人は、自分自身では変わることは出来ない。それは、粘土で工作する子供のような行為だからだ。
どれほど理想的な形を求めても、出来上がった物は、考えていた物とは程遠く、必ず子供は首を傾げる。こんな物を作るはずじゃなかったのにと、口をへの字にする。子供によっては、出来上がった粘土を床に叩き付けるかもしれないし、あるいはひっそりとゴミ箱の中に捨ててしまうかもしれない。
しかし、出来上がった粘土は、間違いなく、当事者が作ったものなのだ。
当事者の理想が、意志が、反映されている。作ったのはその本人で、それ以外の介入要素が無ければ、やはり、粘土を生み出したのは、その本人だ。どれほど否定しても、作ったのは、出来上がった物には、逃れられない自意識がある。
それは、つまり、人格も同じだ。
人は変われると思って、そうして出来上がった自身の人格は、変わる前の人格の理想が反映されたものでしかない。
その人格は―――変わっていると、言えるのだろうか?
おそらく、違うのだろう。
勿論、こんな考え方は屁理屈でしかない。
人は学習する生き物だ。何を行ってはいけないか、何を優先すべきか。それらを客観的に判断して、取り入れる事が出来る。ましてや、他者と関わる事によって、作り上げる人格も自分だけの物ではなくなる。介入が行われる。
理想的な介入ではなくても、振り返ってみればきっと、それらは点と点が繋がるような、綺麗な軌跡を描いて、自分が変わっているはずだ。気楽な大人たちを見れば、そう思える。
しかし、どうしても、頭の中にこびりつくのだ。
理想的な変化が、本当に自分には訪れるのかと。
それすらにも、才能が必要なのではないかと。
あるいは。
前述した屁理屈が、実は、正しい理屈なのではないかと。
考えれば考えるほど、正しいはずの基準から自分の平衡感覚が離れて行ってしまう。奈落に落ちてくような、あるいは坂を転げ落ちていくような、そんな不安定をどれほど夜の布団の中で経験してきたことだろう。泣きたくなって、そして実際に泣いてしまったのは、どれくらいあっただろう。
「俺の前に立っただけで、自分が変わったつもりになっているというのなら、それは間違いだ」
ネジの声と言葉は、布団の中で何度も嗅いだ事のある湿っぽさを想い起させた。断定的な言葉に反抗心を燃やそうとするが、彼の強い視線に、ヒナタは視線を逸らしてしまう。自身の情けない行動を自覚し、ネジの言葉の価値を後押ししてしまう。
彼は顔を向き変えて、観客席の見上げた。
「御当主も、妹様も、きっと同じことを考えているだろうな」
驚き、ヒナタは視線を追った。父であるヒアシと、妹のハナビが観客席に座っているのが見える。会場には大名だけではなく、里の有力な一族に属している忍も多くいる。日向一族の当主である父の姿があったところで、不思議ではない。
が、たとえ出席しなければいけない立場であったとしても、代理を立てる事は容易なはずだ。ましてや、妹のハナビも連れて来るなんて。
父と視線が一瞬だけ交差するのを、ヒナタは逃げるように俯かせた。
「たとえ俺がここで貴方に勝った所で、宗家と分家の立場は変わらない。中忍になろうが、上忍になろうが、それは変わらない。分家の人間が火影になる事も出来ない」
分かるか? とこちらに向き直る彼の表情は、怒りを滲ませていた。
「人は生まれ持った立場、才能で全てが決められる。勝者は常に勝者であり、敗者は常に敗者でしかない」
「それは、違うよ……。頑張れば……、変われるよ……」
「……貴方は本気でそう思っているのか?」
「え?」
