いつか見た理想郷へ(改訂版)   作:道道中道

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無色十色

 中忍試験最終試験の会場は、卵のような形をしていた。天井は無いが、晴れた天気の今日に限っては、機能的に問題は無いだろう。空きを作らないほど犇めく観客らもさほど気にしていないようで、ざわざわと喧騒を作っているだけだ。

 

 しかしその喧騒は、会場の中央―――つまり、卵の底に当たる部分で、地面が晒されている場所なのだが―――に集まった下忍らには、大なり小なりとプレッシャーを与えていた。その中でも日向ヒナタは、参加者の中で一番影響を受けていただろう。まだ何も行われていない、ただ参加者が横に並んでいるだけであるにも関わらず、足が震えてしまう。

 

 周りにいるのは大名たちで、まだ試験は始まっていない。落ち着け落ち着け。

 

 何度も自分の中に言い聞かせる。

 

 状況はしっかりと分かってるし、緊張する必要はないと分かっているのに。

 足の震えが止まらなかった。

 

「今ならまだ間に合いますよ」

 

 隣に立っていた日向ネジが、そう言った。ちらりと横見ると、彼は姿勢正しく真っ直ぐ前だけを向いていた。

 

「いくら御当主に見放されているとは言え、大名や忍頭らの前で、曲がりなりにも宗家の者が分家の者に敗れるというのは日向の名に傷を付ける」

「………………」

「御当主にも、そう言われたのではないですか?」

 

 彼の言う通りだった。

 今日、家を出る際に、玄関で。

 父である日向ヒアシから、試験は棄権しろと言われたのである。

 応援でも激励でもなく。

 ただ淡泊に、期待も何もない、平坦な声で。

 

 自分と彼の実力差は、前試験ではっきりと分かってしまっている。才能の差も。

 

 それでも尚、ヒアシを前に無言のまま家を出て、この会場に出る事が出来たのは、微かな意地と、ナルトが応援してくれるという願望があったからだ。彼の前でなら、勇気が沸いてくる。自分を変えようと、迷わずに済む。

 

 だが。

 

 ヒナタは逃げるように視線を泳がせた。そこには、彼の―――うずまきナルトの姿は無い。

 この場にいるのは、七人だった。

 

「逃げるなら今の内です。正直に言って俺は、貴方を目の前にして手加減できるほどの余裕は出来ないでしょう」

「……わ、私は…………」

「はっきり言います。今すぐ棄権してください。間違って貴方を殺したら、俺が死ぬ事になるんです。貴方方宗家の呪いのせいで。そんなくだらない事で死ぬのは御免なんだ」

 

 丁寧な言葉を選びながらも、隠そうともしない怒気に、ヒナタは顔を俯かせ、両手の指を意味もなく触れさせてしまう。心が萎み、空中に吊るされているような感覚に襲われた。

 

「おい、私語は慎めよ」

 

 七人の前に立っていた試験官が顔だけをこちらに傾けて言った。

 

「これから試合をするんだ。こんな所で脅し文句を並べても、仕方がねえだろ」

 

 やれやれと言いたげに呆れた様子だったが、ネジはそれが気に食わなかったのか、戸惑う事もなく言った。

 

「良いんですか? いくら真剣勝負であるとはいえ、不必要な死者を出すのはよろしくないのでは?」

「安心しろ。お前らガキの御遊びぐれえ、死人が出る前に止めてやるよ」

「随分な自信ですね。では、安心して本気を出せます」

 

 その言葉は試験官に向けたものではなく、明らかにこちらに向けられたものだった。益々、心が弱くなる。

 

 逃げたい。

 

 逃げ出して、安心したい。

 

 ヒナタは何も言い返せる事なく、ただ時間が経過するのを待った。

 

 

 

 ―――どうしていないのよ……。

 

 春野サクラは会場に入って真っ先にそう思った。大名や忍頭を優先して入場させたため、入場資格の有る【出場者と同じチームの者、あるいは親族関係者】の者たちは最後の方に会場に入ったのだ。自分より身長の高い大人たちが席に座ってくれているせいで、会場の出入り口に入ってすぐに、参加者の顔が見下ろせた。一列に並び立っている参加者たちの中に、ナルトの姿が無かった事に、愕然としたのだ。

 

