。

 人間として。

 あの、カカシの部隊の、ガキ共のように。

 誰かと正しく繋がり、誰かと正しく生きていくことが。

 

「もし、計画が成功したら……白を、自由にしてやってくれ」

 

 初めて、寂しさが訪れた。

 文字通り、片腕を無くしたかのような、寂しさが。

 




 投稿が大幅に遅れてしまい、大変申し訳ありません。

 次話は、今月中に必ず投稿します。

※追記です。

申し訳ありません、投稿が遅れます。

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