「ハナビ様にすら次期当主の座を奪われた貴方が何を言っても、俺から見れば、ただ宗家の落ちこぼれという、安全地帯から物を言っているようにしか聞こえない」
空に投げ出された感情に苛まれた。
宗家の落ちこぼれ。それが、安全地帯なのだと。その評価は、初めて下されたものだ。
「私は……そんなつもりで言ったわけじゃないよ…………。宗家である事を誇りに思ったこと……ない…………。本当に、ただ……努力をすれば…………人は変われるって……」
そう、言っていたのだ。
彼女が。
ナルトに時折修行を付けていた、猿飛イロミという人が。
努力はきっと無駄じゃない。
歩き続ければ前に進むように。
努力は自分の理想に近づけてくれる。
偶々、そんな話題になったのだ。木陰からナルトの修行を見る事しかしていなかった時にイロミに声を掛けられ、それ以降何度も会ったりして。彼女の柔らかい雰囲気が心地良くて、同性の中では恐らく一番仲の良い相手である彼女との会話で、そう言った話になった。
『努力するのが不安だって言うのは分かるよ。私もね、自慢じゃないけど、本当に自慢じゃないけど、アカデミーの頃なんてダメダメでね。いっぱい頑張っても、成績が上がらなかったり、ドジばっかり繰り返したりしてたの。言っておくけど、ヒナタちゃんくらいの歳の私は、ヒナタちゃんよりダメな自信があるよ』
自慢じゃないと前置きを置いておきながら、当時の自分の至らなさ加減に自信があるという彼女なりのジョークに、ヒナタはあっさりと笑った。それくらい、親しくなっていた。
『中忍選抜試験とか、何回も落とされてね。大恥かいたりしちゃったんだよ?』
『……怖く、なかったんですか?』
『努力するのが?』
ヒナタは頷くと、イロミは顎に人差し指を当て、浅く空を見上げた。
『努力することが怖いって思ったことは、ないかな。私は、やりたい事があるから』
『やりたいこと、ですか?』
うん、とイロミは頷いた。
『昔から、
『もし、努力しても意味が無かったらって、全く、考えないんですか?』
『意味が無かったら、それは努力の仕方が間違ってたんだって考える。色んな方法考えて、試してみる。それを何回も、繰り返す。勉強と同じだね。色んな暗記方法とか、巻物を纏めるのと一緒だよ。意味が無い努力なんて、うん、無いと思うんだ。効率が悪いっていうのは、あるかもしれないけどね。一番大事なのは、努力をし続けるってこと。努力する癖をつける事だよ。それだけでも、努力しない人から、努力できる人に、変わってるんだから。人は、変われるんだよ』
背筋が凍った。
イロミとの小さな情景から、現実に引き戻される悪寒。ネジの白い瞳がより色を濃くし、真っ白に。両目脇の血管が強く浮き出ている。
白眼。
日向一族が持つ、血継限界。
彼のその瞳からは、しかし、自分の持つ才能とは全く質が違うのだと如実に伝えてくる圧迫感があった。咄嗟に両腕が顔の前で交差してしまう。幼い頃から、怖いことがあった時にしてしまう癖だった。
「人は変われる……。それは本当に、貴方の言葉なのか? 誰かの言葉を、良いように使いまわしていないか?」
一瞬だけ、ナルトの笑顔が頭に思い浮かぶ。それを見透かしたかのように、ネジは、
「うずまきナルトか?」
無意識に固唾を呑み込んでしまったのを、ネジの白眼は見逃さない。
「道理で貴方はこの会場に来てから、何度も視線を泳がせていた訳か。最終試験に出場できるはずの彼がいないことに、強い不安を覚えた。前試験では、犬塚キバに防戦一方だった貴方が、彼の言葉を受けてから急に攻勢に転じてもいる。なるほど。つまり貴方は、ただ彼の真似事をしているに過ぎないということだ」