「ちょっとサクラ、ナルトのやつがいないじゃない。何してんの? 遅刻?」

 

 隣にいる山中いのも、似たような疑問を抱いたのだろう。しかし、深刻さではサクラの方が強かった。

 

 いつもいつも、耳が痛くなるくらいに、火影になると言っていた彼だ。まさか、遅刻するなんてありえない。むしろ、一睡も出来なかったと、眠気眼に言いそうなくらいなものだ。

 

 彼に何かあったのではないか。

 

 その考えが巡ってしまうと、脳裏に過るのは、大蛇丸の姿。

 

「あ、サクラ!」

 

 居ても立ってもいられなくなったサクラはすぐに踵を返し、上司であるカカシを捜そうとした。彼もこの会場にいるはずだ。ナルトの事を―――。しかし、足はすぐに止まってしまう。すぐ目の前にサスケが立っていたからだ。

 

「あ、サスケくん」

 

 つい反射的に呟いてしまう。だがサスケの硬い視線は眼下の参加者を見下ろしていた。

 舌打ちをしたサスケは、そのままの感情に任せてこちらを睨み付けた。

 

「……あのウスラトンカチの事は気にするな」

 

 吐き捨てるように、サスケは言う。

 

「さっさと席に座るぞ」

「だけど、ナルトが来ないなんて……何かあったんじゃ…………」

「あんな野郎の事を考えても無駄だ。どうせ、カカシが連れてくるはずだ」

 

 サスケはそのまま一人で空いてる席を探しに歩いて行ってしまった。

 普段の自分なら、サスケの言葉に素直に従っていた事だろう。カカシがナルトを連れてくるというのも、十分に考えられる可能性だ。

 

 だけど、不安は消えない。

 サスケの様子が、そうさせる。

 まるで同じチームに割り振られた時と酷似していた。

 

 これまで徐々に良くなってきていた二人の関係が、また最初に戻ってしまったような気がした。

 

 

 

 猿飛ヒルゼンは重々しい面持ちで、会場全体を見下ろしていた。他の観客席とは違い、彼の座る席だけは他よりもさらに高い位置に設けられていた。

 

 席は二つだけ。一つはヒルゼンが腰かけているもので、もう一つは、まだ姿を現してはいないが、風影の席である。中忍選抜試験が木ノ葉で開催される際には、火影と風影が並んで観戦するというのが通例となっている。些細な世間話をし、試験が始まれば、互いの下忍らや他の里の下忍らの実力を楽しむように眺めるのだが、今日に限っては、そのような気分は難しいだろう。

 

「……イロミはまだ見つかっておらんのか?」

 

 横に立つ側近の忍をヒルゼンは見上げた。側近は口元を手で隠しながら、小さく呟く。

 

「何人かで、現在も捜索を行っていますが、痕跡一つ」

「イタチの部隊からの報告はないのか?」

「それが……、イタチの部隊は今日、捜索を打ち切ったようです」

「……そうか」

 

 視線を会場に巡らせると、隅の方で、イタチを見つけた。彼もちょうど、こちらを見上げていたのか、視線が重なる。

 

 イロミの捜索の打ち切り。

 

 イタチがそう判断したという事は、おそらく、捜す必要性が無くなったという事なのだろう。彼の知性を信じる事にした。

 

 ヒルゼンは「そうか」と呟くだけにして、押し黙る。

 

 どうしてこうなってしまったのか、と考える。もう何度目だろうか。寝ても覚めても、ずっとそればかりを考えている。イロミの事。フウコの事。

 

 イロミと親しかったかと言えば、それは是ではない。そもそも、彼女から頼られる場面はまるで無かった。アカデミーの頃から、ずっとそうである。彼女にとって頼るべき存在は、火影ではなく、周りの友人たちと、自分の努力だけだった。それは、彼女の経歴や、ふと街中で見かける姿で分かった。だから、書類上は娘であっても、不必要に関わる事はしなかった。いつか頼られた時にだけ、力を貸そうと、思っていただけに過ぎない。

 

 だが結局は、自分は何もしなかっただけだ。

 

 あの夜も。

 

 何も選ばないまま。

 平和という圧力を肩から着こんだだけでしかない。

 

 そして、今も。

 

 姿を見せないナルトを見て、あの夜が克明に蘇る。今目の前にある現状は酷く、似ていたのだ。

 

 また失われるのではないかと。

 約束を違えてしまうのではないかと。

 火影の席に座る自分が、さぞ滑稽な姿なのではないかと、俯瞰した意識が自虐した。

 風影が到着した。風、と書かれた笠を被り、口元は風と砂避けの布で覆われている。伴いも二人いて、軽く挨拶を交わした。

 

「遠路遥々、お疲れじゃのう」

 

 火影として、声を明るくした。差し迫った危機的状況であるのに、肩書を演じられてしまう老練さから、わざとらしく眼を逸らして。「いえいえ」と風影は物腰柔らかく応える。

 

「今日は天気に恵まれたおかげで、こちらに来るのに大した苦労はありませんよ。むしろ今年は、こちらの方で良かった。未だ現役であるとは言え、火影様らには砂の暑さは厳しいでしょうから」

「ワシなら平気ですとも。あまり、年寄り扱いは勘弁してほしいですなあ」

「年寄りなどと。聞きましたよ。新しい御息女がいらっしゃるようで」

 

 胸がチクリとする。しかし、ヒルゼンは友好的な笑みを浮かべたままだ。

 

「新しい娘など。もう十数年も前の事です。それに、あの子は養子じゃ。ワシがどうのというのとは、また別の話しじゃよ」

「そういえば、一度として顔を見た事が無いのですが……。今日は、いらっしゃらないのですか?」

「生憎、中忍選抜試験の裏方を任されておっての」

「上忍になられているようで。さぞご立派な御息女なのでしょう。私の子供らにも見せてやりたいものです」

 

 風影は中央に立つ参加者らを見下ろす。砂隠れの里の下忍の子らは、ちらちらと、緊張したように彼を見上げ返していた。すると風影は「おや?」と声を挙げた。

 

「たしか今回の最終試験の参加者は、八人と報告を受けていたのですが。一人、いないようですね」

「……いずれ来るでしょうな」

「そうですね。今更、開始時間を遅らせるのは、大名の方々には我慢できない事でしょう」

 

 ヒルゼンは立ち上がる。

 

 中忍選抜試験の最終試験。開催宣言は、その里のトップがするというのが習わしである。

 重たい心を、もはや老人となった身体と共に起こし、声を高らかに言う。

 その姿を、やはり意識は俯瞰した。

 もしもまた、あの夜のような事が起きてしまったら。

 今度は、この自分の滑稽な姿は、どのように立ち回れるのだろうか。

 本心を全く以て隠しながら、清々しい程の声量で。

 

 中忍選抜試験、最終試験が開催された。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 今日その日が快晴に恵まれた事に、大名たちは口々に「良かった良かった」と呑気に呟く。さながら、観光にでも来ているかのような空気だ。傘を使わないおかげで野暮ったい時間を過ごさなくて済む。そんな心の内が透けて見えてしまう。

 

 イタチは階下の大名たち、ないし忍頭たちの空気に、微かな苛立ちを覚えていた。奥歯を軽く噛みしめてから、すぐに、自制する。この場にいる全ての大名、忍頭たちが、中忍選抜試験に興味がない訳ではないのだ。それに、この空気は毎年の事で、しかも大蛇丸という危険人物の介入を知らない。むしろ、彼らの方が立場的には悲惨なのかもしれない。

 

 長く、深く、鼻から息を吸い込み、感情を落ち着かせる。ついでに、眠気も減退させるが、身体の疲れだけはどうしようもなかった。

 

「隊長」

 

 その時に、左耳に入れたイヤホンから部下の声が入ってきた。その声は女性の声だった。イタチは羽織っていた黒いコートの袖を翻すように素早く踵を返し、会場の外側へと繋がる狭い通路に入った。首に巻いた、細いタイの形をしたマイクのボタンを押し「どうした」と応える。

 

「いえ、定時連絡です。異常はありません」

 

 ああ、とイタチは思った。そうだ、と。声の先は、イタチが持っている部隊の副隊長である。彼女からの連絡は全て、定時連絡であるようにと指示していた。情報の混乱を避ける為だ。有事の際は別の者がそれを担っている。

 

 イタチは落ち着いて「そうか」とだけ返した。たかが定時連絡の間隔すら忘却してしまっている。いけないと、イタチは自戒する。

 