「ち、ちがう……ッ!」
「違わない。結局貴方は、自分が変わった気になっているだけだ。現に貴方は、彼がいないだけで、ただ流れに身を任せてここにいるだけしか出来ていない。腰が引け、戦おうという意志が無い」
指摘されて初めてヒナタは、自分の体勢がみっともなく、身体を縮めようと膝や腰を不必要に曲げているのに気付く。
「貴方は努力をしているつもりだが、心の中では本当は分かっているんじゃないのか? 自分が努力しているのは、自分が変わる為じゃない。自分が変わったと思い込む為のポージングだ。貴方よりも才能のあるハナビ様に次期当主の座を奪われても、努力をしたからこそと、予防線を張っているに過ぎないと」
違うと、今度は言葉に出す事が出来なかった。下顎が震え、唇が痙攣するのを、ヒナタは指を添えて止めようとする。そんな事はない、そんな事は無いと、心の奥底で自分に必死に言い聞かせる度に、目頭が熱くなっていく。
視界が涙で滲み、鼻の奥が苦しくなる。
「人は変われない」
「……ッ、…………ッ。……………ッ」
言葉が出ない。
もしこのまま言葉を出してしまえば、抑え込んでいる悲しい感情が爆発してしまうのではないかと……脳裏にちらつく怖い想像を認めてしまうのではないかと、思ったからだ。
怖い、怖い。
試合開始の合図が始まっているのに、戦おうという気力が、無くなりつつあった。
「ちょっとガイ、おたくの子、悪趣味じゃない?」
試合開始の合図が始まってからただ言葉だけが一方的にぶつけられる異様な光景を眺めながら、はたけカカシは呟いた。観客席の一番後ろ。つまり、一番高いところの、壁際だ。壁に背を預けて、彼は立っている。頭に出来たたんこぶはまだヒリヒリと痛いが、目の前に広がる哀れな状況に比べたら遥かにマシである。隣に立つマイト・ガイは、普段の暑苦しいスマイルを潜めて、深いため息をついた。
「一応、あいつには試験前に忠告はしておいたんだがな。真剣勝負に、不要なものは持ち込むなと。口酸っぱく言ったんだが」
「不要なものしか、飛び交ってないけどねえ。まあ、同じ一族の宗家と分家っていうのは仲が悪いのが相場は決まっているものだけど、まさかここまで拗れてるなんてねえ」
ましてや、まだ下忍の子供。にもかかわらず、ネジから伝わってくる感情は、ガキらしいと言えばガキらしいそれだが、それなりに立派なプレッシャーが伝わってくる。中忍選抜試験の最終試験という場でありながら、それにふさわしくない試合―――いやもはや試合と呼ぶにも値しないそれは、大名たちに退屈さを与えているのが、空気で伝わってくる。大名が気に入るか気に入らないか、というのは然程重要ではないけれど、見ていていい気分ではない。
「おたく、何か知らない訳?」
「宗家と分家の関わりについては、俺も知らん」
と、ガイは言う。
「だが、ネジは元々、冷静なタイプの子だ。任務にも修行にも私情を挟まず、効率よく対処してきたのを俺は何度も見ている。だから、皆目見当も付かん」
それほどまでに、宗家と分家の関わりは拗れているというのか。
あるいは、全く別の要因なのか。
どちらにしろ、この試合は長くは続かなそうだなというのが、カカシの評価だった。
別の席で聞き慣れた声が飛んできた。部下である犬塚キバが「何か言い返せよヒナタァッ!」と、怒声をあげている。しかし当のヒナタには、全く聞こえてはいないようだった。
―――しっかりしなさい……ヒナタ。