「もうすぐ試験が始まる」

「はい、各自に連絡の間隔を狭めるよう指示を出しておきました」

「分かった」

「うずまきナルトと自来也様が合流。フウも傍にいます。自来也様からは、監視は不要と指示を受けましたが」

「なら、従ってくれ」

「分かりました」

 

 副隊長である女性の声は、疑問や不満を一切に含ませる事なく、実直なトーンを維持したままだった。副隊長は忍として優秀であり、仕事に真面目だと評価していたが、常々、融通が利かない面が惜しい部分であると考えていた。しかし今だけは、彼女のスムーズな返答が心身の負担を減らしてくれている。

 

 通信はそのまま切れた。

 

 職業病なのか、通信を終えた後に無意識に情報を整理しようとしてしまう。それだけで、少々―――いやかなり疲れてしまう。

 

 もうどれくらい、まともな睡眠を取っていないだろうか。ネガティブに考えてしまう。今に至るまでの自分の行動が本当に正しいものだったのか、足元を突如として小さく吹き抜けていく風のように考えてしまう。

 

 必死の力で、それを制御する。

 

『ねえ、イタチくん』

 

 だけど。

 

 彼女の声だけは、どうしても。

 抑えきる事は出来なかった。

 左腕に痛み。袖を捲り、肘と手首のちょうど中間に巻いてある包帯を見た。

 それは噛み傷。皮膚の一部が無くなり、筋肉の筋が見えてしまうくらいに抉られた痕が、包帯の下にはある。

 

『私たちって……友達…………だよね?』

 

 確かめるように。

 縋るように。

 脅迫するように。

 そう呟いた彼女の姿が、頭から離れなかった。

 

「よ、イタチ」

 

 後ろから声をかけられ、慌ててイタチは腕をコートの下に隠した。

 振り返る。気怠そうな声から察してはいたが、はたけカカシが立っていた事に驚きつつも平静を装った。彼の気配を感じれないほど、頭が回っていないのか。カカシは挙げた右手をポケットに入れながら「邪魔だったか?」と、本心なのかどうかすら分からない曖昧なトーンで尋ねてきた。

 

「いえ、特には。定時連絡だけだったので」

「あ、そう」

「あの、何か用でも?」

「まあ、そんなところ。伝言を渡しにな」

 

 カカシは五歩ほど歩いて見せる。会場の中央から、ヒルゼンの開催宣言が聞こえ、同時に歓声が届いてくる。通路の口から入ってくる光を防ぐように、カカシの背中は呟いた。

 

「ブンシのやつからだ」

 

 カカシの口から彼女の名前が出た事に、驚きを隠せない。

 

「『困った事になる前にあたしを頼れ、ボケ』だそうだ」

「……本当に、先生がそう言ったのですか?」

「いや、俺がかなり意訳してはいるけどね。何せ、こっちを殺そうとしながらワーワー騒ぐもんだから、上手く全部は聞き取れなかったんだよ。まあ半分以上は、俺の見た目に関する文句だったけどな」

「お二人は親しいんですか?」

「俺は普通。だけどあっちが勝手に絡んでくるんだよ。腐れ縁みたいなものだな」

 

 そんな事よりもだな、とカカシは話しを切り替える。

 

「ブンシの言う通り、少し、無茶をし過ぎじゃないか? 今にも倒れそうな顔だぞ」

「俺なら大丈夫です。気にしないでください」

「大丈夫そうに見えないから言っているんだがな」

「……彼女がああなってしまったのは、俺の責任です。大蛇丸が里にいる中、他の方々に余裕はありません。多少の無理はしなければいけないと思っています」

 

 カカシは困ったように肩から息を吐いた。

 

「サスケの事もそうだが、お前、何でも一人で抱え過ぎじゃないか?」

 

 抱え過ぎ。

 そうだろうか?