夕日紅は小さく心の中で呟く。彼女の上司として、ここで彼女に何か言葉を送るというのは行ってはいけない。この中忍選抜試験というのは、忍として独り立ちする為の第一歩。その根底を覆す訳にはいかないのだ。たとえここで声を掛け、ヒナタが立ち直り、勝ったとしても、周りの評価は『一人では何も出来ない日向の下忍』という不名誉が付くだけ。正直、キバの怒声も、行ってはいけないものではある。
「おい紅、顔色悪いぞ」
と、隣の席に座っている猿飛アスマが、呑気に声を掛けてきた。紅とアスマは隣同士の席に座り、観客席でも前の方に座っている。
「これを見せられて、顔色が良くなるわけないじゃない。下手したらヒナタは、もう二度と、中忍選抜試験に出たいなんて言い出さなくなるわ」
「まあ、そうだろうなあ。こんな大衆の面前で泣きながら失格でもしたら、トラウマもんだ」
きっとネジは、それが狙いなのだろう。紅は、日向一族の事については少しだけ―――ガイよりかは―――知っている。情報としてではなく、空気を、である。
日向一族の当主であるヒアシと話しをしたことがあったのだ。いや、話しという程のものではないかもしれない。ヒナタを中忍選抜試験に出場させていいものかと、試験前に尋ねに行った時のことだ。
本来なら、出場有資格者の本人の意思があれば試験に参加させることは出来るのだが、ヒナタはヒアシの第一子。本来ならば、日向一族の跡取りに位置している。木ノ葉隠れの里において有力な日向一族の跡取りを試験で死なせてしまったとあれば厄介な事になる為、念の為にヒアシに許可を貰いに行ったのだ。
そして、ヒアシの返答は簡単だった。
ヒナタは跡取りとしての力は無い。勝手にしろ。
内容はこんなものである。
つまりは、それが、日向一族におけるヒナタへの評価なのだ。紅が知っている日向一族の情報はそれだけである。もしかしたら、ネジがヒナタを追い詰めているのは、それが要因なのかもしれない。
次期当主になれないヒナタを追い詰めて、二度と中忍選抜試験に出場させない為に。
宗家と分家。その間の問題が不鮮明である為断言できないが、ネジからひしひしと伝わってくる感情は、怒りだけ。嫉妬などの不純物の無い怒りだ。人は変われない。その言葉は、ネジの本心なのだろう。
ヒナタの肩が震えている。今すぐにでも泣き出してしまいそうなほどに。
心にヒビが入っていく音が聞こえてきてしまう。
ヒナタの心のヒビだ。
今までずっと引っ込み思案で、けれど自分を変えようと必死で。任務で失敗する度に落ち込んで、自信の無い曖昧な笑顔を浮かべながらも、今日こそはと控えめな熱心を隠すだけだった彼女。しかし、中忍選抜試験に出場すると決まってから、密かに強い努力をしていたのを知っている。
本当に自分を変えようと、今までにない力強さを持った彼女が、あっさりと折られようとしてしまう。
指導不足だったと、紅は後悔した。
実力ではなく、メンタルが。
もう少し時間を掛ければ、大丈夫だったかもしれない。たとえネジにあらゆる言葉をぶつけられても、自分を見失わないくらいの力強さを持たせてあげる事が出来たかもしれない。
もはや後悔しても、遥かに遅い。
あとどれくらいの時間で、ヒナタは地面に膝を付いてしまうだろう。
あるいは、審判が試合続行不可の判断を下してしまうだろう。
暗雲のみが犇めく光景に―――やがて、変化が、訪れた。
ヒナタは息を呑んだ。
頭の中が真っ白。ネジからのプレッシャーも、観客たちの不安定な視線も、その一瞬だけは完全に、忘れる事が出来た。
「……え?」
いつの間にか、声を漏らしてしまっている。しかし、それすらも気づかない。ただただ、頭の中に浮かんだのは、たった一つの、疑問だった。
―――今……なんて…………?
頭の中で言葉が続く。
―――ネジ兄さんは、何て、言ったの?