 

「たしかにお前の力は抜きん出ている。お前にとって出来てしまう事が殆どだろう。だけどな、潰れたら意味がないだろ?」

「俺なら平気です。ですから―――」

「何でも自分で解決しようとするその考え方は止めておけ」

 

 そのカカシの言葉を、イタチは静かに心の中で、否定した。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

「警備は万全です」

 

 ダンゾウの執務室にて、男はそう報告した。相手は勿論、この部屋の主にして、【根】のトップであるダンゾウだ。椅子に腰かけたままの彼は、頭部と右眼部分を覆う包帯の下の表情を無骨に保ったままだった。

 

「プランは全員に浸透させているな?」

「はい、そちらも恙なく。どのようなパターンであろうと、万事、全てをスムーズに遂行する事が可能です」

「イレギュラーも考慮しろ。この里には……いや、里の内外には、爆弾が多すぎる。他里の大名共の根回しも忘れるな」

「承知しております」

「ならいい。些細な事も見逃すな。すぐに報告をしろ。定時連絡も、常時より間隔は短くするんだ。現時点での報告はあるか?」

「ありません。配置に戻ります」

 

 その男は淡々と頭を下げたが、特にダンゾウへの敬意や畏怖を抱いた事は無かった。おそらく、他の感情を持った不完全な忍ならば、彼に対して何かしらの想いを抱くのだろう。

 

 感情を持つ。

 想いを抱く。

 

 その行為がどういうものなのかは分かる。意図的に行おうと思えば行える。

 

 しかし、気が付けば湧き出ている、などと言う現象を体験した事はなかった。

 

 どうして忍という道具であるにもかかわらず、感情という重荷を背負わなければいけないのか。感情があるからこそ、選択肢は幻想的に偏り、人の行動を誤らせる。重心を狂わせる。忍として……平和を支える存在として、誤りはいけない。

 

 何故、感情を皆持つのだろう。

 

 正しく動けないのだろう。

 

「俺はしばらく、身を隠す」

 

 部屋を出ようとした男に、ダンゾウは言う。事前に知らされていないプランだった。男は「いつ頃まで?」と尋ねた。場所を尋ねても意味が無いだろうとの判断である。

 

「里が落ち着くまでだ」

「指揮系統に変更は?」

「ない」

 

 どこからか、指示を送るという事なのだろう。なら、依然として問題は無い。男は部屋を出た。

樹の幹の中のような、上下に円形の空洞。薄暗く、静寂。円形の壁を繋ぐ通路は幾本もあるが、それぞれが捻じれの位置を示すかのように不規則に立体的に行き来している。通路には、同じ【根】の者の姿は見えない。隠れている、という訳ではなく、全員が出払っているのだ。

 

 里の警備の為。

 

 今日行われる中忍選抜試験に向けて、密かに警備を行っているのだ。しかも、通常の警備ではない。これまでにない程のプランと人員を配してのもの。

 

 大蛇丸。

 

 かつて【根】に所属していた危険人物が里に潜んでいるという考えの元、警戒レベルは最大限に引き上げられている。本来ならば、中忍選抜試験などという催しは中止にすべきなのだが、何を思ったのか、現火影の猿飛ヒルゼンが実行を決断した。

 

 まあとやかく言うつもりはない。上がやるというのだから、下はそれを成功させるしかない。そして自身の直属の上司であるダンゾウの指示に従えば、間違いなく、里は守られる。彼は不思議な事に、無理はしない。つまり、勝算がまるでない勝負はしないのだ。

 

 警備をさせるという事は、成功する確率が確かに高いという事である。

 

 ならば考えるべきは、自身の役割の全うだ。通路を歩きながら、男は冷静に、パズルを組み立てるかのように淡々と、暗部に支給される面の奥に潜めた無表情を保ったまま警備の趣味レーションを続けた。

 

 通路を通り、階段を上がる。迷路のように右往左往と道を進む。

 

 再び、円形の空洞に出る。先程、自分がどこの通路を歩いていたのかは、もはや分からない。常に通路は変化する。上にある通路を歩いていたのかもしれないし、下にある通路を歩いていたのかもしれない。外部からの侵入を防ぐためだ。通路は常時、忍術と幻術が併用して行われている。誰がどこで術を展開しているのかは、知っている者はいないだろう。知ったところで、意味など無い。好奇心など、リスクを増やすだけである。感情の有無はやはり、忍としての境界線だ。

 

 忍は道具だ。

 使い捨ての。

 それを寂しいと評価する者がいる。悲劇だと論じる者がいる。

 自分の為に、自由や未来の為に活動する事が、人間的なのだと考えているのだろうか。

 いつ、どこでであっても。

 