まるであまりにも怖い物を見てしまったせいで、記憶が飛んでしまったかのような感覚。数秒前にぶつけられたネジの言葉を、ヒナタは必死に思い出そうとする。わなわなと肩が勝手に震え、お腹の奥がじんわりと熱くなってきていた。
―――今、ネジ兄さんは……。
思い出す。
彼は、こう言ったのだ。
『だがたとえ、貴方がうずまきナルトの真似をしたところで、所詮は相手を見て逃げた落ちこぼれだ。落ち零れの親から生まれた子が、落ち零れになるのと同じようにな』
そう、言ったのだ。
「勝てない相手に勝負を挑みもしない。落ち零れの思考そのものだ」
「……ナルトくんは…………」
声は震えていた。
だが、不思議と涙は溢れてこない。湧き上がってくるのは、許せないという、それだけ。
「落ち零れなんかじゃない……」
初めての感情だったかもしれない。
第二の試験でナルトの危機を目撃した時よりも強固で、焦りよりも感情の荒々しさで肩が震えている。
その感情の波は、ヒナタ特有のものだ。
自分に自信が無いからこそ、他者を高く評価する。正しい評価では、無いかもしれないけれど、つまりは心の重心は自分ではなく、他者にあるのだ。故に彼女の怒りの沸点は、自分自身に向けられた言葉の棘ではなく、この場にいない、そして誰よりも好きな男の子に向けられた、不当は評価に対してだった。
ヒナタは真っ直ぐネジを見据えていた。彼女の変化に気付いたネジは、不思議そうに眉を顰めた。
「落ち零れじゃない? そう言うなら、どうして彼はここにいない?」
口を開きかけて、ヒナタは言葉を呑み込んだ。彼がイロミを捜しているということを言うのは、この大衆の面前で控えるべきだと、怒りの感情に浸蝕された微かな理性がブレーキを掛けた。
応える代わりに、ヒナタは白眼を発動した。ネジから送られるプレッシャーを跳ね返すように、姿勢を低くし、日向一族が用いる【柔拳】の基本姿勢に入る。左腕を前に少し伸ばし、右腕は腹部の横に。両掌は柔らかく開いた。
「ネジ兄さん……。私は、貴方に勝ちます。勝って、人が変われるってこと……努力で才能を超えられるってこと、ナルトくんが正しいということを、私が証明します」
「……いいだろう。来い」
ネジもヒナタと同じ体勢になった。宗家と分家で出自は違くとも、全く同一の基本姿勢。いや微かに、ネジの方が精錬されたものを感じさせるが、ヒナタは怖気づくことはもう無かった。
大きく息を吸い込み、腹部に力を込める。貯め込んだ力を足に込めて、強い一歩踏み出し、ネジの眼前に向かった。
二人の影が連続で重なる。
互いに両手からチャクラを放出しながらのインファイト。その姿に会場は待ちに待ったかのような歓声が沸き上がるが、二人の間には、互いの攻撃の決め手である掌のチャクラを躱そうと身体を動かし衣服が擦れる音、あるいは腕を払う際にぶつかる骨の音だけしか耳に届かない。
ヒナタの右手がネジの顔のすぐ横の空を切ると、返しにネジが右腕を突き伸ばしてくる。残しておいた左腕でそれを外に掃い、空いた所を左手で―――しかしネジも、腕を払ってくる。
日向一族同士という事もあって、その場その場での最小限の動きや、狙いなど、手の内は分かっている。差が出てくるとしたら、質だ。同じ位置、同じ距離で弓を撃ち合うように、精度と速さだけが、分水嶺。ヒナタは今までの修行で培ってきた精度と速度を保ちながらも、ネジからの動きを細心の注意を消費して観察していた。
緊張や不安によるミスは無い。コンディションとしては、今のヒナタは中忍選抜試験内では一番良いだろう。白眼で捉え続けるネジの姿が、意識へとクリアに入り、それ以外の情報は一切に排除できている。
―――今ッ!
ヒナタは一瞬の隙を見出し、ネジの右脹脛を狙った。白眼が見通す景色は、彼の体内に張り巡らされている経絡系を捉え、それらに絡みついている筋肉を見透かす。足を狙った攻撃は、ネジの払い手によって寸での所で回避されるが、彼の体勢は偏った。今程よりも大きな隙。身体を回転させ、裏拳を放つ要領で左腕でネジの頭部を狙う。
「………………?!」
ネジの表情に微かな驚き。
その動きは、日向一族が用いる事の無いトリッキーな動き。独自に考えた動きの一つだが、起点はイロミである。彼女の【どんな手段でも用いる努力】という考えの元に、編み出した。一瞬だけ相手に背を見せるが、白眼は自身の背の向こう側すら見通す力を持っている。
空いたネジの頭部に左手のチャクラは……完全には当たらない。ネジも上体を逸らしてギリギリ躱す事に成功したのだ。チャクラが掠っただけだ。しかしそれでも、軽い脳震盪が起きてもおかしくは無く、ネジの表情に変化は無いが、ヒナタは大きく踏み込み攻勢を緩めなかった。
日向の型を織り交ぜながら、自身オリジナルの型を見え隠れさせる。タイミングをずらし、軌道を変化させ、徐々に優勢に立とうとする。
―――絶対に、負けない……。負けたくないッ!