 人は自分の為に生きる事は出来ない。自分の自由、自分の未来、そういうものがあると言う者は、それが存在してほしいという願望の裏返しでしかない。言うなれば、妄想だ。妄想に憑りつかれた生き方こそ、寂しく、悲劇だ。ましてや、殆どの者がその妄想に憑りつかれて、共通の認識として諸手を掲げているのは、恐怖でしかない。

 

 道具として潔く、そして不特定多数の平和の為に生きる事。

 

 それこそが、正しい生き方のはずだ。

 

 生きる事を望まず。

 

 犠牲になる事を認め。

 

 死を恐れず。

 

 誰も知らない所で世を去る。

 

 忍とは、そういうものだ。

 

 

 

 その、数分後。

 

 男は死ぬ事になる。

 

 最後まで彼は、忍として適切な行動を貫いた。生物的恐怖が意識を圧殺しようとも、最後まで冷静な抵抗を示し、悲鳴一つ、情報一つ、漏らす事はしなかった。

 

 腕を食われ、足を食われ、喉から食道にかけての筋肉を丸呑みされ。

 ダンゾウの居所を聞いてくる相手に、決して【根】としての律を乱す事はしなかった。

 相手は、最後にこう言った。

 

「さようなら。貴方の記憶は、私が引き継ぐから」

 

 出来そこないのダルマのように、両手足を失い、喉と食道を丸呑みされた男に、相手の言葉に応対する事は出来なかった。

 

 頭から足の先―――いや、足の先を超えて通路の床すら広く覆うほどにブカブカとした、フード付きの漆黒のマント。フードの下から覗かせる口元は粘質の強い赤い液体が、べっとりと滴っている。真紅の小さい舌で口元を一舐めすると、白と赤が混じったピンク色の歯が、大蛇を表現するかのように広げた口から姿を現した。口内で何本も糸を引く唾液と血液、そして鼻先に押し寄せてくる腐臭。

 

 相手の口は、男の額を狙った。

 

 柔らかい感触。それは一瞬で、硬い歯が頭蓋骨を容易に噛み砕いた。

 

 あっさりと、簡単に。

 

 男の身体を持ち上げる細腕も、そうだが。

 

 相手の力は現実感が薄かった。体躯とエネルギーが噛み合わな過ぎた。あるいは、たっぷりと油を染み込ませたメンコのような、ルール外のズルさ。

 

 男の意識は徐々に消えていく。

 睡魔とはまた違う喪失だった。

 考えられなくなっていっている。

 直感だけの感覚。湖に水滴を零して波紋が生まれず、ただただ静かになっていく。

 最後の最後。

 考えるという行為が出来ず、言葉そのものも分からなくなる、その寸前。

 男は相手の感情を、残った思考部位と微かな経験で読み取った。

 怒っているような震え。悲しんでいるような痙攣。

 興奮しているような獰猛さ。逃避しているような必死さ。

 確認するような微かな慎重。否定するような些末な緊張。

 支離滅裂とした感情の片鱗たちに触れて、男は、やはりと、思った。

 感情を持てば、化物になる。

 忍でも何でもない、ただの化物に。

 

 

 

 溢れ返る盃のようだった。

 

 自分の身体が。

 水や、酒や、食べ物や、何から何やらまで。

 ぐちゃぐちゃに、乱雑に、雑多に投げ込まれた盃。元々、その中には何が入っていたのかというのも、分からない。少なくとも、盃の中に入っていたはずの液体は他の浸蝕を容易に許し、もはやどのような味だったのか、香りだったのか、色さえも、見失ってしまっている。そんな、気分だった。

 頭の中には、自分じゃないはずの記憶が渦巻いている。

 記憶だけじゃない。

 記憶に付属する感情も。

 どこからどこまでが、自分にとって正しい記憶だったのか。自分にとって正しい選択をしているのか。自分の行動は、自分の感情が導いた事なのか。

 

 水の波紋のように。

 探れば探るほど波紋は大きくなり、水中を見えなくさせてしまうように。

 考えれば考えるほど、自分を見失う。

 残っているのは、たった一つの、もはや原風景。

 

 四人で撮った集合写真―――いや、違う。

 

 綺麗に晴れた青空。

 心地良い風と、一本の木に生い茂る葉をすり抜ける木漏れ日。

 浮遊する感覚は、あまりにも懐かしい。

 それだけが。

 彼女との繋がりだけが。

 残った自分の証だった。

 確かな、自分だった。

 そして、幸せを感じれる自分がいた時間だった。

 もうそれだけを糧にして、イロミは、化物になって、侵攻した。

 

 真実を知るために。

 

 ダンゾウの執務室に着く。拠点にはイロミしかいない。幻術や結界忍術を使用していた者たちは全て、食い殺した。鋭敏となった感覚から伝わる通路の姿は、詰まる所、ありのままの現実という事だ。術者たちの記憶を探り、全てのルートを網羅していた。問題なのは、先ほど捕食した男の記憶だった。

 

 ダンゾウが行方を暗ます。

 

 予想していなかった事態に、進む速度は逸る。彼女が着ているのは、フード付きの漆黒のコートだった。サイズはまるで合っていない。フードも袖も裾も、あまりにもダボダボとしていて、廊下を駆ける音は風を叩くせいで騒がしい。

 

 匂いが濃くなっていく。奥歯を噛みしめた。吠えたい感情。その怒りだけは、間違いなく、自分のものだ。

 あの大切な日々をぶち壊した相手への、怒りだった。

 イロミは勢いそのままに、ダンゾウの執務室のドアを蹴破った。と、同時に、長い袖の腕を円を描くように振るった。袖の中から、大量のクナイが室内の壁や天井、果てには床までをも覆い尽くす。

 しかし―――クナイが鮮血を生み出す事はしなかった。

 

「………………」

 

 中には、誰もいなかったのだ。

 匂いは二つ。一つは、先ほど捕食した男の匂い。もう一つは、知らない男の匂い。後者の匂いは、部屋の至る所に染み付いている。忘れないよう、空気を吸い、匂いを覚える。どこから部屋を抜け出したのか、匂いの痕跡からは分からなかった。逆口寄せの術のような、一瞬で別の場所へ移動する術を使用したのかもしれない。突如として姿を暗ましたのは、おそらく、こちらの動きが想定されていたという事なのだろう。

 イロミは静かに、部屋を散策した。

 

 嗅ぎ慣れた、紙の匂い。

 

 才能の無い自分の糧となってきた紙の匂いだ。

 大切な友達が指し示してくれた、道の一つ。

 壁沿いの本棚。デスクの中にある書類。

 

 ―――そっか……本、読めないんだ…………。

 

 本棚に伸ばそうとしていた手が止まった。

 今更ながらに、自分には眼球が無いのだと思い出す。触覚や嗅覚のおかげで、物の形や配置は分かるが……文字という、色を見分ける事は出来ないのだ。

 イロが、ミえない。

 もしかしたらと。

 ここには、あの夜の事についての何らかの報告書があるのではないかという希望は、あっさりと頓挫させられる。インクの匂いの強弱で、本や書類に書かれた文字をイメージする事は出来るが、一文字一文字時間をかけて文章を理解するのに、どれほどの時間が掛かるだろうか。

 それならば、聞いた方が速い。

 

 百聞は一見に如かず。

 

 もう見る事は叶わないから。

 暗闇だけ。

 だけど、そう、だからこそ、聞きやすいんだ。

 思い出しやすい。

 彼女の言葉を。

 あの輝かしい時間の声を思い出すのに。

 イロミは部屋を出た。

 向かう先は決まっていた。

 狙うは、ダンゾウではない。もはや彼を見つけ出すのは、曇天の雲海を潜るカラスを捜すよりも困難になってしまった。

 

 ならば、もう一人だ。

 

 もう一人いる。

 

 あの夜を知っているはずの人物が。

 

『……ねえ、イタチくん。教えてよ』

 

 彼にそう尋ねた。

 いつだったか、もう忘れてしまった。

 多分、自分が化物になってしまった日の事だろうとイロミは思う。確か最初にその場には、眼鏡をかけた少年と、片腕の無い男性、そして中性的な少年もいた気がする。よく覚えていない。食欲が強かった。とにかく、食べたかった。彼の才能が欲しかったんだと思う。やはり、よく覚えていない。気が付けば、そこには彼と二人きりだった。

 その場面だけは、覚えている。

 彼の腕を少しだけ噛んで、口の中に血の味が広がった時の事だ。

 美味しくて、悲しくて。

 食欲が少しだけ減退した時で。

 きっと―――自分の中にいるだろう親の記憶が入り込んだ時だった。

 