人は変われるという事を。
大切な人から教えてもらった想いを。
絶対に、否定させない!
大きく踏み込んできたヒナタに、ネジが右腕を伸ばしてきた。ちょうど、ヒナタの胸中央を狙った掌底。速度も精度もタイミングも、ヒナタのそれよりも高性能だ。日向の型なら払い手から腕に掌底を打ち込むのがセオリーだが、それでは間に合わない。
ヒナタは、即座に変える。
型を。
日向一族から、自分オリジナルに。
身体を傾け、脇を開ける。掌底をやり過ごし、脇を閉じてネジの腕を捕えた。
そのまま右足をネジの両足の間に伸ばし、左足を払いつつ、上体で相手を押す。
ネジの重心は完全に崩れ、後方へと倒れようとしていた。
自身の右手にチャクラを貯める。ネジの左腕は、ヒナタが密着しているという事と体勢が不安定という事もあり、最速で払い手や反撃は出来ない。この動きも、自分で考えた動きだ。
狙うは、ネジの胸中央。心臓部位に絡まっている経絡系だ。
そこを【柔拳】で攻撃されれば、心臓の動きは不規則になり、運動機能が大幅に低下する。
右手に力を込める。
目一杯に。
想いを込めて。
☆ ☆ ☆
イタチは少しだけ、昔の記憶に浸っていた。眠気と疲労による、意識の回復効果を無意識が図ろうとしたのかは定かではないが、試験会場の中央で戦う日向ヒナタという子の姿を見て、夢見心地に意識は懐古していた。
試合開始の合図すぐの、肩を震わせる姿。
意を決して一心不乱に立ち向かう姿。
のみならず、創意工夫を用いる姿。
かつて、イロミが中忍選抜試験で見せた姿のそれに似ていたのだ。イロミの場合は、ヒナタの一連の動きや感情の変化は、イロミが最終試験に出場する事に見せたものではあるが。
一回目の出場では、緊張と不安で何も出来ず、逃げ回った挙句に惨敗。
二回目の出場では、今度こそは頑張った結果、やはり惨敗。
三回目にしてようやく、まともになって、辛勝の上に、中忍昇格。
懐かしく思うと同時に、悲しさも蘇ってくる。
最終試験に残るのはいずれも、特出した才能や、有意義な努力を重ねてきた者たちだ。そして毎年必ず、総合的に大きく秀でた者が現れる。それは、試合内容を一見するだけで分かってしまうほどの差が、生まれるのがパターンだった。
目の前で行われる試合は、正に、それだった。
いったい、どれほどの者たちが気付いているだろうか。二人の攻防に目を奪われているせいで【柔拳】が当たったか当たっていないかのみに、大半の者は気を奪われている事だろう。さらには、二人の両手だけにしか焦点が行っていない者もいるかもしれない。イタチは疲弊した意識であるにもかかわらず、そして写輪眼を使うまでもなく、両者の攻防を意識の片隅で正確に分析し、眼前に留まる光景の結果の正当な帰結を認めていた。
ヒナタがネジの胸に打ち込んだ右手には、チャクラが一切込められていない事に。後方へ倒れ込みそうな姿勢だったネジが、右足を大きく後ろに引いて体勢を保っている光景に。
「……どうして…………」
会場の中で理解できていない者の中で、おそらくヒナタが最も驚愕した事だろう。平然としているネジの姿に、零してしまった声を最後に完全に動きを止めてしまっていた。
両手にチャクラを貯めて放つ【柔拳】は、普通の忍にとっては常に意識しなければならない攻撃手段ではあるが、それを基本武器として戦う日向一族にとって、もはや無意識の領域だ。掌底一つ一つに、チャクラの運用を意識する事はしないのだろう。
ましてやヒナタの視線は―――あるいは、意識は―――常にネジのみを追っていた。視界に映るはずの自身の手にチャクラが込められていない事に気付いていないのは、最初の攻防で判断できていなかった時点で、それを察する事が出来た。
ネジは容赦なく、動きを止めてしまったヒナタの腹部に掌底を打ち込む。彼の手には確かにチャクラが込められていた。驚愕で弛緩していた腹部に、力を込められた掌底。ヒナタの身体は一瞬だけ宙に浮き、地面に膝を着く頃には吐血していた。
―――点穴を狙う……。サスケが負けたのも、仕方がないな……。
前試験でサスケかがネジに負けたというのは、中忍選抜試験参加者のリストや試験内容の経過を調べている最中に知った事だった。負傷していたとはいえ、サスケが負けた相手というのはどのような子なのかと、試合開始前に微かに思ったことだったが、なるほど、たとえサスケが万全であったところで、敗北はしていただろう。
最初の攻防、その数撃の時点で、ネジはヒナタの腕を払うと同時に指で点穴を打ち抜く動きをしていた。そして、ヒナタが回転するように打ち込み、ネジの頭部を掠めた左手の掌底が一切の効果が無かった事で、その時点で彼女の【柔拳】が無力化していたことが分かった。
特出した才能。
そして彼の攻防を見る限り、かなりの研鑽を重ねてきている事は十分に伺えた。
勝負は決した。イタチは昔の記憶を仕舞い込み、定時連絡を待つ準備をした。準備と言っても、ただ意識を休ませる為に、思考をスリットにするだけである。瞼を微かに閉じるだけも今は効果絶大だが、警備中であるため止めておく。
その時、会場に動きがあった。
膝を付いたヒナタがフラフラと立ち上がったのだ。
手には、クナイが握られている。彼女は何かを呟き、ネジは何かを言い返している。声は再処理も小さすぎる為、ここまで届かない。やがてヒナタはクナイを口に加える。そこで初めて、彼女が何をやろうとしているのか、察した。
息が苦しい。口の中が鉄臭く、喉の奥に貼りついているせいで、呼吸が上手く出来ない。
「これが結果だ、ヒナタ様」
頭上から、声が。腹部の痛みは、内臓が取れてしまったのではないかと錯覚してしまうほどに重かった。地面の匂いがして初めて、自分は倒れているのだと自覚する。
「貴方の独特の動きには驚かされましたが、所詮落ちこぼれの浅知恵。自分の武器が碌に使えなくなっていた事にも気付けなかった時点で……いや、俺と戦う事が決まってから貴方は、負ける運命にあった」
息一つ乱れの無い、平坦な声。喜びも落胆も、何も無い。彼にとって、この結果は、決められた事がありのままに起きた事なのだという事なのだろう。倒れたままヒナタは、視線を上に向ける。立ち上がろうとする意志が反映されたのは、そこまで。膝も震え、腕も震え。すぐには立ち上がれなかった。
足音。ネジが離れていく音だった。もはや勝負は決したのだと、言いたげだ。
ふと。
視線の先に、父であるヒアシの姿が見えた。隣には、妹のハナビ。ヒアシは瞼を閉じており、逆にハナビは驚きの表情でこちらを見ている……いや、ネジを、見ていた。
きっと誰も、自分を見ていないのだろう。誰もが、次の試合を待ち望んでいるに違いない。
両腕に、今更、痛みと痺れがやってくる。点穴を突かれた痛み達だ。チャクラを放出する事も出来ない。【柔拳】無しで、ネジに勝てる見込みなんて―――。
「…………まだ……」
「……!?」
ヒナタは立ち上がった。
フラフラと、みっともなく。
それでも、こちらを振り向くネジの両目を見据えて。
「まだ……負けてない…………」
「………………」
ネジはこちらを不愉快そうに睨み付けた。