『うちは一族って、木ノ葉の事が嫌いだったの……?』

『……イロミちゃん、君は、何の事を言っているんだ』

『私だって、分からないよ。でもね、うん……今、頭の中で声がしたの…………。今も、話しかけてくるの。フウコちゃんが、どうしてうちは一族を滅ぼしたのかって』

『苦しいかもしれないが、落ち着いてくれ。その声に耳を貸すな。それは、大蛇丸の―――』

 

 

 

『うちは一族が、木ノ葉にクーデターを起こそうってしてたのは、本当なの?』

 

 

 

 そんな事は考えられない上に、動機もない、と。

 彼は言った。

 しかし、それは嘘だと、イロミは判断した。

 だって彼は、天才だから。

 自分にはない才能をたっぷりと持っている人だから。

 木ノ葉の神童だから。

 

 そう、そもそも、おかしい事だったんだ。

 

 フウコは何かしらの理由でうちは一族を滅ぼしたと、イタチもイロミも考えていた。それは、イタチが見つけたシスイの言葉から受け取れる。そしてシスイは、フウコの行動の背景を知っていたのだろう。知らなければ、フウコを信じろ、という言葉を残すはずがない。

 

 

 

 シスイはいつ、フウコがうちは一族を滅ぼさなければならない理由を知ったのだ?

 

 

 

 まさか、フウコが自分で言った訳ではないだろう。シスイが殺されたのは、うちは一族を滅ぼす前。一族抹殺の情報が、今回の遺言のように、シスイが伝達する可能性をフウコが考慮しないはずがない。

 つまり、シスイはフウコに殺される以前から、知っていたのだ。

 フウコが凶行に至るに足る背景を。

 あるいは―――凶行に至る可能性がある背景を。

 そう考えると、不自然な点がある。

 フウコとシスイが知っていて、じゃあなぜ、イタチが知らないのか?

 うちは一族が滅ぼされたという事は、原因はうちは一族にあると考えて間違いはないだろう。それは、イタチも同意してくれた確認事項だ。だが、何度もイタチに尋ねても、彼からの答えは、

 

「うちは一族は、あの夜の寸前まで、特に不審な点は無かった」

 

 だった。

 一緒にフウコを追いかけようと誓った彼に対して、疑問を抱く事はかつてなかった。

 だって彼は、友達で、天才だったから。

 だからこそ、今まで散々考えても、答えに辿り着けなかった。

 でも、頭の中の声は言ったのだ。

 うちは一族がクーデターを起こそうとしていたという事も。

 木ノ葉隠れの里が、それを未然に防ぐためにフウコを捨て駒にした事も。

 繋がる。

 フウコの凶行の意味も。

 シスイが「フウコを信じろ」という、曖昧な言葉を残した事も。

 そして、フウコがアカデミーの頃に異例な速度で卒業した事も、暗部の【副忍】という異常な地位を確立されそこに収まった事も。

 繋がっていない事は、ただ一つ。

 イタチがずっと、うちは一族に異常が無かったという言葉。

 だから、確かめた。

 あの時。

 うちは一族のクーデターを起こそうとしていたのかという問いに、わざとらしいのか、本心なのか、判断が難しい彼の身体の硬直を感じて、すぐに。

 

『ねえ、イタチくん。私に、嘘……言ってたの?』

 

 ……まだ、彼からの答えは来ていない。

 

「イタチくん、今度は、しっかり答えてね」

 

 イロミは歩きながら一人呟く。

 彼の匂いはよく知っている。それに今は、中忍選抜試験の最終試験、その開催日。大蛇丸という爆弾を抱えている以上、わざわざ顔を見せに来る頭の悪い大名たちの警護の為に、会場周辺にいるはずだ。そこに行けば、すぐに見つけられる。

 あるいは、ダンゾウも。

 ヒルゼンは間違いなくいるだろう。彼から聞いた方が早いかもしれない。

 だが、やはり、イタチに会おうと思った。

 ダンゾウやヒルゼンの匂いを嗅いで、フウコを捨て駒にした張本人たちの匂いを嗅いで、正気を保てるか分からないが。

 

「今度こそ、嘘は言わないでね。だって君は―――」

 

 天才なんだから。

 まるで赤の他人にでも会うかのように、簡素に呟いた。

 




 次話は七月の一週目までに投稿します。

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