「負けてはいないが、もう貴方は負けるしかない。柔拳を封じられ、立っているのもやっとの貴方が、どうやって俺に勝つというんだ。いい加減、運命を受け入れて、楽になれ」
「……運命?」
「人は変われない」
「ネジ兄さんが……そう、思いたいだけだよ…………」
「事実だ」
平行線。こちらが負けそうなのは、確かに、事実だ。
もしも。
彼なら、こんな場合、どうするだろうか。
ナルトなら。ヒナタは思う。
もうこの会場内で期待を寄せてくれている人は殆どいないだろう。キバもシノも紅も、応援はしてくれているけれど、客観的に見れば、こちらが圧倒的に不利なのは覆せない事実だ。
こんな、たった一人の状況で。
―――……ナルトくんなら、どうするかな…………。
想像してみる。結果、すぐに思い描けた。
絶対に諦めたりしない。
最後の最後まで、立ち向かう。影からでしか見ることが出来なかったけれど、それは、間違いないはずだ。もしかしたら、俺が火影になって人が変われるってところを見せてやるとまで、豪語するかもしれない。彼ならやりそうである。
だけど、今の自分では言えそうにない。まだそこまで、自分に勇気を持つことが出来ない。
真似事するだけでは、意味が無い。
彼への憧れを、本当に自分の為だけにするのには。
自分だけの勇気が必要なんだ。
立ち上がって、最後まで諦めない。
それが、今自分に出来る最大の―――最大以上の勇気だった。
それに……。
―――……ナルトくんを馬鹿にされたままじゃ…………諦められない………………ッ!
ヒナタはホルスターからクナイを取り出した。震える指と手では危うく落としそうになるが、しっかりと、握りしめる。
「今更クナイで俺と戦おうとでも? 審判、これ以上は何をしても無駄だ。ヒナタ様が死ぬぞ?」
ネジの提言に審判の者は「どうなんだ?」とこちらに尋ねてきた。
頭の中には、一つの方法が思い浮かんでいる。今まで試したことのない、今さっき思い付いた、裏技みたいなものである。創意工夫、どんな手段でも、というイロミの考え方が、やはり起点に。
ナルトの姿と。
イロミの思想とを。
組み合わせた行動に、ネジは驚きを隠せなかった。
クナイを口に咥え、長袖を捲る。皮膚には、点穴を突かれた青黒い痣が。
「柔拳が使えれば……、まだ……戦えます……」
審判も、ネジも、ヒナタの意図を察したが、行動に移す前にヒナタは既に動いていた。
止められたチャクラの流れは、両腕だけのはず。今までしたことは無かったけれど、口内からチャクラを放出させてみる。微量だが、チャクラは放出され、さらにその半分が、クナイを包み込んだ。
咥えたクナイを振りかぶり、狙うのは、青黒い痣。そこには間違いなく、点穴がある。
チャクラの放出によって点穴を突かれたのならば、同じ方法で点穴を突けば、チャクラはまた元通りになる。それが、ヒナタの考えた裏技だった。
問題なのは、点穴の深さ。自分程度の才能の白眼では、ネジのそれのように点穴を捉える事は出来ないものの、痣の位置で横は分かる。深さだけが分からない。下手をしたら、点穴が潰れ、チャクラが二度と出ないようになってしまうかもしれない。
しかしそれでも、構わなかった。
大切な人を不当に評価されたのだから。
絶対に、勝つ。
諦めない。
それは、自分で言った言葉で。
捻じ曲げてはいけない言葉だ。
ネジが動き出すのが視界の中で見える。それよりも速く、クナイは痣を貫こうと―――。
大幅に投稿が遅れてしまい、誠に申し訳ありません。
次話は今月中に投稿致します。